第11話 遠野物語
【二〇一八年四月二十九日】
「どうして、先輩が、私と同じテントで寝ていたんですかっ !?」
翌朝、愛はぷりぷり怒っていた。
「いや、どうしてって・・・・・・それは」
昇ってきた太陽が、愛が寝ていた緑色のテントの中を眩しい光で満たした。
テント内の気温は一気に上昇し、その暑さと眩しさで、愛は目を覚ました。
(・・・・・・? あれ、私、イスに座っていて――)
いつテントに移動したんだっけ?
自分がシュラフで寝ていたことを、すぐには理解できなかった。
シュラフのファスナーを少し開けて左手を出し、腕時計を見た。もう六時半を過ぎている。
そのままファスナーを半分ほど引き下げ、上半身を起こして、右隣のシュラフで寝ていた〝小夜〟に声を掛けた。
「おはようございます・・・・・・」
だが、愛の寝ぼけた目に飛び込んできたのは、アルプスの草原でのびているセントバーナード犬のように、シュラフから片腕をでーんと放り出して転がっている北条の寝姿だった。
「・・・・・・えっ? えーっ!」
テントの外から小夜の爆笑が聞こえてきた。
「愛ちゃん、おはよう。起きた? 北条くんも起こして出ていらっしゃい」
(なにこれ? どういうこと?)
愛は、昨夜の記憶の映像を巻き戻した。
北条が歌っているシーンで、その動画はいったん終わり、次に背中と膝裏にふと蘇る、なんだかやさしい圧力っぽい感触。
(まさか、先輩が私を抱・・・・・・)
北条も暑くなってきたらしい。とうとう両腕をシュラフから出した。北条はTシャツ一枚だった。しかし、起きる気配はない。それどころか寝返りを打って愛に背中を向け、また軽くいびきをかきはじめた。
愛はだんだん腹が立ってきた。
少し考えてから、愛は、恐る恐る北条に右手を近づけ、そして次の瞬間、思い切って背中を「ばんっ!」と平手で叩き、すぐその手を身体ごと引っ込めた。
眠っている犬の鼻面にそーっと近付いて、パンチを繰り出した子猫のように―――。
「あぃでっ!」
飛び起きた北条の目の前に、シュラフの上で正座して、少し肩をすくめて下唇をかんで、真っ赤な顔で自分をにらみつけている愛がいた。
「・・・・・・?」
北条は一瞬きょとんとしたあと、両手で目をゴシゴシして、両肘をそのまま後ろに持っていきながら胸を張り、「んーっ」と伸びをしたあと、次に首を左右に振って軽くストレッチをはじめた。
その一連の動きを、愛はじっと見つめている。
もとの姿勢に戻り、ふぁっと息を吐いたあと、北条は愛の方を向いて、のどかすぎる顔で声をかけた。
「おう」
次の瞬間、北条がテントの中に脱ぎっぱなしにしていたダウンジャケットが、北条の顔めがけて飛んできた。
「?」
空中で、わっと広がり、北条の頭をばさりと覆った。
北条は、状況が理解できていない。ダウンジャケットを被せられたままの北条の頭が、起きてから数十秒の間のことをたどりはじめた。
被せられたダウンジャケットをめくると、逃げるようにテントからはい出て行く愛の後ろ姿があった。
小夜が用意してくれた朝食は、キャンプ用ガスストーブ専用の焼き網で焦がしたトースト、いちごジャム、バター、昨日スーパーのお総菜コーナーで買い込んでおいたサラダ、バナナ、カップスープ、オレンジジュース、パーコレーターで淹れたコーヒーなど。
朝食の席に着いても、愛はふくれたままだった。
北条がバターナイフを使いながら、愛の顔をちらっと見た。愛は、その視線から逃れるように北条に背中を向けて、あむっとトーストをかじった。
小夜はニヤニヤしているばかり。
「ちょっと、小夜さん。元はといえば小夜さんが謀ったことなんですから、なんとか言ってやってくださいよ」
北条が、小夜に助け船を求めた。
「北条くんにお姫様抱っこされた愛ちゃんの寝顔、かわいかったわ」
愛がオレンジジュースを噴いた。
小夜は、わざと表情を消した顔で、しかし、口元の笑いを隠しきれないまま、ゆっくりとスープをかき混ぜている。
シェラカップから立ち上る湯気が朝日にたゆたう。
三人が小野寺一家に別れのあいさつをしていたとき、末娘が、お姉ちゃんもう会えないの? といって小夜に抱きついて泣き出した。
小夜は、末娘の頬をやさしくなでながら、岩手はしょっちゅう来てるから大丈夫よ、きっとまた会おうね、と言って、バンダナで涙を拭いてあげた。
小夜は、小野寺父さんに改めて名刺を差し出し、お母さんとは、もう一度、がっつりと抱き合った。
小夜のランクルが走り出すと、小野寺一家はじめ、多くのキャンパーたちが手を振ってくれた。
キャンプ場を出てすぐ、道が右に大きくカーブしたところ、物見山の左側稜線から、残雪を真白に輝かせた早池峰山が頭を覗かせていた。
空は真っ青。今日もいい天気だ。
車内は、しばらく静かなままだったが、やがて小夜がくすくす笑い出した。
「愛ちゃん、まだ怒ってんの?」
「怒ってなんかいません」
後部座席では、昨日は神妙な顔をしていた北条が、今日はぶっきらぼうな横顔をルームミラーに向けていた。
(小夜さんのいたずらだったんだ・・・・・・)
「ごめんね。イヤだった?」
「イヤ? いえ・・・・・・ゃっていうか」
愛が顔を赤らめてうつむいた。
