第9話 遠野再訪

【二〇一八年四月九日】

 新学期がはじまり、愛も二年生になって、天文同好会の新人勧誘もスタートした。

 愛は、香織と一緒に、勧誘ブースの前を通り過ぎていく新入生らしい学生にビラを配った。麻美は、新入生に年間の活動内容を案内する。

 里香と瑠衣は、展示された天体望遠鏡の前で、天体を写した写真を見せながら、星空の美しさや魅力を語った。

 昨春、北条に声を掛けられて、連れて行かれたのと同じ葉桜の下。あの日と同じように、四月の空は、連日、暑いほどよく晴れている。

 花びらが散ってしまった桜の木を見上げる人はもういなかったけれど、愛は、一年前、入会希望カードを書いているとき、葉桜をぼんやりと仰いでいた北条の姿を思い出し、顔を上げて青葉の波を見晴らした。木漏れ日が春の風に揺れている。

 愛は、試験期間だった一月に、学食で同級生たちと談笑する北条を見かけて以来、もう三ヵ月も北条の姿を見ていない。四月には、北条を同好会に復帰させると内記先輩は言っていたのに、北条は、まだ同好会の活動に顔を出していない。

「っていうかさ、三年生、なんでこんなに少ないの?」

 里香が香織にグチった。

「ゼミの準備に忙しいのよ、きっと」

 瑠衣がフォローする。

 愛は、背の高い男子学生がブースの前を通り掛かるたび、北条が戻って来たのかと思い、一喜一憂して落ち着かなかった。

 

【二〇一八年四月二十七日】

「春になったらまた遠野へ行こう――」と考えていたゴールデンウィークが、明後日から始まろうとしていた。

 でも、愛はふらりと旅立てるタイプではなく、それに北条との関係もまだ〝修復〟できていなかった。

 このままの気持ちで、ひとり遠野へは行けない――。そんなふうに思っていた。

 さらに、五月一日からは鹿児島へ帰省することにしていた。

 祖父と父が「ゴールデンウィークに愛は、もどっこなかとか。もどってくるように言え」と、めにっ、うるさくてかなわんから、あんたいっぺん帰っておいでと、祖母と母から、これまたうるさいほど何度も電話があったのだ。

 ぼんやりと小夜の写真集を眺めていた夜遅く、その小夜から電話があった。

「愛ちゃん? こんな時間にゴメンね・・・・・・起きてた?」

 時計を見ると、午後十一時五十三分だった。

 いつもなら炸裂するような小夜の声が、暗く、ひそやかだった。沈んでいるように感じられ、電話の奥もしんとしている。

 愛は、小夜に何かあったのかと胸騒ぎを感じた。

「・・・・・・小夜さん、何かあったのですか?」

「えっ?」

「いつもの小夜さんの声じゃないように聞こえます」

「そう?」

 愛は、どきどきした。

「いつもすごくお元気いっぱいの声なのに、今夜はちょっと沈んでいるっていうか・・・・・・」

「・・・・・・?」

「小夜さん、ご身辺に、その・・・・・・例えば何かご不幸とか・・・・・・」

 次の瞬間、スマホが壊れそうな勢いで小夜の爆笑が聞こえてきた。

「?」

 愛は、思わずスマホから耳を離す。スピーカーが、ずっと笑い続けた。

「あっあっあいちゃ・・・・・・ぶっ、ぶぁあっははははは。しっ、しんぺん?・・・・・・ぶっ、うううぅ、なにそれえぇ? だぁっははあ、はははははー。あーおかし・・・・・・げほげほ。あーもうダメ。あー死ぬ。あっはははは――。ほっ、ほんと、あっあっあっあいちゃんってさ、ひいー、どどどどうしよう。お、お腹いたぁーい、あー、あーっはははは――」

