第7話 〝好き〟の意味

【二〇一七年十二月七日】

 緊急ミーティングのあと、愛は北条にLINEメッセージを送った。

「私のせいで、ご迷惑をおかけしました。ケガまでさせてしまい申し訳ありません。お加減、大丈夫ですか?」

 以前なら、すぐ返信してくれていた北条だったのに、このメールに対する返事があったのは一週間近く過ぎてからだった。

 その文章に、愛はショックを受けた。

「山科のせいじゃない。どうして山科が謝るんだ。意味が分からない」

 北条は、絵文字などを使うようなタイプではなく、いつも文字だけを送ってくる。しかし、この冷たい文章はどうだろう。

 確かに私がケガを負わせたわけじゃない。でも、北条先輩は、世久原先輩の中傷から私をかばってくれて、あんなことになってしまった。だから、私は無関係じゃない。

 ――それなのに

(どうしてこんなに冷たいんですか?)

 

 麻美が、向かいの席で、くすくす笑いながら言った。

「テレよ、これ」

「えっ?」

「さと先輩、きっとテレてるんだと思う」

 北条から返信があった翌日、愛は、キャンパスのカフェで、その悲しい気持ちを麻美に打ち明けた。

 十二月上旬の都心のキャンパス。東京も、だいぶ大気が冷え込む日が多くなってきた。

 愛にしては珍しくスカートをはいて大学にやって来たのだけれど、足もとを渡る風は冷たく、ブーツにすればよかったかな、と少し後悔していた。

 愛が、少しだけおしゃれをしてきたのは、もしもキャンパスで北条に会えたなら、LINEでなにか北条の気に触るようなことを書いてしまったらしいことをお詫びして、できればそのまま食事などに一緒に行くことができて、以前のようにお話しができたら――と、女の子として北条に会いたいという気持ちがあったからだった。

 でも、キャンパスで会えた同好会の仲間は麻美だけだった。麻美は、少し沈んでいる様子の愛が気になって、お茶しようよと誘ってくれた。

 そして愛は、北条から届いたLINEを麻美に見せて、麻美の解釈を求めた。麻美は、それは北条のテレだと言う。

 ――どういうこと?

「愛ちゃん、夏休みが終わってから、さと先輩とあまりお話しできてないでしょ?」

「うん・・・・・・」

 ミーティングや大学祭の準備などで北条に会える日は、本当に楽しみだったのに、でも、いざ会うと、なぜだか以前のようには話せなかった。

 夏合宿や遠野では、目的を共有していて、それについて尋ねたり、尋ねられたりしながら会話はどんどん広がって、どんどん進んでいった。それが楽しかった。

 でも、東京に戻ってからは、なにを話せばいいのか、なにを話題にすればいいのか、と、愛は北条と一緒にいるとき、それまでに感じたことのない妙な緊張感とぎこちなさにとらわれ、話題を探すことで思考の中身がいっぱいになってしまった。

 星のこと、神話のこと、宮沢賢治のこと・・・・・・。テレビのことでも、お天気のことでも話題なんて、本当は目の前にいっぱいあるのに。

「あたしね、こんな言い方したら悪いんだけど、ふたりを見ていて、なんだか少し笑えてきちゃってたのよ」

「えっ?」

「愛ちゃんも、さと先輩も、実はお互いのことが好きなのに、お互いが自分の気持ちに気付いてないんだなぁって」

 麻美がふふっと笑った。

 愛は、きょとんとしている。

 ――私が、北条先輩のことが好きで、そして北条先輩も、私のことが好き?

 唐突な指摘だった。愛は戸惑った。

 愛の目がテーブルの上のシュガーポッドやペーパーナプキンの周辺を見つめながら、ゆらゆらしている。麻美はセットで注文したシフォンケーキを一口食べて、愛の反応をじっと見ていた。

「でも、その・・・・・・〝好きな人〟に、こんなメッセージは送らないわ」。愛が、やっと言葉を放った。

「それは、そこに書いてあるとおりに受け取ればいいんじゃない?」と麻美。

「えっ?」

「さと先輩は、あのとき、世久原先輩にケガをさせたことも、愛ちゃんが中傷されてショックを受けてたことも、全部ひとりで背負い込んでた。だから愛ちゃんに〝謝られる理由が分からない〟んだよ」