「小夜さんって、いつも私をからかってばっかり」
拗ねた子どものようなその声が、小夜のみぞおちにヒットした。
(この子って、ホントにあたしのツボだわ。どうしてこんなにおもしろいんだろう)
小夜のお尻に、先端が矢印の形をした幻の黒いシッポが揺れている。
「だいたい、オレと小夜さんが大事な話をしている途中で寝落ちするか、フツー」
北条がからかうように言った。北条も愛の拗ねた声がおかしかったのか、だんだん腹が立ってきたのか。
「先輩にだけは言われたくありません!」
愛が後部座席を振り向いて反撃に出た。
「定例(ミーティング)に出てきても寝てばっかりじゃないですか!」
「大事なところはちゃんと起きてるサ」
「授業中も寝てるんでしょう? 単位落としても知りませんからね!」
「オレは授業料以上に勉強してるぞ」
愛は、照れくささをぶつける相手として、当の北条に照準を定めたらしい。
北条もまた負けていない。のらりくらりと、愛の〝口撃〟を交わしている。
(あらあら、このふたり・・・・・・)
どちらも、ぺらぺらとおしゃべりをするタイプじゃなかったのに、こんなにテンポのいい応酬ができるのね。小夜がちょっと感心した。
「あんなに暑くなってきたテントの中で、二度寝のいびきをかくなんて信じられません」
「あー。まだ痛ぇ、背中」
「棒とかあればよかったのに!」
愛と北条は、お互いの怒った顔を見つめあっている。これまで、お互いがお互いに見せたことのない顔。それが、怒った顔だった。
初めの腹立ちはもう消えている。軽口をピンポンしながら、愛は、昨秋から北条との間に引かれていた薄いカーテンのようなものが消えていくのを感じていた。
「だいたい持ち歩いているのが、なんでいつも手ぬぐいなんですか? 大学生なら普通はハンカチかバンダナでしょう?」
「農協や漁協からもらったヤツが実家に売るほどあるんだよ。今度、お前にもやるよ」
「コーヒーのシミが付いたシャツとか平気で着てるし!」
「お前もいつもデニムばっかりじゃねーか。たまにはスカート履いて女装しろ」
もはやどうでもいい内容に変わっている二人の口げんかは、国道に出てからもしばらく続いた。
合間に、小夜が絶妙なタイミングで茶々を入れて混ぜっ返す。それがまた燃料になった。
赤羽根峠のトンネルを抜けて、遠野盆地に入った。国道の正面に、早池峰山が雄々しい姿を立ち上げている。
長徳寺に着き、小夜は駐車場に車を止めた。
庫裡の玄関前に立った小夜は、小さく咳払いしたあと、
「ごめんくださぁい。突然に恐れ入ります・・・・・・」と、昨日とは打って変わって、やや緊張気味の声で、インターホンにあいさつした。
「はい」という返事があり、奥から、作務衣姿の住職らしい人が出てきた。
六十代半ばほど。丸っこい体に柔和な顔を据え置いた好々爺といった風情の、どこかタヌキっぽい印象を与える人だった。
「はいはい。・・・・・・あー。これはこれは。どうやら遠くからのお客様のようですナ。拙僧、当寺の住職で
合掌しながら訪問者たちに会釈するタヌキ。三人も慌てて会釈と合掌を返した。
――ふと、住職が愛の顔を見て、おやっ? という表情をした。
「?」
愛は、その目に少し戸惑ったが、もう一度、丁寧にお辞儀を返した。
「突然、訪ねてまいりまして申し訳ございません。こちらに中屋敷さんという方のお墓はありませんか?」
小夜が住職に尋ねた。
(えっ? いきなりそこ?)
北条がちょっと驚いて小夜の顔を見た。
「中屋敷さんという檀家信徒さんは数軒おられますが、どちらの中屋敷さんでしょうか?」
「えーと、中屋敷
「皆さんも、その方のご親類で?」
「あっ、いえ、そうではないのですが」
小夜は、愛がスマホからプリントアウトしてくれた写真を示しながら、
「実は、この写真に写っている絵の場所を探しているんです。この絵の作者が中屋敷哲さんという方で、戦争時、特攻隊で亡くなった方なのですが」と尋ねた。
住職が、写真の絵を覗き込んだ。
「ふむ――?」。
写真をじっと見たあと、住職がにっこりと微笑んだ。
「なにかご事情がおありのようですナ。・・・・・・まあ、立ち話もナンですから、ささ、どうぞ中へ。よろしければ、ゆっくりお話しを聞かせてくださいナ」
住職が、三人を庫裡の中へ誘った。
まあまあ、さあさあ、いやいや、どうぞどうぞ、と、住職は、にこにこしながら十二畳ほどの広間へ案内した。
「いやいやぁ、よい時期に遠野へ来られましたナ」
住職が、どこか楽しそうにお茶を入れてくれた。
「私も、もう六十年以上も、ずっとここで暮らしておりますが、桜、菜の花、タンポポなどが咲く遠野の春は、何度巡ってきても、極楽浄土さながらに心が安らぎます」
住職はゆっくりとした手振りで湯飲みを茶托に載せ、三人に勧めてくれた。
「むさい坊主の手で入れた粗茶ですが、まあ、どうぞ。カミさんは今日、隣町の寺へケンカの手伝いに行ってましてナ」
「はあ?」
「あー。抑揚を間違えました。えー。献花の手伝いに行ってましてナ」
(大丈夫か? この寺)
北条と小夜が心の中で突っ込んだ。
愛がくすっと笑う。
何から言い出せばいいのか分からないほど緊張していた愛の気持ちがほぐれた。