 小夜は、そのまま二分近く笑い続けた。

 愛は訳が分からなかった。でも小夜の大爆笑が、以前と変わらない声だったことに愛は安心した。そして、誰かがこんなに大笑いする声をずいぶん聞いたことがなかった気がした。

 小夜の爆笑がやっと収まったらしい。しかし、なお必死に笑いをこらえているようなトーンで、ようやく小夜が話しはじめた。

「あー。もうこのまま死んじゃうかと思ったよ。ぶっ・・・・・・」

 思い出し笑いが続いている。

「あのさぁ、夜こんな遅い時間に電話すればフツーは小声になるでしょう?」

「ごめんなさい。でも、だって・・・・・・」

「それにさ、身内に不幸があった夜に、何の用事で愛ちゃんに電話するってのさ? あーもう笑い過ぎて十年分ぐらいの疲れが抜けちゃった」

「すみませんでした」

 愛はそう答えるしかなかった。そして、胸騒ぎがカラ騒ぎでよかったと思った。

「でも、やっと落ち着いたわ」

 と言った小夜の声には、まだ笑いをこらえているニュアンスがあった。

「愛ちゃんって、あたしの〝今までに会った人史上〟で、紛れもない、天然キャラチャンピオンだわ」

 天然という言葉で言い表される人物像がどのようなタイプであるのか、それは愛にも分かっていた。悪意ではなく、むしろ好意に寄った言葉なのだけれど、言われた側はあまり嬉しくはない。

「私、天然なんかじゃありません」

 愛はちょっとムキになって小夜に反論した。

「ほら。それが天然だっての」

 小夜がくすくす笑いながら言った。

「電話したのはね、愛ちゃん、ゴールデンウィークに遠野に来られないかなーって思って」

「えっ?」

 愛は、スマホを握ったまま壁のカレンダーを振り向いた。カレンダーの隣には、あの絵が飾られている。

「実はね、今、遠野にいるのよ。今日までの青森取材が終わって東京まで高速で帰ろうと思ったんだけど、途中で遠野のことを思い出したの。ほら、遠野って言えば愛ちゃんじゃない?」

 小夜さんが遠野にいる? おいでっ・・・・・・て?

「で、ほんとうに急なんだけど、愛ちゃん、連休のスケジュールが空いていたら遠野に来ない?」

 行きたい! 小夜が撮影した遠野の景色が、愛の頭のなかをどっと駆けめぐった。

 ――小夜さんと一緒ならきっと見つけられる。

「行きます! 一日早いけれど、明日行きます!」

「OKね? じゃあ列車の時間とか決まったら、また連絡してね」

 

 愛は、スマホで時刻表を検索し、列車の時刻を調べた。

 ネットで座席指定の予約ができる時間はもう過ぎていた。でも連休前の明日なら、新幹線の席もまだ空いているかもしれない。早い時間に東京駅を出発する東北新幹線なら、自由席で新花巻駅まで座って行くこともできるかも?

 東北新幹線の東京駅発下り始発便は午前六時〇四分。さらに新花巻で、いいタイミングで釜石線の下り快速列車に接続していた。遠野には十時〇一分に着く。

 はっ、と北条のことを思った。

(北条先輩――)

 電話しなくちゃ。

 遠野へ行くことになったということは、北条にだけは伝えておかなければいけないと思った。スマホを握り直して、北条の連絡先を検索する。

(えっ? でも待って。この時間に電話することは、迷惑になるかもしれない・・・・・・)

 愛らしい逡巡だった。

 LINEなら大丈夫だろうか? 送信画面を開いて、愛は、北条に送る文章を打ち始めた。

『山科です。夜、遅くに申し訳ありません。実は急なことなのですが、明日二十八日から遠野へ行くことになりました。もしも北条先輩のご予定が空いて――」

 そこまで打ったところで、愛は手を止めた。

(誘うの? いくらなんでも急すぎない・・・・・・? 厚かましすぎない? 失礼じゃない? )

