第10話 星めぐりのうた

遠野の街で食料品などを買い込んで、小夜が向かったのは、昨年、愛たちが夏合宿で訪れた種山ヶ原だった。

 四月二十八日。キャンプ場は今日がシーズンの初日。

 合宿で使ったコテージもあったが、GW前夜とあってこちらは満室。オートキャンプサイトもほとんど埋まっていた。小夜たちは飛び込みだったけれど、なんとか区画を確保できた。

 愛は、遠野の街を出るころにはだいぶ落ち着いて、小夜の冗談に笑いを返せるほどには元気が回復していた。

 オートキャンプサイトに車を停めると、小夜は早速ビールを取り出して、ぐびっとあおった。時刻は午後五時。傾いた太陽の下、西方に連なる奥羽山脈が、夕空に蒼い影を並べていた。

 小夜があっという間にビールを飲み干した。

「さあ、はじめましょうか?」。

 三人は車からキャンプ用品を降ろし、テン場(テント設営場所)のセッティングに取りかかった。

「ところで小夜さんって、なんでキャンプ用品を三人分も積んでいるんですか?」

 北条が思っていた疑問を口にした。

「ああ。さっきも言ったけど、編集さんとライターさんの分なの」

 小夜が言うには、カメラマンは取材のとき、編集者とライターと行動を共にすることがある。自然風景や野生動物の写真を得意とする小夜の場合は、長期取材になることもしばしばで、人里から離れた場所で、朝日や夕日や星空や動物たちを狙うことも多いのだという。

「昨日までの青森取材もさ、男性の編集さんとライターさんと一緒で、二泊はテント泊だったのよ。四泊五日の予定だったんだけど、撮影がサクサク進んで一日早く終わって、編集さんたちは最終の新幹線で帰っちゃったの。あたしは東北道に乗ったんだけど、小腹が空いたんで岩手山SAのフードコートで盛岡じゃじゃ麺を食べてるときに、愛ちゃんと遠野のことを思い出して、花巻JCTを左に曲がって遠野にきたってワケよ」

 そう言いながら、小夜はてきぱきと手を動かす。設営にムダな動きがなかった。

 そっち持って。そう、そのループにポールをくぐらせて。四隅のハトメにペグ打ち込んで。フライシートはピンと張って――。北条への指示も適確だ。

 愛はテーブルとイスのセッティング。テーブルの組み立てに手間取っていると、小夜がさっと駆け寄って、ぱっぱっぱっと作業を手伝った。ものの一〇分ほどで、三人の砦ができあがった。

「はい、じゃあ一〇分休憩しよ。そのあと夕食の支度をはじめるわよ」

 小夜が二本目のビールを開けた。

 

 隣のサイトから小さな拍手が届けられた。

 家族連れらしい四人がテーブルに着いてお茶会を開いていた。お父さん、お母さん、そして中学生ほどの兄と小学生らしい妹。

「お手並みがあまりにも鮮やかで、見とれてしまいました」

 お父さんが小夜の働きぶりを讃えた。

「いきなり失礼しました。小野寺と申します」

 小夜が慌ててビールをテーブルに置いた。三人はそれぞれあいさつした。

 小野寺父さんが座っているイスの向こうに、天体望遠鏡が二台スタンバイしていた。

 一台は、もう製造が中止されてしまったペンタックス社の屈折式天体望遠鏡の名機・125SDP。そして、もう一台はセレストロン社の反射式シュミットカセグレン・Nexstar 8SE。

