砂の穴

@nobuo77

砂の穴

砂の穴


墓地改葬



来春から、村の墓地が改葬されるのに伴って、これまでの土葬を火葬に改めるという内容の回覧板を、隣家の男の子が届けてきたのは、八郎の父源太郎が死んで半年後のことだった。


読んでみると、この秋に今まで土葬にしていた遺体や遺骨を一度全部堀り上げて、村合同の火葬を執り行うとの文面だった。日程は今度の土曜日・午前9時作業開始となっていた。

「こんなことなら、おじいちゃん始めから火葬にしておくべきだった」

長男の嫁の秋子は回覧板をテーブルの上に投げ出しため息をついた。最近では義父の源太郎の記憶が徐々に薄れていて、心が安らぎ始めていた矢先の時だった。


「村の年寄りの話では、死後一年ではまだ生身だそうだ」

回覧板にざっと目を通した夫の八郎は、実父の死体をまるで他人事のように無感動な声で言いながら、秋子の横のイスに腰掛けた。

「やめて」

秋子は八郎の生温い吐息を首筋に感じて乳房や背筋に鳥肌が立った。


「俺、日曜日以外、休めないよ。ほれ、こんな不景気な時だろう」

言い終わった後、声には出さないで笑っている。結婚以来、何度か見せつけられて来た夫の卑怯な態度だ。

「あなた、自分の父親よ」

つい、トゲのある言葉が口をつく。

「そうだけどさ」

現実から目をそらすように夫の視線はテレビに向けられている。

「いいわよ、どうせ掘り上げなければならないのなら、私一人でやるから」

秋子は夫の煮え切らない態度に、苛立ちを込めて言った。八郎は何も答えず、お笑い番組に愛想をくずしている。


強がりを言ったものの、源太郎のお棺を掘り上げるとなれば、秋子には一つの不安があった。生前、源太郎が可愛がっていた子猫のお染が、一緒に棺桶の中に横たわっている。そのことは秋子以外、誰も知らない。秋子には思い出したくない情景だったが、先ほど八郎の吐息が頬を滑って行くのと同時に、異常に顔面の膨らんだお染の姿が脳裏を横切ってゾッとした。


埋葬遺体掘り起こし


その夜、秋子は何度も寝返りを打ちながら幻覚にうなされた。睡魔はあるのだが頭の中は次々と幻覚が波打っていている。


早朝から真夏のような太陽が照りつける中で、墓堀り人によって墓掘り作業は黙々と進められている。すでにあちこちの墓で、遺骨が掘りあげられている様子であった。

死後何十年も経過して、もう骨の消滅した墓地では、カラッとした表情の遺族達が、墓前で簡単な仏事をするだけで引き上げていったが、まだ遺骨の残っている墓からは、墓掘り人が遺骨を新聞紙に拾い上げてきて、遺族の前に広げている。広げられた遺骨は驚くほど白く乾燥していた。


この一帯の墓地では、土葬の穴掘りの時に、珊瑚礁の欠片や貝殻がよく出た。水はけのいい砂地のため、朽ち果てた遺骨は、どれもさらっとした感じだった。

墓地のある高台は大昔は海底だったと、源太郎の埋葬の時、村人が話していたのを秋子は思い出した。


まわりの墓地からは線香の煙りが立ちあがっている。

「南無阿弥陀仏。ナムアミダブツ」

墓前にうずくまっている八郎と秋子の背後から、低く地を這うような念仏が聞こえてきた。振り向くと、いつの間にか源太郎の姉が、墓のそばにしゃがみ込んで手をすりあわせていた。


「仏さんを、今上げるからな」

墓穴の底から声がした。八郎が黙って頷く。


墓穴の上に組まれた三本柱のやぐらがギシッと軋んだ。滑車につるされたロープがゆっくりとまわり始める。担架に乗せられた棺桶が、アルミ梯子をあがってくる墓掘り人に支えられながら、徐々に姿を現した。



最初に上げられてきた棺桶は、源太郎より二年前に病死した義母のものだった。すでに上蓋が腐り始めている。墓掘り人がスコップの先で上蓋を持ち上げると簡単に開いた。

「あっ」

秋子は小さな声をあげて目をそらしたが、義母の姿がはっきりと見えた。


義母の顔は溶解が始まっていた。白い骨の一部がのぞいていた。頭髪も灰色の脱色が認められる。衣服の下に隠された肉片はもうかなりの部分溶け出しているのだろう、まったく膨らみがなかった。秋子は夫の顔を見た。


「思っていたよりもきれいで、清潔だ」と夫の八郎がつぶやいた。

義母の上蓋が閉じられた。


「もう一体上げるぞ」

墓穴から声がした。やぐらのロープが動き始めると、悲鳴のような軋みが尾を引いた。

源太郎の棺桶は義母のと違って、半年前に埋葬したものだ。地上に姿を見せた棺桶は水々しく光っていた。このところ降り続いた長雨のせいだ。上蓋はスコップの先で二、三度こね上げなければ開かなかった。


秋子が源太郎の屍体を目撃したのは一瞬だったが、鮮明な残像が脳裏に焼き付いた。義父の頬は、ほんのりと桃色だった。両手を胸に組んでいた。着衣に乱れはなかった。和服の深い緑色はまだ退色は始まっていなかった。むしろ屍体の脂肪を含んで、深緑が鮮やかに浮き立っている様に思えた。


異変


「八郎さん。中に何か動くものがいるぞ」と墓掘り人が言った。

「ニャアー」

お染の泣き声だ。秋子の幻覚は頂点に達した。

「秋子!どうした」

八郎は激しく悶え苦しむ秋子の声に眠りから覚め、肩を揺すった。

「お染が」

放心して荒い息づかいの収まらない秋子。

「怖い」

秋子は夫の体をしっかりと抱きしめて眠りに就こうとしたが、びっしょりと汗をかき全身の震えが止まらなかった。


猫の不法投棄


源太郎は一年前まで、M市の不燃物処理場の所長をしていた。

「所長、ちょっと来て下さい」

定年を間近にしたある日の午後、一人の作業員が所長室に飛び込んできた。

「どうした?」

「猫が何匹も捨てられているんです」

「何匹だ」

「さあ。まだ袋を開けていないので分かりません」

源太郎は若い作業員の後について行った。

「どうして猫だと分かった?」

源太郎は作業用の軽トラックの助手席に乗り込みながらたずねた。

「泣き声です」

「生きているのか?」

「はい。泣き声が聞こえますから」

「そうだな」

源太郎は力無く呟いた。未舗装の作業道で軽トラックは左右に大きく揺れる。話す度に声が喉の奥で途切れた。


このゴミ最終処分場には、市の全域から一日に二百台を越える車両がやってきて、あらゆるゴミや不要品を捨てて行く。入り口の受け付けで車検証を確認したり、内容物の聞き取り調査はしているが完全ではない。