「実は昨日、お昼前にも一度、このお寺を訪ねましたが、ご不在でした」
小夜が住職に言った。
「あー。お墓の北の端っこの方へ行ってました。身寄りなく当寺に埋葬された方にお念仏を上げて、そのあとは、ちょっと隣の家を訪ねて、お茶っコしてました。そのお宅のガンヅキとタクアンが、これまた、とてもおいしくてですナ」
お茶っコとは、ふらり立ち寄った先の家の縁側などで、一緒にお茶をいただきながら、とりとめのない会話を楽しむことを言う。
また、ガンヅキというのは、岩手や宮城でよく作られる蒸しパンのような郷土菓子で、農作業の合間などにおやつとして食べられる。
「午後にもまた伺ったのですが、カギがかかっていました」
小夜の声が少しイライラしている。
「はいはい。えー。お茶っコのあと、すぐ盛岡へまいりました。同級生の孫で、私が名付け親になった野郎っコの結婚披露宴がありましてナ。その孫ってのが大工の見習いをしておるのですが、ちょっとヤンチャなヤツでして。お嫁さんは秋田から来られた方で、いわゆる『できちゃった婚』というのだそうで」
愛と北条が、顔を見合わせた。
愛が、改めて住職に丁寧にお辞儀した。上座の方から、愛、小夜、北条の順番で座っている。
「私、山科愛と申します。こちらはカメラマンの川村小夜さんと、私の大学の先輩で北条哲さんです」。
小夜と北条も愛に倣ってお辞儀した。
「こちらこそ改めまして。当寺の住職で和尚の曄海です」と合掌した。
輝く海という意味です、と訊いていないことまで言った。
「実は私たちは、あることについて知りたく思い、遠野を訪ねてまいりました――」
そう言って話しはじめた愛の声は、これまでに聞いたことがないほど、しっかりしていた。小夜と北条が少し驚いたほどに。
住職は、正座していた膝を少しだけにじらせて、愛と向かい合った。
愛は、落ち着いた口調で、鹿児島から岩手へと至るまでのことがらを整然と、まるで物語を朗読するように話した。
住職は、愛の正面で目を閉じていた。時折「はい」「なるほど」「ほう」「ふむ」と、愛の話しを先導したり後押しするように、短い相づちや間投詞だけをつぶやく。
少しだけ、長い話になっていた。
「お話し、とてもよく分かりました」
愛の話が終わったあと、住職は、丹田のあたりで手を組んだまま、愛の顔をじっと見ながら言った。
「鹿児島県の山科重太郎さん――」
住職の頬に、穏やかな微笑が咲いた。
「ちょっと昔のことですが、当寺にお見えになられましたよ」
「えっ? えーっ?」
三人の声が重なった。
どっこらしょ。
立ち上がった住職は、ちょっとお待ちくださいね、と言って、左奥の部屋からノートを数冊持ち出してきた。
「えーと、確か世紀末近くだったような。あー。私が跡を継いだ年だったかな?」
これじゃないナ。こっちかナ、と言いながら住職はノートをめくった。
「えー。あー。んー。山科重太郎さん・・・・・・っと」
小夜がまたイライラしはじめた。北条は、ちらっと小夜の方を見て、少し身体を離した。
「あっ。あー。ありましたね。んーっと、平成九年、一九九七年ですナ。八月十七日。山科重太郎さん、遠路、鹿児島県より当寺を訪う――」
一九九七年八月。愛が生まれる前年の夏だった。
重太郎は、舞鶴で行われた海軍工機学校の同期会のあと、遠野を訪ねてきたのだという。
「重太郎さんは、こちらに〝中屋敷なる〟さんという方のお墓はありませんか? と訪ねて来られました」
「なる・・・・・・さん?」
愛が、はっと住職を見上げた。そして、「あっ」と小さな声を上げ、すぅっと息を飲み込んだ。
なにかを思い出したような声、息づかい。
北条と小夜が驚いて、愛の横顔を見た。
目を大きく見開いて、軽く合掌するように唇の前で両手を合わせて住職の顔をじっと見ている。
「中屋敷なるさん。中屋敷哲さんの妹さんです」
住職もまた、愛の顔をじっと見た。
庭先でなにかを探して遊んでいた子どもが、目当てのものを見つけて振り向いたとき、そこにいて頭をなでて一緒に喜んでくれる父親ように、
―――見つけましたね。
住職の目が、そう言っていた。
愛の目に、涙が溢れてきた。
「重太郎さんは、ハイヤーを使って、遠野のお寺を一軒ずつ訪ねていらっしゃるとのことでした。私も中屋敷なるさんという方は存じていなかったので、急ぎ過去帳を逆戻ってみました。すると、昭和十六年初冬、中屋敷なるさんという女性が、当山墓地の北の端に埋葬されていたということが分かったのです」
愛は、表情も身体もじっとして動かない。涙が頬をつたいはじめた。
「昨日、みなさんは、愛さんが先ほどお話しされた、絵が描かれた場所の近くへ行かれたとのことですが、どうも東側の方へ進まれたようですナ。墓園の頂上から少し北西の方へまいりますと、そちらにもちょっと開けた場所があり、その奥になるさんが眠っておられます。私は昨日、お昼前にお念仏を唱えていたと申しましたが、それは、なるさんのお墓でした。でも、みなさんとはちょっとすれ違ってしまったようで」
よっこらしょ。
また住職が立ち上がった
「えーと。ちょっと待っていてくださいね。重太郎さんが当寺に預けていかれたお品があります」
