第4話 満春先輩と放課後。

4.

 放課後。

 いつものように二年四組の教室を訪ねると、先輩は眠っていた。いつもの窓際の席で、机の上に両腕を組んで枕にし、そこへ顔を突っ伏して。そよそよと吹く冷風がその細い猫っ毛を揺らす。

 不意に、その髪の毛に指を絡めてしまいたい衝動に駆られる。


(…………無防備)


 だけど、しない。

 俺達はそんな距離感にいない。伸ばしかけた手は何処へも届かず、拳を握る。静かにいつもの席に腰掛け、頬杖を付いて揺れるその髪を眺めた。

 廊下は茹だるような暑さなのに、この教室は天国のようだった。それは先輩がこうして寝ているからかと、精神的なことを理由にするのか訊かれると、答えは「否」だ。いくら俺が先輩の事を好きだと思っていても、夏は暑いし冬は寒い。正解は、なんとこの男、ガッコウのルールを破って、放課後に涼しく冷房を点けているのだ。一人で居るこの教室に、何の悪びれもなく。

 曰く、『自主勉する時は点けて良いのにそれ以外はダメなんてルールは、ルールとして破綻しているから別に構わないってことだろう』。とのこと。そう。『部活動で使用している教室』と言う条件の他に、放課後に自主的に勉強する場合は冷房の使用は許可されている。先輩は、頭が固い上に意外と傲慢だった。やばいやつじゃん。

 

(………暫く寝かせておくのも…美味しいかな)


 その形の良いつむじをまじまじと眺めた。それを押して起こしてみても良いけど。寝てる先輩なんて初めて見たから、もう少しこのまま眺めていたい。


(……先輩、好きです……)


 絶対に口にはしないけど。伝われば良いなと思う。…口にしないから伝わらない。当然だ。


「…………、ん、」


 しかし、まるで心の声が聞こえたようなタイミングで、先輩が顔を上げる。不覚にも、どきっとしてしまった。それでも、「おはようございます」と何食わぬ顔を取り繕って言う。先輩は寝ぼけ眼を擦りながら「おはよ」と返す。なんだろ、これ、青春の1ページか?寝起きの顔可愛過ぎるだろ、先輩。


「ごめん、寝てた」

「寝てましたね」


 先輩は机の端に置いてあったペットボトルに手を伸ばし、蓋を開けて口を付けた。喉仏が上下する様に、欲情しそうになる。冷房が点いてて良かったな。その首筋に汗が伝ってたら、舐めてしまったかもしれない。十八禁の想像をしそうになって、脳内をモザイクで隠した。いかんいかん。現実、俺は先輩と手も触れたことがない。…あ、嘘。出会った初日に触れたか。なんの反応も無かったけど。


「そう言えば。満春はねぇ、『旨いもの食って、楽しいことして遊んで、寝て。好きなことを好きなだけしたりして。そんな風に過ごす為』。だって」


 だって。って、それはかつて俺がした質問の答え。

 クエスチョン、“人は何故、生まれて来たのか?”

 先輩は時々、思い出したようにこの話をする。俺は先輩の答えを待っていたが、彼は同じ質問を幼馴染みに順々に訊いているらしかった。連日と言うわけでは無かったから、やはり思い出したようにふと訊くのだろう。

 「満春らしいねぇ」と笑うが、俺は大善寺先輩の事よりももっと満春先輩の事を知らない。そんな答えが『らしい』と言うならば、余程お気楽な人間だと言うことか?

 何処が好きなの?どうして彼なんですか?ーーーいっそ訊いてしまいたかった。

 徐に手を伸ばす。触れたのは、彼が飲んでいたペットボトル。


「…………喉乾いたんで、貰って良いですか?」

「え、いいけど……」


 歯切れ悪そうにしている先輩を無視して、じゃあ許可も頂いたことですし、と心の中で言って、ぐいっとそれを飲み干した。『間接キス』なんて彼は思わないんだろう。男同士で回し飲み。なんとも思わないんだろう。

 ダンッと音を立てて空になったペットボトルを置くと、その飲料水の名前の如く、ぽかりと口を開けた大善寺先輩が「いいけど」と言った時と同じ声で続ける。


「………口飲みしてるから、菌が増殖してて汚いよ……」

「ッ!あー!旨かった!先輩の飲み差しのジュース、旨かったあぁー!」


 俺の突然の大声に、先輩はびくりと肩を揺らした。くっそ、これじゃただの変態じゃん。なに、飲みかけのジュースが美味しかったって?変態じゃん。なんだよこの人、どうしたら意識してくれるの?伝わるんだよ。どんだけ鈍感なんだよ。頭かてぇよ。なんだよ、『菌が増殖してて汚いよ』って。あほか。