作業員達は不審物の不法投棄に絶えず目を光らせているものの、野球場のように広い処理場を数人では完全に監視出来ない。


ショベルカーの停止している現場には、すでに数個の黒いゴミ袋が一カ所に集められ、そばに二.三人の作業員が集まっていた。

「開けますか?」

所長が軽トラックの助手席から下りてくるのを見ながら一人の作業員が声をあげた。

作業員達は鉤状になった鉄筋棒を、何本か用意している。源太郎は黙って頷いた。

一塊りにされていた黒いビニール袋が次々に引き裂かれていった。

中からぼろ布のような大小の猫の硬直した死骸が転げ出た。


源太郎は異臭を避けるようにして、風上に動いた。

「むごいことをするな」

源太郎は思わず目をそむけた。


小動物の死体が捨てられて行くことは珍しくない。しかし、これほどまとまった数が捨てられたのは、源太郎がここに赴任してきてから始めての事だった。

「全部で一八匹です」

「個人で飼うにしては、多すぎないか」

源太郎は本庁に連絡すべきかどうかまよった。


「こいつ、まだ生きています」

作業員の一人が体をのけぞらせるようにしながら、鉤棒を源太郎の足元に近づけた。先端に小さな綿くずのような物がぶら下がっている。鉤棒を少し動かすと、今にも途切れそうな泣き声をあげた。


源太郎は作業員達に向かって、死体を山際に穴を掘って埋めるようにと指示し、足元の段ボールを拾い上げると、その中に弱々しい子猫をつまみ入れた。

「どうするんですか」

軽トラックの荷台に段ボール箱を積み込む所長に向かって、運転する作業員がたずねた。

「死んでるものと一緒には出来んだろう。しばらく上で様子を見るよ」

源太郎はそう言って、弱り切った捨て猫を所長室の裏庭まで運んで行った。定年直前になって、些細なことでも本庁と面倒を起こしたくなかった。


お染発見


「お染……お染」

源太郎の猫の名を呼ぶ声が、今朝も部屋から聞こえていた。起き抜けの声には張りがなく悲しく聞こえる。

二年前に妻を亡くし、定年を迎えた源太郎は、まだこれから先の生き甲斐を見出せないでいた。それでもこのごろは、お染がそばにいてくれるので少しは気持ちを紛らわすことが出来るようになっていた。


お染は純白の毛に包まれた雑種の子猫である。一週間ほど前、近くの公園のベンチ下で雨に打たれ、ぶるぶる震えていた。散歩で通りかかった源太郎が気づいて抱き上げると、以外にも柔らかで暖かな鼓動が手に伝わってきた。


「ニャアー、ニャアー」

抱き上げた両手の中で、悲しそうな泣き声をあげる子猫に、源太郎は哀れみを覚えた。このまま置き去りにして帰る勇気はなかった。

「亡妻が連れてきたのかも知れん」

源太郎は捨て猫の頭を撫でながら、つぶやいた。


源太郎はこれまで一度もペット類は飼ったことはなかった。定年の少し前、職場でちょっとした猫騒動が起きた時に、瀕死の猫に触れたことはあったが、子猫がこんなに可愛いと感じたのは初めてだった。

お染と名付けたのは、全身の純白の毛が何ものにも染まらないようにとの願いを込めて命名した。


公園から連れ帰って半日ぐらいは、ぐったりとしていた。時折、弱々しい泣き声をあげたるのが精一杯のようであった。牛乳を少し温めて、赤いスプーンにすくって与えた。体をきれいにふきあげてやった。源太郎にとって久しぶりに味わう充実した時間だった。


夕方になるとお染は、徐々に元気を取り戻し始めた。その晩から源太郎はお染を一緒の布団に入れ、抱いて寝た。絶えず喉の奥をゴロゴロ鳴らしている。抱いていると胸元にひっそりと温もりを感じた。源太郎は、二年前に子宮ガンで亡くした妻の肌の温もりを思い出した。


お染に元気が出てくると、源太郎はお染がいつか逃げ出すのではないだろうかと、落ち着かなくなっていた。濡れ縁の下のわずかな空間で盆栽の手入れをしていても、お染の逃げ出して行く姿が想像された。

気を紛らわすように、さっきすったばかりの煙草の残り半分を、煙草ケースから取り出して口にくわえることが最近多くなった。


「ニャアー」

「どこに行っていたんだ?」

「ニャアー」

すっと足音も立てず、どこからともなく帰ってきたお染は、源太郎の足元に身をよじりながら甘えて見せる。

「車に跳ねられたらどうする」

お染に元気がもどってくると、源太郎には新たな心配が加わった。


行方不明


「車に跳ねられたらどうする」

源太郎はそう言いながら、お染を抱き上げて頬ずりしてやる。お染めは源太郎の愛撫にじっと身を任せていた。可愛いくて仕方がない。

そんなある雨の朝、お染の姿が見あたらなかった。二階の部屋からまだ起きてこない息子夫婦に気遣いながら、源太郎は家の中の心当たりを探して歩いた。


玄関の観葉植物の鉢が置いてある所だとか、洗面所の敷きマットの所だとか、いつもお染めが好んでうずくまっている所を見て回ったが、白い小さな姿は見あたらなかった。

「ひょっとすると、あすこかも知れん」

源太郎は呟きながら、床の間のある和室の障子を開けた。この部屋の仏壇の前に背を丸めている所を、何度か目撃したことがあった。ふんわりとした座布団がお気に入りのようだった。


「いない。仕様がないやつだ」

源太郎は気落ちしながら、障子の外に目をやった。夜半から降り出した雨が強まり、風まじりにサッシュ窓をたたいていた。トイレで用足しした後、もう一度洗面所をのぞくと、嫁の秋子が歯ブラシを使っていた。