 麻美が言うことも何となく分かる気がしたけれど、でも、もしも私が、その人のことが好きだったなら、もう少しやさしいメッセージを送る。

 愛は、まだLINEの文面の素っ気なさを気にしている。

「愛ちゃんが倒れたとき、さと先輩、病院へ行く前に、愛ちゃんに『山科、すまね、オレのせいで』って言って泣いてたよ」

「北条先輩がっ?」

 愛が驚いたのは、ひとつは北条が言ったという「オレのせいで」と言葉。もうひとつは北条が泣いていたということ。

「さと先輩、愛ちゃんがあんなひどい言い方をされたのは、自分が愛ちゃんと一緒に遠野へ行ったことが原因で、みんなにも誤解を与えたんだって考えたんだね。愛ちゃんのこと、あんなふうに言われたことが、すごく悔しかったんだと思う」。

「オレのせいで・・・・・・って? どうして北条先輩が私に謝るの?」

「ほら、愛ちゃんだって〝意味が分からない〟でしょ?」

 麻美は、ふたりの関係の謎解きしているような気持ちになって、おかしかった。

「愛ちゃん、さと先輩のあだ名は?」

「昼行灯?」

「そう。『昼行灯』ってさ、昼間に灯りが点いていても役に立たないし、目立たないでしょう? だから、ヌボーっとしてて役立たずで間抜けで存在感が薄い人っていう意味になるんだけど。――でも、映画や小説に登場する昼行灯キャラって、実は計算してそのキャラを演じていたりするんだよね。例えば『忠臣蔵』の大石内蔵助、『必殺仕事人』の中村主水。ちょっと違うかもしれないけれど『水戸黄門』」

 討ち入りを計画していながら、公儀の密偵をあざむくため、夜な夜な酒宴を開いては、周囲にダメな男と印象づけて油断させつつその日を待ち、ついに〝こと〟を成し遂げた赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助。

 ダメ役人で、ダメ亭主で、ダメな婿殿でありながら、午後一〇時五十分には、ばっさりと悪を斬る中村主水。

 越後の縮緬問屋のご隠居を装いながらも、ときには自ら杖を振り回して悪代官を打ち倒し、午後八時五十一分には、かっかっかと高笑いして悪を懲らしめる水戸光圀。

 麻美は、実は時代劇好きだった。特に大好きなのが『鬼平犯科帖』で、その主人公である「鬼平」こと長谷川平蔵こそが理想の男性のタイプだと言っていた。

 火付盗賊改方という、殺伐として荒々しい役職にありながらも義理と人情に厚く、犯罪者の更正施設として人足寄場を作って職業訓練を行うなどした鬼平。情け深い裁きには、ときに罪人も涙し、やがてまっとうな人の道を歩きはじめた元罪人と再会するなど感動的なシーンもある。

 人としてのやさしさの、そのスケールの大きさに麻美はしびれた。

 テレビで平蔵を演じた中村吉右衛門も好きだけど、麻美にとっての王子様は、あくまでも長谷川平蔵その人なのだという。

 香織がそれを間違えて「麻美の理想のタイプって竹中平蔵(※某経済学者)なんだってー」と周囲に言いふらし、麻美が激怒したことがあった。

「さと先輩も、昼は寝てばっかりだけど、ほら、星空の下ではかっこいいじゃない?」

 そうだった。星座、神話、メシエ天体、天体望遠鏡、星野写真、遠野物語、宮沢賢治・・・・・・。北条はなんでも知っている。

「うん。確かに夜の北条先輩はすごい」

「――その言い方はやめなさいっ」

 麻美が慌てて唇の前に人差し指を立てた。

 店内を見渡す。気付いた学生はいなかったらしい。

 

 天文同好会の会員たちの会話は、しばしば周囲に誤解と邪推を与えていた。

「戸澤くん、昨夜(の流星群)はスゴかったね」「ああ、オレも興奮してあのあと眠れなかったぜ」とか、

「おい、梨衣、今夜も徹夜で(天体観測)ヤろうぜ」「いいわね、じゃあ、あたし薬局でアレ(虫除けスプレー)買っとくね」とか、

「ヒロ先輩、あたし、もう(観測場所への)イキ方、覚えました。今夜は(懐中電灯は)ツケなくてOKです」とか、

「先輩、オレ、昨夜の先輩のイレ方(望遠鏡への天体導入)がスムースで(見ていて)気持ちよかったっス」「そうか、お前初めてだったよな。(望遠鏡に頭ぶつけて)痛くなかったか?」とか。

