第3話 鈴原先輩と放課後。

3.

「そう言えば、凛は『謳歌する為』って言ってたよ。…うん?『幸せになる為』だったかなぁ」

「りん…」

「そう、鈴原凛。生徒会で監査役員の」

「ああ」


 そよそよと吹く風が生暖かい。これから夏にかけてどんどんと暑くなるのだろうと思うと、この放課後の時間は扇風機を持参すべきだろうかと真剣に考えなければならない。教室にエアコンはあるが、原則、放課後は部活動で使用していない教室ではエアコンの電源を切るというルールがあった。この頭でっかちな先輩が、ガッコウのルールを守らないはずがない。


「あの、美人日本人形先輩ね」

「それ、本人に言わない方がいいよ?」

「…褒めてますけど?」

「いーや、今、ちょっと揶揄ってたでしょ?」

「バレました?」

「次の日とは言わない。すぐ[[rb:殺>や]]られるよ」

「えっ、こっわ」


 俺が自分の体を抱き締めるようにして身震いすれば、真剣(まじ)な顔をしていた先輩が破顔して笑う。俺は先輩の気安い発言を指摘する。


「仲、いーんですね」

「幼馴染みなんだ」


 あれ?正義先輩も幼馴染みじゃなかったっけ?ひょっとして、と口を開く。


「満春先輩も…?」

「うん。幼馴染みだよ。四人でよく遊んでた」


 今もだけど、と続く言葉に羨まし過ぎて眩暈を起こしてしまいそうだった。大善寺先輩の私服…。見たいな。子供の時の先輩の姿も相変わらず気になった。どんな風に仲良くなったのか?なんて。気が付いたら一緒だったとかなんだろう。いいな、幼馴染み。魔法の言葉だ。羨まし過ぎて憎い。

 大善寺先輩や満春先輩、正義先輩それから鈴原先輩。想像の中で四人の子供達が思い思いに駆け回る。いいなぁ。…俺にも幼馴染みはいるけど。是非、交換して欲しい。


「あ、そう言えば。もう体は良いんですか?」

「ああ。大丈夫だよ。昨日はごめんね。待たせちゃった?」

「いえ」


 先輩は珍しく、机の上に用意している本を開こうとしない。俺としては沢山会話が出来るのは嬉しい事だけど。それにしても、本当に珍しい。

 昨日は凄い雨だったね。そうですね。今日はちょっと蒸し暑いね。夏が近付いて来ましたね。……そんな、他愛の無い話。

 それがこんなに、胸に染みて心が踊る。…先輩は?

 いつものように、校庭で陸上部のピストルの音がする。野球部のバッドにボールが当たった音。校舎をぐるりとランニングしているバスケ部の掛け声。

 俺と先輩の、この教室だけ。

 そんな喧騒とはかけ離れる。ただ、目的も無い静かな会話が空気を震わせる。時の流れる早さが違うのではないだろうかと錯覚する。ゆっくりと、でもきっと確実に、過ぎていく。


「夏は暑いから嫌だな」


 すっかり季節の話になって、ああ、その前の流れで連絡先を聞いていたらよかったな、と後悔した。「不便なので、次休む時は連絡下さい」「僕、君の連絡先、知らないんだけど」「あ、そう言えばそうですね。交換しますか」ーーーなんて。ああ、完璧な流れだった。夏の暑さが嫌いな話から、連絡先聞き出す会話の流れって、どうすれば良いの?


「そんなこと言って。先輩、『冬は寒いから嫌い』なんて言うタイプでしょ」

「あれ?よく知ってるね」


 くすくすと笑う。なんだその、女子みたいな笑い方は。

 まるで秘密の話をするように、先輩はいつもより少しだけ俺との距離を詰めた。前傾姿勢になったまま俺の耳に顔を近付け、片手を添えてこっそりと囁く。


「木野は、僕のことをよく知ってるね」


 紡ぐ一語一語と共に、その吐息が耳をくすぐった。ぞわっと敏感に感じてしまった俺の事などまるで露程も知らない顔で、直ぐにいつもの距離に戻り、にこりと笑う。


(……………この、ド天然野郎)


 これで計算ではないのだ。けしからん奴だ。先輩、自分が可愛い顔してる自覚あるの?俺が貴方のこと好きだって、知ってるわけ?息のかかった片耳を抑えながら、俺は暫く身動きが取れない。

 そよそよと、相変わらず窓から入り込んできた生暖かい風が肌を撫でる。先輩の猫っ毛を揺らす。入り込んできた陽射しが、先輩の産毛を光らせて、一層眩しい存在にする。俺はいつも、目を細めて彼が笑う顔を見る。ああ、ほんと、眩しい。心臓に悪い。


「………今日は本、読まないんですか」


 やっと溜息を吐いて、いつもの声音で問いかける。


「今日はなんだか、君と話していたい気分」

「…ふぅん」

 

 とんでもなく嬉しいその台詞に、しかし俺は興味なさそうな顔をして平静を保った。にやけそうになる頬を必死に[[rb:堪>こら]]える。

 それから、沢山のどうでも良い話をした。てるてる坊主作ったことあるかとか、サンタクロースは何歳まで信じてたか、とか。最近、面白いドラマが無いこと。たい焼きはどちらから食べ始めるか。明日使えない豆知識。先輩と取り留めの無い会話。