 これまた、いかにも愛らしい。

『せんぱーい、いきなりゴメンね。あたしさー、明日遠野に行くんだよね。でさぁ、さとっち先輩、ヒマだったら一緒に行かね?』

 里香や瑠衣だったら、こんなふうに言えるのかもしれないけれど――。

『山科? なんだよこんな夜中に? 遠野? 明日?  バカこくでねえだよ。急すぎんだろ。オラ寝る』

 ・・・・・・なんていう言い方をするような北条ではないということも分かっているけれど。

(断られるの、いやだ。怖い。だけど、もしも――)

 愛が、はっと気付いた。

(あさちゃん、やっとわかった――。でも、もうちょっとだけ待って)

 

 愛は後半の部分を消して、

「急なことですが、明日二十八日、東北新幹線の始発で遠野へ向かいます。先輩にはまた必ずご報告させていただきます」とだけ書いて送信した。

 もしも、今夜のうちにメッセージに気付いてくれたら。

 もしも、あとからでも遠野に来てくれたら――。

(あの絵の場所で、隣には北条先輩にいてほしい)

 そう思った。

 

【二〇一八年四月二十八日】

 地下鉄東西線の上り始発電車が行徳駅を発車するのは午前五時七分だった。愛のアパートから行徳駅までは徒歩約一〇分。

 気持ちがはやり、朝食にトーストをかじったあと、四時半には部屋を出た。途中のコンビニでお茶を買い、地下鉄に乗る。

 こんな時間に地下鉄に乗っている自分が不思議だった。

 営団地下鉄東西線は西船橋から西葛西まで地上を走る。日が昇ってきて、背の高いビルに陽が当たった。

 愛は、初めて見る湾岸エリアの朝の光彩が新鮮だった。空とビルが美しいコントラストを描きだす景色を眺めていた。

 

 北条からの返信はなかった。

 夜遅かったし、気付かないまま眠っていたのかもしれない。それに、今はまだ、きっと夢の中なんだろうな・・・・・・。

 

 午前五時三〇分。愛は、大手町駅で下車し、長い地下道を通って、東京駅の東北新幹線乗り場まで走った。東西線大手町駅からは一〇分ちょっとだ。

 自動券売機に駆け寄り、料金を確認。ボタンを押して出てきた切符を抜き取って振り返ったとき、

「あれ? 愛ちゃん?」。聞き慣れた麻美の声がした。

「あさちゃん? ・・・・・・と、北条先輩!?」

 愛の目の前にふたりが並んで立っていた。

「えーっ! 愛ちゃん、どこ行くの?」

 麻美の問いに、すぐには答えられなかった。

「あさちゃん、先輩、どうしてふたり一緒・・・・・・えっ? なんで?」

 麻美がころころ笑って答える。

「すっごい偶然ね。ついさっき、さと先輩ともばったり会ったんだよー。さと先輩、親戚の方の田植えのお手伝いするんだってー。あたしは友だちの結婚式で盛岡。愛ちゃんは? どこ行くの?」

「・・・・・・遠野」

 愛は短く答え、北条の顔を見た。北条が少し驚いた顔で愛を見つめ返す。

 愛は、小夜から電話があって、これから遠野で会うのだ、と言った。

「あー。愛ちゃんが前に言っていたカメラマンさんね」

「――」

 ふたりの会話を聞きながら、北条は、不機嫌そうな、ちょっと複雑な顔をしていたが、すぐ、いつもの昼行灯顔に戻って、

「そうか」とだけ言った。

「はい。・・・・・・北条先輩、車内で私に話しをさせてください!」

 

 自由席の車輌は思ったよりも混んでいたが、席を確保するのは難しくはなかった。

 三人掛けの席に並んで座った。麻美は、この列車の三十分あとに東京駅を出発する『こまち』の指定券を持っていたけれど、「お邪魔じゃなければ」と、愛たちと同じ列車の自由席に座った。

