てのひらの宇宙
軒下ツバメ
てのひらの宇宙
小学四年生、夏。林間合宿。
僕はその日初めて星が綺麗だということを知った。
昔から偏屈なお子様だった。同級生の速度に合わせることが僕は苦手だった。
そんな、僕が、合宿を楽しめるわけなかった。息が詰まって、気乗りしない同級生との集団行動に疲れて、逃げ出すように夜こっそり外に逃げ出した。
合宿所のペンションから少し歩くと湖があって、そこには散歩コースの休憩用に使われているベンチがあった。
丸一日居心地悪い思いをした身体は疲れきっていて、身を投げ出すように僕はベンチに横たわった――その時だ。
僕は僕の知らない夜空を見た。
一面の、星空。
瞬間、星と自分だけが世界の全てになったようだった。
星はちかちかと瞬いて、まるで何かを語りかけているようだった。
知りたいと思った。
あれが、何なのか。
残したいと思った。
幾度でも見たいくらいに、綺麗だったから。
ポケットから携帯を取り出し夜空に向けた。ボタンを押して夜空を切り取る。
けれど世界を切り取ったはずの画面にはただ真っ黒な空が広がっているだけだった。
僕はそれが悔しくて忘れないように夜空を目に焼き付けた。
後から、人の目ほどに高性能なカメラは存在しないのだと知った。
もう一度見る機会があったとしてもあの美しさは残せないのだと知って、ひどく落ち込んだ。
けれどもう一度僕の人生に転機は訪れる。
中学一年生、秋。母に連れられ訪れた美術館。
絵に興味はなかった。暇なら付き合ってと母に連れてこられただけだった。
特に感慨もわかずに、教科書だかテレビだかで見かけただろう有名な絵をぼんやりと眺めながら、母の後ろを億劫そうについて回っていた。
流し見るようにしながら、今日の夕飯が何かとかどうでもいいことを考えていた。それなのに、良さも楽しさも理解出来ないままに次の絵に目を向けた時だ。
「星降る夜」そう命題された絵に心を強く惹き付けられた。それはあの日、見上げた夜空に抱いた感情にとても似たものだった。
天啓のように気づかされた。
僕は何故今の今まで気づきもしなかったのだろう。写真で残せないのなら自分の手で描けばいいのだ。
写真では残せない僕の見た世界を、絵なら残せるんだ。
鉛筆が紙を滑る音だけが室内を満たす。窓から入る光は赤く色づいていて今日の終わりを表していた。
あと三十分もしない内に日は落ちるだろう。キリもいいしそろそろ帰ろうと真っ黒に汚れた手を洗うために立ち上がると、美術室の扉が勢いよく開けられた。
「部活だけ来ても出席にはカウントされないぞ」
扉を開けたジャージ姿の男子生徒はそう言ってずかずかと美術室に入ってきたが、こいつは美術部員でもなんでもない部外者だ。
「また来たのか晋平」
「息抜き息抜き」
そう嘯きながら、先程まで僕が描き込んでいたスケッチブックを晋平はパラパラ捲る。
ジャージ姿ということはこいつも部活中のはずなのに。
「一年のくせにサボって先輩から目をつけられてもしらないからな」
「そこら辺はうまいことやってるから平気だよ。不器用な真クンと違ってコミュニケーション強者ですから」
「言ってろ」
晋平との会話を放り出し水道で手を洗い流す。ポケットからハンカチを取り出し手を拭いていると、先程とは雰囲気を変えて晋平が話し出した。
「俺のことはいいんだよ。そっちこそ授業サボりまくって留年したいのかよ」
「留年しないように授業も出てるよ。さすがにね」
ふうん。と疑わしげに晋平が僕を見る。本当に何日以上出席しなくてはならないのか計算はしているのだ。
「真はいい加減友達出来たか?」
「お前は僕の保護者か」
「心配してんだよお。自分からは話しかけられない繊細な真クンのことをさあ」
余計なお世話だ。
「どうするんだよ行事の諸々これから山盛待ち構えてるのに。二年になったら修学旅行だってあるんだぞ」
「なんとかなるよ」
「なんとかならなさそうだから心配してるんだよ、どうせなら楽しい思い出が残る方がいいじゃん」
「……同級生は、賑やかすぎて苦手だ」
彼らを見ているとテンポが違うなといつも思う。本当に僕と彼らは同じ国に住む同じ民族性を持つ人間なのだろうかと疑う。同じ言語を使っているはずなのに僕は同級生と上手く会話が出来ない。
「真はさ、最初から諦めすぎなんだよ。集団じゃなく個人として向き合えば友達になれるやつだっているって」
「例えば、晋平みたいに?」
「そう! 俺みたいに!」
晋平は僕が苦手とする同級生の筆頭のような奴なのだが、僕の唯一の友達だ。そして幼馴染でもある。
「考えてみるよ。前向きに検討する」
「そう言って検討するだけで終わるんだろ。知ってるよ前にも同じ会話したからな」
深いため息をつかれた。友達がいなくても別段困ったことはないのに晋平はいつでも僕に友達を作らせようとする。
「天文部だか化学部だとかもあったはずだろ? 趣味が同じなら仲良く出来るやつがいるかもしれないじゃん」
「僕は美術部だよ」
美術部は正式な活動日が週に一日だけの幽霊部員の吹き溜まりのような部だ。それだって僕以外には二、三人くらいしかまともに活動していない。しかもそれぞれ美術室では一言も喋らずに手を動かしているので、交友を深めることもないのだ。