「そのうちに帰ってくるわよ、おじいちゃん」

歯磨きのまま、秋子が濁った声で言った。

(家内がいなくなってから、横着な態度が目に付くようになった)と思いながら、

「猫だって、こんなに降っては帰れないだろう」

源太郎は窓の外の本降りをのぞきながら不機嫌な声で言った。


「夕べはだいぶうるさかった」

三十歳を過ぎた息子の八郎までが、近頃、秋子の言いなりになっている。二人は結婚して今年で五年になるが、未だに孫の生まれる気配はない。

「神様からの授かり物だから」

家内がまだ元気だった頃、二人が話していたことがあった。源太郎には話さないが、二人して婦人科の診察も受けた気配だ。

八郎は日用雑貨品を取り扱う商事会社に勤務している。スーパーや個人商店に注文品を卸して行くのが、一日の仕事の大半を占める。


秋子は義母が亡くなるまで、町の工務店の事務員をしていた。忙しくなると現場に出て、ダンプカーの運転や、ユンボを操縦して、土の掘削や盛り土などもこなす、行動派の女だった。秋子は事務所に一日閉じこもっているよりも、現場に出て騒音のなかで動きまわっているほうが性あっていいるように思えた。


源太郎は秋子が時折寝る前に、勝手口を開けて段ボールなどを外に出していることに気づいた。昨夜もそうだったのかもしれない。お染は勝手口から出たのだ。


19歳の娘


「お染に相手がいるみたい」

秋子はパンとコーヒーで、朝食の準備を始めながら言った。

源太郎は妻がいなくなってから、パンとコーヒーに変えたが、いまだになじめないでいる。いつかは秋子にご飯と味噌汁してくれと言おうと考えているが、踏ん切りがつかない。遠慮よりも憎悪があるから、注文事が素直に口に出ない。はっきりした原因はないが、日頃の些細な積み重ねが、嫁との距離を少しずつ離していた。


「まだそんな年頃ではない」

源太郎は秋子の言葉を、強く否定した。

「ちょいとそこいらを探してくる」

(なに言っていやがる。毎晩さかりのついたメス猫みたいな声を出しやがって)

源太郎は喉の奥の言葉を飲み込むと、勝手口から雨の中に出て行った。源太郎は自分を無視したような最近の息子夫婦の言葉や振る舞いに、苛立ちを覚えていた。


「源太郎さんが車に跳ねられた」

八郎と秋子が朝食を取り始めたばかりの所に、たまたま事故を目撃した農家の青年が、源太郎を知っていて、雨の中、知らせに走って来てくれた。源太郎がお染を探しに出かけてから、まだ十分も経っていなかった。


八郎と秋子は青年の軽トラックに便乗して事故現場に向かった。

柳の木が数本並んだ小さなカーブの堤防下に、白い軽乗用車が横倒しになっていた。空中に突き出たタイヤの上に、源太郎がさして出た黒のこうもり傘がかぶさっていた。源太郎の体は軽自動車の向こう側にあるらしかった。三名ほどの救急隊員が背をかがめて、担架の用意をしていた。

「即死だ」

野次馬の中から、そんな声が聞こえた。


「風船みたいだった。宙にふんわりと舞い上がって、それから田圃に落ちて行った」

知らせに来てくれた時には青ざめていた青年の頬が、身振りを交えながら八郎と秋子に説明している間に、頬の色が正常に戻っていた。

「あの柳の木の後ろから、さっと白い猫が飛び出した。それまで道の端の方を歩いていたおじいちゃんが、急に猫に駆け寄ったんです」


実況見分の警察官に説明しているのは、事故を起こした専門学校に通う十九歳の娘だった。赤いビニール傘をさして、警察官の実況検分を受けている娘の顔は、自責の念や恐怖の表情は浮かんでいなかった。

路肩を歩いていて急に車道に飛び出してきた源太郎の方が悪いのであって、自分は被害者だという表情と態度が見てとれた。

「スピードはどのくらい出していた」

「五〇キロぐらい……」

「‥‥」

「この道路、制限速度は何キロだ」

「えーと……」

「スピードオーバーだな」

「でも……皆、追い越して行く」

「人の事は聞いていない」


(家で飼っていた猫によく似ていた)

実況検分が終わる頃になって、娘はぽつりと呟いた。

(生きている筈ないのに)

警察官が振り向いた。

「今、なんと言った?」


雨に濡れた雨合羽がきらりと光った。娘は口をつぐんだ。


目撃者たちははねられた老人は即死と思ったようだが、担架で救急車に運ばれて行く源太郎の生死はわからなかった。雨に打たれている顔は土色をしていた。濡れた路面でくるくる回っている赤色灯が動き出した。救急車に八郎と秋子も乗り込んだ。

「おじいちゃん」

「親父、大丈夫か」

二人の問いかけに、担架の上の源太郎は何の反応も示さなかった。


通夜の客


「お染よ」

救急車が走り出して間もなく、秋子が八郎の耳元でささやいた。

灰色の雨につつまれたような柳の木の根元に、お染がうずくまって、こちらをじっと見すえている。

お染にはこの状況が分かっているように思えた。遠ざかって行く救急車を追うように、お染めの眼光だけがいつまでもこちらを見すえている。

「気色の悪い猫だ」

八郎は遠ざかる猫に向かって、吐き捨てるように言った。


源太郎は一度も意識を回復することなく、数時間後に病院で息を引き取った。

その夜、源太郎の急死で家の中は人の出入りが次々とあった。

「源太郎さんは拾い猫に殺された」

「跳ねたのが十九歳の娘と言うのも、源太郎さん、ついてなかったね」

突然の知らせで駆けつけてきた親戚達は、口々に語り合った。

源太郎の元職場の上司や部下たちの姿も何人かあった。


夜も更けて、通夜の客も途絶えた頃、 「さあ、おじいちゃんに別れを言っておいで」

と言いながら、道路の反対側に今朝事故を起こした娘が、お染を抱いて立っている姿に気づく者はいなかった。

「ニャアー―」

歩道に下ろされたお染は、葬儀の明かりのついている家に向かって、道路を小走りに横切って行った。


もうひとつの通夜の客


祭壇が飾られた一階和室は静まり返っていた。八郎と秋子、それに七〇歳近い源太郎の姉が、部屋の隅に少しずつはなれて横になっていた。ほかの親族達は、先ほどそれぞれ別の部屋に引き上げて、仮眠を取っている。

