1-7 血濡れの常闇
深夜、壁の奥でもの音と声が聞こえた。
這い寄る恐怖から逃れるように、亜瑚は布団のなかで冷え切った足の指先を擦り合わせ、右の手の甲を左手で包み込むようにして身体を丸めた。
――やっぱり、次は私が祟られてしまうのだろうか。
怪談朗読では、いままでに何度も呪いや祟りの話をしてきた。心霊系の企画の際にはお祓いに行ったほうが良いなどという話はたまに聞くが、まったく実行したことはなかった。それでも自分の身辺に霊障が起きたことは一度もなかった。だから祟りなんてものは存在しないと思っていた。
思っていたのに。
しかししばらく耳をそばだてていると、どうやらそれがとんでもない勘違いだったことがわかってきた。
亜瑚が耳にしていたのは、甘く湿った女の声だった。
壁一枚隔てた隣は一春の部屋だ。
ひときわ甲高い嬌声で、すべてを悟った。
もしかしたら鬼の声より聞きたくなかったかもしれない……。
別に悪いことではないけれど。むしろ夫婦仲睦まじいのは大変よろしいんだけれども。
あんなことがあって、家族そろって深刻な話をした直後に、よくそんな気分になれるな、とほとほと呆れてしまう。文句は言えないが。
立て続けに村の若者が無惨な死を遂げ、村全体が重く沈んだ空気をまとっているなか。前野家はその渦中にあり、義妹は村から怪死の元凶のように見なされて孤立しているのに。
麻友はそんなことおかまいなしに自分の欲を満たす。その図太い神経は羨ましくさえあった。
心優しい一春は、麻友の欲求にしかたなく応じているに違いない。
きっとそうだ。
耳を塞ぐように布団を頭からかぶり、イヤホンを耳に挿して動画サイトを漁った。ブルーライトがまぶしく瞳を焼く。怪談朗読チャンネルの新着動画も、VTuberの深夜のライブ配信も、目についたどの投稿にも全然興味を惹かれなかったが、耳が痛いぐらい音量を大きくして、とにかく順番に再生した。しかしそれだって電波が悪いので、数十秒に一回停止する。すべてのことが数珠繋ぎにものすごいストレスを生み出して亜瑚を苛立たせた。
一時間ほど経っただろうか。
イヤホンを外してみると、すでに隣室は無音だった。
ほっとして長いため息とともに身体の力を抜いた。
しずかな時間が過ぎていく。
考えることをやめ、目を閉じてみるも、なかなか寝付けそうにはなかった。
そのまま何十分と過ぎただろうか。
突然、部屋の襖ががたんと開いた。
亜瑚はびくりと身体をこわばらせた。わずかな物音にも、過剰に敏感になっていた。
「ねぇ、起きてるんでしょ? 聞こえてるんでしょ?」
ねっとりとした麻友の声だった。
危険を察知した小動物のように本能的に、全身に鳥肌が立った。
息を殺し、布団のわずかな隙間から目を覗かせると、暗闇の中に立つ麻友の脚が見えた。あわてて布団の隙間を閉ざす。
麻友は、畳の上を素足で擦るようにしながらゆっくりと、亜瑚の寝ている布団のほうへと寄ってきた。
「あたし考えたんだけどねぇ、亜瑚は村に帰ってきたらあかんかったんちゃう?」
酔っているのか、麻友は呂律の回らないしゃべり方をする。
「村から出て、東京なんか行くからやん。亜瑚はもう、そのときから鬼に憑かれてるんよ。あんたが鬼を連れてきたんよ」
言っていることも支離滅裂である。
「知景ちゃんも、成美ちゃんも、あんたのせいで死んだやん」
「ちがう……私のせいじゃない」
寝たふりをして切り抜けようと思っていた亜瑚だが、自分に言い聞かせるつもりで思わず反論してしまった。枕に頭を埋め、擦りつけるように首を振る。
「あたしにはさぁ、星麗南を守る義務があるわけ」
猫撫で声が近づいてきた。麻友がしゃがんだのだろう。吐息が布団をわずかに揺らし、すぐ耳元に顔があることがわかる。
「なぁ亜瑚? アンタの連れてきた災いなんやからさぁ、責任持って罪を償いや」
ばっと布団が剥ぎ取られ、麻友が覆いかぶさってきた。
「だからちがうって!」
耐え切れず叫んだ亜瑚の喉に、麻友は怯むことなく両手を回す。
「あたしが手伝ったるから」
「麻……友さ……っ!」
麻友は本気の力で締めつけてきていた。
一瞬湧いた怒りが、すぐに恐怖へと変わっていく。
麻友は上背があって喧嘩も強い。一方亜瑚は、身を守る術さえろくに知らない貧相な体格だ。力ではかなわなかった。
そこへ突然、小さな影が割って入った。
「やめて……お母さんっ」
星麗南が母親の麻友の背中に抱きついて、思いっきり引っ張ったのだ。不意打ちに、首元にかけられた手の力が少し弱まる。しかし、
「なにしとんねんどけ!」
麻友は身を捩り星麗南をたやすく振り解いた。
弾みでしりもちを着いた星麗南は、声を震わせながらも必死に母親に訴えかける。
「やめて。亜瑚ちゃんは悪くない……」
「うるさいなぁ! このガキが!」
自分に痛みはないものの、目の前の光景に亜瑚は思わず悲鳴を上げた。麻友が自分の娘を、その足で思いっきり蹴飛ばしたのだ。星麗南は声を上げずにぱたりと床に転がった。
「あ……亜瑚ちゃん……、悪く、ない……」
咳き込みながら、なおも主張する星麗南。麻友は一度亜瑚を離すと、星麗南に近づいて髪を乱暴にぎゅっと掴んだ。