 愛たちが乗った『やまびこ』は、『こまち』より三十分早く出発するが、『こまち』は古川駅で『やまびこ』を追い越し、盛岡への到着は逆に三十分早い。

 それでも麻美は、あたしがいなければ、このふたりはきっと地蔵になったまま新花巻駅まで運ばれて行きそうだと思った。

 愛も、麻美には全部聞いてほしいと思ったし、麻美にいてもらえることは心強かった。

 

 発車と同時に麻美のおしゃべりが炸裂した。

「今日、盛岡で同級生の結婚式があるの」

 麻美の中学時代の同級生が結婚式を挙げるのだという。同じ年ということは十九歳。

「どうきゅうせぇが?」

 北条と愛の声がハモった。麻美が噴き出した。

「あの子さ、元ヤンなのよね。盛岡で大工さんの見習いをしている人のところへお嫁に行くんだって。しかもできちゃった婚。急いで式の日程を決めたから、ゴールデンウィーク前の平日しか空いてなかったんだって」

 麻美が笑う。愛の気持ちが落ち着いてきた。

「――それにしても同じ列車に乗ることになるなんて。すごい偶然だったな」と北条。

「ゴールデンウィーク前日の一番列車の自由席。愛ちゃんもさと先輩も、ふたりとも同じ考えだったのね」

 麻美が笑いながら、窓際の席に座っている愛に目で合図を送った。

 

 麻美のおしゃべりが一段落したあと、愛は北条に話しはじめた。

 北条はふたりに挟まれて真ん中の席に座っている。

「昨夜、北条先輩にLINEを送りました」

「LINE?」

 北条がスマホを取り出した。

「あっ、ほんとだ。今、初めて見た。着信は・・・・・・〇時四十一分?」

「もう休んでいらしたのですか?」

「ああ。今日は四時に起きるつもりだったから八時には寝た。スマホはもうカバンに入れてたんだ」

 北条が、今、その短いメッセージを読んでいる。

(相変わらず律儀だな。わざわざ連絡してくれたのか)

 北条は、愛が遠野へ行くことを、いつものように丁寧に伝えようとしてくれたのだということを知った。

 愛は、川村小夜さんというカメラマンに会ったこと。その後も親しくさせていただいているということ。昨夜、急なお誘いの電話があって、急遽遠野へ行くことを決めたのだということを話し、そして、北条先輩にもお電話をしようと思ったのです、と言った。

 愛は、隣席の北条の顔を少し見上げるように、でも、喉元あたりに視線をおきながら、普段よりも少し早口になっていた。北条も、愛のその視線を受け止め、愛の話しをじっと聞いていた。

「北条先輩には遠野へ行くことになったことを、どうしてもお知らせしなくちゃって思って」

(一緒に――)

 とまでは愛には言えない。

「山科、ありがとナ」

「えっ?」

「山科の〝絵の場所探し〟のこと、どうなっているのかって、実はずっと気になってたんだ」

 昼行灯に、笑みが灯った。

 愛が視線を上げた。北条の目の中に映った窓際席の愛の顔がシルエットになっている。

 私、今、どんな顔をしているんだろう・・・・・・。

「お話しするのが遅くなって、すみませんでした」

「いや、遠野行きが決まったのって昨夜なんだろ? 遅いもなにも、そりゃまあ」

 麻美が、口元をきゅっと結んだ笑顔を愛に向けた。愛も小さなうなずきを返した。

 