喉の乾きを覚えた秋子は、台所に立とうとして身を動かした時、背後に猫の泣き声を聞いたような気がした。


「ニャアー」

「お染だ」

とっさに、そう思った。振り向くと、縁側に通じる障子が少し開いている。

「ニャアー」

お染が敷居の所にしゃがんでいた。前足を心持ちのばして、中に入り込む姿勢をとっているようにも思えた。


昼間、柳の木の下にいたお染が、どうやってこの部屋までやってきたのか、秋子にはわからなかった。祭壇の二本のロウソクの炎が、腰をくねらせるように揺れた。線香の煙りはすっかり消えていた。


秋子は震えを覚えた。障子のそばで背を丸め、頭から毛布を被って寝ている夫の八郎に声をかけそうになった。源太郎の姉は、壁の方を向いたまま、先ほどから軽いいびきを立てている。

「シッ」

秋子は手でお染めを追い払う仕草をしたが、お染めは身じろぎもしないで、祭壇に体を向けていた。


秋子は恐る恐るお染に向かって(おいで)と、手招きをした。お染は音も立てずに、忍び寄ってきた。


「おじいちゃんよ」

膝にすり寄ってきたお染に向かって、秋子はそっと声をかけた。

「今朝、お染を探しに行って、車に跳ねられたんだから。ほら、見てごらん」

秋子はお染に小声で話しかけながら、棺桶ののぞき窓を、ほんの少し開けた。

「ニャアー」

猫が笑った。秋子にはその時お染が笑ったように見えた。開けてくれるのを待っていたかのように、お染は秋子の膝を離れ、のぞき窓からすっと棺桶の中に飛び込んだ。


「お染!」

一瞬の出来事に、秋子は驚きの声を上げた。振り返ると八郎も義姉も、さっきと同じ姿勢で寝入っていた。


「秋子さん、まだ起きとったですか」


不意に背後から声がした。秋子はぎくっとして振り向いた。源太郎の遠縁に当たるオシメと呼ぶ五〇歳過ぎの女性が、障子の影に立っていた。

「お手洗いを使わせてもらいました」

そう言いながらオシメは祭壇の前にひざまずき、線香を一本あげた。


消えた子猫


「さっき縁側で子猫を見かけたけど、来なかった」

「‥‥」

秋子は無言でオシメから目をはずした。


「明日がありますき、早う休んで下さい」

オシメは咳払いをしながら部屋を出て行った。一瞬のうちにお染が棺桶の中に飛びこんでいった気配に気づいている様には見えなかった。


耳を澄ますと、棺桶の中から、何となく物音が聞こえてくるような気がする。尖った猫の爪が板壁を引っ掻くような音だ。おじいちゃんの顔をひっかかれたらどうしよう。どろっとした血が棺桶の底から流れ出てきたりして。

秋子は祭壇の前から後ずさりすると、毛布を頭から被って耳を塞いだ。


「秋子さんは、夕べ遅くまで起きていなさった。もう少し寝かしときなさい」

秋子には、だいぶ前から潮騒のようなざわざわした音が聞こえていた。

「オシメさん、今、猫の泣き声を聞かなかった?」

「朝から、気色の悪い話せんで」

ウトウトしていた秋子はハッとして、起きあがった。


「もっとゆっくり寝とりなさっていいのに」

オシメの浅黒い顔が、かぶさるような至近にあった。

「お早うございます」

ずっと潮騒のように聞こえていた音は、親族達の押し殺したような声だったようだ。秋子は乱れた髪を後へ撫でながら、祭壇の前に車座になっている複数の近親者に向かって、顔を赤らめながら頭を下げた。


朝一番に、棺桶を確認しなければいけないと考えながら、眠りに落ちたのは明け方だった。

「お茶、どうぞ」

若い女性がすっと秋子の前に現れて、湯気の立つ湯飲みを差し出した。

「あなた、昨日の‥‥」

と言って秋子は、膝に両手をつき、うつむいている若い女性を見つめた。


「源太郎さんを跳ねた娘さん。今朝、早くから来てくれているのよ」

秋子は昨日事故を起こした娘を、よく見てはいなかった。言われてみれば、雨の中、赤いビニール傘をさしていた娘に似ていた。


「この娘さん昨夜、前の道路の向こう側までお染を連れてきたそうよ」

オシメが誰にともなく言うのを聞きながら、秋子は気持ちを静めるように、ゆっくりと茶をすすった。


秋子には、昨夜見たお染の行動をいま口にする勇気がなかった。熱湯が頭の芯の方から、徐々に目覚めさせてくれる感じだ。仏前に行き、線香を上げた。全神経を棺桶に集中するが、物音は聞こえない。


お染が棺桶に入り込んでいることを八郎に告げようと思いながら、機会が見つからないまま、葬儀は終わってしまった。出棺間際、親族一同がのぞき窓の蓋を開けて、源太郎に最後の別れの言葉を告げている時に、お染が発見されることを願ったが、何事も起こらなかった。

