空への願い
様々な色の空が壁にきれいにかけられている。
今日は、私の個展の初日だ。私は、空の絵のみを描く画家として注目され、これまで何度か個展を開けるくらいの画家だ。一応、絵で生活を成り立たせることはできている。
私は、空が好きだ。なぜかと聞かれれば、一目ぼれしたからとしか言いようがない。
私は、まだ10歳にもならない頃、たまたま近所の絵画教室の先生に絵を教えてもらっていた。そこは上品な老婦人が一人で教えている教室だった。
そのころ、私は、家に帰っても母の恋人に暴力を振るわれるし、母とその恋人が一緒にいるときは理由をつけて追い出される。家に帰ることがとても億劫だった。
そんな環境で、わたしはふらふらとよく近所を歩き回っていた。
その様子を見ている近所の人たちは口では可哀そうだと同情しながらも関わりたくないと遠巻きにみているだけだった。私もそんな人たちと関わりたくないとよく一人でいた。
その日も、私は一人で公園で時間をつぶしていた。
「僕、ひとりかい?お母さんは、いないのかい?」
一人でいる私に、知らないおじさんがニヤニヤしながら声をかけてきた。
直感で、危ない人だと感じ、私が一人じゃないですと早口で答え、どうにか逃げようとするとパシッと腕をつかまれてしまった。
「ひっ」
思わず声が出ると、おじさんは嬉しそうな顔をしながらこちらに顔を近づけてきた。私は無我夢中で暴れ、一瞬おじさんの力が緩んだ瞬間に全速力で走りだした。
おじさんが追いかけてきていないということは分かっていたがそれでも恐怖からか足は止まらずしばらく走り続けた。
どれくらい走り続けたかわからなくなったころ、疲れのせいか足がもつれて転んでしまった。あまりの痛みに顔をゆがめ膝を抑えていると、ふと優しい声がきこえたのだ。
「あらあら、坊や?こけてしまったの?」
ふと顔を上げると上品な老婦人がいた。老婦人は大きなお屋敷の庭から柵ごしにこちらをみている。
泣きそうな顔で老婦人を見上げる。
「ちょっと待っててちょうだい。そちらにいきますからね。」
そう言ってしばらくたつと、老婦人と救急箱を持ったお姉さんがやってきた。
「あらあら、大変なケガだわ。薫子、どうしましょ。」
「もうお母さま、落ち着いて。とりあえず傷を洗って手当しなきゃ。」
おろおろする老婦人を一緒に来たお姉さんがなだめる。
お姉さんは、手際よく持ってきたペットボトルの水で私の傷を洗う。
「いたっ」
「ごめんね、ちょっとがまんしてね。」
「うん……。」
あまりに優しい声に思わず返事をしてしまう。
(こんなに優しく話しかけられたのは、はじめてかもしれない。)
初めての経験にほわほわと心が温かくなる。
絆創膏を張ってもらい、痛々しかった傷は隠れた。
「ずいぶんひどい傷だったけど、歩けるかしら。」
「うん、大丈夫です。」
そう言って立ち上がろうとしたが、痛みで力が抜ける。
あわててお姉さんと老婦人が支えてくれた。
「やっぱりすぐに歩いて帰るには無理があるようね。」
「そうね……。坊やがよければ、おばさんの家でお茶にしない?」
考え込んだお姉さんが突然そんなことをいうものだから驚いて老婦人の方を見ると、名案だとでもいうように顔を輝かせていた。
それが桜子さんと薫子さんとの出会いだった。
それから桜子さんに勧められて絵を描いてみたところ才能があったらしく、桜子さんの家に通いながら絵を教えてもらっていた。
家に帰りたくなかった私は学校帰りに毎日のように桜子さんと薫子さんの家に通った。
その家で過ごす暖かく穏やかな時間が本当に好きだったのだ。
ある日、薫子さんと二人でお茶をしているとき、ふと空を見上げ嬉しそうにほほ笑んだ。
「薫子さんは空が好きなのですか?」
私が思わず聞くと、それはもう嬉しそうに、そうなの、と答えてくれた。
そのあまりにきれいな笑顔に子供ながらに見とれてしまった。
それ以来私は薫子さんに喜んでもらおうと空の絵ばかりを描いていた。
私が空の絵を見せると薫子さんも桜子さんも二人とも嬉しそうに、上手だわと喜んで飾ってくれた。そのあと、空が好きなのは薫子さんではなく桜子さんなのだと聞いたが、それでも薫子さんも私が空を描くと喜んでくれたので、書き続けた。
そんな幸せな日々が3年程続いたある日、突然事態は急変した。
桜子さんが体調を崩してしまい、間もなく帰らぬ人となってしまったのだ。私も一人になってしまった薫子さんのそばにいたかったのだが、何の因果かちょうどそのころ、実の父が私の現状に気づき母と引き離そうと迎えに来てしまった。父には感謝しているが、そのせいで薫子さんとはそれきりになってしまった。
それから父の元で何不自由ない生活を送らせてもらった。父の新しい奥さんもその間に生まれていた腹違いの妹もすごくかわいくて、穏やかな日々だった。
それでも、ふとあの絵画を習っていた日々を思い出しては、空の絵を描き続けた。父がそんな私をみて、絵が好きだと思ったのか、有名な絵画教室へ通わせてくれて、とんとん拍子に美大に進み、学生の時から注目をあつめ、ある程度の画家になれたのだ。
そんな順調な人生を歩む私には、一つ心残りがあった。薫子さんだ。
私は、あれから何年もたち、そのうちに薫子さんのことは美しい思い出として記憶の奥底に埋もれるのだとばかり考えていたが、そうではなかった。ただの憧れだと思っていた感情は、そんなにきれいな感情ではなく、あきらかな恋情だった。それに気づいたのは、人並みに異性と交際を何回か重ねた学生時代に付き合っていた恋人に言われた一言だった。
「あなたは、いつも空の絵を描くとき、私には見せない顔をするわ。それに、私を見ているようで、私の向こう側に別の人を見ているでしょう。」
そう言われてはっとした。よく見れば彼女は、薫子さんに雰囲気がよく似ていた。なんて不誠実なことをしていたのか。自分を恥じ、彼女には誠意をこめ謝罪し、それいらい恋人はつくっていない。
それから、個展を開くたびに薫子さんへ招待状を送ろうと何度も試みたが、そのたびにしり込みしてしまっていた。
個展では、大きな絵からはがきサイズの小さなものまで展示しており、はがきサイズのものに関しては、そこまで値段もはらないため学生など様々な立場の人々が購入してくれた。
私の絵を気に入ってくれている人がたくさん個展に来てくれた。だが、薫子さんにはどうしても招待状が出せない。
そして、何回もチャンスを逃し続けてやっと今回の個展で薫子さんに招待状を送ることができた。
薫子さんとは何十年ぶりかの再会だ。私自身結婚していれば孫がいてもおかしくない年齢だ。私より10以上年上の薫子さんが元気でいてくれることを願いながら、私は招待状をポストに投函した。この招待状が白紙のまま帰ってくることがないように、なんども空を見上げお願いをした。
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