ビジネス幼なじみ!

革命ゼニャ

プロローグ

 幼なじみ、という言葉が内包するスペクタクルに人々は情動を揺さぶられる。その唯一の関係性、舞台装置(非凡で・不可侵的で・耽美な)は、本邦ではとりわけコミック的フィクションにおいて多用され、定型を得た(家が隣同士とか、朝起こしに来るとか、そのまま同伴で登校するとか、只者にその様を茶化されるとか、よせば良いのにそれに対してムキになるとか、そのクセ満更でもないとか、どころか弁当まで作ってあげてるとか。どこで見たのか判然としないが、どこかでは見たことのある無数のシーケンスだ)。


 わたしは定型や雛形を好ましく思うタチの人間で、これは恐らく多数派だろう。 事象が共通認識のもとで進行する心地よさ、或いはそれを逆手に取られる快感、定型の中にありながら遺憾なく作家性が発揮される手腕への脱帽。わたしはいわゆる「お約束」が大好きだった。虚構の幼なじみたちの手垢に塗れたやり取りに一喜一憂した。


 幼なじみ同士ふとしたとき相手に「男」または「女」を見る瞬間に嬉々とした。

 幼なじみヒロインが落ち物ヒロインに嫉妬する様には頬が緩んだ。

 ついぞ恋人になり得なかった幼なじみヒロインの心情に涙した。

 楽観と自己研鑽不足の結果チャラ男に幼なじみを寝取られた主人公に心を同期し動悸が収まらなくなった。

 その直後には両片思い幼なじみケンカップルの「以上未満」的な甘いやり取りを見、平静を取り戻した。

 

 その度に思った。わたしにも、こんな幼なじみが欲しい。


 ところで、わたしには幼なじみがいる。


 しかも異性で、同級生で、家は隣同士だ。


 だが、それだけだ。


 それ以上は何もない。出会ってから十年以上、何もない。十年とはわたしの人生の約三分の一であり、今のところは長い時間に思えるが、何もない。一般的に「何もない」と言ってもそれは当人の興味の範疇においてであり、何かはある。わたしと彼の間にも何かはあった。


 例えば挨拶くらいはしたことがある。また、小学生の時分、それぞれの友人グループ同士が偶然かち合って一緒に遊んだこともきっとあった(と思う)。たまたま下校が重なり、家に着く直前、三分くらい一緒に歩いたこともある(これは一見大きな出来事に見えるが、シチュエーション以上に語るべきドラマはない)。


 ほら、何もないでしょ?


 要は、わたしと彼には虚構の幼なじみが行うようなイベントはおろか、おおよそまともな交流すら乏しいのである。もはや二人の関係を幼なじみと称することもおこがましい。正しくは、「幼稚園から高校までずっと一緒なんだよね、しかも家は隣同士でさー。でも、全然絡みはないっていう笑」である。幼なじみというものに憧れた結果、勢いあまって幼なじみと称してしまっている痛い女がいるだけだ。


 ところが、だ。


 ひょんなことから、この「幼高一緒的隣人尚交流皆無笑」の男子、篠木秋しのきしゅうとわたしは、自他ともに認める幼なじみとして、学校生活を送ることになる。


 他、に対しては世間一般が想像する、理想の幼なじみ同士として。


 自、当事者たる二人にとっては「ビジネス幼なじみ」として──。

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