「なぁ星麗南、静かにせんと無理矢理黙らすで」
「麻友さんやめて!」
亜瑚は麻友を止めようとしてよろよろと立ち上がったが、逆に突き飛ばされてしまう。麻友は先ほどまでの酔ったような動きが嘘のように俊敏だった。
前のめりに倒れ込んだ亜瑚に、麻友が後ろからまた喉へと手を伸ばしてきた。
後ろからぐっと首を引かれる。苦しい。視界が涙でぼやける。本気で殺意を感じた亜瑚は、
「一兄……!」
助けを求めて叫ぶが、掠れた声しか出なかった。
「無駄やであの人、一回イッたらなかなか起きひんから」
麻友が嘲笑い、亜瑚を絶望させた。
気持ち悪くて、惨めで、怖くて、全部が不快。全部が悪夢。
これが……これこそが全部、祟りなのかもしれない。
それなら、次に殺されるのは私であるのが道理だ。
恐怖が諦めに変わりかけたときだった。
「あ、あ、あ、……あ?」
麻友が突然、動物の鳴き声のような奇妙な声を上げはじめた。
「痛、……いたい、いたいいだいいだいぃ!!」
ひきつれた悲鳴とともに、首を絞めていた麻友の両手の力が緩み、ぱっと離れた。同時に、亜瑚の頭は鼻から畳の上に落下した。
「……っ」
ぶつけた鼻を抑えて後ろを振り向き、亜瑚は絶句した。
不可解な行動は、麻友が自分の意志でおこなったものではなかった。
両腕は、両側から無理やり引っ張られて、極限まで伸びきっていた。さらに胴体は不自然なほどに後ろに反り返っている。ぎしぎしと、みしみしと、骨と皮の軋む音がする。
「いヤあああああああああ!!!痛いいたいいたい!!」
眼球が飛び出し、顎が外れんばかりに大口が開く。
亜瑚は息を呑むことしかできない。
目の前で、ありえないことが起こっている。
麻友はもうずっと言葉にならない絶叫を続けている。助けるべきか、頭が混乱した。というかそれ以前に恐怖で一歩も動けない。助けられるわけがないと、本能的に理解していたのだ。
麻友から目を逸らさずに、そばにいた星麗南をやっとの思いで抱き寄せる。
「うぎゃあああああああああ……がァ、」
絶叫に喉が潰されたのか、しだいに声は枯れ、代わりにごほごほと咳き込む。
両腕を極限まで広げたまま、反り返りの激しいブリッジ姿勢。いや背中は後ろに反るというより、胴がふたつに折り畳まれていると言ったほうがいい。自然にできる姿勢の限界は、とっくに超えていた。
次の瞬間、まるで何者かによって抱えあげられるかのように、その身体は折り畳まれたままふわりと宙に浮き上がった。
「がァァァ……ごふっ」
口から吐いた血がぼたぼたと畳に落ちる。
星麗南は悲鳴を上げる。
あまりの光景に、亜瑚は身動き取れず、ただただ震えることしかできなかった。
とにかく星麗南が見ないように胸に抱き、身を寄せ合いながら目をつぶった。
やがてその耳に、恐ろしい断末魔が聞こえてきた。
「あガァァァァ!!取ってぇぇぇぇこれ取ってヨォおぉぉぉぉねぇあ、亜瑚、せれ、な……か、ずは、る……た、す……」
……ばきっ、ばきっ、ぼきん、
枝より太い、木の幹が折れるような、耳をつんざく音、次いで、水溜まりの上に魚を叩きつけたような、びちびちという湿った音。
目を開けると、その音の正体がわかった。
人体が折れた音だ。
後ろに仰け反った麻友の身体は、丁度腸のあたりで真っ二つに折れて、ちぎれていた。
両腕も肩の付け根からねじ切られている。
魚のようだったのは、黒々とした血の池に、肉片が散らばって落ちた音だった。
鬼だ。
こんなことができるのは鬼しかありえない。
鬼が麻友を殺した。亜瑚はまさにその一部始終を目の当たりにしてしまったのだ。
「いやああああああああぁぁぁ!!」
亜瑚は自分でも聞いたことのないほど声を張り上げ、絶叫した。
「おい、どうした!?」
一春も騒ぎにやっと目を覚ましたらしい。だが駆けつけるというにはあまりに遅すぎた。部屋の明かりをつけてあきらかになったのは地獄だった。
亜瑚はまた悲鳴を上げて、座ったまま足で後ずさる。
一春は、目の前の光景を理解できずに数秒のあいだ、硬直していた。
「え……?」
四つのばらばらの肉塊が、それぞれ人体の一部だということは遅れて認識された。
上半身は仰向けで、マネキンのような白い身体に、麻友の頭部がついていて、目が飛び出したままの恐ろしい形相で、虚空を睨みつけて、こと切れていた。
「……ああ……ごめんなさい」
ただ震えてがちがちと歯を鳴らし、頭を垂れて懇願することしかできなかった。泣き叫ぶ星麗南を胸に抱えながら自分も、恐怖と絶望と自責とがないまぜになった涙を流した。
「すみません……すみませんでした……私は……私は……! あの言い伝えがそんなに、ひとに話したらいけないものだとは思わなかったんです……! 知らなかったんです……! ……お願いします……お願いだから……怒りを鎮めて下さい……」
姿の見えない『鬼』の存在を、その祟りの脅威を、亜瑚はこのときはっきりと認めたのだった。
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