住職は、今度は右奥の部屋へ入っていった。
どうして愛は泣き出したのか。その訳がまだ分からないまま、北条が手ぬぐいを、小夜がバンダナを同時に愛に差し出した。愛は、小夜のバンダナを受け取って、顔を埋めた。
小夜が、愛の背中に手を添えながら、ちょっと怒ったような声で北条にささやいた。
「ねえ、なにが起きてんの?」
「いや、なにがなんだか、オレにも」
「それにさ、二十年も前に訪ねてきた人の曾孫が突然、しかも偶然にやって来たってんなら、フツー、住職さんだってびっくりだよね?」
「来客にいちいち驚いていては、寺でのお勤めは果たせません」
住職が、風呂敷に包まれた箱を持って戻って来た。
(聞こえていた)
うんこらしょ。
住職が座り直した。
「これは、ステキなご縁のお話しなのですよ」
と言って、住職は座卓の上で、箱を包んでいた紫色の風呂敷をほどきはじめた。そして箱を開けると、中からパラフィン紙に包まれた額が出て来た。
愛は、その額に見覚えがあった。あの風景画が入れられていたのと同じ、昭和も半ばごろのものかと思われる古い額。
住職がパラフィン紙を左右に開いた。額縁の中に、青年と少女が並んで立っているデッサン画があった。
住職は、手のひらを表にして、絵の中の人物を紹介するように指した。
「重太郎さんは、こちらが中屋敷哲さん、そしてこちらがなるさんだとおっしゃっていました」
絵を覗き込んだ小夜と北条が、同時に声をあげた。
「なるさんって・・・・・・」
「愛ちゃんに」「山科に」
「似てねっ!?」
住職がお茶をすすった。
「いやあ。私もさっき、愛さんのお顔を拝見したときは、口から心臓が飛び出るかと思いましたよ」
(この坊主・・・・・・)
小夜が住職をにらんだ
「重太郎さんは、哲さんが出撃される前夜、この肖像画と故郷の春を描いた風景画を〝預かってほしい〟と言われたのだそうです。そして、当寺を訪ねて来られた重太郎さんは、ここがなるさんの眠っている寺ならば、この肖像画を納めたいと申し出られたのでした」
「わざわざ遠野まで・・・・・・」。北条がつぶやいた。
「重太郎さんは、お身体の具合があまりよくなく、舞鶴での同期会も、もう今回が最後になるかも分からない。それで鹿児島よりかは、いくらかでも北に近付いたこの折に、思い切って岩手にやって来たのだとおっしゃっていました。・・・・・・まあ、鹿児島県の方が、そうそう何度も来られる場所ではありませんからナ」
「じゃあ風景画の方は? どうしてこの絵だけ?」。小夜が尋ねた。
「二枚とも、ご自身のそばからなくなってしまうことは、さすがに寂しいと思われたのでしょうナ。重太郎さんはあの日、おふたりが描かれたこの絵と一緒に、ハーモニカも持って来られました」
「ハーモニカ? ・・・・・・あっ!」
北条と小夜が顔を見合せた。
「そして『このハーモニカをなるさんのお墓へ埋めてください』とおっしゃいました。哲さんが『形見だ』と言って重太郎さんに差し上げたものだったそうです」
北条と小夜は、愛から聞かされた串木野の永留家でのお年寄りたちの回想のなかに、青年のハーモニカに合わせて重太郎が歌っていたという逸話があったことを思い出した。
「哲さんも重太郎さんも『椰子の実』という曲がお好きで、よく一緒に演奏して歌ったそうです」
愛の目に、また涙が溢れてきた。
「ハーモニカは、重太郎さんにとって、哲さんと自分を繋いでいた大切なお品です。きっと絵以上に思い入れがおありだったはずです。もともとは、哲さんがお父さんに買っていただいたものだそうで、哲さんとお父さんを繋いでいたものでもあります。
また、なるさんは盛岡の養家で、従姉妹に辛く当たられて泣き出すこともあったとか。そんなとき、哲さんは、ハーモニカを吹いて、なるさんをなぐさめたのだそうです。なるさんにとって、やさしいお兄さんと自分を繋ぐ音。心安らぐ〝おまじない〟をかけてくれた音色なのです」
北条も泣きそうになり、さっき一度しまった手ぬぐいをポケットから取り出した。
「なるさんの御霊をいちばんなぐさめてあげられるのは、きっと、そのハーモニカだったのでしょう。重太郎さんは『――よかった。やっとなるさんに、お兄さんのハーモニカを聞かせてあげられる』と言って、泣いておられました」
小夜が、北条の手ぬぐいを奪って泣き出した。
「哲さんのお骨が遠野に帰って来られることはありませんでしたが、でも、なるさんを思う哲さんのお心は、重太郎さんが遠野まで、大切に連れて来られたのですよ」
住職がお茶を入れ直した。
「みなさん、落ち着かれましたら、なるさんのお墓へまいりましょう」
袈裟に着替えた住職に案内されて、三人は『中屋敷なる』のお墓を訪ねた。
墓地の最上段から左のヤブに入り、少し行くと、やや北向きに傾斜が下がりはじめる場所があり、雑木の木梢の間からは早池峰山が望まれた。
三人は、昨日は絵の場所でなく、小夜が写真を撮影した場所を、つい探してしまっていたため、本当は左に行くべきだったところを右に進んだのだ。
昨日、たどり着いた場所と同じような林間の空き地。
たおやかに枝と若葉を揺らす一本の柳の木の下に、小さな墓石があった。