 昨夜はスゴかっただの、今夜も眠れないだの、どこでヤるとかヤらないとか、いったいあいつらは毎晩ナニをやっている連中なんだと思われそうな会話を、学食や喫茶店で大きな声で交わして、ときに周囲をドン引きさせたりした。

 

「まあ、でも、さと先輩は、そもそも計算して昼間寝ているワケじゃないけどね。あの人の行動や振る舞いって、愛ちゃんと同じで超ナチュラル」

 麻美が笑った。

 愛は、麻美の話術に絡め取られていた。何も言えずにうなずくばかりだった。

「さと先輩って、ときどき女の子がドキッとすることを、さらっとしてきたりするよね。すっごく自然に」

(ドキッとすること――)

 愛は、常堅寺の山門でのことを思い出し、鼓動が早まるのを感じた。

「里香ちゃん、図書館で、書架に探していた本があったのに手が届かなくて困っていたら、さと先輩が後ろから里香ちゃんの肩を抱くみたいにして、左手を肩に置きながら、軽くジャンプして取ってくれたって、感激してたよ」

 愛は、その場面を想像し、北条らしいと思った

「瑠衣ちゃんは、さと先輩と同じ電車に乗り合わせたとき、突然、電車が急ブレーキかけて、つり革を掴んでいた手が離れて転びそうになったんだって。でも、さと先輩が瑠衣ちゃんの背中にさっと手を回して、ぐいっと身体を腕の中に引き寄せて、胸でずっしりと支えてくれて心臓がバクバクだったって言ってたし、香織ちゃんは、観望会で経緯台の設置がうまくいかなくて、望遠鏡が自分の方に倒れてきそうになったとき、さと先輩が左手で望遠鏡をぱっと受け止めながら、右手で香織ちゃんの頭を抱いて守ってくれたのが胸キュンだったって言ってたし――」

(みんな、北条先輩のことが〝好き〟なの?)

「あたしは、大学祭の準備で夜遅くなったとき、さと先輩と一緒に教室を出たんだけど、正門が閉まってたの。じゃあ六号館の裏の低い塀を乗り越えようかってことになったんだけど、でも、あたしスカートだったから、乗り越えられなくて困ってた。そうしたら、さと先輩が、いきなりあたしをお姫様抱っこして――」

 愛の心のなかに言語化できない感情が浮かんできた。いつの間にか麻美に操られている。それに気付かない。

「そして、あたしをいったん塀の上にちょこんと座らせてから、ちょっと待っとけナって言って、先に自分が塀を飛び越えたあと、もういちどあたしを抱き上げて降ろしてくれたんだよ。あたし泣きそうだった」

 ――北条先輩は、遠野で、涼しい風が流れる雑木林の入り口まで肩を抱いて誘導してくれた。カッパ淵で夕立が近付いてきたとき、手を取って立ち上がらせてくれた。常堅寺の山門で背中を守ってくれた――。

「・・・・・・」

 愛は、北条が誰にでも分け隔てなくやさしいのだということを知ったのだけれど、それがなぜだか少し寂しい。ちょっと暗い表情でうつむいいた。

 麻美は、いちいち素直な愛の反応がおもしろ過ぎてたまらない。

(愛ちゃんって――)

 麻美のお尻に、先端が矢印の形をした、幻の黒いしっぽが生えてきた。

「――あたし、さと先輩に告白しちゃおうかなぁ?」

 愛が、はっ、と顔を上げた。

 麻美の爆笑がカフェに轟いた。

 店内にいた学生たちがびっくりして、窓際席にいたふたりをにらんだ。

 麻美は、驚いている学生たちに手を振りながらお辞儀した。みんなは、やれやれといった顔で、それぞれの会話や作業に戻っていった。

「うそ、うそー」。麻美は、まだ笑っている。

「さと先輩にとって〝好き〟を意識しない相手は、家族か友だちなんだよね。あたしや里香ちゃんたちは妹みたいなものなの」

 午後三時を過ぎたキャンパスには、もう暮色が漂っていた。

 十二月の日は短い。イチョウの葉の照り返しが、カフェの窓辺をハチミツ色に染めている。

「さと先輩が、愛ちゃんのことを〝妹以上〟って意識しはじめたのは、愛ちゃんが大学祭の準備のとき、写真班に来たころかな? さと先輩、急に愛ちゃんに対してぶっきらぼうになったよ。それまで、ふたりは普通の友だちみたいにお話しできてたよね?」