「何故?」

秋子は何度も呟いた。


ネズミ捕獲器


「親父、元気じゃないか!」

源太郎はお染を抱いて、ニコニコ笑っている。

「雨の朝、十九歳の娘が運転する軽乗用車に、土手下の田圃まではねとばされて死んだのは夢だったんだ」

八郎は夢の中で、父の顔をまじまじと見つめていた。源太郎は口元に笑みを浮かべているだけで、一言も喋ろうとはしない。

最後に見た時の父の姿より、ずっと若い。


「こっちにおいでよ、八ちゃん」

という風に、源太郎とおなじ年齢の車座の中から父が手招きをする時もあるそうだ。

「駄目!行ったら」

向こう側に行こうとする八郎の手を全身の力をこめて引き寄せているのは、少女の秋子だった。

何故あどけない少女姿の秋子がそばにいるのか、八郎には理解できない。


この一週間ぐらいは時々、源太郎に代わって午前零時を過ぎると枕元に白い子猫が現れるという。


「ニャアー」

聞き覚えのある猫の泣き声だ。初めのうちは、遠く小さな泣き声。夢の中で潮騒を聞いているような、単調で規則的な繰り返しである。

いつの間にか忍び足でやって来て、八郎の寝顔をのぞき込んでいるらしい。

「お染だ!」

八郎は驚いて目覚め枕元を見渡すが、お染の姿はない。


「ねえ、お願いだから、静かに寝かせて」

近頃秋子は、寝入りばなに八郎が上げる奇妙な声で起こされることが多くなっていた。

「お染が枕元に来て座るんだ」

青白い顔の八郎。警戒するように目をきょろきょろ動かしている。

「気のせいよ」

「ニャアー―」

「やっぱり、お染だ!」

源太郎が亡くなって以来初めて八郎と肌を重ね合った深夜、秋子は再び八郎のおびえた声に起こされた。


「おどかさないで」

秋子は肌の隅に残っていた心地よい温もりを、いきなりはぎ取られたような悪寒を覚えて目覚めた。

できれば八郎とは別の部屋で寝たい気持はあるのだが、いまはまだその勇気がない。


通夜に、お染めが棺桶に入り込んだことを誰かに話していれば、今になって八郎がおびえることはなかったと秋子は思い、あの時取った自分の行動を悔やんだ。


寝返りを打って背を向けた秋子には、八郎の夢の原因は分かっていた。生きたまま源太郎の棺桶に閉じこめられて埋葬されたお染の霊が、八郎に取りついたのだ。秋子自身、一時、幻覚に悩まされていた。

「ニャオー。早く出してくれ!」

秋子は八郎が悪夢にうなされる夜ごと、地底からお染の恨めしそうな泣き声が浸み出して来るように思えて、不安だった。


秋を待たず源太郎のお棺を掘り上げて、自分達だけの火葬をしようかと考えることがあった。


日が経つに連れ、八郎の悪夢は深刻になっていった。初め一週間に一、二度だったのが、この頃は毎晩のように八郎を苦しめた。

「仲間と一緒だ」

夢の中で、八郎が声をあげた。

「仲間って、何のこと?」

夢の中で、少女の秋子が尋ねる。

「お染には仲間がいるよ」

「ウソ!」

「一匹‥‥二匹‥‥三匹」

「そんなに沢山?」

「どれもお染にそっくりだ」


八郎は夢から覚めて、周囲をゆっくりと見渡した。

最近では秋子も八郎が悪夢にうなされている気配が分かるようになっていた。横で寝ていて寝返りが忙しくなるのが合図だ。

「大丈夫」

汗をかいた八郎の顔を眺めながら肩を揺すり、慰めの声をかける余裕も出て来た。


ある決断


「明日、帰りに、ネズミ捕獲器を買って来る」

腹這いになり、ぼんやりと天井に目をやりながら、八郎が思い詰めた表情でつぶやいた。このところの続け様の悪夢が、夫婦お互いの睡眠を妨げていた。


「そんな物、どうするの」

「お染を捕まえる」

「夢よ」

「うん、分かっている」

それで八郎の気持ちが落ち着き、悪夢から遠ざかってくれるのなら秋子も夜、安眠出来ると思った。


このところ、二人は、夜になると襲ってくるかも知れない悪夢に、朝、目覚めた時から、悩まされるようになっていた。

気分を変えるようにして体の向きを変え、八郎の下腹部に手を忍ばせしばらくもてあそんでいたが、萎えたものはよみがえらなかった。秋子は八郎の打ちのめされ方が深刻なことを感じ取った。


「ネズミ捕獲器、置いてあります?」

八郎は翌日、仕事帰りに荒物屋に立ち寄った。

「‥‥ええと」

年老いた店主は腰を曲げながら、瀬戸物やザル類が雑然と積み上げられている棚を、探して回った。品物を一つ動かす毎に、埃が立つ。

「はい、これ。ネズミ、居るのかね」

「ネズミじゃないんですよ」

「こんな物、ほかに何に使う」

「猫を捕獲しようと思いましてね」

店主は眼鏡を鼻のしたにずり降ろし、まじめに答える八郎をじろりと見た。


「本当です」

「今年これ買った人、あなたで二人目。でも、これで猫を捕るなんてお客さんはあなたがはじめてだ」

釣り銭を八郎の手に乗せながら、年老いた店主はにやりと笑った。


その夜、八郎は買ってきたネズミ捕獲器を、枕から少し離れて所に置いて寝床に入った。古びた針金が組み合わさっただけの、その品物にチラッと目を向けた秋子は、

「役立てばいいね」

と言っただけだった。


八郎はいつも通り深夜になって、枕元にお染が現れる夢を見た。今夜も一匹だけではなかった。警戒するように周りの様子を窺い、足音を忍ばせながら、あとの二匹が現れた。どれもお染そっくりだ。


捕獲器の中には猫の好物の煮干しが吊り下げてある。八郎は息をしずめ、猫の動きを見つめた。なかなか近づこうとしない。


「ニャアー」

一匹のお染が、臭いにつられるように、こちらに近づいて来た。

ガシャン! 八郎は夢の中で、猫が捕獲器の中に入ったのを見た。

「今だ」

八郎は大急ぎで、目を覚ました。

「とうとう、捕まえたぞ」

布団を跳ねのけて、八郎が得意げに叫んだ。寝入りばなを起こされた秋子は、不機嫌だった。

だった。


クローン


「見ろよ。やっぱりお染だ」

「コピーよ、これ」

秋子は眠い目を何度も目をこすりながらいった。

「コピーだって。今流行のクローンか」

素っ頓狂な声をあげて、喜ぶ八郎。


「絶対に、こんな所に居る筈がない」

秋子は通夜の、あの一瞬を思い浮かべながら、少し強い調子で言った。

「この体型、毛並み、間違いなくお染だ」

煙草の箱を捕獲器に近づけると、中から足を伸ばして爪で引っ掻こうとする。

「馬鹿げてる。夢の中の猫を捕まえるなんて」

「正夢だったんだ。なぁ、お染」

八郎は顔を近づけて、機嫌良く呼んだ。


「ニャアー」

「ほら、答えたぞ」

彼は満足そうに笑みを浮かべた。

「お染」

「ニャアー」

自分の呼びかけにも、同じように悲しそうな泣き声を上げたこの得体の知れない猫に、秋子は目を据えた。眠気がいっぺんに吹き飛んでいった。


「おじいちゃんに、線香を上げさせて下さい」

秋の深まったある日の午後、生花を抱いた十九歳の娘が玄関先に立っていた。娘が家をたずねて来たのは、葬儀後これが二度目だった。最初の時は秋子が家を留守にしていて八郎が応対した。その時はお互いに緊張していて話らしい話もせず、娘は仏壇に線香を上げただけで帰って行ったと、後になって八郎は話していた。