「星、お好きですか? よかったらあとで覗きにおいでください」

 北条の視線に気付いたお父さんが気さくに声を掛けてくれた。

「ありがとうございます。ペンタのSDPですね。今でもオレの憧れなんです」

 北条が小野寺一家のサイトに入れさせてもらった。

「お詳しいんですね」

「実は大学で天文同好会に所属しているんです」

 小夜と愛も、お父さんにぺこりとあいさつし、小野寺一家のサイトにやってきた。

「みなさん、同じサークルで?」

「あっ、あたしは違うんです。大学なんて、もう何年だか前に卒業しました」

 小夜がちょっと照れくさそうに答えた。

「そうなんですか? いやぁ、まだ大学生かなって思いましたよ」

「・・・・・・もう、なんていいお父さんなの!」

 小夜が兄妹に駆け寄りながら叫んだ。少し引きつる兄妹。

「シュミカセは二〇三ミリですか? セレストロンのこのシリーズのオレンジ色、めんこいですよね。それにまだピカピカだ」。北条が8SEにそっと触れる。

「実は、この望遠鏡は今日がファーストライトなんですよ」

 小野寺父さんが教えてくれた。

「えーっ? そうなんですね!」

 北条の横にいた愛が、自分のことのように目を輝かせた。

 ファーストライト。天体望遠鏡に初めて星の光を導入する、天文ファン感激の瞬間だ。

「初めての光。狙いはどこですか?」。北条が尋ねた。

「オリオンM42・・・・・・が本当はよかったけれど今日は厳しいかな。だいぶ西に傾いて、春の残照もあるし、それに月もあるから。だから今日はもう真っ直ぐに月面第二象限。雨の海へ飛び込もうかと」

「いいですね」。北条の声も、わくわくしていた。

「虹の入り江を出航し、雨の海を渡りながらアペニン山脈の麓をかすめ、エラトステネス、コペルニクスのクレーターを経て、嵐の大洋から湿りの海へ――。シュミカセくんも喜びますよ、きっと」

 一方、小夜は、あっという間に兄妹と仲良くなっていた。もう笑い合っている。妹の首に抱きつくほどに。

 小夜が、テーブルにヴァイオリンケースが置かれているのに気付いた。

「これ? あなたが弾くの?」。妹の首に腕を巻きつけたまま小夜が訊いた。

「ううん、お母さんのです」

 妹がお母さんの方を見た。小野寺母さんがちょっとはにかんだ。

「いいなー、ヴァイオリン。あたしも小さいころ習ってたんだけど、挫折組です。あっ、でも、大学は、これでも声楽専攻だったんですよ」

 えーっ? と驚いたのは愛と北条だった。

「小夜さんって、写真の学科とかじゃなかったんですか?」

 小夜は、ヴァイオリンの道は挫折したけれど、人間には声がある、声こそが最高の楽器だ、と言って、大阪にある大学の芸術学部演奏学科に進み、声楽を選んだ。

 芸術系の総合大学だった小夜の母校には、美術学科、デザイン学科、工芸学科、建築学科、舞台芸術学科、放送学科、文芸学科、映像学科、音楽学科など、十四もの多彩な学科があった。