 確かに北条の反応は、そんなふうだったような気がする。

「でも、愛ちゃんのほうが、先に、さと先輩を〝おにいちゃん以上〟って意識したんだよね?」

 麻美は、あたしはそのころから、ふたりの間に流れている空気を観察していたのよ、と言って笑った。

 麻美は教育学部の学生だ。将来、教師になったとき、学校の現場で出合うであろう思春期の生徒たちの恋愛問題について、何か傾向や対処方法のようなものでも学ぶのだろうか。

「〝好き〟が少し浮かんできたときって、相手の反応が怖くなるんだよね。〝嫌われたらどうしよう〟とか〝一緒にいる時間を楽しんでもらえなかったらどうしよう〟とか〝会話が途切れたらどうしよう〟とかって、相手を大切に思いすぎて不安になっちゃう」

「でも――」

 愛は、まだ自分の気持ちが分からなかった。

「やさしくしたらしたで、厚かましいって思われたらどうしよう、下心ありそうって思われたらどうしよう。そして、なによりも、いざ思いを伝えたとき、〝ふられたらどうしよう〟って、怖くなるよね」

「――」

「さと先輩は、〝お前のことなんか、ちっとも意識してないからな〟っていう態度で、実はずっとカッコつけてた。ナチュラルじゃなくなってた。愛ちゃんは、楽しく会話したいという気持ちを空回りさせてた。男性も女性も、自分を今の自分以上によく見せたいって思うのが〝好き〟のはじまりなのよ」

 愛は、今日の自分のスカート姿のことを言われている気がして、ドキッとした。

「とにかく、さと先輩からのそのLINEは、お前が気にする必要は全くない、お前の分までオレが責任取るからって言ってるよ。・・・・・・別にいいのにね。責任なんてないんだから。そこがあの人流の、けじめと〝テレ〟とカッコつけなんじゃないのかなぁ」

 麻美の「謎解き」は、愛にとって、分かるところもあったけれど、分からないところもあった。

 麻美のお尻では、まだ幻のシッポが揺れていた。

「愛ちゃん、大丈夫。さと先輩に横恋慕なんてしないから」

 愛がまた、はっとして麻美の顔を見上げた。

 麻美がくすっと笑った。

「さと先輩にとって、あたしは〝妹〟でしかないのよね。でも、それはそれでちょっと寂しいかなぁ」

 愛は、麻美のひと言ひと言を真に受けてしまう。

 

 麻美と別れたあと、愛は、レポートを作成するための参考書を探しに、新宿の大型書店へ向かった。

 さまざまな色のコートやジャケットが織り混ざるように溢れている新宿駅東口から靖国通りへ。交差点では信号待ちをしていた車がアクセルをふかして走り出すたびに、エンジンの唸りがジングルベルの音をかき消して、ビルの谷間を震わせていた。

 鹿児島も大きな街だったけれど、こんなふうに耳を塞ぎたくなるほどの喧噪はなかった。どこへ行っても、どの街角を曲がっても、東京には、必ず人や車がいる。お互いの姿は確認しても知り合うことのない人たち。接近し、すれ違い、何事もなく離れていく。

 愛は少し足早になり、書店が入居するビルに飛び込んだ

 

 店内に静かに流れるインストゥルメンタルの聖歌と、暖房のあたたかさに、愛はほっとした。

『英文ライティングのフォーマット方法』『日本人が誤訳しやすい英文』『英訳技術論』といった本を数冊購入したあと、通りかかった二階の写真集のコーナーで、「遠野――」という文字が愛の視界をかすめた。

(遠野――?)

 立ち止まり、今見た文字のありかを探した。目に飛び込んでくるすべての文字列をひとつずつ確認していくと『遠野・四季彩の物語』という吊り広告を見つけた。

 広告の下に行くと、春の水張り田んぼを撮影した、透明感いっぱいの写真が表紙を飾る写真集が平積みにされていた。

(この表紙の写真―――)

 愛が探している、あの絵の構図に酷似していた。

 表紙写真は、遠野郷の四季それぞれの、四枚の写真が組み合わされたレイアウトだった。

 そのなかの春の写真が〝さとさん〟の絵によく似たフレームで切り取られていた。

 手にとってページをめくる。

 遠野駅前、鍋倉城址、カッパ淵、土淵の田んぼ、常堅寺など、愛が知っている遠野の景色のほか、山口の水車、立丸峠、五百羅漢、卯子酉様、トオヌップの丘、デンデラ野、笛吹峠、猿ヶ石川の桜並木、千葉家住宅、夕暮れの綾織駅、早池峰神社、荒川高原、仙人峠、月夜の福泉寺、ススキの野辺、草原に草を喰む子馬――。ページを繰るたび、遠野郷の四季の美しい風景が目に飛び込んできて、愛の心を震わせた。