 先輩は相変わらず、クエスチョンマークを沢山頭の上に浮かべながら俺の奇行に戸惑っていた。そんな様子に、俺ははぁーっと深く息を吐く。


(……………あほは俺か……)


「………今日、なんか変だね。大丈夫?」

「…………」


 大丈夫?と紡ぐ唇を見る。ふっくらとしたそれはほんのりとピンク色をしている。柔らかそうだな…。キスしたい。今、キスをしたら同じ味なんだろうな、とか…。色々ダメだ。考えてしまう。キスの合間に漏れる吐息はどんな感じなんだろうとか。あの赤らめた顔が俺を見上げて、名前なんか呼んだりしてくれた日には………俺はもう、死ぬんじゃないの?艶っぽい先輩が、俺の名前を呼んでほくそ笑む。


「…………今、俺が何考えてるかわかりますか?」


 止まらない妄想に、心臓が煩く音を立てる。顔だって赤くなっているだろう。冷房が全く仕事していない。熱い。先輩は俺の質問に、尚も首を傾げる。「さぁ?」と声が漏れる。


「………『神は死んだ』とか?」

「ニーチェじゃん!」


 堪らず吹き出してしまった。

 あーくっそ。この人こういう人だよ。ほんと、調子狂う。なんだよ、『神は死んだ』とか。今このタイミングで思うかよ。

 先輩もくすくすと笑っていた。くっそ、可愛いな。相変わらず。得だよな、この人。可愛い顔しやがって。わかっててやってんのかな。ほんと。


「勉強してくれたんだ?」

「…………貴方が、俺との会話で退屈するといけないので…」


 彼がいつぞや読んでいた、『犯罪心理学』『進化論』『ニーチェ』。その他にも沢山、分厚くて難しそうな本。全部読んだ。俺の部屋の本棚に同じのがある。きっとこうやって日々を重ねる程、俺の本棚は先輩のものと同じになるだろう。


「木野との会話で退屈するわけ無いのに」

「………」


 ほらそれ。

 わかっててやってます?ふわりと笑うその笑顔は、ちょっとだけ、彼が満春先輩に向けるものに似てきたような気がする。

 依然として、呼び名は「木野」と「大善寺先輩」のままだけど。「木野くん」期間は短かったのに、「木野」ですっかり定着してしまって先へは進まない。


「僕、頭悪いし。木野の方が実際、賢いんだろ?」

「それはどうだか知りませんけど。正直、今の二年のレベルが高過ぎるんですよ」

「いや、そこは『そんなこと無いですよ』の謙遜の一言でいんだけど?」


 ふふふ、と笑う。いつもの笑い方。

 穏やかな時間。幸せな時間。俺と先輩だけ、切り取られた時間。まるで非日常。蝉の声も気にならない。ああ、でももうすぐ夏休みだ。夏休みには会えない。放課後が無いから。連絡先も知らない。俺達の距離は、いつまで経っても縮まらない。

 ガラガラ。ーーーああ、今日も『おしまい』の合図。


「かなたーっ!おまたへーぃ!帰るぞーっ」

「満春っ!」


 いつまでも、先輩はぶれない。

 本当に嬉しそうな顔をして、飛び上がるように席を立つ。少しだけ頬を染めて、その愛おしい人の元へと駆け出すのだ。


「それじゃあ、またね。木野」

「………へーい」


 俺はいつだって、二人の背中を見守るだけ。間男にすらなれないモブ。




 夏休みに入る前にはいつも、テストがある。

 テストが終わって晴れて夏休みと言うわけで。試験期間中は当然、部活動も休みだ。放課後の教室を使って勉強する生徒も多い。それは勿論、二年四組も例外ではない。


「………何でお前が居るんだよ」

「居たらなんか不味いです?」

「一年じゃん」

「一年は二年の教室に入れない決まりでもありました?」


 大善寺先輩の席の隣に、満春先輩が居る。名字は「木戸野(きどの)」と言うらしい。いつもネームプレートを着けていたが改めて見たことは無かった。

 木戸野先輩は尚も、俺が二年の教室に居ることに納得していないようだったが「まあまあ」と大善寺先輩が宥めればそれ以上何も言わなかった。チョロ過ぎか。

 大善寺先輩の席の前の席ーいつもの席ーの住人は、幸い、放課後に勉強するタイプの人間ではないらしく、先客が居た試しがない。居たとしても、何処か席を移って貰うだけなんだが。

