チャプター1 ひょんなこと(酒)①
目覚めはいつも具合が悪い。
ここ数ヶ月ずっとだ。起床後にまず行うことは瓶の残量確認、次にシャワーを浴び、最中に排尿。体を清潔にしたらヒルドイドで保湿して、髪を乾かし、制服を着、唇を光らせ、ローファーを履いて学校へ向かう。これがわたし、
朦朧、朦朧、気がついたら学校に到着していた。変わらずの重体だが、胃は幾分か落ち着いており、頭痛と倦怠感を払うため鎮痛剤を飲んだ。わたしは気休めとプラセボを信奉する女、教室へと身体を引きずった。
座席に着くと、数少ない友人である
「おはよー……って、うわー! 顔パンパンだよナタリちゃん!」
「うん、おはよ……」
「くさい、お酒くさいよナタリちゃん」
「ごめん……」
「あのあと、何時まで飲んでたの?」
「おぼえてない……」
「っていうか、ほんとにくさいよナタリちゃん! 今しがたゲぇしたっしょぜったい! うがいしてきた方がいいよ。女子高生にあるまじきとんでもない口臭だよ。というか人として許されざるものがあるよ、おえおえ」
「んんん(ごめん)」
と、閉口で謝罪をし、水場に向かい、ぐちゅぐちゅぺをしたよ。お顔もあらったよ。
わたしが、もどったら、ほにかちゃんは、ゆったよ。
「えらいねー、ナタリちゃん。きちんとお口のおそーじ出来てえらいねー」
「ほに……、もっとほめて……」
「あんまり甘やかすと良くないから、これくらいにしとくね」
「××××」
「あー、きたない言葉はだめでしょ!」
そんなくだらぬやり取りをしていると鐘が鳴り、ホームルーム、授業が始まっていく。重体のわたしは快復のため午前中のすべてを生贄に捧げなければならない。よって、腕を組みじっと目をつむった。
十五歳、高校一年の連休明け、五月で、桜は散っており、わたしは酒だった。
***
「復活! 折川ナタリ、復活! 一◯◯◯回目の地獄小旅行から今、生還! あぁ、世界とはこんなにも彩りに満ちているのね。わたしのことはこれからホェニックス折川と呼んでくれて結構よ」
「ほぇにっくす折川さん」ほに花は箸を一旦置いて、「もうすこし小さい声にしよ? みんな見てるよ……」
昼休み、食堂だった。午前中と引き換えにハツラツを手に入れたわたしはチャーハンとラーメン、唐揚げを胃に収め、本調子を取り戻したのである。その報知義務を果たすべく、高らかに宣言したところだった。
「誰も求めてない、ハタめいわくな義務感だよ!」
と、わたしに付き合って食堂で手持ちの弁当を摂ってくれている、ほに花。
「なんにせよ、えらくタフな午前だったわ」
「……ナタリちゃん、ねてただけじゃん」
「寝てたにしても教室、着座姿勢で乗り切ったこのわたしよ。常人なら横になりたい欲求に屈して、保健室へ駆け込んでいたことでしょう」
「机の上に足をのっけて寝るのは着座とは言わないとおもうよ」
昨晩はほに花と通話越し互いに酒を飲んでいた。しかし美容のため、十時には床に着く彼女を見送ってからは一人、退屈な、八十年代のアメリカ映画を見ながらやっていた。ブロンドのヒロインがぎこちないカラテをワンカットだけ披露する類いの、汚い言葉を使うと、××な映画だった。
「それはわざわざナタリちゃんがビデオ屋さんで……、えーっと、なんだっけ? ぶいあいおー?」
「VHS」脱毛行きたい。
「その昔のビデオで、聞いたことないタイトルのヘンな映画ばっか借りるからでしょ」
「クソなだけで……、こほん。失礼。××なだけでヘンではないのよ。単純につまらなくDVD化もされていないからこの先消えゆくだけの憐れなゴミクズ映画ってだけ」
「もっとやさしい言葉つかおう?」
「××××な映画」
「もー」
酒が抜けるか、酒が入った状態でほに花と過ごす時間だけがわたしの安寧だ。