「どうぞお上がり」

秋子は娘を和室の仏間につれていった。


娘の疑問


「お染ちゃんは?」

源太郎の仏前に線香をあげ終えて一段落した娘は、小声で秋子にたずねた。

「行方知れずよ。ずっと」

「私、おじいちゃんの通夜にお染を連れてきたんです」

「お葬式の時にも、そんな話していたわね」

秋子は心の中で、よけいなことをしてくれたものだと思った。

「今日、会えるのを楽しみにしていたんです」


「猫、好きなのね」

「私が高校生の頃は、家に二十匹近くいました」

「まあ―」

秋子は不安な気持ちで次の言葉を待った。

「それがある時、全部死んでしまって…」

「食べ物か何か?」

「何が原因だったのか、父は話してくれませんでした」

「どうしたの?…死んだ猫」

「父が捨てました。黒いゴミ袋に入れて。入れるの、私も手伝わされました」


秋子はM市のゴミ捨て場に多くの猫が捨てられていた話を、生前の源太郎から聞いたことを思い出した。頭数も娘の話とほぼ一致する。

「おじいちゃんね、ゴミ処分場で働いていたのよ」

娘の表情が緊張した。

「父はそこに捨てに行ったと思います」

秋子の口元を見つめていた娘は、顔を仏壇の方に向け、しばらく線香の紫煙に視線をやっていた。


「その頃、捨て猫の話、していたわ」

秋子はさり気なく言った。

「本当ですか」

娘の声は小さかった。

「その中にまだ一匹だけ、生きた子猫がいたそうよ」

台所に立って、冷蔵庫の中の飲み物をとりだして用意しながら、秋子はさり気なく言った。娘の緊張した様子が背中に伝わってくる。


「全部、死んでいた筈ですけど」

「亡くなったおじいちゃんね、その猫を事務所で飼っていたのよ」

アイスコーヒーのグラスを娘の前のテーブルに置いた。

「今は飼ってないの。猫?」

娘は黙ってうなだれている。


「あれ以来、生き物は飼わないようにしているんです」

軽く会釈して、ストローをグラスに泳がせている娘の指先を眺めながら、

「しばらくして猫に赤ちゃんが産まれたの」

と秋子は薄く笑った。

「‥‥お染だったんですか?」

唇からストローをはずして、娘が顔を上げた。


「いいや。おじいちゃんは子猫が産まれてすぐ、定年退職でゴミ処分場を去ったわ」

娘はほっとしたようだった。


「お染は公園にいた、ただの捨て猫」

秋子は曖昧な返事をした。娘にお染の話をこれ以上続けるのは、何となく気が進まなかった。

「お墓に寄せて頂いて、いいですか?」


「墓地、知ってるの?」

「はい。葬式の時、後ろの方で参らせてもらっていたんです」

秋子は娘が葬儀の日、墓地にまで行っていたとは知らなかった。

「どうぞ、おじいちゃん喜ぶわ」

娘は玄関に出てきた秋子に軽く頭を下げると、事故後乗り換えた赤い乗用車で、道路に散乱している枯葉を巻きあげながら走り去った。


八郎の記憶


胸の奥底に、岩石のような重石をしていた古い記憶が、ここ数日来、ジワッとしみ出て来ているのを八郎は感じていた。


八郎は小学四年生の頃、猫について嫌な思い出を持っていた。源太郎が死んでから夜中にたびたび悪夢を見るようになり、彼の古い記憶の中の猫が、小声を上げながら迫ってくるような気がした。秋子にはお染が現れたと言っているが、お染に交じって、八郎が子供の頃出会った子猫が、枕元に現れていた。


八郎が小学生の頃、源太郎は営林署の職員だった。一家は山麓の谷川に面した官舎に住んでいた。谷川の向こうには営林署の貯木場があった。

昭和二十四・五年頃は、日本各地から職を求めて伐採、炭焼き、運搬、植林に従事する集団が、貯木場の横を通って、谷間の急造の村に次々とやってきた。大部分は戦後、外地からの引き揚げ者とその家族達だった。


川向こうの山師の子供達のために、歩いて四十分ほどの山奥に、小・中併設の分校が建てられていた。八郎は四年生の時、一年間だけ、分校に通よった。


分校までの山道は、照葉樹林の森がくねくねと蛇行しながら続いていた。深い谷の向こう側には、山奥で切り出した材木を運搬するためのトロッコ道が見え隠れしている。


営林署近くから分校に通っている子供達は、谷向こうのトロッコ道を通学すれば、いつもの山道を通うよりも十分や十五分は近道出来ることを知っていた。

「あそこはな、材木を満載したトロッコがすごい勢いで走り降りてくるんでな、絶対に通ったらいかんぞ」


ロッコ道


月曜日の朝礼には決まって教頭先生が、すぐ後ろに山が迫った運動場に整列している生徒達に向かって、大声を上げた。

「本当だぞ」

父親がトロッコ乗りの少年は、朝礼が終わって教室に向かう友達に向かって、口をとがらせ得意そうに話しかけた。

「お前、見たことあるか」

家が炭焼きの少年が口をはさんだ。


「なんべんも見た」

「そんなになんべんも見られんわ」

「トロッコに乗ったこともある」

「うそつきや」

「うそじゃない。お父さんに乗せてもらった」

トロッコ乗りを父に持つ少年は、怒ったような顔をした。


チップの原料になる堅木のトロッコ運搬は毎日行われているが、子供達がその姿を見る機会は滅多になかった。トロッコ道は鬱蒼とした照葉樹林の沢沿いを蛇行していて、谷向こうの道からは遠く離れていることが多かった。