「じゃあ美術部で友達を作れよお……」
「友達を作るために部活してるわけじゃないから難しいね」
友達がいなくても部活は出来る。
僕は絵が描きたいから美術部に在籍しているのであって、友達を作るために部活をしているわけではないのだ。
「頑固」
「頑固上等」
無理して作ったところでそれはきっと友達とは呼べないだろうに晋平はいつまでも諦めない。
「はあああああ俺は心配ですよ。……っつうか俺めちゃめちゃ良い奴こんなお前を心配する俺めちゃめちゃ良い奴。報われるべき、そうだ報われるべきだから今度何か奢れ」
「頼んでもないことでどうして僕が奢らなきゃいけないんだ」
晋平が良い奴なのはその通りだが、僕が奢らなきゃいけない理由にはならない。
「理屈人間め! はいはいお望み通り俺はさっさと部活に戻りますよ」
やっと退出する気になったらしい。スケッチブックを机に置き晋平は美術室から出ようとした。
「なあ、真」
そのまま立ち去るかと思ったのに、扉に手をかけながら彼は僕に問いかける。
「おじさんと、最近どうだ?」
晋平は、良い奴だ。
「どうもこうも変わらないよ。僕も、父さんも」
「……そっか。じゃあ、またな」
「うん。真面目に部活やれよ」
「はは。そっちこそもう留年しないように授業に出ろよ」
夕暮れに響く晋平の足跡を聞きながら、僕は僕のスケッチブックを手に取った。
晋平は良い奴だ。たったそれだけを聞くためにわざわざ部活を抜け出してここまで来たらしい。
僕は父親と折り合いが悪い。それは中学生の頃から高校生になった今まで続いている。
父は、仕事人間だ。
彼の人生にとって必要なのは、社会的に必要なことだけだ。
ニュース番組は必要だけどバラエティーやドラマは不必要。新聞や新書は必要だけど小説は不必要。そんな感じだ。
だから僕の描く絵も父にとって不必要なものらしい。
中学一年生のあの日から僕は絵を描くようになった。
最初は下手でとても見れたものじゃなかった。
描きたいものの欠片も表現出来なかった。けれど母に頼んで絵画教室に通って、毎日毎日手を動かしているうちに少しはまともなものを描けるようになっていった。
そうして、自分の中でも満足のいくものが出来た日。僕は初めて父親に自分の描いた絵を見せた。
「遊びも程々にしろ」と、そう言われた。僕の描いた絵への父からの感想はそれだけだった。
僕はそれからずっと考えている。
受験の前に絵画教室は辞めさせられた。教養としてならもう充分でそれ以上やる意味はないのだそうだ。
父が望む高校に進学したけれど、幼稚な仕返しとして僕は高校一年生をもう一度している。留年が決まった日から父親とは一言も話していない。
父は僕のすることなすこと無意味だと言う。
勉強は意味あることだけど、芸術はやっても意味がないらしい。
無意味とは悪なのだろうか。もしかしたら父にとっては悪なのかもしれない。僕じゃない世界中の誰かにとっては、無意味とは悪で生産性がなく非合理で生きている価値すらないのかもしれない。
でも、だったら、どうしてゴッホをピカソをモネを沢山の偉大な画家を――描きたいと、願う心を世界は生んだんだ。
無意味だと否定され続けるくらいなら、いっそのこと綺麗だとか残したいとか描きたいとか、思う心なんていらなかった。
意味あることとはなんだろう。僕はずっと考えている。
父親にとって意味があるものを僕は理解が出来ない。
働いて、お金を稼ぐことだけが意味のあることなのだと僕は思えない。
僕はマイノリティなのだろうか。
世界には父親のような考えの人ばかりなのだろうか。
もしそうなら僕はひどく淋しい。
そうだ、そうだ、僕は――。
分かち合いたくて夜空を切り取ろうとしたんだ。
初めて星を綺麗だと思った日。あんまり綺麗だったからお父さんやお母さんにも見せてあげたくて写真を撮った。
初めて理想の空に近いものを描けた時、知ってほしくて見せに行った。
結果は最悪で、あの時の僕の気持ちは誰にも届かなかった。それは悲しいことだったけど、もう自分から誰かに絵を見せに行くことが僕は出来なくなってしまったけれど、その気持ちを意味がないだなんて思いたくない。例え無意味だとしても切り捨てたくない。
星に夢を見た人がいるから、星座があって神話があって宇宙飛行士がいて天文学者がいるのなら。
この気持ちが届く人は世界のどこかに必ずいるはずなんだ。
星に、宇宙に、心を奪われた人はいる。綺麗だと震える心を知っている人がいる。その人達のおかげで僕は行ったことのない宇宙がどうなっているのかを知れたんだ。
だから僕は絵を描こう。
世界のどこかにきっといる星が綺麗だと泣いた君に仲間がいるのだと知ってもらうために。
僕の手から生まれた宇宙を見つけてくれる誰かとなら僕は友達になれるだろう。晋平が心配しなくても、僕はいつか出会うのだと知っているのだ。
地球上のどこかに君はいるはずだから。
僕がここにいるように。
てのひらの宇宙 軒下ツバメ @nokishitatsubame
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