(遠野だ――)

 あの街に〝帰りたい〟――。そう思った。

 愛は迷わず、その写真集を購入した。地下鉄の中でも、自室に帰ってからも、何度も何度も本の中を往き来した。

 不思議な感覚が浮かんできた。

 行ったことのない場所がたくさんあったのに、愛の心の地図に、写真集の中の一つひとつの風景が、パズルのピースのようにぱちんぱちんと組み合わされて行き、やがてひとつの大きな空間像として膨らんでいくのを感じていた。

(この場所も、この場所も・・・・・・、私、見たことがある?)

 奥付を探すと「撮影/川村小夜」とあり、HPのアドレスが記載されていた。

 愛は、スマホを取り出し、そのアドレスを検索し、コンタクト欄にメッセージを打ち込んだ。

「遠野郷が大好きなので、川村様の写真集を購入させていただきました。これから出合う過去のような、出合ったことがある未来のような、素敵なお写真に感激しました。表紙のお写真の〝春〟を撮影された場所を知りたいと思ったのですが、教えていただくことはできますか?」

 数時間後、さっそく川村小夜から返信が届いた。

「私の写真集を手にとっていただいて嬉しいです。そして、添えてくださった丁寧なメッセージを読ませてもらいました。不思議な感想を抱かれたのですね。よろしければ、一度お会いいたしませんか?」

 

【二〇一七年十二月十七日】

 愛は、川村小夜に待ち合わせの場所として指定された表参道のカフェにいた。

 小夜には「当日の服装は、紺色のケーブルニットに赤いチェック柄スカート、ベージュのピーコート、白いストールで行きます。髪の毛は肩に届かないほどのこけしカット。たぶん人待ち顔でキョロキョロしていると思います」とメッセージを送った。

 現れた小夜は、メッセージの通りよね、人待ち顔でキョロキョロって、ホントにその通りだったわ、と言って笑った。

「川村さん。初めまして。山科愛と申します。先日は、ぶしつけなメッセージを送ってしまいましたことをお詫びいたします。本日お会いしていただけることになり、ほんとうにありがとうございます」

 面接試験に臨む学生のような、愛の丁寧すぎるあいさつに、小夜はちょっと驚いた。

(今どきの子じゃないみたい。古風な――)

 例えばおとっつぁんに薬を飲ませてあげながら「それは言わない約束でしょう」とやさしく背中をさする長屋の娘のような。

 向かい合った席で、愛の目線が、少し恥ずかしそうにテーブルの上をうろうろしていた。

 この子が初めて誰かとデートした日も、こんな感じだったのかしら――?

(かわいいっ。気に入ったわ、この子)

「こちらこそ初めまして。川村小夜よ。小夜って呼んでくれていいからね。あたしは愛ちゃんって呼ばせていただくわ」

 明るい声、砕けたトーンのなつっこいしゃべり方。愛の緊張していた心が溶けた。

 小夜は、髪が長い細面の美人だった。すらりとしていてジーンズがとてもよく似合っているところはどこか里香に似た雰囲気。くりっとした大きな目は瑠衣っぽくもあり、少し笑うと左の口元に片えくぼが浮かぶところは香織にも感じが少し似ている。つば付きのふわりと大きな黒いニット帽がかわいらしさと精悍さを同時に印象づける。

「えーっと。あの写真集の表紙を撮影した場所が知りたかったんだっけ?」

 小夜がバッグの中から国土地理院の二万五〇〇〇分の一の地図を取り出した。

 撮影した場所は必ず地図にプロットしておくの、と言いながら「ここよ」と小夜の細い指が、地図の一点を指した。

「八幡山?」

「――のてっぺんの東側に、ちょっと小高く突き出している場所があるの。そこよ」

 愛は、夏にたどった自分たちのルートを思い出していた。いちばんはじめに早池峰山を見つけて自転車を止めたとき、もっと高い場所、と探して振り返ったあの山だった。

 雑木や針葉樹がみっしりと生えていて、とても登って行けそうにないと感じた山だった。

「この山は、私たちも見つけました。でも、木が生い茂っていて、とても見晴らしは利かないだろうなと思いました」

「あら、愛ちゃん、近くまで行ったことあるの? いつ?」

「今年の夏です」

「〝私たち〟って、友だちと旅行だったの?」

「・・・・・・そんなところです」

 愛が少し言いよどみ、目を伏せた。小夜がそれに気付いた。

「この場所が知りたいって、それはどうして?」

「それは――」

「あらやだ、ごめんね。取り調べしてるみたいに質問ばっかりしちゃった。でも、なんだかいろいろとワケがありそうね。よかったらお姉さんに話してみない?」

「・・・・・・」

(初めから説明したらすごく長い話になっちゃう)