 教室の冷房はいつもより冷えて寒い。人が多いから設定温度を下げたのか、超暑がりが居るのか。俺の席は直風だった。人が多いとこういうトラブルがあるよな。体感温度は人によって違うから。その点、俺と先輩は全く同じと言っても過言ではない。これまでの放課後の時間の心地好さが物語っている。

 沈黙に、シャーペンの先が紙に擦れる音。ノートのページを捲る音。いつもと違う音が、落ち着かない。こうなれば、いつものように二人っきりの時間を持つことは難しい。そりゃそうだ。俺達は、同じ高校の生徒であることしか共通点がない。この教室しか、連絡を取る手段もない。

 テストが終わると夏休み。皆が喜ぶその響きが、俺には死の宣告に等しい。


「…お前さぁ、」


 大善寺先輩と二人っきりになりたかったのに、現実はままならない。いい加減に寒過ぎて、冷えた体を温めに廊下に出れば、あろうことか木戸野先輩が着いて来た。


「え、なんか用ですか?ついて来られるとか、きしょいんですけど…」

「おいっ!先輩に向かって『きしょい』とか言うなよ!」

「じゃあ『先輩』じゃないと良いんですか?」

「…よくねーけど」


 はぁっと、木戸野先輩は心底疲れた風に重い溜息をつく。俺はそれを淡々と見詰めていた。やがて、先輩もそんな俺に視線を合わせる。


「お前さ、彼方に懐いてるのは分かるけど。もう少し節度を持てよ。他にクラスの奴らが居る時は、やっぱり遠慮しろ」


 何でですか?と反抗的な目をすれば、先輩は再び息を吐く。「ただでさえ、テスト前はピリピリするんだよ。お前は異分子でしか無いんだよ」。


(…………『異分子』…)


 何故かその言葉が胸に刺さる。大善寺先輩。木戸野先輩。正義先輩。鈴原先輩。それから、俺。

 五人が並んでいるところを想像しても、俺はそこに確かに馴染めていない。ネームプレートの色も違う。一緒に、同じ昔話をして懐かしむことも出来ない。


(………でもそれは、もう、『しょうがない』)


 そりゃそうだ。過去には戻れない。なら、今と未来を見詰めるべきだ。語るべきだ。『今』が『過去』になれば、『未来』には『今(かこ)』を一緒に懐かしむことが出来る。時間の流れに、初めて感謝する日が来るのだ。きっと、いつかは。

 けれど確かに、先輩と二人きりになれない空間はただ、寒さに堪えるだけだった。『喋らなくても心地がよい時間』と言うものは、大善寺先輩と二人きりの時にのみ成り立つようだ。


「…………センパイは大善寺先輩のこと、好きなんですか?」

「はぁ?なんだ、急に。そりゃ、好きだけど…」


 その返答に驚いて、目を丸めてしまった。なんだ、この人…。


(…………二人は両想いじゃ無かったのか……)


 あんなに寄り添って歩いているのに。肩が触れているのに。その距離感が当たり前なだけなのだ。…或いは、自覚していないだけなのかもしれない。

 けれど、本来はマイノリティであるはずの同性愛者がこうも沢山いると、流石にこの人は違うんじゃないかと言う気がしてくる。先輩の言う「好き」には何処にも恋愛的な要素が含まれていなかった。幼馴染み四人、皆して拗らせ過ぎじゃないかと少しだけ呆れてしまう自分もいた。皆、片想いじゃん。

 大善寺先輩はどうなのだろうか。望み薄だと気が付いているのだろうか。それにしては、二人の距離は物理的にとても近い。告白しあっていないだけで、既に両想いであると確信してはいないだろうか。…それじゃあ、気の毒過ぎてかける言葉も見付からない…。


(………それじゃあ、)


「………じゃあ、俺が貰っても良いんですか…?」

「貰うって何?彼方を?」


 木戸野先輩はきょとんと目を丸めて、それから直ぐに不敵に笑う。


「獲れるもんなら、盗ってみな」


 ああ。この人、ほんと、嫌い。

 自分が『特別』である自覚はあるのだ。

 悔しくて、いい加減、暑さの為に流れ始めた汗を乱暴に拭った。木戸野先輩もシャツの首もとに人差し指を引っ掛けて、パタパタと扇ぐ。もう彼にとってはこの話はお終いらしかった。その余裕さが、本当に腹が立つ。

 それからテストの日まで、それでも俺は二年四組を訪ねて勉強したが、複数人いるくせに誰一人として喋らない静まり返ったその教室で、俺と先輩も挨拶以外に言葉を交わすことは無かった。

 テストを終えて、ほら、夏休み。

 長い休み中、どんなに焦がれても、先輩に出会うことはなかった。

 待ちに待った夏休み明け。

 木戸野先輩が、彼女と歩いていた。






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