 愛はバッグから小夜の写真集を取りだして、北条に表紙を見せた。

「これ――。あの絵の構図に近い写真ですよね」

 愛と北条が、並んで写真を覗き込む。

 通路側の席に座っている麻美が、ニヤニヤしているのに愛が気付いた。

 愛は、地図も取り出して「ここです」と指した。愛の方に身体を傾けて覗き込む北条。愛も北条に身体を寄せる。

(ホント、このふたりって)。麻美の肩が小刻みに震えている。

 麻美はワクワクするような〝予感〟に、脇腹のあたりをくすぐられていた。

「森になっていたあの山か。なるほど。冬から春までなら見晴らせるのか」

「私たちが行ったのは、このへんの――」と地図をなぞるふたりの指がぶつかった。

「あ、すみません・・・・・・」

「おう」

 麻美が口元を手で押さえながら身をよじる。

「・・・・・・佐竹? なんだよお前、さっきから」

「なんでもないっす」

 麻美は必死だった。笑いをこらえることに。

「その小夜さんって人とは遠野駅で会うのか?」

「はい」

「・・・・・・山科」

「はい?」

「オレがついていったら、ジャマかな?」

 〝予感〟が、ついに麻美のみぞおちをえぐった。

 

 車内アナウンスが新花巻駅到着間近を告げた。

 愛と北条が、座席から立ち上がって降りる準備をはじめた。

「じゃあ愛ちゃん、ガンバってね」

 盛岡まで行く麻美が、乗降口に向かって歩きはじめようとした愛に、いたずらっぽい笑顔を向けながら小さくガッツポーズした。

「おう」

 北条が答えた。

「必ず見つけてやる」

 爆笑する麻美の声に、他の乗客たちが驚いている。

 

 新花巻駅で、ふたりは釜石線の下り快速列車に乗り換えた。

 列車が走り出して間もなく、愛の目がとろんとしてきた。

「お前――」。北条が愛に声をかけた。

 愛は、北条が初めて自分のことを「お前」と読んだことに気付いていない。

「眠そうだな」

「昨夜、始発で行こうって決めたのですが、でも寝ちゃったら、きっと起きられない気がして。実は徹夜なんです」

「遠野まで寝てていいぞ。オレが起こしてやる」

「それはすごく心配です」

 釜石線が猿ヶ石川に沿いはじめた。車窓には萌えだしたばかりの新緑が、滴るような瑞々しさで、野に山に谷に、眩しい光を散乱させていた。

 春淡治にして山笑うがごとし――。岩手の山野に、また、新しい季節が巡ってきた。

(あさちゃんも盛岡に着いたころかな?)

 そう言えば私は、いつから彼女のことを〝あさちゃん〟って呼ぶようになったんだっけ?

(一年生で北条先輩のことを『さと先輩』って呼ばないのは愛ちゃんだけだよね)

 愛は、冬合宿のとき、麻美に言われた言葉を思い出した。

 人は、会ってからどれくらい経ったとき、愛称だったり、ちゃん付けだったり、呼び捨てだったり、お前とかって呼び合うようになるんだろう。

(麻美って呼んでね。あたしも愛ちゃんって呼ぶから)

(小夜って呼んでくれていいからね。あたしは愛ちゃんって呼ばせていただくわ)

 そんなふうにはじまった関係もあった。

 でも、多くの人は、いつの間に互いを愛称し合うようになったかなんて、そんなことをいちいち覚えてはいない。

「間もなく宮守、宮守駅に到着します。お出口は右側――」。アナウンスが聞こえてきた。

 宮守駅のエスペラント語の愛称は、たしかガラクシーア・カーヨ。〝銀河のプラットホーム〟

「・・・・・・でしたよね。〝さと先輩〟」

「えっ?」

 北条は、愛が初めて自分のことを「さと先輩」と呼んだということに気付いていない。

 愛は膝の上でお行儀よく手を重ね、目を閉じた。

 

「あら? そちらが先輩さん?」

 小夜が遠野駅の改札口で待っていてくれた。

 新花巻駅で釜石線に乗り換えるとき、愛は、小夜に到着時刻を知らせる電話をかけた。そして「先輩が同行してくださることになりました。ひとり増えるのですが、よろしいでしょうか?」と、北条が一緒に行くことになったことを小夜に知らせていた。

