昼と夜のあいだ

杜社

第1話

ちょっと早く来すぎたかな。

誰もいない教室を見渡して、僕は自分の席に着いた。

西陽を浴びたカーテン、放課後のざわめきと、どこか懐かしいような空気。

居心地の悪さを覚えながらも感傷に浸っていると、ざわめきは潮が引いていくように、ゆっくりと遠退いていく。

入れ替わりの時間。

昼と夜のあいだ。

夕凪みたいに、ふっと息をひそめるような瞬間が訪れる。

そんな中、廊下を駆ける足音が近付いてきた。

授業が始まるまでは、まだだいぶ時間がある。

となると、走っている生徒は──

教室の扉が開いた。

走ってきた勢いとは裏腹に、窺うようにゆっくりと。

「あ」

小さく声を漏らしたのは、制服を着た女子生徒だ。

思った通り、走ってきた生徒は全日制の生徒で、恐らく教室に忘れ物でも取りに来たのだろう。

声を上げてしまったのは、僕がいたからか。

彼女は少し警戒するような足取りで教室に入ってくると、真っ直ぐに僕の前まで来てペコリと頭を下げた。

視線は僕の机に注がれる。

「えっと、ここ?」

彼女はまたペコリと、お辞儀するみたいに頷いた。

「ご、こめん! すぐに退くよ!」

僕は慌てて立ち上がり、その勢いでイスを倒してしまった。

彼女の、端正で少し気の強そうな顔立ちに綻びが生まれる。

途端に黒目がちなよく動く目が、愛嬌を感じさせるものになった。

「ここ、あなたの席?」

「え、いや、君の──」

「昼は私だけど、夜はあなたの席なんでしょう?」

「あ、うん。ていうか、自由なんだけど定位置っていうか」

窓際の、前から四番目。

西陽の射し込む放課後の教室、あるいは、授業前の、まだ僕しか登校していない教室。

全日制の彼女と、定時制の僕。

「忘れ物を取りに来たの」

顔立ちと同じように、言葉の一つ一つがハッキリと輪郭を持った話し方。

でも、耳を擽るような心地よい声。

彼女は机の中から一冊のノートを取り出し、何故か睨むように僕を見る。

「え、なに?」

「もし私が忘れ物をしていても、中身は見ないでよね」

睨みつつも、悪戯っぽい口許。

「あ、うん、勿論」

「まあラクガキだらけで恥ずかしいってだけなんだけど」

彼女は勝ち気で、自由で、奔放そうに見える。

「僕のノートも、同じだ」

「へえ、そんな風には見えない」

彼女の目には、僕はどんな風に見えるのだろう。

定時制にしては、随分と気弱そうな男だろうか。

それとも僕は、年相応に逞しくなっただろうか。

いや、敬語を使ってもらえない時点で前者だろう。

三年の教室だから、彼女は三年生だ。

僕も三年生だけど、中学を卒業してすぐに働きだし、それから二年後に進学している。

だから僕は、彼女の二つ年上ということになる。

たった二年。

でも、高校生にとって二年は大きくて、そしてそれ以上に、彼女が生きてきた十八年と、僕が生きてきた二十年の間には、大きな隔たりがあるに違いない。

昼と夜みたいに。

「ひとつ、お願いがあるんだけど」

「な、何?」

顔が近い。

長い睫毛と、小生意気に尖った鼻。

「昼は私で、夜はあなた」

「え?」

「席が自由なら、夜はあなたがここを死守してね」

また悪戯っぽい顔で彼女はそう言うと、来たときとは違って弾むような足取りで教室から出ていった。

夕凪みたいな気配を掻き乱して、また静寂が戻ってくる。

でも、潮騒みたいに心がざわめいて、どこか心地いい余韻が教室に残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る