 小夜が初めてお付き合いした彼氏が写真学科の学生だったことから、小夜は写真にも興味を持ち、やがて声楽よりも写真の世界にのめり込んでいった。

「で、気が付いたらフォトグラファーって呼ばれるヒトになってたのよ」と、愉快そうに笑った。

「・・・・・・その大学って、大阪の南河内の山の中にある、あの大学かしら?」

 ひょっとしたら、という顔で、お母さんが小夜に尋ねた。

「えっ? もしかしてお母さんも !?」

「そ! あたし、あすこのOGやねん」。お母さんが破顔した。小夜もびっくりした。

「えー? ホンマにー! なんでこんなトコに同窓生がおんねん?」

「こんなトコって言うな。あたし、岩手出身で同級生だったこの人に騙されて一関に嫁いで来てん」

「うわぁー。あたしの大センパイですやん!」

「〝大〟って言うなっ」

 百年の知己のように、たちまち意気投合するふたり。少し引く、ほか五名。

「あたし、器楽のヴァイオリン専攻やってん」と、お母さん。

「それで、今日はここで演奏しはるんですか?」

「・・・・・・の、つもりやってんけど」

 今日、もしも叶うなら、自分の大好きな曲、宮沢賢治の『星めぐりの歌』を、この種山ヶ原で演奏したいと思ってヴァイオリンも連れてきたのだという。

「でも、ほかのキャンパーさんもいたはるし、やっぱりちょっと勇気も要るわ」

「センパイ、弾きましょう!」

 小夜がお母さんを励ました。

「あたしが歌います。大丈夫。種山ヶ原で『星めぐりの歌』を聞かされて怒る人やらいてませんって。うちらOGふたりでコイツら――」と言って小夜が周囲のサイトを見渡す。

(コイツら・・・・・・?)。北条の顔があきれている。

「びっくりさしたりましょう!」

「・・・・・・やる?」と、お母さん。

「やるっ!」と、小夜。

 騙した男、お父さんが、頭を掻きながら北条に詫びた。

「すみません。うちのヤツがうるさくて」

「こちらこそすみません。うちのリーダーも」

「あんたら、なにこそこそ話しとんねん!」

 小夜とお母さんが、同時に怒鳴った。

(カミさんが)(小夜さんが)

「ふたりになった・・・・・・」

 

 小夜たちも夕食の支度に取りかかった。

 センターハウスでレンタルしてきたコンロに炭を入れ、バーナーで着火し、早くも三本目のビールを飲みながら、小夜が炭火をうちわで仰ぐ。

「・・・・・・小夜さんって、大阪のご出身だったのですか?」

 北条が小夜に恐る恐る尋ねた。早口でまくし立てられているような関西弁は、岩手県人には少し怖い。

「ううん、あたし東京」。小夜がキッパリ答えた。

(・・・・・・)

「あっ。そうだ。北条くん、車のうしろにハデハデ柄のスタッフバッグが積んであるから持ってきてくれない?」

「スタッフバッグ?」

「行けば分かるわよ」

 北条が荷室のハッチを開けると、招き猫柄の大きな布製の袋が転がっていた。

 小夜が中身を引っ張りだした。ダウンジャケットだった。

「まだまだ夜は冷えるからね。はい、こっちは北条くん。愛ちゃんはこっちね」

 大きなジャケット。小柄な愛にはコートのようだった。袖丈も余っている。襟の中に小さな顔が埋もれそうだ。

「愛ちゃん、かわいい」

「あの、小夜さんの分は?」

 愛がジャケットのファスナーを閉めながら小夜に聞いた。

「もう一着あるから心配しないで。あとで羽織るわ。今は火おこし中。火の粉が飛んだらヤだもんね」

 コンロの横のテーブルに、あっという間に三本目のビールの空き缶が転がった。

 

「さあ、今夜はあたしのおごりよ。遠慮は、なしね」と、小夜がBBQを振る舞ってくれた。

 カルビ、バラ、タン、遠野オリジナルウインナー、遠野名物のラム肉、トマトとマッシュルームとズッキーニのホイル焼き、ホタテのしょうゆバター焼き、たまねぎ、キャベツ、ピーマン、シイタケ、アスパラガスなど地元野菜、さらにパイナップル、マシュマロもあった。

「パイン、マシュマロ? ・・・・・・これも焼くんですか?」

「知らない? 焼きパイナップル、あぶりマシュマロ、おいしいわよ」

 香ばしい匂いが流れてきた。

「うーん、でも、さすがにちょっと多すぎたかな?」と小夜。

「えっ、そうですか? ごはんは・・・・・・ないんですね」と北条。

 北条の食べっぷりを知っている愛が噴きだした。

 

「飲めるよね? 大学三年生」。小夜が、ほいっと北条にビールをトスした。

「あざっす」

「愛ちゃんも飲む?」

「・・・・・・いただきます」

「おい、お前まだ十九歳じゃなかったっけ?」

「あら? 北条くん、硬いこと言うのね。愛ちゃん、誕生日はいつ?」

「来月、五月五日で二十歳になります」

「なんだ、来週じゃない」。小夜が笑った。

「じゃあ一週間早いお誕生会ということで。乾杯ね」

 三人が、テーブルの真ん中に缶を寄せ合う。

「さぁ、肉、肉、野菜、肉、野菜のリズムで、どんどん食べてね」

 愛はラム肉を初めて食べた。遠野ではジンギスカンでよく食べられているという。二歳までの子羊の肉で、洋食では高級食材として扱われることも多い。味わいは、少しだけ獣の匂いが感じられるけれど、牛肉よりも豚肉に近い。

(おいしい!)