 愛が、小夜に北条を紹介した。

「大学の天文同好会の先輩で、北条さんです。釜石のご出身です」

「北条哲と申します。初めまして」

 北条は、持っていたカバンを下に置き、両手を脇に揃え、まるであいさつの仕方を教わったばかりの小学生のように、きちっと頭を下げた。

 いきなり押しかけてしまったような状況に、北条は遠慮して少し硬くなっていた。

 小夜はちょっと驚いたが、その丁寧なあいさつに好感を持った。

(愛ちゃんと同じ匂いがする。古風な――)

 例えば長屋の娘に「よいではないか、よいではないか」と迫る悪代官に「愛ちゃんになにするんだ!」と飛びかかって、逆に張り飛ばされる呉服屋の若旦那のような。

(いや、この子なら悪代官を張り飛ばすわ――)。

「こちらこそ初めまして。川村小夜です。小夜って呼んでくれていいからね。気楽に行きましょう」

「急に押しかけて申し訳ありません。ふたり乗れますか?」

「余裕よ」

 駅前に停まっていた小夜の車はトヨタのランドクルーザー。

「仕事柄、ときどき野宿もするから、キャンプ道具なんかも積めるように大きな車にしたの。荷物いっぱい積んで、雪道や山道もがんがん走れるようにって」

 

 走り出した車の中で、愛が改めて小夜にお礼を言った。

「愛ちゃん、あたしの方こそごめんね、急で。青森での撮影が終わって、新幹線の最終で帰る編集さんたちと新青森駅で別れたあと東北道に入ったんだけど、愛ちゃんのこと思い出して、遠野に着いてからダメ元で電話したんだ。愛ちゃんがダメなら、それはそれで遠野の春を撮ろうと思ったし」

「お電話、とても嬉しかったです」。愛が助手席でかしこまった。

「それで急遽、先輩を誘ったわけね?」

「あっ、いえ。これは偶然なんです。釜石へ帰省される北条先輩と、盛岡へ行く友だちに、東京駅でばったり会って」

「愛ちゃん、岩手県出身の先輩と一緒に、去年、遠野を自転車で回ったって言ってたけど、あなただったのね?」と、小夜がバックミラー越しに北条に声を掛けた。

 北条が「はい。僕でした」と答えた。

 僕っ? 先輩が一人称で僕なんて言うの、初めて聞いた。

 愛が後部座敷を振り返ると、北条が神妙な顔をして座っていた。

「なんだよ、お前」

 愛は、正面に向き直ってうつむいた。(おかしい――)

「あら、愛ちゃん、なに笑ってるの?」

「なんでもないです」

「ふーん。・・・・・・それで、おふたりはどういうご関係なの?」

「えっ? ・・・・・・っと」

 愛と北条の声が一瞬重なった。そして短い沈黙のあと、

「同じサークルの先輩と後輩です」と、北条が答えた。

 愛の横顔に、ふっと寂しそうな影が浮かんだ。

 なにかを察したらしい小夜。

 へーえ。

 少し楽しそうに短くつぶやいた。

 

「この先が、あの表紙の写真を撮った場所よ」

 小夜が、ふたりをヤブの中へ案内した。

 ナラやクヌギの枝が天蓋を作る雑木林。芽吹きはまだ浅かったが、ここのどこから早池峰山が見えるのかと思わされるほど、林は深かった。

 道もなかった。北条は、例えば今、ここからひとり引き返したら、車を停めた場所にはきっと正確に戻れないだろうなと思った。

「えっと・・・・・・確か、少し北向きに傾斜した小さな空き地があったんだけど」

 小夜も、実は自分の記憶に自信がなかった。

「いやぁ、あたし、よくあの場所見つけられたもんだったわね」。今さら何を、という独り言をつぶやいた。

 勾配が少し緩んだ。大地の高まりに近付いている。しかし、その先はいっそう深いヤブになっていた。

「いったん戻りましょう」。地図を見て、小夜が言った。

「今、東から登ってきたんだけど、南からの方が勾配が緩いわ。それにここ、お寺さんがある。こっちの墓地の方からもういちどアプローチし直しましょう。お寺に誰かいたら、行き方とか道とか教えてもらえるかもしれない」

