第6話 事件

九月二十一日、大学の後期日程がスタートした。

 天文同好会では、合宿の報告会と反省会が開かれた。

 遠征合宿は、連日好天に恵まれて、予備日を使うことなく四泊五日の日程が無事に終了し、大成功であったと総括された。

 北条が、種山ヶ原で撮った星野写真でつくったという動画を、PCからプロジェクタでスクリーンに映し出してみんなに披露した。

 手描きの銀河鉄道や流星を追いかけるフクロウのアニメーションが合成されていたり、タイムラプスで撮影された天の川が、宮沢賢治の『星めぐりの歌』にのせて、東から西へゆっくり夜空を渡っていく様子などが、美しい映像でまとめられていた。

 誰もが種山ヶ原の夜空を思い出して感動した。合宿に参加できなかった麻美は、愛に抱きついて大泣きした。

 一〇分ほどのこの動画は、十一月に行われる大学祭で、天文同好会の展示スペースで上映することが決まったほか、同時に行われる映画研究会が主催する映画祭にも出品されることになった。

 大学で再会した北条は、以前と変わらないマイペースぶりだったが、愛は、北条と目が合うと、なぜかちょっとうつむいてしまう自分を気にしていた。

 里香や瑠衣や香織たち一年生の仲間からは、ふたりで過ごした夏休みはどうだったの? なんてからかわれたりもしたけれど、愛が絵の場所を探しているということは、みんなの知るところになっていたし、上級生たちにも「何しろ相手は北条だから」という、ある意味「ない、ない」という空気があって、誰もそれ以上は突っ込まなかった。

 北条はなにも言わない。でも北条は北条で、このごろ愛が自分と目を合わせないことに気付いていた。

(オレ、アイツになにか言ったか、なにかしたっけかナ?)

 〝したこと〟を言うなら、十分すぎるほどのことを遠野でしでかしていたのだけれど、本人は分かっていない。

 愛の心の中で、何かがぐるぐるしはじめていた。

 

 十月初旬のある日、愛は、天文同行会四年生の世久原可長よくばるよしながから、突然LINEで呼び出された。

「十三日、金曜日、午後六時、二三号館のF-3教室までひとりで来い」

 乱暴な文面。愛は、世久原先輩が苦手だった。

 天文同好会では、大学祭の出し物のひとつとして、毎年、エアドームを設置して、その中でプラネタリウムを上映することになっている。他にはおでん屋の出店、星野写真の展示などもあるのだが、その各班を編制したとき、愛は、世久原と同じプラネタリウム班に入っていた。

 夏休みの少し前から、世久原は、愛にベタベタしてくることがあった。髪の毛を触ったり、いきなり肩を揉んできたり。プラネタリウムのエアドームをテスト設置したときは、ドームの中で、ぱーんとおしりをたたかれたこともあった。

 自己主張が強く、厚かましくてしつこくて言葉づかいも乱暴。できればあまり近付きたくないタイプだった。他の女子会員たちの間でも、世久原の評判は芳しくない。

 世久原は、今夏の遠征合宿には参加しなかった。上級生たちの間では、元カノを妊娠させて揉めていたらしい、なんていうウワサもあった。

 ――その世久原先輩からの呼び出し。

 愛は、怖くなって、同好会の同じ一年生仲間である麻美、里香、瑠衣、香織の四人に相談した。

 大学の正門近くにある大手コーヒーチェーン店の一階奥の禁煙フロア。二人用のテーブルを寄せ集めて、四人が愛を囲んだ。

 愛は、世久原から呼び出されたことに不安を感じていると話し、用件も分からないし、なにを言われて、なにをされるのかが怖いと言った。

「あの人、愛ちゃんのこと狙ってるんだよね」と麻美。

「実はあたしも一度、迫られたの。でもきっぱり言ってやった。『あなたとは、お話しをするつもりは、ありません』って」

「あさちゃんって意外とキツいんだねー」

 瑠衣がちょっと驚いた。

「だって、そう言わないと話しが終わらなさそうな人だったから。心臓ドキドキだったよ。世久原先輩のあだ名、知ってるよね?」

「あだ名っていうか、『名は体を表す』っていうか」と香織。

「愛ちん、シカトしよ」。里香の眉間にタテじわが浮かんだ。

「でも、無視したら、あの先輩のことだから逆ギレするかも?」。瑠衣が指でテーブルをとんとんたたいた。

「きっとコクるっ、ていうか迫る気だよ。だけど断るのも、愛ちゃんにはちょっと怖いよね」。香織がほおづえをついて吐息した。

「二三号館って、経済学部の辺境やん。しかも夕方六時って・・・・・・。もう誰もおらんよ」と里香。

「毎年、一年生に手を出してるっていうウワサもあるよ。それで同好会を辞めていった女の子もいるとかって」。瑠衣はちょっと怒ったような声。

「で、今年は愛ちんに目をつけたの?」

 きもっ、と言って里香が自分の腕をさすった。

「一年女子の中じゃ、いちばんおとなしいもん。愛ちゃん」

 麻美は、ずっとうつむいている愛がかわいそうだった。

「SMの趣味があるって聞いたこともある」。瑠衣が余計な、そしておだやかでないことを言う。

「SMって、葬式まんじゅう?」

「山田くーん。里香ちゃんに座布団・・・・・・って、いや違うから」

 世久原の用件は定かではなかったが、おそらく、愛に交際を迫るのだろうというのが四人の一致した見解だった。

 四人とも、愛が世久原と付き合うことなど望んでいない。すっぱりと、あとくされなく、この〝災難〟から愛を助け出したかった。それほど世久原は、女子会員たちの間で人望がなかった。