「それとも言えないワケでもあるの?」。小夜が、くすくす笑っている。

「いえ、少し長い話になってしまいそうなので、聞いていただくのが申し訳なく思って」

「私の時間なら気にしないで。今日はこのあと飲み会がひとつあるだけだから大丈夫よ。お話し、聞いてあげる。それに、愛ちゃんがメッセージに書いていた『これから出合う過去のような、出合ったことがある未来のような』っていう不思議な言葉の意味も知りたいし」

「ありがとうございます。では、聞いてくださいますか?――」

 小夜にやさしく促されて、愛が話しはじめた。

 祖父の遺品の中にあった絵、特攻隊員、写真から描いたもう一枚の絵、曾祖父との思い出、早池峰山、そして遠野でのこと・・・・・・。

 そして、小夜の写真に感じた奇妙な感覚。

「私は、私がその絵が描かれた場所を訪ねることで、曾祖父が喜んでくれる気がすると思って、その場所を探しはじめました。でも、小夜さんのお写真を拝見したとき、あの場所もこの場所も、いつか見たことがあったんじゃないかって思うほど、遠野というあの〝まち〟の広がりが、自分の中に、まるでプラネタリウムのエアドームのように膨らんでいく感じがしたのです。行ったことがない場所を懐かしく感じたり、実は知っていた場所にいつか初めて出合えるんじゃないかって。その場所に、その・・・・・・。帰って行く、みたいな――。

 だから私はずっと、その絵が描かれた場所にこだわって来たのかなって、お写真を拝見して思ったんです」

 

 クリスマス間近の表参道は、人でごった返していた。いつの間にか日はもう沈み、通りのケヤキ並木には、年末恒例のイルミネーションの光が点されていた。

 粒だつようなシャンパンゴールドの光が、散りきらぬケヤキの樹葉の陰に揺れている。光の渦の下を、カップルやグループ、家族連れなど、大勢の人たちが楽しそうに歩いていた。

 そんな東京のど真ん中のカフェで、小夜は「The」という定冠詞付きで呼びたくなるような日本の田舎・遠野郷を独特の感受性で見つめ、思い、戸惑っている少女から、不思議な話を聞かされている。

 遠野はそろそろ雪が積もっただろうか――。小夜は、青白いビロードを敷き詰めて広がる土淵の田んぼの雪明かりと、その上空に光るカシオペアを思い出した。

 

「愛ちゃん、ありがとう。ちょっと悲しいエピソードもあったけど、でも不思議でステキなお話だったわ」

 小夜は、もう一杯いただきましょうね、といって、愛には紅茶を、自分はビールを注文した。

「すみませんでした。自分勝手な思いばかりをいっぱいしゃべってしまって――」

 愛は、ハンカチを取り出して額にあてた。なんだか熱く語ってしまったらしい。

 そんな様子を、小夜がにこにこ見ている。

「そんなことないわよ。あの写真集を見て、ここに行きたいって思ってもらって、いつかその場所で、初めて来たのに久しぶり――みたいに感じてもらえたら嬉しいもの。でも、愛ちゃんの感覚は、もっと自分の心の深いところで、自分に関わる遠野のなにかに気付いている? 気付こうとしている? そんな感じなのかなって聞いていて思ったわ」

(気付く? ・・・・・・なにか自分に関わること?)

 ふと、曾祖父のことを思った。あの縁側の風景がまた浮かんできた。

「あたしも、あっちこっちで写真を撮っているけど、ときどき出合うの。デ・ジャヴ。だけど、愛ちゃんのは、そんなよくあるデ・ジャヴとはちょっと違うみたい。地図のような広がりや、エアドームのような膨らみで写真を組み合わせられるなんて、なにかもっと強い力がないとできないわ」

「強い力――ですか?」

「そうね。あなたはこの風景と、なにかで繋がっているのよ」

(強い力? 気付く? 繋がっている・・・・・・?)