 

 三人は「西方山 長徳寺」と掲げられた山門の前に立った。

 庭先の大きな桜の木が満開だった。桜の花の向こうに本堂と庫裡があり、隣には茅葺き屋根の家も見えた。がっしりとして、ちょっと年代を経た本堂のまわりをツバメが飛び回っていた。

「すんませーん。ごめんくださーい!」

 と言いながら、小夜が庫裡の玄関で、インターホンにむかって声を掛けた。

 返事はなかった。

 もう一度声を掛ける。庫裡はなお静まりかえっている。

 小夜が、戸に手をかけると、カラカラっと開いた。

「あら、なんて不用心な。カギもかけないで外出?」

「えっ?」と北条。

「えっ?」と小夜。

「オレの実家も、カギなんてかけてませんよ?」

 それって、この辺じゃフツーですけど、なにか? という顔で北条が言った。

「ときどき冷蔵庫の中に、誰かが魚とかウニとかアワビとかホヤとかワカメとかを置いていきますけど、ほら、カギなんかしてたら、魚、腐るじゃないスか?」

 ――Any other questions? という表情の北条。

(そういう環境で育つと、こんな人になるのかな?)

 愛が笑いをこらえた。小夜はちょっとあきれて苦笑いしている。

「まっ、まあいいわ」

 小夜が左手のG-Shockを見た。

「あらっ? そろそろお昼ね。ちょっと腹ごしらえをして、午後にまた来てみましょうか?」

 三人は、車で来た道を引き返し、土淵の旧道交差点を右折して「遠野伝承館」に入った。

「先輩、去年もここでしたね?」

「うん。お前とここで〝だご汁〟食べたよな。そのあとカッパ淵に行った。暑い日だったなヤ」

(また、このお店に一緒に入れるなんて・・・・・・)

 愛は嬉しかった。

 

「愛ちゃんっていつまで遠野にいられるの?」

 オーダーのあと、小夜が訊いた。

「五月一日から鹿児島に帰省するので、明後日までです」

「北条くんは? 田植えがあるんだっけ?」

「ほんとは今日の午後から苗床を運んだりっていう予定だったんですが、でも一日ぐらいは遅れても、まあなんとかなります。今日と明日は近所からの手伝いも多いって伯父が言ってました。だから、もしも今日、あの絵の場所が見つからなかったら明日も探しましょう」

 言い方に力がこもっていた。愛が北条の顔を見上げた。

「オレも、あの絵の場所はゼッタイに見つけたいんです」

 愛の顔が嬉しさを隠しきれない。

 北条の修造魂(※松岡)に火が付いたらしい。その様子が、小夜にはおかしかった。

「二人目の弟だわ」

「はい?」

「なんでもないわ。――じゃあ、今日と明日はOKね。せっかくだもの、絵の場所が見つかったら観光もちょっとしましょうか? 山口の水車、五百羅漢、福泉寺、トオヌップの丘、早池峰神社・・・・・・。遠野郷は見どころいっぱいよ」

 

 昼食後、三人は再び長徳寺を訪ねた。

 小夜が庫裡の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。

「あら? カギをかけて本格的にお出掛け?・・・・・・ちょっと、北条くん、さっき言ってたことと違うじゃない?」

「はあ。泊まりの用事で出掛けたのかもしれませんね。今日中に帰ってくるなら、たぶん、カギなんてかけねえべ」

(岩手県人って――)