ほに花とは中学三年生からの付き合いである。社交的で気が周り、何かと察しが着く賢しい彼女は友達が多い上、器量もよいから自然、モテる。身長は同年代の平均くらい、少し茶がかったショートボブがふわっと浮いた美少女で、そのような彼女がわたしと懇意にしてくれているのは……、
嫌なことを考えそうになった。酒が飲みたい。口内によだれが走り、追って身体が欲す。ブレザー、内ポケットのスキットルに手が伸びかけたが、ほに花がペットのポメラニアンの去勢について悩んでいるという話題を出してきたので、こらえ、しばし歓談を続けた。
十分後。
「う~ん、わかった。やっぱり、スンちゃんの去勢は必要だよね。ありがとね、ナタリちゃん」
「肝要なのは去勢したことに対して、ほに花がしっかりと負い目を感じて生きていくことだと思うのよ。変に理由つけて自分を納得させるんじゃなくてさ」
と、いかにも女子高生らしい話題に決着がついたところで昼休みも終わり際、食堂の生徒もまばらだった。
「そろそろ教室戻ろうか?」とわたしが切り出し、
「そだねー」と、ほに花が席を立った、そのときである。
「あー!
食堂中に、威勢のよい声が通った。
目をやると、やや気の強そうなツインテールの女生徒が、テーブルを囲む三人組の男子に寄っていた。そして一人に言う。
「圭人、昨日貸した地図帳、持ったままでしょ! 次の授業で使うから返してよね」
圭人と言われた男子生徒は応じて、
「あー、わりぃわりぃ。机に入れっぱなしだわ。このあとすぐ返す」
「そ、頼むわね。……ところであんた、いたずら描きなんてしてないでしょうね?」
「俺もガキじゃあるめぃ。むしろ後学のためスケベニンゲン市にマーカーしとていやったくらいだ。感謝しろよ」
「ばか!」
と、男女は食後にも関わらず噴飯もののやり取りを始めた。食堂に残る数人たちの視線は皆一様、二人に注がれている。
わたしはほに花に問うた。
「なに、あれ。新手のフラッシュモブ?」
「あー、
なんだと?
「幼稚園からずうっと一緒で、家も近いんだってさー。だから登下校とか、休み時間とか、二人でいるのけっこう見かけるよ。沙衣子ちゃんは『腐れ縁』っていってたけどね」
二人は掛け合いを続けている。
「まったくもう……。あ、そうだ。圭人、あんた今日、放課後ひま? どうせひまよね」
「おいおい失礼な女だな? ……暇だわ」
「ちょっと買い物あるから札駅、付き合ってよ」
「お前、友達いないのか?」
「いるわよ! 今日はみんな部活とか委員会で都合がつかなかっただけ。あんたは最終防衛線」
「たいそうな肩書だけど、a.k.a.第三希望、すべり止めじゃねえか」
「ある種の信頼感の証とも言えるわ」
「光栄なことだよ」
そんなやり取りの後、友人共々連れ立って教室へと引き上げていった。
一部始終を目撃したわたしには、言い知れぬ感情が渦巻いていた。何なのだあの二人は、あの掛け合いは、あの関係性は! わたしの人生には起き得ぬ超現実を、彼女らは
「うーん、せんぼー? じゃないかな?」教室、カバンから地理の教科書類を取り出しながら、ほに花は言った。「あとは、どうけい? とか?」
「もうちょいキラキラ分は抑えめね」
「じゃあ、うらみつらみ、ねたみ、そねみ、ひがみ」
「そこまで黒くないわ」
「やっかみ?」
「落としどころね」
「あー! あいつ別なところにもラクガキを! なんでイロマンゴ島に二重線して訂正印まで押してるのよ! あのばか!」
と、草野沙衣子の黄色い声。
わたしはボソっと、
「はーん。楽しそうなことで……」
「ありゃりゃ、ひがみになっちゃった」と呆れ気味のほに花は、続けていたずらっぽく、小声で言う。「沙衣子ちゃんと櫻山くんがうらやましいなら、ナタリちゃんも
「かもかもかものマガモも呆れてネギ持って帰るわ。そんなのむりむりむりのトヨタ・カムリ」
「なにそれ」
