オレンジとココア

鴉橋フミ

雨の中で。

 曇り空の昼下がり。大学へ向かう途中。

 線路沿いの歩道で学生証を落としたのは、狼の子どもみたいな女の子だった。

 分厚いハイカットシューズに包まれた細い足が、必死に背伸びをしているように見えたのだ。

 制服の上に羽織ったメタルバンドのパーカーと、これ見よがしに押しつぶされたぺしゃんこの通学カバン。いまどき、珍しいほどの不良スタイルは、まるで誰彼構わず威嚇しながら歩いているみたいだった。


「はぁ……」


 ドッと気が重くなる。だが、無視はできない。


「……あの」


 声をかけると、振り向いた茶髪がふわりとなびいて、耳元に小さなピアスが覗く。

 僕の小さな心臓がさらに縮こまるのを感じた。


「こ、これ、落としたよ……」


 上手く声が出せず、ひきつったような言い方をしてしまった。


「っ……」


 彼女は俺を見るなり、切れ長の大きな目をめいっぱい細め、ひったくるように学生証を受け取って会釈もなしに去ってしまった。

 少女が角を曲がって視界から消えた瞬間、俺は深く息を吐き出して膝に手をついた。


「ふぅー……こ、怖かった……」


 緊張のあまり、呼吸が止まっていたらしい。大きく響く心音を落ち着かせる。


「あの制服……」


 セーラー服の襟と学生証にあしらわれていた翼をモチーフにした校章には見覚えがある。

 なにせ、たった数ヶ月前まで俺もそのエンブレムがあしらわれた学ランを着ていたのだ。卒業したばかりなのにもう懐かしさを覚えているのは不思議なものだ。


「そうか……まだいるんだな、ああいう子」


 俺の世代にも不良はいた。それも、矜持や気合といったものが何もない、ひたすらにタチの悪いタイプだった。


「痛っ……」


 右のこめかみが針で刺したように疼いた。

 俺は、その同級生のせいで頭に八針縫う大怪我を負わされた。傷跡は目元にまで及びあわや失明という傷に対して謝罪の言葉はなかった。

 口が裂けても良いとは言えない思い出に目の奥を曇らせながら、小さな狼の後ろ姿を思い起こす。


(……あの子も、誰かを傷つけるのかな)


 後輩かもしれない不良少女に、一抹の心配が混ざった邪推の視線を向けた。

 別に、どうするつもりもない。痩せた野良犬の行く末を憐れむようなもので、この無遠慮な決めつけの悪意は五分もすれば忘れてしまう冷たい衝動だ。

 ただ、あの学校には妹が今年から通い始めたばかりなのだ。


「椎奈、ああいう子と関わってなければいいけど……」

 理不尽に傷つけられることがなければいいと、切に願うばかりだ。




 夜は予報以上の大雨が降っていた。

 一人暮らしの静かな部屋には、大粒の雨が窓を叩く音だけが聞こえる。

 普段なら適当に作った料理を食べ終えている頃なのだが、今日は心配の種があった。

「遅いな……」

 スマホを開き、妹の履歴を見る。


【5時ぐらいに行くー】

【夕飯は?】

【カレー!!!!!】


 そして30分ほど前に送った未読のメッセージ。


【椎奈、遅いけど何かあった?】

【おーい】


 現在時刻は7時。遅くなるぐらいなら心配しないが、この大雨の中、既読も付かず返信もないのは気がかりだった。

 過保護だとは思う。高校生になり、自由に遊びたいという気持ちも重々承知だ。けれど、予定の変更ぐらいは知らせてほしい。

 もう一度呼びかけてみようかとウザがられない文面を考えていると、一気に既読がついた。


【もう着く! 友達連れてってもいいー?】


 少し驚くも、俺はそれを快諾した。こんな雨の中、にべもなく帰すわけにもいかないだろう。

 進学を機に一人暮らしを始めた俺の家は妹の通学路の道中にある。放課後や部活終わりに入り浸ることはあっても、友達を連れてくるのは初めてのことだ。幸い、晩ごはんもカレーだから友達の分もある。少しぐらいはもてなせるはずだ。