「まあ、とりあえず、もう一度、自分たちで探しましょう」

 小夜は、愛がスマホからプリントアウトして持ってきてくれた絵の写真を片手に、本堂の裏手にある墓地へと入って行った。

 墓地は案外な急斜面だった。そして思ったよりも広かった。

 愛は、勝手に墓地に立ち入るのはちょっと気が引けたけれど、小夜は写真を片手にずんずんと歩いていく。

「大丈夫よ。コイツらは、ここに誰かが来てくれるのを待ってるんだから」

(コイツら・・・・・・?)。

 それぞれのお墓は、一つひとつの区画も大きく、どれも立派で、西向きの斜面に整然と並んでいた。

 墓石が並ぶ急傾斜が、頂上付近でなだらかな稜となって東側に向かってゆっくり落ちていたところがあった。

 頂上から、少しだけ右側へ下ったところに、多少の雑木の枝に遮られてはいたものの、早池峰山と真っ正面に向かい合える小さな「広場」があった。

「そうそう! ここだわ」。小夜が叫んだ。

 三人がその場に並んだ。

 雑木とカラマツ林の境界線。そこだけがぽっかりと小さな空き地になっていて、日溜まりの中に、数多くはなかったけれど、タンポポの花が咲いていた。

 北条が早池峰山の方角を向き、風景に写真をかざした。

 彼方にそびえる早池峰山の雪形、前衛峰のシルエットが、木梢の間から、絵と同じ角度でほぼ一致した。

「なぁんだ、南からアプローチすればラクラクコースだったじゃん」

 絵に描かれていた右奥の桜の木や、眼下のタンポポ畑などはなかったが、角度や高度はだいたい同じで、そのわずかな角度のズレを修正するには、あともう少しだけ北西の方へ移動する必要がありそうだった。

「ここからは、またヤブになってますね」

「でも、だいぶ近付いていることは間違いないわ。いったん墓地に戻ってから、ちょっと北西の方に回り込んで行ってみようか?」

「山科、もうちょっとだ。きっと見つかるぞ」。北条が愛に声をかけて振り向いた。

 

 愛はじっとして、うつむいていた。

「どうしたの? 愛ちゃん?」

「違う・・・・・・」

「え?」

 愛の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。

「探していたのは場所じゃなかった・・・・・・。なにか違う」

「場所じゃない? 違う? ・・・・・・なに?」

「わからない。でもなにかを間違えてる――。ごめんなさい・・・・・・なにか違うんです」

 愛の足もとがぐらりと揺れた。何かにおびえ、いきなり力が抜けてしまったように身体が沈みかけた。

「おい、山科――」。北条が、愛の肩を支えた。

 愛は、北条の腕に身体を預けて震えはじめた。額には汗が滲んでいた。

 

 三人は駐車場に戻った。小夜は、愛を後部座席に座らせた。

「今日は中止ね。少し早いけれど、愛ちゃん、お宿で休みなさい。・・・・・・って、どこに泊まるの?」

 愛が小さな声で答えた

「・・・・・・飛びだしてきたので、まだ決めていませんでした」

 北条があわてて藤田佐智代に電話した。

「さとくん? ごめんね。さすがに今日は満室だわ。山科さんと一緒だったの? 残念。あたしも会いたかったわ」と、佐智代は申し訳なさそうな声で答えた。

「そうよね。あたしが急に呼び出しちゃったんだもんね。あたしの責任だわ。・・・・・・でも大丈夫。テントと寝袋は積んであるから。今日は三人でキャンプしましょう」

「あ、いえ、オレは実家も近いし」

「ホントにそれでいいの?」

 後部座席でうつむいている愛をちらっと見ながら小夜が言った。

「テントは一人用と二人用があるわ。寝袋も三つ。・・・・・・なんだか初めからそんな予定だったみたいね」小夜はむしろ楽しそうだった。

 そして、ふと、なにかを思ったように、小夜の視線が、降りてきた墓地の上方へゆっくりと上っていった。

「とにかく明日また、もう一度、あの場所へ行ってみましょう。・・・・・・そして、ご住職がいらしたら、中屋敷家のことも訊ねてみよう。なにか分かるかもしれないわ」

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