 そうこうしている内に、ガラガラといつもの音がする。


「彼方ーっ」

「満春っ!」


 先程の、俺に向かっていた笑顔なんて比ではない。三分咲きの桜が一瞬にして満開になったかのように、大善寺先輩はパッと笑顔になる。跳び跳ねるようにして、席を立つ。ついその腕を掴みそうになって、堪える。代わりに、常々内心思っている言葉が零れた。


「…先輩も、部活したらいいのに」


 大善寺先輩は満春先輩の部活が終わるのを待って、一緒に帰っている。部活をしていてくれたら、俺だって同じ部活に入るし。何と無く、もっと独占できるような気がした。今は『同じ学校の先輩後輩』だけど、『同じ部活動の先輩後輩』になる。後者の方が圧倒的に距離が近い。


「きょーみない事に時間を使うのって、とっても無駄で勿体無いと思わない?」

「………同感です」

「じゃあね、木野」


 少しも名残惜しさを残さずに、先輩はやっぱり、満春先輩のもとへ駆け出した。俺はいつものように、その後ろ姿を見送った。







「木野」

「げっ」


 その日の放課後、いつものように二年四組の教室を訪ねようとしたら階段を曲がってすぐの二年一組の教室で、俺を呼び止める声がした。


「今の、蛙が潰れたような声はお前かな?」

「いえ。きっとどこかで蛙が潰れたんでしょう」


 他に誰も居ない教室の中で、その先輩はにこりと笑う。俺もにこりと笑って返した。そのまま「それじゃ」と立ち去ろうとしたが、「まぁ、いいか。ちょっとこっち来い」と手招きされ、拒否権の無い俺は重い足取りでその教室に入った。


「………なんか用ですか、鈴原先輩」


 この糞暑い日に、教室の窓を全て締め切っているので直ぐに汗がこめかみから頬を伝う。気の早い蝉が何処かで鳴いている声がする。その声に、体感温度がぐっと上がる。

 だと言うのに、まるで汗をかいていないかのような涼しい顔で、鈴原先輩は机の上に沢山の書類を広げて何かを書いていた。俺が先輩の机の前まで行くと、広げっぱなしだった書類を重ね、トントンと角を整えたそれらを隣の机に置いた。それから頬杖をついて、にまりと笑いながら俺を見上げる。

 “先輩”を見下ろす格好なのは無礼だとは思ったが、長居する気が無い意思表示も兼ねて座らなかった。鈴原先輩も、意外にもそんな俺のことを咎めたりしなかった。


「実にいじらしいな。そうして、毎日通っているのか」

「……別に。先輩には関係無いじゃないですか」

「ふむ?彼方の幼少期の写真とか見たくないか?」

「俺、実は『先輩っていい人だな』と思ってました」


 変わり身早いな、と笑う。薄く形の良い唇が緩やかな弧を描き笑う様はやっぱり絵になる。この人の所作はやっぱり美しく、知らず、佇まいを直してしまう。

 気付けば蝉の声も気にならない。暑さとは違う汗が背筋を伝う。彼はまるでこの教室の空気の番人でもしているように、全てを吸い寄せ、自分をこの空間の主人公にさせる。

 鈴原先輩と居る放課後の教室は、彼が笑っていたとしてもピンと張り詰めるものがあった。彼のテリトリーに足を踏み入れたような心地悪さ。不安。焦燥。じっと、こちらを窺う目は強者のそれで、心の中すべてを見通してしまう魔力が込められている、と言われたら信じてしまいそうなくらいだ。俺は本当に、蛇に睨まれた蛙のような気分だった。

 不意に、その形の良い唇が動く。


「……彼方は、ずっと昔から満春の事が好きなんだ」

「そうですか」


 そんな分かりきったことを改めて告げる意図が気になった。意地悪と言うわけでは無さそうだ。俺は余計なことは言わずに続く言葉を待つ。


「……正義も、ずっと昔から彼方の事が好きなんだ」

「そうですか」


 だから何?と顔に書いた。そんな俺の顔を見て、ぷっと吹き出した鈴原先輩の顔は、初めて見る『年相応の男子』の顔で、その不意打ちに目を丸めてしまった。


「なんです?」

「いや。お前、全然動じないから…」


 だってそんなの、知っているし。知った上で好きなんだから、どうにもしようが無い。

 言わんとしていることが分かったのか、鈴原先輩はやれやれと言った感じで息を吐いた。


「……恋愛感情ってものは、本当に。ままならないな」


 俺を見ながら、その視線は何か違うものを見ていた。この人は……なんだ、彼もまた、このカオスな恋愛模様の傍観者ではなかったらしい。


「………お前が頑張っているのは好ましい。応援したい」

「………叶わない、恋なのに?」


 俺と自分の姿を重ねているその人は、その言葉にもっと傷付いた顔をするかと思ったが、予想に反して先輩は能面のように感情の無い顔になった。「未来の事は分からないだろう?」と言う声音も、静か過ぎて身震いしてしまいそうだった。


「……貴方は、正義先輩の事が好きなんですね」

「………」


 素っ気ない顔。でも、片方の眉毛がぴくっと動いた。


「ままならないですね。恋って」


 俺はそれを捨て台詞にした。

 そのまま出口に向かって歩き始める。ひょっとすると止める声があるかもしれないと思ったが、そのまま教室を出るまで物音一つしなかった。

 俺には時間が限られているのだ。

 ガラガラと、あの静寂を切り裂く音がする前に。一秒でも早く、二年四組の教室に向かわなければならないのだ。

 どんなに焦がれても、あの人は俺を選んではくれないから。


 


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