小夜が絵の写真を取り出し、風景と重ねる。雑木林の木梢の間から見える早池峰山と前衛峰の姿が写真と重なった。
七十余年前と、変わっていながら変わっていない遠野郷の春の景色が、三人の目の前にあった。
「哲さんは、遠野を離れるとき、なるさんのお墓の前で、その風景画を描かれたのですナ」
住職が、なるが眠っている場所を示しながら言った。
なるの墓石は花崗岩らしい灰白色で、ところどころに黒色や茶色の粗粒が浮かんでいた。基部が長方形に近く、上に向かって丸みを帯び、中程で少し膨らんだあと、そのまま円を描くように輪郭を閉じる。
少し大きめの花かごにシルバーレースをこんもりと飾ったようなそのシルエットに、芽吹きはじめた柳の若葉の淡影が、一枚の大きなサテンのように打ちかけられていた。
北条が、墓石の側面に刻まれた文字に気付いた。
「中屋敷・・・・・・あい?」
「あー。それは、重太郎さんと相談して、重太郎さんがお帰りになったあと、私が石屋さんにお願いして刻んでいただいたのです。過去帳にあった、なるさんのお名前ですよ」
「・・・・・・?」
「なるさんは〝愛〟と書いて〝なる〟とお読みするお名前なのです」
「思い出したんです。私」
北条の隣でずっと黙りこくっていた愛が、小さく叫んだ。
「私が小さいころ、縁側でひいじいちゃんのお膝にのせられていたとき、ひいじいちゃんが『あいはかわいかね』って言ってくれたのに、私は『あいってだあれ? あたしはなるだよ』って答えたんです」
愛の記憶の中に、遠い日の情景が蘇った。
ゆるゆると流れていた南風が止んだ。
「私に愛という名前をつけてくれたのもひいじいちゃんです。私は、山科家にとって待望の女の子だったそうです。私が生まれたことを、ひいじいちゃんはとても喜んでくれて、私をずっとかわいがってくれて・・・・・・。私も、いつもひいじいちゃんにくっついてばかりいたそうです」
愛は、なるの墓前に膝をついて両手を合わせた。
「幼すぎたころのことです。私は、あまり多くのことを思い出せない――。でも、私は自分の名前もまだ覚えきれていないうちに、なるさんというそのお名前を知っていたのかもしれません」
北条も片膝をついて、愛の隣に並んでしゃがんだ。愛の肩が、そっと北条にもたれた。
「昨日、私がここに来たとき、ひいじいちゃんのお膝の上にいた縁側の思い出が急に浮かんできたんです。そして同時に『気付いて――』っていう声が、自分の胸の中から聞こえました」
北条が息を呑んだ。
「その声で、私も〝そうだ、私は気付いていない〟って思った。でも、それが、自分でも分からなかったし、今の声はなにっ? 誰っ? って考える間もなく、縁側の映像がどんどん大きくなっていって、混乱してしまったんです」
愛の話しを聞きながら、今度は小夜と北条が混乱していた。
(えっ? ちょっと待って。愛ちゃんって、なるさんなの? なるさんは重太郎さんの曾孫になったの?)
(重太郎さんが、さとさんの〝思い〟を遠野に連れて帰ってきてくれたから? なるさんは重太郎さんのそばに生まれ変わった?)
(待望していた女の子の曾孫になって、晩年の重太郎さんのそばに寄り添っていたってこと?)
(ということは、今度は山科が、なるさんを遠野に連れて帰って来た? いや、なるさんが山科を連れて来た? っていうか、ここは、なるさんが眠っている場所だから・・・・・・えーと?)
(なるさんは、今〝ふるさと〟へ帰ってきた?)
(いや、しかし、そんな・・・・・・)
「遠野にはこんな言い伝えがあります」
柳の枝を見上げながら住職が言った。
「柳や枝垂れ桜といった、枝が垂れる種類の木がお墓に自然に生えたとき、そのお墓の主は、どこかに生れ変ったのだ、と――」
北条も小夜も声が出ない。
「『遠野物語捨遺』にも、二四五話として掲載されている逸話です」
愛は、柳の木をじっと見つめて、心の中で答え合わせをしていた。
そして、静かにつぶやきはじめた。
その小さな声に、北条と小夜が左右から耳を近づけた。
愛は、鹿児島から岩手へやってくるまでの自分の時間を、曾祖父が中屋敷哲と出会った七十余年前までの時間を、ゆっくりと逆戻った。
心の中に散らばったままになっていたいくつもの思いや言葉のピースを、短い詩を紡ぎ出すように、一節ずつ、静かに声にしていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ずっと探し続けてきた風景。
きっと見つけたかった この場所。
でも それが答えじゃなかった。
なぜ 私はここに来たかったんだろう?
どうして こんなに この場所を 思い続けて来たんだろう?
気持ちはいつも 言葉を追い越して行った。
理由を言葉にできなくて ずっと道に迷っていた。
思いはいつも 私の身体を置き去りにして 先に行ってしまう。
遠くから 誰かが私を呼んでいるような感覚があった。
浮かんでは消える 不確かな映像。
手を伸ばす前に逃げて行く流れ星のように。
私は それでも 追いかけなければいけないと感じていた。
人はいつか姿を隠してしまう。
でも その人のことを思う心の中に その人は生き続けるの?