「おれ、ブレーキの音聞いたことある」

「おれも」

始業のベルが鳴って廊下に先生の足音が聞こえてくるまで、子供達はイスをつき合わせて自慢し合っていた。


ある日の午後、八郎は校門の門柱に寄りかかって、営林署のある集落へ帰る子供達を待っていた。分校では、登下校の途中、サルに襲われないために、集団の登下校が習わしになっていた。


谷向こうの通学路と照葉樹林帯の中を走り抜けてきたトロッコ線路は、部落の入り口にある営林署の貯木場で合流していた。谷側にはトロッコの点検、保守用の格納庫が、崖にせり出して建っている。


本線から引き込まれた線路の下は、半地下式になっていて、床には所々機械油が黄色い塊になって浮いていた。奥の壁ぎわには台車と車輪が取り外された、古いトロッコが一台、立てかけてあった。


いたずら


ある日の下校時、少年達は半地下室の床の隅に、一匹の子猫がうずくまっているのに気づいた。

「猫がいるぅ」

一緒にいた低学年の女の子が、指をさしながら声をはりあげた。

「じっとしている」

それを見つけた別の子が言った。

「死んでる?」


少年達は地面に腹這いになって、半地下室をのぞき込み始めた。

「動いた」

先ほどから子猫を見つめていた低学年の少年が、驚いて声を上げた。その声に呼応するように、八郎が子猫めがけて小石を投げた。シュッ―と空気を斬って、小石は猫の丸い体を直撃した。

「ニャー」

子猫は弱々しい声を上げ、よろけながら二、三歩動いた。逃げ場を探すように、壁へ寄りかかりながら歩いている。


「また動いた」

低学年の小学生がそう言って指をさした。

「この野郎」

女の子に刺激されてカッとなった八郎は、格納庫の外に走って行った。しばらくして帰ってきた八郎のズボンのポケットは、小石で膨らんでいた。


「これ、皆で投げろ」


八郎はポケットを裏返しにした。一握りほどの小石が、乾いた音を立てて枕木の上ではねた。子供達はすぐに小石を拾い上げると、子猫にねらいをさだめて投げ始めた。

「やった」

小石が子猫に当たる度に、喚声があがった。


そうやって子供達は、一時間近く子猫をいたぶり続けた。もう子猫の姿はすっかり石に埋まってしまって、見えなくなっていた。小石がピクッと動いたような気がした。

「まだ生きている」

低学年の女の子がおびえた様な声で、八郎に訴えた。


すると八郎は格納庫の外に飛び出して行き、また両手いっぱいの石を拾ってきた。

「この野郎。ちくしょう」

八郎は狂ったように叫びながら、石を投げ続けた。小石の塚がすっかり動かなくなると、子供達は何事もなかったように、格納庫を後にして歩きはじめた。


執念


翌日の午後、分校の子供達は学校の帰り道、格納庫をのぞいた。地下室の一角は大小さまざまな石で盛り上がっていた。子供達は昨日最後に見た時と変わっていないことを確かめると、

「なあんだ」

と言う表情で、出口に向かった。


「あれ‥‥」

最後尾を歩いていた女の子が、立ち止まった。

「動いた‥‥石」


子供達は一斉に立ち止まり、小石の盛り上がった一点を、息を止めてじっと見つめた。しばらくは何の変化もなかった。


「帰ろう」

男の子達が歩き出した。八郎も外に向かって歩き始めた。その時別の男の子が、

「動いたぞ」

と声を上げた。


ビクッとして振り向いた八郎の目に、盛り上がった小石が二、三個パラパラと動くのが見えた。一瞬、子供達はおびえて顔を見合わせた。

「生きとるぅー」

男の子のうなるような声に、

「ちくしょう」

肩掛けカバンを放り投げると、八郎は石を拾いに点検小屋から外に向かって、駆け出して行った。


「投げろ。投げるんだ」

八郎は戻ってくるなり、狂ったような声で命令した。子供達はカバンを放り出し、八郎の足元に散らばっている小石を拾い上げて投げたり、石を拾いに走り出したりした。


一段落した地下室の床には、子供達の頭ほどの石が何個も転がっていた。子猫の姿は見えなかったが、もうとても生きてるとは思われなかった。


娘の足音


墓地は郊外の高台にあった。最近完成した高速道路が、町を二分するように南北に延びている。

娘は桜の大樹の下に車を止めた。高速道路の下に石段の登り口があった。広々とした墓地からは、前方に海に向かって広がる町が一望出来た。


新旧三百ぐらいの墓石が、ひしめき合うように建っている。二、三カ所でユンボの動いているのが見える。耳に衝くエンジン音を聞きながら娘は、どこかで新たな墓地の工事が初まっているのだと思った。


源太郎の墓は迷路のような細い通路を突き当たった所に、ひっそりと建っていた。娘は花屋で買い求めた生花を墓前に供えて手を合わせた。ここにじっとしていると仏前で秋子と対峙していた時よりも心の安らぎを覚えた。


「ニャアー」

引き返そうと体の向きを変えた時、娘は猫の泣き声を聞いたような気がした。墓石の方を振り返ったが猫の姿はなかった。

(敏感になりすぎている)

娘はくすっと笑って歩き始めた。

「ニャアー」


二、三歩、歩いた所で先ほどより、もっと鮮明な泣き声が娘に聞こえて来た。全身に鳥肌が立った。

娘は足を止めた。


残照



注意深く、周囲を見渡した。晩秋とは思えない強い日差しが墓地全体を照らしている。少し離れた所に桜の木陰があるだけで、近くに日陰になるような物は何もなかった。

 源太郎の墓前には、さっき活けたばかりの生花が濃い色彩をつくっている。



 「お染ちゃん?……」

 娘は墓前に引き返してきて立ち止まり、耳を澄ませた。

 「ニャアー」 

 墓石の影か、納骨室の中に迷い込んでいるのだろうと思い、娘は心当たりの場所をくまなく探した。何も動く気配はない。

 「閉じこめられているの?」

 と言って耳を澄ます。

 「ニャアー」



 どうやら墓石の下から聞こえて来る。娘には子猫の泣き声が段々と強く、助けを求めているように思えた。

 「どうしてそんな所に居るの」

 「ニャアー」

 猫の泣き声を聞く度に、娘は胸苦しさを覚えた。

 「今夜、必ず助けて上げる」

 そんな娘の動きの一部終始を、秋子はさっきから栴檀の木陰でずっと見ていた。



 娘が夕方、再び墓地にやって来た時には、まだ西の空にかすかな残照があった。赤い乗用車を入り口の駐車場に止め、スコップと懐中電灯を持って源太郎の墓石まで真っ直ぐ歩いて行った。