 思ってもいなかった展開だけれど、また種山ヶ原で夜が過ごせる。

 小夜さんと、そして北条先輩と一緒に――。

 

「小夜さん、北条先輩、さっきはすみませんでした」。

 食事のあと、愛はふたりに詫びた。

「気にすんナ」。いつもの北条の声がやさしい。

「私は、あの絵の風景が描かれた場所をずっと探していたはずなのに、でも、あの場所に立ったとき、私はなにかすごく大事なことを忘れていた気がしたんです」

「大事なこと?」と小夜。

「忘れてた?」と北条。

 ランタンの照明に照らされた愛の顔がうつむく。

「忘れていた、というのとも少し違うかもしれません。記憶にあるはずのないなにかを必死に思い出しはじめたっていうか。・・・・・・それに、あのとき――」

「?」

「その・・・・・・、全然イヤな感覚じゃなかったんですけど・・・・・・」

 愛がちょっと言いよどんだ。びくっと身体が小さく震えた。

「ムリに言わなくていいサ。いずれまた明日だ。・・・・・・また行くのは平気か?」

「はい。大丈夫です」

 ランタンの灯が小さくなった。一昨日まで使っていたボンベだからそろそろ空っぽかしら、と言いながら立ち上がった小夜が「わーっ!」と声をあげた。

「世界、めっちゃ明るいよーっ!」。

「世界? ・・・・・・あっ、ホントだ。すげえ月明かり」

 雲がひとつもない大きな夜空に、月齢十一.〇の月が皓々と光っていた。

「なのに、星もあんなにたくさん見えるのね」。空を見上げて、小夜が明るい星を数えはじめた。

「シリウスはもう沈みそうですね」。北条は、西の空に一等星を探した。

「でも今夜の主役は、やっぱりお月さんだな。Luna Nokto(ルーナ・ノクト:〝月夜〟)だ」

 愛は北東に手を伸ばし、指をすうっと南東に滑らせた。

「北斗七星、アークトゥルス、スピカ。春の大曲線っ・・・・・・!」

「岩手に帰ってくると、二等星の北極星もやっぱり明るいな」。北条が、物見山の上空を見上げる。

 種山ヶ原は北緯三十九度十分のところにある。鹿児島の愛の自宅は北緯三十一度二十八分付近。緯度とは北極星を見上げたときの地平線からの角度のことだから、種山ヶ原の北極星は、鹿児島よりも八度も高い角度で北の空に輝いている。

 その輝きを、愛も見つけた。

 北極星―――空のめぐりの目当て。

(旅の道しるべ、ポラリス。私はなにを探しているんだろう?)

 

「きゃーあ!」

 小野寺一家のサイトから、女の子のかわいい歓声が上がった。


 シュミカセのファーストライト。その初めての光を、いちばんに瞳に当てるという栄誉を獲得したのは、一家の末娘らしかった。

「月面を導入しましたよ。よかったら覗いて見ませんか?」。小野寺父さんが三人を誘ってくれた。

 三人の中で、いちばん妹にあたる愛が、初めに覗かせてもらった。

「うわぁ――!」と叫んだ愛の、あどけなさ過ぎる声に、小野寺一家も嬉しそうだった。

「ファーストライトを覗かせていただけるなんて・・・・・・すごいです。嬉しいです。光栄です!」

 

