1-1 望まぬ帰郷

「おつかれ、あーこ」

 お昼どきの学生食堂。

 唐揚げ定食をテーブルに置いた前野まえの亜瑚あこは顔を上げた。

 声をかけてきたのは、同じゼミの風花ふうかだった。すでに空になった食器とトレーを返却して、笑顔で両手を振っている。

「おお。おつー。ふうちゃんこれから面接?」

 風花は品の良いナチュラルメイクに長い髪をポニーテールにまとめ、きっちりとリクルートスーツを着こなしていた。大学四年生。学部生の進路は、大学院への進学と一般企業への就職とに大きくわかれている。亜瑚と風花は後者だ。五月末ともなれば、もう内定をもらっている人もちらほら出てきているけれど、ふたりともどちらかというと出足が遅いほうだった。

「ううん、今日は説明会。あーこは?」

「私は午後からレッスン、そのあとバイト」

「養成所か。大変だね。講義も出て、バイトもやって、就活も……って」

 自分のスケジュールを話すと毎回だいたいこの反応をされる。

 ナレーターになるのが亜瑚の夢だ。資格は必要ないし、特別なレッスンは必須ではない。ただ、実践的なカリキュラムが学べるのはもちろん、現役で活躍する講師とのパイプができるなど人脈的な意味でもなにかと有利にはたらく場合があると聞いて、亜瑚は自主的に養成所に通っているのだった。

「いうて週一だし。それにまあ、自分の夢のためっすから」

 軽く笑って返す亜瑚を見て、風花はため息を漏らした。

「えらいなぁ。明確な夢もやりたいこともないあたしとは大違いだ」

「なんでよ、ふうちゃんみたいな子、どこの企業からも引く手数多でしょ」

 これはお世辞ではない。風花は絵に描いたような良い子だ。入学以降単位をひとつも落とさず成績優秀で、人形劇サークルの活動にも積極的で、なによりその明るく人当たりの良い性格は、多くの人に好かれている。自分が人事担当ならまっさきに採用したい人物だと亜瑚は思っている。

「いやぁ全然。やっぱやりたいことないとイマイチ気持ちが入らないんだわ」

「人形劇は?」

「人形劇では食っていけないじゃん」

 こともなげに風花は笑う。現実的だなぁ。小さなころからの夢をずっと追いかける亜瑚は、内心複雑な思いを抱く。

「でもさ、就活ひと段落したらみんなで遊ぼうね。ほんと。夏休みディズニー行こ」

 仲間内で旅行の計画を立ててくれるのもいつも彼女だ。

「うん。それは絶対行こ」

 うなずく亜瑚はもっぱら同意と便乗係。でも気持ちだけは本気である。

「もうそれしか生きる楽しみないもん」

「いやなんかしら楽しみあるだけ幸せっしょ」

「あはは、そうだね。あ、食べるの邪魔しちゃってごめん」

「ううん」

「じゃあまた明日の講義で」

「はーい」

 何気ない会話を終え、手を振り交わす。

 風花が席を離れたのを見送って、亜瑚がいよいよ箸を持ち上げたその瞬間。


 テーブルの上に置いていたスマホの画面がぱっと明るくなり、振動した。

 こちらからかけることはあっても、着信なんて滅多にない。就活関連の連絡かと身構えながら、頭では「いま面接何社残ってるっけ?」と即座に数える。我ながら小心者だと思う。

 しかし画面に表示されている相手の名前は、兄の前野まえの一春かずはるだった。


「はいもしもーし」


 唐揚げの直前で邪魔が入ったので、不機嫌な声を隠さずに応答する。


「もしもし亜瑚、久しぶり」


 実家には二年ほど帰っていない。


「元気か?」


 長いこと聞いてなかった兄の声は、相変わらず穏やかなテノールだったが、すこし沈んでいた。


 こうして昼間に電話をかけてくるなんて、あったんじゃないだろうか。

 もしも両親の健康になにかあれば、同居している兄から知らされるのが自然だ。亜瑚は心配になって、


「うん、どうしたの?」


 うながすように尋ねてみた。

 あきらかに言いにくそうなためを作り、それから一段と暗い声で、一春はぼそりとつぶやいた。


「知景ちゃんが亡くなった」


「え……?」


 とくん、と心臓が跳ねた。

 ちかげ。ちぃちゃん。舘座鬼知景。

 なくなった。しんだ……っていう意味?