 「お染ちゃん」

 「ニャアー」

 今にも途切れそうな弱々しい、せっぱ詰まった泣き声が返ってきた。

 娘は早速、墓石の後ろ側に回ってスコップを入れた。




 スコップに右足を乗せて踏み込むと砂は想像していたよりも柔らかく、サクッと心地よい切れ味が返ってきた。娘はスコップの砂を跳ね上げながら、お染が何故、地下にいるのだろうかと考えていた。



 作業を始めて間もなく娘は、エンジン音が近づいてくるのに気づいた。顔を上げると、目の前に小型のユンボが止まろうとする所だった。

 「……」

 娘は、ユンボを操縦しているのが秋子だと知って驚いた。

 「手伝うわ」

 秋子の笑った顔だが、どこか冷たさがある。



 「あのう……」

 娘は、今自分が何をしているのか、秋子は知っているのだろうかと思った。

 「お染ちゃんを救出しようとしているのよね」

 娘は頷いた。

 「スコップじゃ無理。さあ、退いてちょうだい」



 すでにユンボは娘が掘り始めていた穴の前に来ていた。

 「ご存じだったんですか」

 「いいや。あなたが今日、おじいちゃんに線香を上げに来てくれた時、はじめて知った」

 アームの先端が、娘の開けた砂の穴に吸い込まれて行った。




 「私、おじいちゃんのお通夜に、お染を抱いてきて、家の前の道路で下ろしました。道路を横切って、玄関に向かったのを見たのが最後なんです。お線香を上げに行く度に、お染ちゃんに会えるのを楽しみにしていたのですが……」


 娘は秋子の作業の手際よさに見とれた。二年ほど前まで、工務店の事務員として働き、時々現場に出て、ユンボの操縦や、ダンプカーの運転をこなしていたと、話していたのを思い出した。



 「私たち、いくら頑張っても子供の出来ない夫婦。家にいるより、働く方がいいもんね」

 その時の秋子の笑いは、どこか寂しげだった。



 「あなた、向こうにある、足場板を一枚運んで来て」

 「はい」

 娘は言われるままに、日中、工事をしていた場所から、一枚の足場板を引きずってきた。

 「あなたが今日、線香を上げに来てくれた時、お染ちゃんはと尋ねたでしょう。家にいないのが分かれば、必ずここへ来ると思ったのよ」

 秋子は戻ってきた娘に、目を向けた。

 「でも……」




 通夜の夜更けから見かけなくなったお染の行方を、秋子は知っているのではないのだろうかと娘は思った。

 「泣き声を聞くまでは、私も信じなかったわよ。お棺の中に閉じこめられているなんて」

 エンジンの音に負けまいとして、秋子の声は自然と大きくなっていた。

 「お染ちゃん、お棺に閉じこめられているのですか」

 初めて聞く話に、娘は驚いて秋子を見つめた。

 すっかり夜になっていた。向こうに見える高速道路を走り去る車の光軸が、時折、墓地の上を灯台の光のように流れ去って行った。




 「あら、知らなかったの」

 秋子は口の滑ったのを悟った。

 「はい。知りませんでした」

 と呟いた。

 「それで掘っていたの」

 「はい」

 娘の声は悲しそうに沈んでいた。



 「だって、それしか考えられないじゃないの」

 「そうですね……でも、どうして、お棺に入ったのかしら」

 「あなたがこっそり入れたんでしょう」

 秋子の意地悪そうな笑いに、娘は身を固くした。



 「いいえ。そんなことはしません」

 エンジンの音を遮るような声で、娘は言った。

 「一人で入ったのかも知れないね」

 「そうでしょう。それしか考えられませんから」

 掘り上げられた砂が、目の前に量を増して行く様子を見つめながら、娘は力無く笑った。


里子と秋子


 「私たちまだ、お互いの名前を知らないわね」

 と作業の動作を一瞬止めて、秋子が言った。

 「すみません。里子と言います」

 慌てて娘が声をあげた。



 「私、秋子。これからもよろしくね」

 「こちらこそ」

 「お染が通夜の時に、棺桶に入ったとしたら、もう半年も経っている。今頃、中から泣き声が聞こえる?そんなこと信じる」

 砂をすくい上げるバケットの先端に向けていた顔を、里子へ向けてきた。里子は首を横に振った。




 「空気がなくては生きられないし、食べ物がなくては飢え死にするだけ」

 穴は次第に深くなってきた。そろそろ棺桶に到達するかも知れないと、里子は感じた。



 「ここは大昔、海底だった所。見てごらん、砂、サラサラしているでしょう。砂の密度が荒いから、少しは空気の流れがあるのよ。墓石に沿って、隙間が出来ているのかも知れない。食料は死んだおじいちゃんの体内から溶け出した、エキスを舐めて」

 「やめて下さい」

 里子は耳を塞ぎたくなった。これ以上、秋子のそばにいるのが苦痛に感じられた。




 「燃料を補給して下さい……燃料を補給して下さい」

 ユンボが先ほどから警告メッセージを繰り返し、運転レバー横の小さな赤色灯を点滅させている。



 「燃料が切れたみたい。もうちょっとでお棺に届くのに」 

 秋子はスイッチを切り、燃料用のポリタンクの置いてある場所に向かって歩き出した。

 「私、取ってきます」

 と里子は言ったが、

 「いいわよ。あなたでは、どこに置いてあるか分からないから」

 と秋子は、さっさっと墓石の影にかくれてしまった。



 高速道路の向こう側の雲間に、満月に近い月が昇っていた。風が強いらしい。ちぎれ雲が次々に流れ去る。


 黒い物体が、砂の底で動いたように思えた。

 「お染ちゃん」

 里子は急いで足場板を穴の上に差し渡し、そこから身を乗り出した。砂が動いた。よろよろっとした里子の身体が揺れた


 「あっ!」

 と里子は小さな声をあげた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

砂の穴 @nobuo77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る