 考え込んでしまった愛に、小夜が思いがけないことを言ってくれた。

「こんど、一緒に行ってみましょうか? この場所に」

「えっ!」 

 愛は飛び上がるほど嬉しかった。

「あの写真、木々が葉っぱを出す前、四月に撮ったの。七十年前はきっと木がなかったのかもね。でも、冬や春なら枝があってもちょっとは見通しが利くわ。あたしも興味が湧いて来ちゃった」

「いいんですか? ――すごく嬉しいです」

 こんなとりとめもない自分の話しをちゃんと聞いてくれて、応援してくれる人がここにもいた。おにいちゃん、串木野のおじいちゃんやおばあちゃんたち、聡さん、あさちゃん、小夜さん、そして――。

 小夜は、ホームページの連絡先ではない、自分の携帯の番号とLINEのアドレスを教えてくれた。

「いつでも連絡してきてね。あたしもまた連絡するわ。ときどき会ってお茶しようよ」

 応援してるからね――。そう言って、小夜の後ろ姿が表参道の人混みに中に消えていった。

 愛は、空を見上げて、金色のイルミネーションの向こうに星を探した。ぼんやりと濁った闇があるだけだった。けれども、心の中に、星空を隠していた雲が少しずつ隙間を空けて広がっていくような気がしていた。

 私の周りには、私を助けてくれる人がたくさんいる。応援してくれる人がいっぱいいる。そして――。

(守ってくれる人・・・・・・)。

 

【二〇一七年十二月二十二日】

 天文同好会の冬合宿は、八ヶ岳山麓の標高一二〇〇mの高原にある、大学のセミナーハウスで行われた。

 日没が早く、高層の塵が残照の影響を受けにくい冬の夜空は四季で最も暗く、空気も乾燥して透明度が上がる。

 そんな真っ暗な冬の夜空には、一等星が七個も輝く。二等星も多い。

 天文同好会の冬合宿は、お堅いテーマは設定せず、天体望遠鏡や双眼鏡を使って、見たい夜空を見たいように眺めながら、みんなでワイワイしようという趣向だ。そして「一年間お疲れさまでした」という納会的な意味合いと、四年生の追い出しコンパも兼ねている。

 寒空の下で行われるため、屋内での宴会がメインになってしまわないように、午後七時から十時までは、全員が必ず屋外で観望することと決められていた。

 そして、天文同好会の〝伝統食〟である「山形芋煮汁」の鍋を全員で囲む。

 第一回冬合宿『遠征』が、山形県の朝日村(現在の鶴岡市朝日町)で行われたとき、山形市出身の四年生がこれを作ってくれて、そのあまりのおいしさに全員が感激した。

 以後、その彼が残していったレシピを忠実に守りながら、天文同好会の毎年の冬合宿では、芋煮汁が作られる習わしとなり、それを作るのは、これが最後の合宿参加となる四年生と決まっていた。

「あーあ。芋煮汁もこれで最後か」。卒業後、高知県に帰るのだという小林がつぶやいた。

「OB参加で食べに来れば?」。東京に就職が決まった有紀が、サトイモを箸に突き刺しながら言った。

「十二月の社会人は、芋煮汁を食べに来るヒマはないだろうな」。浜野は横浜の自宅から都内の商社に通うという。九人の四年生は、春から新しい道へと進む。

 

「寒いねー、愛ちゃん」

 麻美が愛の左腕に抱きついてきた。

「知ってる? 秋田県民って日本でいちばん寒さに弱い県民なんだって」

「そうなの? 北国の人はみんな寒さに強いんだろうなーなんて思ってたわ」

 なんでも、ある気象情報会社が、冬の間に各県民が着ている服の枚数や身につけている防寒アイテムの数を調査して、その調査日の気温との相関を分析したところ、秋田県民は、全国平均よりも一.一六個ほど多かったのだという。

「あたし、今日はヒートテックにスキニー重ねてジーンズの上にスキー用サロペットだよ。それでも寒いわ。・・・・・・っていうか、ここは角館より確実に寒いっ!」

「じゃあ、いちばん寒さに強い県民は?」

「それが岩手県民らしいのよ」

 岩手県民の肌着や防寒グッズの装着数は、全国平均よりも〇.九四個少ないのだとか。だいたい一枚分ほど薄着らしい。秋田県民と比べたときは二枚ほども違う。

 寒さに最も弱い県と、最も強い県が、東北地方で隣り合っている。愛はちょっとおかしかった。

「ほら、さと先輩なんて、都内にいるときの恰好のまんまだよ」

 麻美が、一年男子たちと一緒に赤道儀に載せたカメラを操作している北条の姿を指した。長靴こそ履いていたが、いつものジーンズにダッフルコート。マフラーさえしていない。

(やっぱり暑さ寒さににぶい人なのかな?)