「もう、ガマンでけへん」。小夜が叫んだ。

「あたし、歌う! センパイ、スタンバイしよ」

 あー。あああああああああー。

 小夜が声の調子を整える。

「センパイ! お願いします」。

 小野寺母さんが、丁寧にヴァイオリンを抱き上げた。

 ふたりは、あかーい、あかーい・・・・・・と、歌い出しの音を合わせた。

 小野寺父さんと兄妹が少し心配そうな顔をしている。

 北条と愛は、期待と不安でどきどきしていた。

 

 小夜の右手が撓った。「・・・・・・さん、ハイ」

 タン、タ、タタタタタタ――。

 お母さんのヴァイオリンが、ピチッカート(爪弾き)のアルペジオでイントロを奏ではじめた。月の光の中に、宮沢賢治作詞・作曲の『星めぐりの歌』が流れ出した。

 小夜が、すうっと息を吸い込む。

 そして、次の瞬間、美しいソプラノが高原の夜空に響き渡った。

 

「あかーい めーだまの さーそりー

 ひーろげたぁ 鷲の つーばさー」

 方々から聞こえていたキャンパーたちの会話が一瞬にして静かになり、次の瞬間、どよめきがあがった。

 北条は、腰を抜かさんばかりに驚いた。

(小夜さん、上手すぎる!)

 愛は、自分の両腕を抱きしめた。鳥肌が立ったらしい。

 

「あおーい めーだまの 小いぬー

 ひーかりーの へびの とぐろー」

 伸びやかな張りのある高い声と滑らかなビブラートで、一語一語に情感を込めて夜空の美しさを歌い上げていく小夜。

 初めはちょっと遠慮気味だったお母さんのヴァイオリンも、小夜の大きな声に励まされたのか、大きく鳴りはじめた。

 ヴァイオリンは不思議な楽器である。例えば自宅などで練習するときは、小さく軽い音で鳴らすこともできるし、一方コンサートホールなど大きな場所で演奏するときは、マイクなどを使わなくても会場いっぱいに音を響かせることもできる。

 不思議というか、すごい楽器なのだ。

 歌声とヴァイオリンの音色は、月の光にもまして澄み、草原に冴え冴えと響き渡った。

 周りからも次々に歌声が上がり、やがて大合唱になった。

 

「オーリオーンは 高ーく うーたいー

 露と 霜とーを 落とすー」

 星や星座に色や表情を与え、一小節ごとに童話絵本のページをめくっていくような、賢治ならではの幻想的で美しい歌詞。そして、やさしい主旋律。

 この歌が大好きで、これが歌いたくて種山ヶ原にやって来るキャンパーも多い。

『おゝ、おれたちはこの夜一ばん、東から勇ましいオリオン星座がのぼるまで、このつめくさのあかりに照らされ、銀河の微光に洗はれながら、愉快に歌ひあかさうぢゃないか』

 種山ヶ原に『ポランの広場』が現れた。

 

「アンドロメダの くもは

 サカナの おくちの かたち

 大ぐまの 足を 北に

 五つ のばしたところ

 小ぐまの ひたいの 上は

 空のめぐりの 目当て」

 愛は、合唱の渦の中で小さく歌いながら、北の空を見上げていた。

 目の中でポラリスが滲んだ。

 

 大合唱は、最後にもう一度、一番の歌詞が繰り返されて終わった。

 わーっ! という大歓声。小野寺母さんが小夜の首に抱きついて泣き出した。

 