ううん。それだけじゃない。
その人への追慕だけじゃなく
消えてしまったその人も、ずっと自分のことを思い続けてくれているんだって
〝自分自身が そう信じること〟で、
お互いの〝思い〟は どんなに離れていても きっと繋がることができる。
ひいじいちゃん。
今もずっと 私のことを 大事に思っていてくれてるんだね。
ありがとう。
だから あの絵を見つけたことは きっと必然だったんだ。
この場所に来ることは 私が自分で選んだんだよ。
私も ひいじいちゃんを追いかけてきました。
私が ここにたどり着いたこと 喜んでくれてるよね。
なるさん。
ひいじいちゃんが さとさんの〝思い〟を遠野に連れてきたように、
私は なるさんの〝思い〟を いつかここに
さとさんのもとに お返ししなければいけなかった。
だから ずっと探していたのだと思います。
なるさん。
ひいじいちゃんのそばにいてくださったのですね。
ひいじいちゃんは なるさんに会えて とても嬉しかったと思います。
きっときっと すごく嬉しかったはずです。
私は 今 なるさんの 〝やさしい思い〟を さとさんにお返しします。
さとしさん・・・・・・さとさん。
もう なるさんのおそばに帰ってきていらっしゃるのですね。
私が探していたほんとうの答えは 風景でも 場所でもなく 私の中にありました。
――さとさん。
私も今 なるさんに会えました。
さとさん。なるさん。
ずっと 同じときを刻んでいってください。
この透き通った風の中で。
銀河が明るく冴え渡る 遠野の空の下で――。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうぞそのままで、と言いながら、住職は、数珠と鉦を取り出し、三人の横に立って墓石に合掌した。
「なるさんは、長い間、ずっとここでひとりぼっちでした。でも、こうして不思議な縁が繋がることもあります。世界はこんなに広いのに、なるさんは、重太郎さんと愛さんに見つけてもらえたことを、きっと喜んでいらっしゃいますよ。――そして、愛さんも」
「――はい」
「では、みなさん、この場にて合掌いたしたいと思います。故人を思い、合掌。拝礼――」
止んでいた風が、また、雑木林に吹き寄せてきた。
よく澄んだ鉦の音が響くのと同時に、さやさやと、柳の枝が揺れる気配があった。
(柳の木が笑っている)
目を閉じたまま、北条はそう感じていた。
お寺に戻ると、住職は、庫裡の隣に建つ自宅の方へ招じてくれた。
茅葺き屋根の古民家。築二〇〇年以上は経っていそうだった。
玄関をくぐると、足もとに広い三和土のスペースがあり、その先には二十畳以上もありそうな黒々とした板の間があった。その真ん中やや右手には囲炉裏が切られている。
見上げると、屋根に葺かれた茅の裏側まで吹き抜けになっていて、少し曲がったまま大らかに削り出された太い梁が何本も入り組み、それらが囲炉裏の煙に燻されて鈍色に押し黙っている。心が落ち着いてくる、重量感に満ちた空間。
囲炉裏には、もう一段下にも板が張られていて腰掛けられるようになっていて、三人は住職の勧めに従い、炉辺に足を降ろして座った。もうすぐ五月だったが、囲炉裏には小さな炭火が熾され、大きな南部鉄瓶が自在鉤にぶら下がっていた。
さあさあ、これもご縁ですから、と言って、住職は、いつの間にか取り寄せていた仕出し弁当を三人に勧めた。よろしかったらこちらをお使いくださいナ、と、年代物の朱塗りの膳もわざわざ運んできた。
そのあと、住職は、私はあちらでいただいてまいりますので、ごゆっくり、と言って、囲炉裏の下座側にあった黒い板戸の向こうへ消えた。
ちらりと北条に見えたところでは、どうやら台所らしかった。
朱塗りのお膳でお弁当を食べている。
囲炉裏では、鉄瓶が湯気を上げている。
三人は、長徳寺を訪ねて来てからのこの短い時間に起きていることが、なんだか不思議な世界の出来事のように感じられた。
「・・・・・・あたしたちってさ、タヌキにばかされてないよね?」
小夜が台所の方をにらんで言った。
ラジカルな感想だと思いながらも、北条は北条で、
(まさか『迷い家』じゃないよな?)
『遠野物語』にある伝承を思い出していた。
『迷い家(マヨイガ、マヨヒガ)』は、『遠野物語』第六三話、六四話として採録されている山中の幻の家の逸話だ。
遠野ばかりでなく、東北各地や関東地方にも広く伝わる。
『家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりこと。
同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。
座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのやうに見え、
どこか便所などの辺りに人が立ちてあるやうにも思われたり』
深い森に迷った村人が、突然、立派な屋敷の前庭に出た。飼われている家畜も多く、庭も丁寧に手入れされていた。
玄関の戸を開けると、部屋の中に、ちょうどこれから食事がはじまるかのように食膳が用意されていた。陸炉では鉄瓶も湯気を上げている。しかし屋敷内に人の気配はない。
伝承では、その屋敷を訪れたものは、そこにある物品をなにかひとつ持って帰っていいことになっている。持ち帰ることで、その者は富貴を授かることができるのだという。
第六三話では、迷い家に出逢い、怖くなって何も持たずに逃げ出した三浦某の妻が、後日、マヨイガがあった森の方から、川に浮かんで流れてきた椀を拾い、ケセネ(米やヒエなどの穀類)を量る器として使っていたところ、箱の中のケセネはいつまでも減らず、やがて三浦家は豪農として栄えたという話が紹介されている。
しかし、第六四話では、迷い家を見たという青年が、後日、村人を山中に案内したが、結局家を見つけることができず、なにも得られないまま、村人にからかわれながら里へ戻ることになってしまった・・・・・・という失敗談になっている。
食事が終わりかけたころ、住職が台所から急須と湯飲みを運んできた。
炉端に座り、自在鉤から鉄瓶をおろし、お湯をこぽこぽと湯冷ましに入れた。そのお湯をさらに湯飲みに注いでから、もう一度、湯冷ましに戻し、それから急須に茶葉を入れ、湯冷ましから静かにお湯を注いだ。
愛は、ゆったりとして丁寧なその所作を美しいと思った。
人は美しく振る舞うことで自らの名誉を守り、同時に相手の心を和ませる。
「ボコッ」
どこかでなにかが、濁った音で短く鳴った。
三人が音の聞こえてきた方角を見上げると、これまたいつの時代のものやら、古色蒼然たる柱時計が午後一時半を指していた。
住職が、湯飲みにお茶を注ぎながら言った。
「あー。あの柱時計。〝じゅうショック〟と申しましてナ」
小夜がエビフライを噴いた。
(この人流の和ませ方なのかしら?)
