空より
貝柱 帆立
空より
「あら、飛行機雲だわ。」
縁側で日向ぼっこしながらふと空を見上げると、一筋のきれいな飛行機雲がかかっていた。
私にとって、飛行機雲は思い入れがあるものだった。いや、私がというよりも母にとって思い入れがあるといった方が正しい。
遡ること数十年、まだ私が高校に通う女子だったころ。
「お母さま、また空を見られているんですか?お体が冷えてしまいますよ。」
体弱かった私の母は、世話をしてくれているお手伝いさんの目を盗んでは、バルコニーで空を見上げている。そんな母の体を心配して、私は学校から帰るとバルコニーを確認しに行くことが日課になっていた。
例にもれず、今日も母は雲が浮かぶ天気の良い空を見上げていた。
「あら、薫子おかえりなさい。」
「もう……、ただいま帰りましたお母さま。ほら、それよりお体が冷えますよ。お部屋に入りましょう。奈津さんに怒られますよ。」
奈津というのは、お手伝いだが今はちょうど夕飯の準備で忙しいため母のそばを離れているようだ。奈津さんは、怒るととても怖い……怖いのだ。
「薫子、今日はもう少し許してちょうだい。」
私は、すでに母を部屋に連れて行こうと差し出していた手の形のまま思わず固まった。
いつもであれば、私が部屋に戻ろうというと、そうね、とすんなり入ってくれるのだが、今日は動く気配がなかった。
「どうされたんですか?」
「今日は、飛行機雲が出ているのよ。」
「飛行機雲?」
私も母と同じように空を見上げると少し日が傾き始めた青空に一筋の飛行機雲がかかっていた。切れることなくつながる美しい飛行機雲だ。
「飛行機雲がお好きなんですか?」
「ええ、好きなの。出ているとうれしいのよ。」
母は、嬉しそうに笑いながら飛行機雲を眺めている。
「お母さまが飛行機雲がお好きなんて初めて知りました。もしかして、いままでも飛行機雲を見るために空を見上げていたんですか?」
「そうなの。そうね、薫子には話していなかったわね。」
母は、決心したようにフッと息を吐くと、私の方を見上げた。
「薫子、今からあなたのお父様のお話をするわね。椅子を持ってらっしゃい。」
“お父様”という単語に思わず、グッと喉の奥が狭まった気がした。私の父は、私が母のおなかに宿っているときに亡くなっているのだ。私はあったことがない。兄は会ったことがあるらしいが、兄も幼すぎた故に記憶はないようだ。なぜ亡くなったのかということは、母も教えてくれず、なんとなく聞きづらかったためわからず仕舞いだったのだ。
私は、椅子を母の横に並べて座り、母を見つめる。
母も静かに私の方を見つめている。
「薫子、あなたのお父様はあなたがおなかに宿っているときに亡くなったことは知っているわよね。」
私は、ゆっくりとうなずく。
「そう、お父様……、いえ、和明さんはね。戦死されたの。」
私は思わず息をのんでしまった。薄々勘づいてはいたのだ。時代から考えてもおかしい話ではなかった。母の世代の男性は、多くが戦場に駆り出されていたと聞いていた。当然戦死者もめずらしくはなかった。私が物心ついた頃も、まだ戦争の影響は生々しく残っていた。
「和明さんはね、飛行機乗りだったのよ。それも飛び切り優秀な。」
母は、空に浮かぶ飛行機雲を眺めながら語り始める。
父と母は、見合い結婚だったそうだ。だが、二人とも初めて会ったときに互いに一目ぼれをしてしまい、とんとん拍子に結婚、その数か月後には兄の和利を妊娠した。それはそれは幸せな毎日が過ぎ、ついに母は兄の和利を出産した。父は、出産の知らせに仕事場から息を切らして駆け付け、生まれたばかりの兄をガラス細工に触れるようにそっと抱き上げ、なんども母にありがとうと呟きながら泣いていたそうだ。いつも寡黙で厳格な父の涙に母は大層驚いたと語る。
しかし、兄が生まれてから間もなく、父はしばらく家を空けることとなった。父は軍に所属していたため、長くは家にいられなかったのだ。戦争真っ只中の不安定な世の中では、幸せで穏やかな時間も長くは続かなかった。幸い母は、裕福な家の出だったため、実家に身を寄せ父の帰りを待っていた。そして、いくつか季節が変わったころ父が母のもとに帰ってきた。1週間ほど父は、母と兄とともに穏やかに暮らしたそうだ。あまりに穏やかな日々に母は幸せを感じつつも違和感を覚えた。そして、ついにある日の夕食の席で父から残酷な未来が宣言された。私は特攻隊に参加することにした、と。
母は、父がどうなるのかも、もう二度と会えない現実もすぐに理解してしまった。
しかし、泣くことは許されない。お国のためになるのだと喜ばなければならないと母は必死に泣くことを我慢したそうだ。
次の日、父はまだ夜が明けきらないうちに家をでた。
それが最後の父の姿だったそうだ。母は、最後まで「おめでとうございます。」などいうことはできなかった。言いたくなかったのだ。
「和明さんが出立してから1か月くらいにあなたがおなかにいることが分かったの。」
母は、静かに私の頭を撫でる。
「あなたは、私が寂しくて悲しまないように和明さんが私のところに届けてくださった宝物なのよ。」
母にそういわれて、少しむずがゆさを感じて、思わず私は身をよじる。
母は、おかしそうに笑って話を続ける。
「それから、しばらくして戦争がおわってから、今のあなたくらいの年の兵隊さんが我が家にやってきたのよ。その人が和明さんから私にって預かったと、手紙を持ってきてくれたの。」
母は、ゆっくりと立ち上がり部屋のなかのデスクの鍵付きの引き出しから一つの封筒を取り出す。
「ほら、これが手紙よ。」
渡された手紙を読んでいると、兄の成長を一緒に見守ることができないことと残して逝ってしまうことへの謝罪が書いてあった。
「そのお手紙への返信を書いて、和明さんのもとに届くように燃やしたの。その煙が昇っていく様を見上げたら、一筋のきれいな飛行機雲かかっていたの。その時、わたしには、それが和明さんからの返事のように思えたのよ。」
それ以来、手紙を燃やして送ったら飛行機雲を探すようになったの、と母は少し嬉しそうに見上げていた。
そういえば、母が外に出て空を眺めるようになる前には決まって何かを庭で燃やしていた。
そうか、母は、父からの返事を届けてくれる飛行機雲を待っていたのだ。
あれから数十年、私は孫をもつおばあちゃんになった。
「ずいぶん昔のことを思い出したわね。」
すっかり最近は思い出すことがなくなっていた記憶を思い出し、少しうれしく思っていると、ピンポーンと玄関のチャイムがなる。
「あら、だれかしら。」
出てみるといつも手紙や新聞を届けてくれる郵便配達員のお兄さんがいた。
「あ、お元気そうでなによりです。今日の郵便のおとどけです。」
「いつもありがとう。」
この郵便配達のお兄さんは、一人暮らしの老人の家には毎日様子を確認するために手渡しで郵便を渡してくれる。田舎だからできることだろう。
届いた手紙を見ていると、一つ懐かしいものが入っていた。
「あら、正樹君からだわ。」
正樹とは、母が開いていた絵画教室の最後の生徒である。空ばかりを描く子だった。
その正樹から、個展を今度開くことになったから来ないかとの招待状が入っていた。
「久しぶりにお出かけでもしようかしら。」
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