「すんごい気持ちよかった」

 小夜が大満足といった表情でイスに戻って来た。

「小夜さん、すごくステキでした」

 感動しました、と愛は少し涙声だった。

「愛ちゃん。ありがとう。ビールと爆笑で喉を鍛えてるからね」

 愛に笑いかけながら、小夜は九本目のビールを開けた。

「〝種山ヶ原のローレライ〟って呼んでもいいですか?」

『漕ぎ行く船人 歌に憧れ』と北条。

「『波間に沈むる 人も 船も』ってかい?」と小夜。

 北条と小夜が爆笑した。

「でも、やっぱり岩手。そして、さすが種山ヶ原のキャンパーさんたちよね。北条くんの同好会のみんなも歌えるの?」

「去年の夏合宿のとき、ここで、みんなで歌いました。それにこの歌は、岩手県人にとっては第二県民歌です」

「いいなー。天文同好会、楽しそう。まあ、あたしがいたワンダーフォーゲル部もかなりおもしろかったけど」

 それでキャンプ慣れしているのか。北条は納得した。


「ねえ。種山ヶ原ってさ、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』のストーリーを思いついた場所じゃないかって言われてるんだよね?」

「それだけじゃなくて、『風の又三郎』もここで着想したと言われてますし、詩篇もたくさん残してます。ドヴォルザークの『新世界』の第二楽章のメロディに、賢治さんは自作の詩を載せて、ここで歌っていたそうですよ」

「第二楽章って『遠き山に日は落ちて』だよね。それに合わせた宮沢賢治の詩があるの? あの曲って『銀河鉄道の夜』にも出てくるよね。たしか、氷山に衝突して沈んだ船に乗っていた女の子と弟が、途中駅から列車に乗ってきて、そのあと、あの旋律が流れてくる。で、女の子が『新世界交響楽だわ』って言うのよね」

「オレも歌ってみます」

 北条が、低い声で歌い出した。

 

「春は まだきの 朱け雲(あけぐも)を

 アルペン農の 汗に燃し

 縄とマダカ(菩提樹皮)に うちよそひ

 風と ひかりに ちかひせり

 四月は 風の かぐはしく

 雲かげ原を 超えくれば

 雪融けの 草を わたる」

 

「すごいね。北条くんのバリトン、すてき」

 小夜が、拍手してくれた。

「小夜さん。賢治さんには、とても仲のよかった妹さんがいたのって知ってます?」

「うん。トシさんだよね」

「『銀河鉄道の夜』の主人公であるジョバンニは、実は賢治さん自身で、カムパネルラはトシさんじゃないかっていう研究者の説もあるんですよね」

 

 賢治の二歳年下の妹・宮沢トシは、賢治最愛の妹であり、賢治が篤く信仰していた法華経の信仰上の同士として同じ道を歩む仲間でもあった。賢治はトシに対して、のちの研究者たちに「異常」と評されるほどの強い思いとやさしさを抱いていた。

 トシが結核を患い、二十四歳という若さで死んだとき、賢治は押入に頭を突っ込んでオイオイと泣いたり、トシの頭を膝にのせて、なんども髪をくしで梳ったりしたという。

 しかし、賢治は、そんな深い悲しみの中から、美しさ溢れる一連の詩篇を生み出した。

『永訣の朝』『無声慟哭』『オホーツク挽歌』などである。

『永訣の朝』に、こんな一節がある。

「うまれでくるたて

 こんどはこたにわりやのごとばかりで

 くるしまなあよにうまれてくる」

 最愛の我が妹であるトシが、もしも生まれ変わるなら、今度は悪いことばかりに苦しめられるような世界ではない、もっと違う世界にきっと生まれてくる。そう願う。

 さらに、

「おまへがたべるこのふたわんのゆきに

   わたくしはいまこころからいのる

   どうかこれが天上のアイスクリームになつて

   おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

   わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ」

 賢治は、死の間際にあった妹にために、みぞれを取ってあげた。

 賢治は願った。このみぞれ雪が、やがて天上のアイスクリームとなり、トシのためばかりでなく、すべての人々に幸福をもたらす食べ物となることを、私のすべてをかけて心から願う、と詩に綴った。

 