 唐突すぎて、理解が追いつかない。

 スマホを手にしたまま、硬直してしまった。

 にわかに心臓の音がうるさくなっていく。

 黙っていると、


「舘座鬼知景ちゃん。覚えてるだろ?」


 一春が少し苛立ったように繰り返すのが聞こえた。


「そりゃあ」


 覚えてるどころの話ではない。

 小さい頃は、あんなに、姉妹のように、いつも一緒だったのだから。


「嘘」


「嘘じゃない」


「……なんで?」


「俺も詳しくは聞いてないけど、事故……らしい」


 兄の答えは歯切れが悪かったが、そのぶん真実味を帯びていた。


 そんな……。


 食堂の喧騒が遠くなり、じぃんと頭の奥で耳鳴りがする。


「――あーもしもし?」


 一春の声が、やけに遠くに感じた。亜瑚の衝撃度合いを感じ取ったらしく、その声色は、慰めるように柔らかくなっていた。


「うん、ごめん、聞いてる」


「明日が通夜で、明後日葬式。葬式だけでも、来ないか? おまえらむかし仲良かったし」


「うん、……行く。すぐ行く」


 一にも二にもなくうなずくしかなかった。

 ほかにうまく言葉が出て来ず、そのまま通話を切ってしまった。

 それからは夢を見ているような曖昧な意志のなかで残りの時間を過ごした。

 朝からそれだけを楽しみにしていたはずの唐揚げ定食も、石膏を噛み砕いているように味気なく、午後からの養成所でのレッスンも、バイトもまったく身が入らなかった。


 知景が死んだなんて……。


 高校進学を機に村を出て以降、知景と連絡を取る頻度は年々減っていた。特に大学に入ってからは会っていない。

 それでも知景は仲の良い友達の筆頭だった。生まれ故郷に彼女がいることは、亜瑚にとって、心の支えのようなものだった。

 たしかに風が吹けば飛びそうな儚げな少女ではあったけれど。

 なにもほんとうに飛んでいかなくても……。

 心の中でそう言えば、心の中に、舌を出していたずらっぽく笑い返してくる知景の姿がある。ちゃんとそこにいる。


 ……だめだ、受け入れられない。


 さらに亜瑚がショックを受けたのには、もうひとつ理由があった。


 *


 故郷の紀日きのひ村は、日帰りではとても行けない距離にある。

 朝十時に家を出て、約七時間。

 東京から新幹線で行けるのは京都まで。そこから先が気の遠くなるほど長いのだ。京都から隣の市まで何度も電車を乗り継いで、最後はこの世の果てへ行くのかと思うほど長時間バスに揺られ、いつも車酔いに耐え忍ぶことになる。これが帰省を避ける理由になるほど嫌いな旅路だった。なのにこんなきっかけで二年ぶりにこの道を通ることになるなんて。

 夕方、通夜の直前になんとか村に到着する計算だった。

 バス停から家までは一春が車で迎えに来てくれた。

「間に合って、よかったな」

「うん」

 両親は去年、東京に観光を兼ねて遊びに来たから会っているが、兄とはほんとうに久しぶりに会う。とはいえ、会話は特にない。

「……知景、事故って?」

 重苦しい沈黙にたまりかねて、亜瑚は尋ねた。一春は、


「滑落事故やて。ちぃちゃんの裏、ちょっと崖あるやろ。そこから落ちて、打ちどころ悪くて、でも詳しくはまだ、俺もなんもわからん」


 と沈んだ声で答えたきり、黙り込んでしまった。


「そんな……」


 やりきれない思いに駆られた。

 あんないい子が、どうしてそんな不慮の事故で。

 知景は足腰が弱かったんだ。

 だれかが守ってあげられたんじゃないのか。

 私には――もちろん無理だ。

 だからこそよけいに、悔やまれた。


 これ以上問い詰めても兄もつらいだけだろう。

 酔いもあったのでぼんやりと車窓を眺めるに徹することにした。

 京都に着いたあたりから雲行きがあやしくなり、いまはじっとりとした雨が降っている。

 村を出た七年前からなにも変わらない山道の景色だ。

 車より狸とすれ違う確率のほうがまだ高い、そんな峠道。一春は慣れたハンドルさばきで運転しているが、道幅は狭く、昼間でも鬱蒼とした木々に囲まれて暗く、カーブばかりのこの道を走るのは、地元民でも嫌がるほどだ。

 特にこんな雨の日は。

 ワイパーの断続的な音を聞きながら、亜瑚は実家の瓦屋根が見えるまでずっと、二日前についたコメントのことを考えていた。


【Tちゃん死んじゃったよ。A子のせいで】


 亜瑚が知景の訃報にショックを受けた、もうひとつの理由というのがこれだった。

 これは完全に趣味としてなのだが、亜瑚は動画サイトに怪談の朗読を投稿していた。四年前からやっているが、閲覧数はそんなに伸びない。ただ毎回見つけてくれるひとはいるし、チャンネル登録数も百ちょっとある。半分身内感覚ではあるけれど、それぐらいが心地良くてまったりと続けているのだった。

 そこへ突然、最近になって書き込まれた不謹慎コメント。誰が書き込んだのか知らないが、タチの悪いイタズラだ。

 イタズラだと思ったからこそ、気にしていなかったけれど。

 いまとなっては、まるで知景の死を予言しているかのようで、偶然にしても気味が悪かった。

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