「即興」出来は悪い。「大体、幼なじみに大切なのは積み重ねという不可逆さなのよ。つまりどうしようもなし。この無力感とほのかな悔恨こそが、ひがみの根なんだからね。……あーあ、なんで境遇こそ似れど実情はこうも違うのかな、こうなると、なんか篠木くんすら恨めしく感じるわ……」これでは完全に逆恨みである。
「ナタリちゃん、今日は感情がいそがしいね……」
そう言ってほに花は前に向き直った。
篠木秋とは家が隣同士な上、幼稚園、小中学校、そしてこの度は高校までお揃いとなった。とはいえ親しくしたことは一度もない。今までも数度、同じクラスになったことはあったが、生息域の違いというか、行動様式の開きというか、とにかく様々な差から、多少、物理的距離が縮まったところで、親密することはなかった。
一同級生として彼を一言で評すると、「冴える」だ。篠木秋は冴える男子だ。まず見た目が冴える。少し目つきは悪いがぱっちりとした二重まぶたで、通った鼻筋、一方でどこか童顔めいており、耳に掛かる柔らかそうな髪がそう思わせるのかもしれない。いい男と言って差し支えないだろう。彼と話す女子の調子を見ていると、好意を持つ者の数は少なからぬと推察される。率先して人を引き連れるタイプではないが、昔から運動部の生徒や不良っぽい生徒と親しげに話しているところをよく見かけたので、友達は多そうだった。それは高校でも変わらず、このクラスでも、運動部や遊びが好きそうな男子たちとよくつるんでおり、陽気な女子連中とも気安く喋り、他のクラスの生徒とも仲よさげにしている。ほに花くらいしか友達がいないわたしとは大違いである。
篠木秋は右前方、わたしが桂馬なら背後に付ける位置に座っていた。右隣の女子と、やや気怠そうに、しかし無下にはせず、何やら話し込んでいる。わたしは気に当てられたか、その女子の姿を自分にすげ替えて想像してしまう。過去のどこかで何らか転機があれば、彼と、それこそ先程の幼なじみの二人のような関係があったかもしれない。それは妄想、痛い妄想だ。「おれに必要なのはきっかけだ」これはトラヴィス・ビックルの言葉だが、肝心なのはきっかけに対して行動することだ。何もしてこなかったわたしには、過去の積み重ねを捻じ曲げた現在を妄想することしか出来ぬ。
教員がやって来、まもなく授業は始まる。しかし負感情優位となったわたしはどうにも落ち着かない。自意識が所定位置に治まらずブレ続ける。位置をはみ出すたび爪先で急所を撫でられるような超不快、焦燥と苛立ち、不信、不安、勘ぐりが発動する。心身ともに酒を欲し、気が付けば細かく脚をゆすっている。渦巻く雑念どもを打ち消したい。なぜ飲酒出来ないのだ? いや出来るのだ。口内は被覆が完了し酒の受け入れ体制は整っている、酒が飲みたい。わたしは内ポケットのウイスキーを口に含み、胃に落とした。続けて二、三、口へ運ぶ。腹が熱を持ち、次第、呼吸が落ち着いていく。引き続ける、嚥下、平安。
スキットルには200ミリしか入らない。手元の重量と波音はみるみる減少するが飲酒欲は留まらない。負感情も増加傾向にある。抑え込めるだけの心力はわたしにはない、酒もない、どうにもならない現実から剥落したい、ひらひら舞って、ほに花の座席の下に滑り込み、ひんやりとした床の心地よさを受けきったところで拾われ、ほに花の懐に納まり暖まりたい。わたしは非ベンゾ系の眠剤とアルコールの複合競技で現実をスキップした。
下校巡回の教員に起こされたのは夜の七時だった。脳に成分がこびりついているようでボぅっとしていた。頭の中、当該箇所がイタいようなカユいような感じがした。
目覚めはいつも具合が悪い。
わたしは自動人形みたいな下校をした。
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