 北条は、自ら願い出て休会中ではあったが、浜野や内記をはじめ、他の会員たちも合宿には出てこいと誘った。北条の参加を、一年男子たちがいちばん喜んでいた。

 

「愛ちゃんてさ、言葉遣いが丁寧だよね」

「そうかな?」

「『あたし』じゃなくて『わたし』。『すいません』じゃなくて『すみません』。真面目っていうか奥ゆかしいって言うか。それに、あたしも、里香ちゃんも、瑠衣ちゃんも、かおりんも、たけるくんも、よしくんも、すばるくんも、一年生はみんな北条先輩のこと〝さと先輩〟って呼ぶのに、愛ちゃんは『北条先輩』だもんね。さと先輩、愛ちゃんに〝さと〟って呼んでほしいって思ってるかもね」

 麻美がからかう。未だ進展する気配がないふたりの間柄を、麻美は麻美なりに心配していた。

 麻美が自分を応戦してくれているのだということは、愛も十分に分かっていた。

 でも、本当に、私は北条先輩のことが好きで、北条先輩も私のことが好きなんだろうか。

(そもそも〝好き〟って、どういうことなんだろう?)

 愛にはまだ分からなかった。

「真っ直ぐすぎるよ、愛ちゃん。今、あたしが言ったことも真に受けて考え過ぎちゃってるよ」

 麻美がもう一度、愛の腕をぎゅっと抱きしめた。

 

 観望の場所は、セミナーハウスの前庭だ。館内の照明は落とされ、庭の数カ所にはバケツに雪を入れてひっくり返して作った小さなかまくらにローソクが灯される。明るすぎないようにとの配慮だが、それらが小さな地上の星となり、幻想的な空間を作り出す。

 外の気温はマイナス五度。ほのかな雪明りの頭上、きーんと冷えた大気の向こうに、冬の一等星たちが輝きを競い合っている。

 牡牛に向かって棍棒を振り上げるオリオン。その背中と足もとには、彼に従う小いぬと大いぬ。

 オリオンの右肩・ベテルギウスと、小いぬの心臓・プロキオンと、大いぬの鼻・シリウスを結ぶと冬の大三角形になり、さらにシリウスからオリオンの左足・リゲル、牡牛の目玉・アルデバラン、ぎょしゃ座のカペラ、双子の弟・ポルックス、そしてプロキオンを経てシリウスに戻ると、冬の大六角形、別名・冬のダイヤモンドが結ばれる。

 天頂にはすばるが浮かび、早い時間なら北西には夏の大三角形もまだ残り、南西には秋の一つ星・フォーマルハウトも見える。さらに夜が深まっていくにつれ、しし座のレグルスや北斗七星も昇ってくる。

 箱の中から宝石を無造作につかみ取り、空に向かって放り投げたような、それでいて実は周到に配したようなたくさんの一等星や二等星と、それらの隙間を埋め尽くす無数の光の粒。

 白々と凍り付いた星の巻雲に満たされた天蓋は、まるで真夜中の青空のように明るい。

「あさちゃん、ホント、冬の夜空ってキレイだよね・・・・・・」

 愛の目の中で、オリオンが高く歌っている。

 愛が、ふと、北条の姿を探しはじめた。北条は、セミナーハウスの前、ひとつだけ置かれたランタンを囲む四年生たちの輪の中にいた。

 愛は、北条の横顔をしばらく見つめたあと、うつむいて、ふぅっ・・・・・・と、小さな白い吐息の花を咲かせた。

 愛の視線の行き先に麻美が気付いた。そして、愛の肩に自分の頭をのせてきた。

「ごめんね。愛ちゃん」

「えっ?」

「抱きついているのがオラでサ」

 にんまり、といった顔で麻美が愛を見た。

「愛ちゃん。今、さと先輩のこと、探してたべ?」

「―――」

「キレイななにかを見つけたり、ステキななにかに出合ったとき、一緒に見たい、今、隣にいてほしいって誰かのことを思う。それってサ、その人のことが〝好き〟なんだべ? オラ、そう思うナ」

 愛の肩にもたれたまま、麻美も夜空を見上げた。

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