第6話

 長い年月が経った。

 どのくらい経ったのかは定かではないが、カンナから幼さが消え、見目麗しい少女と呼べるくらいに時計の砂は落ちていた。


 上品な拍手と共に、感嘆の声が聞こえてくる。


 十代そこそこの見た目をしているのに、大人の色香という言葉が似合うほどに、魅力あふれる姿へと成長したカンナがそこにいた。


「はは、さすがはビブルの物語だ。毎回聴き入ってしまう程に面白いものばかり聴かせてくれるね」


 幼い頃のキンと響く高い声はすっかり息を潜め、落ち着いた風合いの声が、まっすぐ光を抜けていった。

 仰向けに寝転がっていたカンナは体を起こし、ビブルに向ける。


「いつも嬉しいことを言ってくれるね。そんなに大きくなってもそういうところが昔と変わらないでいてくれるのが僕は心が温かくなるよ」


 カンナはそっとビブルを持ち上げると、胸の前で大事に抱え込んだ。


「あれからかなり時間が経ったな」

「そうだね、君も沢山の言葉を覚えたり、取り込んだりしていたよね」

「言葉を取り込むなんて表現はよしてくれ」

「じゃあ、ずっと気になっていたんだけど、あの目をつぶるやつは何? 他のと何か違うの?」

「……言っても分からないだろう。私の感覚的な話だ」

「教えてくれないのかい?」


 ビブルの言葉に、カンナは眉をひそめながら、渋々と語り出した。


「あれをやると、なんだか外の世界と繋がれる気がするんだ。一瞬だが、外にある何かが掴めそうな気がするんだよ。けれど、すんでのところで毎回すり抜けていく。掴めないんだ。けれど、言葉が私に言うんだよ。自分が外の世界を見せてあげるって。 外の世界から私の中を巡っていくんだ、あの言葉達は」

「巡った言葉はどうなるの?」

「分からない。けれど私の中にはしっかりと息づいている」


 カンナは、訴えかけるようにビブルを強く抱きしめた。


「何があったっけ? 約束、挨拶、正義、結婚、あとー……」

「宗教と絆だ」


 カンナは食い気味に答えた。


「さすが、息づいてるね」

「当たり前だ、私と、外の世界の唯一の繋がりだからな」


 ビブルを丁寧に置くと、カンナは、自らの中にいる言葉達を通じて世界と対話するかのように、微笑みながら瞳を閉じていた。

 優しく微笑むその顔は、囚われの身とは思えぬほどに清らかだった。


「外の世界にどうしても行きたいんだね」

「あぁ、行きたい。そして、ビブルと、私の元に現れる勇者と共に幸せな日々を送りたい」


 結婚をビブルと勇者に誓ってから、カンナは毎日の様にビブルから物語を聴いてはカンナの世界は宇宙のように広がっていき、日に日に外の世界に強く思いを寄せる様になっていた。

 しぼんだ風船が膨らむように、憧れや期待の思いが強まっていくと同時に、ある不安がカンナの心を掠めていた。


「ビブル、君にはやりたいことは無いのか?」

「君のそばにいることが僕のやりたいことさ」


 一瞬の迷いもなく答えを出す。


「それは私の友人として? それとも……」


 視線をゆっくりと落とす。煌びやかな宝石がぽろりと落ちてきそうな視線の先に真っ直ぐビブルを捉えている。


「外にいる悪い人の仲間として?」


「……」


 突然の言葉にビブルは閉口した。

 カンナの口元は先程の微笑みなど微塵も残っていなかった。


「私だって馬鹿じゃない。何かがおかしいことくらい気づく。どうして私が生きていけるのか。それはビブルからの施しがあるからだ。大好きなりんごをビブルがいつもくれたから。それに私を閉じ込めているなら、普通見張りがあるだろう? 何故誰もいないんだ。それはビブル、君が外の悪い人の仲間で、私を見張っているからじゃないのか?」


 古びた表紙は微動だにすることなく、中のページの擦れる音一つとして聞こえない時間が続いた。

 カンナの心臓は、今にも飛び出してしまいそうだった。

 二人でいる時にこんなに静寂に包まれたことがあっただろうか。

 胸の真ん中辺りを冷たい何かが駆け抜ける。


 大好きな唯一の友達に、何故自分は牙を向けているのか分からなかった。しかし、沈黙に乗り、ただ浮かぶように時に身を任せた時、自分の中で見えてくるものがあった。

 思い出した。過去に似たような思いを抱えたことを。

 それは、今になってみれば言語化も容易いごくごく普通の感情であったことにようやく気づいた。


 それは、不安だった。 


 暗闇の中で一人で彷徨っていたあの日の感覚と同じ。ビブルが再びいなくなってしまうのではないかという不安。実はいつまでも、心の中ではひとりぼっちで、ビブルから教わった絆なんてものは最初からなかったのではないかという不安。


 真偽なんて関係なかった。悪い心に唆されて、浮かんできた疑念を、違うと言って笑って一蹴して欲しかったのだ。

 カンナの中で湧いた疑惑を、意にも介さずいつものように笑って物語を聴かせて欲しかったのだ。


 ビブルは、ゆっくりと表紙をパタつかせた。

 カンナの緊張がピークに達する。

 ビブルがゆっくりと口を開いた。


「大丈夫だよ、僕は君の味方さ。いつの時もいつまでも。僕は、悪い人達の仲間じゃない」

「……!」


 カンナは、ゆっくりと仰向けに寝転がり、目を閉じた。


「君は誰だ?」


「僕はビブル。君の友達で、婚約者さ」


 心の中に温かいものが入ってくるのを感じた。

 カンナは、堪えきれずに吹き出した。


「ははは! ビブル、私は本当にいい友達を持った。ありがとう……ありがとうビブル」


 溢れんばかりの光を見ていた瞳は、滲んで前がよく見えなかった。

 カンナの中で、絆が紡がれた瞬間だった。


「なぁ、ビブル。今日はもう一つ話を聴かせてくれないか?無性にビブルの話が聴きたいんだ」


「話したいのは山々なんだけどね、どうやら駄目みたいだ」


 ビブルは、先程とは打って変わって真剣な表情で言った。

 ビブルの言っている意味がわからず首を傾げるカンナを、突如として、大きな揺れが襲った。

 光がガタガタと揺れ、暗闇の境目が一瞬分からなくなるほどに揺れた。

 その揺れはほんの十数秒程で終わり、気がつけばいつもの景色に戻っていた。

 しかし、カンナの心持ちは全くもって穏やかではなかった。


「ビブル! 今のはなんだ! もしかして、悪い人達が私を引っ張り出そうとしているのか?」


「それはきっと違うさ、会えば分かるよきっと」


 ビブルの発言がカンナの頭を余計に混乱させる。


「ついにこの時が……来たんだね」

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