鉄瓶の湯で淹れられたお茶は、香りが際だつように爽やかで、味にまろみがあり、とてもおいしかった。
愛は、心が和らいで行くのが分かった。
住職は、お茶請けですといって、ガンヅキとタクアンを三人に勧めてくれた。
そして、炉端に腰掛けてお楽に聞いてくださいと、中屋敷家のこと、なるのことなどを語ってくれた。
しかし三人は、語られたその内容に、正座したまま黙ってしまうしかなかった。
一九九七年八月、重太郎が鹿児島へ帰ったあと、住職は、中屋敷家について少し調べた。
すると、哲が勤めていた材木店で哲の先輩だったという人がまだ存命で、話しを聞くことができ、中屋敷家のことや、なるの葬式の様子を知ったという。
ふたりの両親である中屋敷五七とミヨは、一九三三年(昭和八年)三月二日、子どもふたりを隣家に預け、遠野から笛吹峠を越えて、ミヨの実家がある吉里吉里村へ法事のために帰って行った。
今でこそ県道三十五号として舗装された道が通じているが、幅員は今なお狭く、冬期間には閉鎖される。昭和初期の春まだ浅い笛吹峠の道は、大人でも難路だった。
夜遅く、ふたりは吉里吉里村の実家に着き、軽く夕食を喫し、寝床についた。
ところが翌未明、三月三日午前二時三十分、巨人が空から落ちてきたのかと紛う『ズドン』という重い衝撃が、東北地方の大地を強く激しく揺さぶった。
さらに、それから約三十分後、闇に閉じこめられていた三陸地方の村々を大津波が襲った。
「昭和三陸大地震」と、それに伴い発生した「昭和三陸大津波」だった。
五七もミヨも目を覚ましていたが、真っ暗な中で避難が遅れ、怒濤から逃げ切れず、巨人がひっかく大きな手のような引き波にさらわれ、三月の夜の冷たい海に引きずり込まれて消えてしまった。
後日の集計によると、この津波による犠牲者は岩手県だけで一三一六人、行方不明者は一三九七人にも達した。ふたりの身体は、その後も見つからなかった。
(津波―――)
北条は、中学校一年生のとき、釜石で「東日本大震災」に際会した。
避難を呼びかける防災無線とサイレンが叫び続けていた二〇一一年(平成二十三年)三月十一日の、小雪が風に舞う、暗い午後のことだった。
釜石湾に押し寄せてきた津波を、北条は、兄と妹と一緒に、高台にあった自宅の庭先から見ていた。
港に浮かんでいた大型船さえ、到達した津波にもてあそばれて、まるで玩具のようだった。陸に乗り上げた小型の漁船や車が次々に流されはじめた。やがて家屋も建っていたままの形で押し流されて、違う家屋にぶつかって壊れる。流されていく家のベランダで猫が逃げまどっていた。さっきまで吠えていた犬の声が、途絶えた。
走って逃げる人がいた。大勢いた。孫に手を引かれて走るおばあちゃんがいた。お年寄りを背負っている人もいた。赤ちゃんを抱いて走っているお母さんもいた。すんでところで波から逃れられた人もいたが、逃げ遅れて波間に倒れ、そのまま見えなくなってしまった人もいた。北条自身、隣の地区に住んでいた祖母と伯母と、まだ五歳だった従兄弟を亡くした。
こんな光景、見たくない、見たくなかった。なのに北条は、目を閉じることも、そらすこともできなかった。そばの公園から街を見下ろしていた人たちの悲鳴が怒濤にかき消された。
「あれが、真っ暗な夜中に起きた。あれが――」
両膝の上で握りしめていた北条の拳に涙が落ちた。あとからあとから落ちていった。
住職は、五七とミヨの墓は、遠野にも吉里吉里にもないのですと言った。遠野には、なるの墓だけが作られ、そして丘上の雑木林の中で、長い間、誰からも忘れ去られていた。
なるの葬儀は、兄妹を気の毒に思った材木店のご主人が営んでくれたという。
参列者は、材木店の家族と従業員と、なるが勤めていた旅館の女将、なると仲よしだった従業員たちで、十数名だった。
葬儀は営まれたが、墓石代を出せるほどの余裕は材木店にもなかった。哲が材木店の先輩と一緒に、そばにあった石を埋葬地に運んで、なるの上に置いた。
そして翌年の春、哲は海軍兵学校へ入学するため、遠野をあとにして、二度と帰って来ることはなかった。
やがて戦後になり、時代はめまぐるしく移り変わっていき、なるの墓へお参りする者もいなくなった。
昭和が終わり、平成もふた桁になろうかというとき、重太郎が訪ねてきて、住職も初めて哲となるのことを知った。
肖像画とハーモニカが遠野へ帰って来た翌年の春、鹿児島の山科家に、重太郎にとって二人目の曾孫となる待望の女の子が生まれた。
重太郎は、その曾孫に〝愛〟という字を与え、読み方を〝あい〟とした。
愛が生まれた一九九八年の春、住職は、なるの墓石に「愛」という文字を刻んだ。
そして、そのとき、墓石のそばに、小さな柳の芽が出ていることに気が付いた。