 少しして、ダンダンとドアを強く叩く音がした。


「あおいー! あーけーてー!」

「はいはい」


 鍵を開けると濡れ鼠になった椎奈がズカズカと玄関に入ってきて、バケツに漬けたような状態のスニーカーと靴下を脱ぎ散らかした。


「うひー! すんごい雨だね。気象庁の大嘘つき!」

「タオル持ってくるから玄関で待ってて。……あれ、友達は?」

「あり?」


 間の抜けた声で椎奈が振り返ると、ちょうどドアが自重で閉まるところだった。


「あー!」


 椎奈はドアを開け、マンションの廊下を走って行った。どうやら友達はエレベーター前にいたらしく、遠くから声が響いてくる。


「もー、ウチの兄ちゃんに会うのが恥ずかしいの?」

「ち、が、う! いいからもう構うなよ!」


 噛み付くような声音と乱暴な言葉遣いだが、女の子のようだった。


「ほらほらおいで、竜胆ちゃんの照れ屋さんめー!」

「だァから違ぇって……あ?」


 連れてこられた『友達』はスンと鼻を鳴らし、怪訝そうに眉を吊り上げた。


「テメェ、昼間の……」


 目じりを絞るような鋭い眼光、雨に濡れた茶髪、パーカーに潰れたカバンと、分厚いハイカットシューズ。

 忘れかけていた出来事を一気に想起した。俺が抱いた一方的な悪意も、はっきりと思い出す。


「あり、知り合い?」

「えっと、昼間にちょっとね……」

「わお、すごい偶然。こちら、さっきマイフレンドになった竜胆ちゃんです! ちょっといかつめな見た目だけど、優しい子だよ」


 椎奈は演技で人と仲良くできるほど器用ではない。良くも悪くも素直が過ぎる性格なのはよく知っている。


「こちら、我が兄の碧! めちゃくちゃ人畜無害だよ!」

「わァったからベタベタひっつくな!」


 友達というには一方的すぎる距離感だが、少なくとも俺が懸念するようなことはないとわかる。


(いい子……なのかな)


 もちろん、不良のような見た目だから全員が悪人というのは大きな間違いだ。深く知ろうともしないまま決めつけで推し量るなんて失礼にも程がある。

 そう、理性ではわかっている。それでも感情は易々と疑念を晴らしてはくれない。

 心と現状の折り合いがつけられず、俺は原因たる彼女から目を逸らしてしまった。

 それが、わかったのだろう。


「……やっぱいい。邪魔したな」


 そう言った彼女の目が、少しだけ沈んでいる気がした。


「ちょ、竜胆ちゃん!?」


 背を向けて廊下に出る竜胆さんの手を掴み、椎奈が引き留める。雨はバケツをひっくり返したように勢いを増していた。


「この雨はヤバいよ。風邪ひいちゃうよ!」

「別にいい」

「よくないよ! 家帰れないのにどこ行くの!?」

「待って。帰れないってどういうこと?」


 竜胆さんは椎奈の手を振り払うと、舌打ち混じりに濡れた髪を掻き上げた。


「わかんだろ。家出だよ」

「……いまここにいるって連絡は?」

「してるわけねぇだろ。つーか、どうせ電話したって繋がんねぇし」


 諦観混じりに自嘲して、彼女は続ける。


「母ちゃんも、帰ったらあたしがいなくなっててせいせいしてるだろうな。顔も合わせねぇ娘のために払ってた金が全部小遣いになるんだからよ」


 拗ねたように吐き捨てる声が震えているのは雨のせいではない。それだけは何も知らない俺でも理解できた。


「そんな言い方……絶対に心配してるよ。帰れとは言わないから、せめて友達の家にいるってことぐらいは」

「っせぇよ! 出ていくって言ってんだろ。アンタらに迷惑かけるつもりはねぇし、助けてほしいとも思ってねぇ」


 俺の声を遮ってそう言い切ると、竜胆さんは踵を返す……が。


「待ってってばー!!」


 椎奈が足早に去ろうとする竜胆さんの腰に抱きついた。俺も昔よくやられた低空タックルだ。


「ぐぅっ!? 何しやがんだ離せ!」

「やーだー!」


 引き剥がそうとする竜胆さんと、テコでも離れない椎奈。手が出るのではと心配したが、竜胆さんは腕をはがしたり身をよじるだけで、椎奈を叩こうとはしなかった。


「二人とも、落ち着きなよ。この後どうするかは、とりあえず体を温めてから考えても遅くないでしょ。どうしても外へ行くなら、傘ぐらいは貸すから」

「そうだそうだー!」

「でも……」


 言い淀んだ瞬間、ぐぅぅぅと竜胆さんの腹の虫が豪快に鳴った。


「なっ!? く、クソ、腹なんて減ってねぇからな!」

「いやー、いまのは間違いなく竜胆ちゃんのお腹だね。至近距離の私はごまかせんぞー」


 腰にぺったりと頬を張り付けた椎奈がしたり顔でニヤけると、竜胆さんの顔が真っ赤になった。

 外は雨。既にずぶ濡れ。家へは帰れない。親への連絡も取れない……というか取らない。更に、空腹。

 こんな状態の子がいたら、いくらなんでも見過ごせない。


「……今日はカレーだよ」

「か、かれー……」

「福神漬けもあるよ」

「ふくじんづけ……」


 部屋から漂ってくる芳しい匂いに気付いたのか、竜胆さんはお腹を両手で押さえたまま口を半開きにしていた。放っておけば涎が垂れてきそうだ。

 椎奈に目を向けると、ガッテンとばかりに頷いてわざとらしく立ち上がった。


「うわー竜胆ちゃんの体冷たい! こりゃお風呂だね!」

「あっ、てめッ」

「神妙にお縄につきつつシャワーを浴びるがよいわー!」

「引っ張んな! く、靴下ずぶ濡れで廊下は --」

「関係あるかーい!」


 そのまま椎奈は竜胆さんを引き連れ、お風呂場に駆け込んでいった。俺は脱ぎ散らかされた靴とびしょびしょの足跡が残る廊下を見て、何故だか安堵を覚えていた。

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オレンジとココア 鴉橋フミ @karasuteng125

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