「さとさんは『早く戦争が終わるなら、オレの身体なんかくれてやる』って、重太郎さんにそう言って特攻に飛び立って行ったんだって、コイツに聞かされました」

 北条が隣に座っている愛を見た。愛は、膝掛けの上に置かれた自分の手をじっと見つめている。

 コトっ。

 小夜がビール缶をテーブルに置いて北条に問う。

「ねえ、北条くん、さとさんが言っていた『戦争を終わらせるためにオレは飛んでいくんだ』って・・・・・・どういう意味なんだろう?」

「小夜さん、人は死んだらどうなると思います?」

「えっ?」

 北条は、小夜の問いかけに答えずに逆に聞いてきた。

「それは・・・・・・。宗教観はさまざまだけど、例えば天国へ行く、とかかしら?」

「そうですね。でも、亡くなった人が心の中に生き続けるっていう言い方もありますよね?」

「そうね。その人を思い出すことかな? 同時に、その人がなにを思い、なにを考えていたかを想像することよね」

 北条がうなずいた。

「『魂』という言葉には、ふたつの意味があると思うんです。ひとつはどこか違う世界、例えば天国へ行ったという考え方。そしてもうひとつは――」

「その人の思いだね。スピリッツ。この世に残されるもの、かな?」

「そうです。亡くなった人の願い、希望、夢。生きている間にやりたかったこと。誰かに伝えたかったこと。そして生きている人は、それを受け止めたり、受け継いだり」

「うんうん」

「さらにいうなら、自分が選択に迷ったとき、あの人ならどうするかな? って思ったり、あの人ならこう言ってくれる、こうしなさいって励ましてくれる。そんなふうに会話するみたいなこと。それが『人は亡くなっても心の中に生きている』っていうことじゃないのかなと思うんです」

 北条が夜空を仰ぐ。その視線を追いかけるように小夜も見上げる。

 月の光が二人の瞳に写った。

「さとさんは、早く戦争が終われば、多くの人が生き延びられる。そうすれば新しい国や、新しい時代をつくることができる。もう戦争なんてない時代が来ればいい。重太郎さんに思いを繋いでいってほしいと願った。終わりにするのは、この戦争だけじゃなく、戦争そのものが、地球上から消えてほしいって。悲しみも苦しみももうたくさんだって」

「そうかもしれないね。そのためだったらって・・・・・・」

「そして、もうひとつ」

「もうひとつ?」

「さとさんは、やっぱり妹さんのそばへ行きたかったんじゃないかなって思います」

 

『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニは「僕はもうあのさそりのように、ほんとうにみんなの幸(さいわい)のためならば、僕のからだなんか百ぺん灼やいてもかまわない」そして「どこまでもどこまでも、僕たちいっしょに進んでいこう」とカムパネルラに言う。カムパネルラも「ああ、きっといくよ」と答えた。

 しかし、その直後、カムパネルラの姿は消えてしまう。ジョバンニは、痛いほどの悲しみの中で目を覚ました。

 天気輪の柱が立つ丘から街に戻ったジョバンニは、カムパネルラが川に落ちて行方が分からなくなったという現場に出遭い、カムパネルラと一緒に乗っていた列車の旅が、実はカムパネルラが死の世界に向かう旅の途中だったのだということを知る。

 ジョンバニは幸福を探していた。カムパネルラも一緒に探そうと言った。

 しかし、カムパネルラもトシも、そして中屋敷哲も、その妹も、ほんとうの幸(さいわい)と出会う前に「とほくへいってしまった」――。

 

「さとさんは、妹さんのことを『自分の半分だ』って言ってたそうです。その最愛の妹さんが、この世に生きていた証しとして肖像画を描いた。その絵はどこに行ったか分からないけれど、今日、山科が、〝風景じゃない〟〝記憶にあるはずのないもの〟って言って、同時に感じたもうひとつの〝なにか〟って、例えば、さとさんの、妹さんへの思いのようなものがあそこにあって、それを感じたんじゃ?」

「っていうことは?」

「あの墓地のどこかに、さとさんの妹さんが眠ってる・・・・・・とか?」

「それって――」

 