「『愛』という字には、小さな意味と大きな意味があると考えます」。住職が言った
「仏教では『渇愛』などと言って、自己中心的な小さな愛は煩悩であり、煩悩は悟りの障碍(しょうがい)とされ、煩悩があるから苦悩が生まれます。しかしながら、己れの苦悩を知ってこそ、誰かの苦悩を知ることもできるのです」
悟りとは、この世界の生きとし生けるものすべてを大切に思える大きな心に至ることだという。
「小さな愛は、大きな愛に至るための道しるべです。なにかしら見返りを求めるような小さな愛を意識しないで、すべてを包むことができる大きな愛。それを『慈悲』と言います」。
慈悲は、大きく深い愛であり、仏典には「恩愛」や「仁愛」や「和顔愛語」といった言葉もある。また、『愛』という音は『相』に通じ、相手の悲しみを慈しむやさしさこそが、すべての他者を幸せにできるのだという。
北条は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治の『農民芸術概論』の一節を思い出していた。
「インド建国の父、マハトマ・ガンディーは、人間が最も尊ぶべきものとしてプレーマン(Preman)という『親愛』を表す言葉を用いて人々に愛の大切さを強く訴えたといいます。
『名は体を表す』と申します。おやさしい曾孫さんが、おやさしいまま成長されて、重太郎さんは、さぞお喜びでしょう」
なるの墓石に墓銘を入れた際の供養には、哲の先輩と、その人の奥さんで、なると同じ旅館に勤めていたというふたりが来てくれた。
しかし、このふたりも、つい先年、相次いで亡くなったという。なるのことを知る人物がとうとう住職だけになっていたところへ、愛たちが訪ねて来たのだった。
「愛さんは、重太郎さんがすでに遠野を訪ねて来られていたことをご存じなかった。つまり愛さんは、七十年以上の〝とき〟を超えて、ご自身の力でなるさんを見つけられたのですナ」
さらにこんな話もしてくれた。
「終戦間近の七月十四日、遠野から仙人峠を越えた向こう側の釜石の製鐵所に、米軍艦隊による艦砲射撃がありました。そして誰言うともなく〝次は遠野が空襲される〟という噂や流言が飛び交い、遠野の人たちは、上空に爆撃機の影が見えると、柳や枝垂れ桜の木の下へ走って隠れたそうです。柳という木は霊界に通じていて、ご先祖さまが守ってくれるのだと信じられています。
終戦の五日前には、花巻市や北上市、水沢市、一関市など内陸の主要都市も空襲を受けています。花巻では宮沢賢治の生家も焼失するなどしましたが、でも遠野は結局、一度も空襲されることはありませんでした。
なるさんの柳の木も、きっとこの世界の〝誰か〟を、これからもずっと見守って行かれるのでしょう」
お茶を入れ替えましょうかナ、と言った住職の声は、今日ずっと聞いていた、どの話のときの、どの声よりも、いちばんやさしくやわらかく響いた。
三人が長徳寺を辞するとき、住職は、自宅の外で見送ってくれた。
「必ずまた訪ねてまいります。さとさんとなるさんに、きっと会いに来ます」
愛は、住職の手を握って、何度も頭を下げた。
「いやいや。こちらこそ不思議なご縁の物語に触れることができました」
住職の自宅である古民家を振り返った小夜が、玄関横の柱に掲げられていた表札に気付いた。
ルビ付きで「
俗名「太田 貫」。僧名は「
名は体を表すという――。
(ようかい大ダヌキかっ!)
ひとついいですか? と、北条が住職に質問した。
「はい」
「ご住職は、なぜ昨日、なるさんのお墓の前でお念仏をあげていたのですか? なるさんの立日(命日)でもなかったのに」
「あー」
住職は、右手を口元に添え、北条にささやくように、しかし、みんなに聞こえるように言った。
「実は『なるさんを訪ねてお客様が来られる』という夢をみたのですよ」
「えーっ!」
住職が笑い出した。
「ホントはお墓のそばに生えているタラポ(タラノメ)を摘みに行っていたのです」
(どうすればいいんだ、この人?)
「あっ。でも、お念仏を唱えたのは本当ですよ。〝なるさん、今年もタラポを分けてくださいねー〟って」
小夜がとうとう〝核心〟に触れた。
「こんなに不思議なエピソードなのに、ご住職はなんで、その・・・・・・。あまり驚かれないのですか?」
「あー」
住職が、遠野郷を囲む山並みを見晴らして言った。
「この〝まち〟では、こういうことがよくあるのですよ」
「・・・・・・はい?」
住職は、にこりと小夜に笑いかけて、すとんと答えた。
「だって、ここは遠野ですからナ」
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