 流星がひとつ、北斗七星を横切った。

 あっ、流れた! という声が、キャンプ場のあちらこちらから聞こえてきた。

 

「あたしも思った。さっき、あのお寺さんで、なんだかそんな感じがしたの」

「風景画は、海軍に入るために遠野を出るときに描いたんですよね。だとしたら、ご両親や妹さんにお別れを伝えるためにお墓へ行って・・・・・・」

「うん。そこで描いたのよ、きっと。愛ちゃんが感じた〝なにか〟って、展開としては、ちょっとオカルトめくけど、でも、それなら確かに〝イヤな感じ〟っていうんじゃなさそうだよね。それに、あの絵の場所は、ほぼ間違いなくあの墓地だもの」

「――なあ、山科。思い出させてすまんが、今日、お前が感じたのって・・・・・・」

 北条と小夜が、愛の顔を見た。

「・・・・・・って、寝てるしっ!」

 愛は、イスに身体を預けて、すやすやと小さな寝息を立てていた。

 

「そう言えば、コイツ、昨夜は徹夜だったって言ってました」

「お酒も飲んじゃったしね」。小夜が、くすくす笑う。

「いいわ。とにかく明日、もう一度、あのお寺へ行ってみましょう。じゃあ、さっとお片付けして、あたしたちも休みましょうか」

 といっても、皿やボウルなどは、いつの間にか愛が重ねて置いてくれていたし、残った食材や食べ残し、空き缶なども、すでにまとめられていた。

「さすが愛ちゃんね。北条くん、愛ちゃんを抱っこしてテントに入れてあげて」

「えっ?」

「えって言うな。あたしに運べるわけないでしょう?」

(いや、小夜さんなら、いけそうな)

 小夜が北条の目を読んだ。

「なにか?」

「なにも」

「って、どう考えても、あなたのお役目でしょう?」

 

 北条が、イスから愛を抱き上げた。

(軽っ――)

 愛の身体は小さくて柔らかくてあたたかかった。北条は、今、自分はひどく大切なものを抱き上げているのだと感じた。

 北条は、二人用のテントに愛を運び、延べられていたシュラフ(寝袋)の上にそっと寝かせた。ダウンジャケットのまま、静かにファスナーを閉めると、愛が、ううん・・・・・・と言って横に寝返った。

「おやすみー」。

 一人用テントから小夜の声が聞こえた。

「えっ? 」

(オレが一人用じゃなかったの?)

 北条がそう思う間もなく、

「明日は六時起床ね。んじゃ」と言った小夜の声が、あっという間に寝息に変わった。

「―――」

 北条は仕方なく、愛の隣に用意されていたもうひとつのシュラフに入った。

 高く昇った月が皓々と、若葉色のテント地の内側の隅々にまでその光を拡散させていた。

 淡くやわらかな月の光に包まれた愛の寝顔が、すぐ隣にある。

 少し長めのこけしカットのサイドが、目のところにかかっている。涙のあとも見えた。

 カッパ淵の木漏れ日の中で微笑んでいた、夏の日の愛の笑顔を思い出した。

 北条は、その髪をどかせようかと手を伸ばしたが、すぐそれを止め、愛の肩のあたりにそっと手を添えて、ゆっくりと四度ばかり、父親が子どもを寝かせつけるときのように指だけで軽く叩いた。

 北条は、愛に背中を向けて転がった。一分もしないうちに、北条の寝息が小夜のテントにまで聞こえてきた。

 

 小夜は、シュラフの上で胡座をかいていた。

 タヌキ寝入りを止めて、

 プシュッ。

 この日、十二本目となる缶ビールのふたを開けた。

 左手のG-shockを見る。午後九時四十三分だった。

(もうすぐ月が南中するわね。こんなにキレイな月夜だもの。撮影しない手はないわ)

 小夜が、がさごそと撮影の準備をはじめた。一人用テントの気楽さだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る