 愛も、世久原が「オレと付き合え」というふうなことを言ってくるのだろうと思っていた。もちろん世久原と付き合うつもりなど、ない。

「でもさぁ、あの人、こっちが下手に出るとチョーシぶっコくよ」と瑠衣。

「――愛ちんを泣かすヤツは、あたしがコロす」。里香がおっかないことを言いだした。

「断る以外の選択肢はない」。香織がテーブルを軽く拳でたたいた。

「どうしよう? 愛ちゃん」

 なんとかしなくちゃ、と思いながらも、麻美にはいい案が浮かばない。

 愛が、顔を上げた。

「とにかく、一度会ってくる。会わなければ、きっと何度も呼び出されると思うから」

 うーん・・・・・・。四人がまた考え込んだ。

「分かった。こうしよう」。香織が、またテーブルをたたいた。

「あたしたち、こっそり教室の外から愛ちゃんのこと見守る。そしてなにかあったら教室に飛び込んで行くから」

 香織の提案に、ほかの三人も同意した。

 里香が身を乗り出した。

「いつもみたいにやさしく相手しなくていいからね、ああいうタイプには」

「そうそう、こう言うのよ」。

 麻美が愛に、言い方を伝授する。

「いい? 表情を変えないで、冷静に、感情を含めない言い方で一度だけハッキリと言うのよ。『今後、あなたと、お話をするつもりは、一切、ありません』って。」

「いや、それってストーカーへの対処法じゃなかったっけ? ・・・・・・まあ、確かにそんな感じの人だけどさぁ」

 やれやれという感じで瑠衣がため息をついた。

 麻美が続ける。

「とにかく、はっきりお断りを伝える。そこは大事なところよ。それでもしつこいようなら、そのときはもう警察ね」

 香織が段取りを決めた。

「世久原先輩が先に教室に入ってから、愛ちゃんはあたしたちと一緒に教室の前まで行こう。そのあと、あたしたち外から様子を伺ってるから」

 とにかく、あたしたちが愛ちゃんを守る――。みんなにそう言ってもらえて、愛は泣きそうになった。

 膝の上に手を揃え、四人に律儀にお礼した。

「みんな・・・・・・。いつも、ありがとう」

(愛ちゃん、そこが心配だっての)

 四人が心の中で同時にツッこんだ。

 

 そして決戦の十三日の金曜日がやって来た。

 同日午後五時五十六分。二十三号館のF-3教室に世久原が入って行くのを確認したあと、麻美たち四人は教室の前で、不安そうな愛を取り囲み、小さなガッツポーズで励ました。

 愛が静かにドアを開けて教室に入った。麻美たちはすぐドアに張り付いた。

 F-3教室は、八段ほどの小さな階段教室だ。ドアは最上段後方にある。

 世久原は、いちばん下にある演壇の近くに腕組みをして立っていた。

「山科っ! 先輩を待たせて二分も遅刻かぁ?」

 世久原の居丈高な声が階段教室に響いた。

(――オドレはミーティングに遅刻するくせこきゃあがって、何をエラソにヌカしとんねんっ?)

 しゃがんでドアに耳を当てていた和泉里香(大阪府岸和田市出身・北辰館道場天王寺支部所属・中目録・別名「ナニワの鬼斬りリカちゃん」)が、モップの柄をつかんで、すぅっと立ち上がった。

 麻美も瑠衣も香織も、世久原の言い方にはカチンときたけれど、まだダメだよ、と里香の勢いをあわてて押さえた。

「遅くなってしまい、申し訳ありません」

 愛がドアのところから、世久原に頭を下げて謝った。

「何だぁ? 先輩よりも高いところから詫びるのかよ?」

(――こんガキぁ。いっぺんしごうせな分からんようじゃの――)

 佐伯瑠衣(広島市安佐南区出身・少林寺拳法四段・中国四国大会高校生部門三連覇・別名「地獄の月野うさぎ」)が、サツに代わってお仕置きじゃぁとつぶやいて、ゆらぁっと立ち上がった。

 麻美も香織も世久原の言いぐさには腹が立ったが、ふたりは、里香と瑠衣を必死に止めた。

「山科、こっちに来い」

 世久原は、愛をアゴで呼び寄せた。愛は階段を下りて、演壇のそばに近付いた。

「お前、北条と付き合ってんのか?」

 世久原は腕組みをしたままだ。見下すような態度と言葉。愛は屈辱すら感じた。

「・・・・・・いいえ。お付き合いはしていません」

「夏休みに一緒に旅行したらしいじゃん?」

「それは・・・・・・」

 愛は、常堅寺の山門で、北条が後ろから包んでくれたことを思い出した。

 今ここに、北条に駆けつけてきてほしいと思った。

「付き合ってもいない男と旅行に行ったのか? はぁー。やるもんだな」

(――なんしか、きさん、ええ加減せんと、ぼてくりまわすけんの)

 小倉香織(北九州市八幡東区出身・女子レスリング五十㎏級インターハイ準優勝・元日本代表候補・別名「マットの通り魔」)がアップを開始した。

 麻美もブチキレ寸前だったが、三人を懸命に押しとどめた。

 

 四人は、そーっとドアを開けて隙間から教室の中を覗いた。

 アゴを突き出してふんぞり返る世久原の前で、愛が今にも泣き出しそうに、肩をすくめて震えていた。

「おい山科、オレと付き合えよ」

 世久原が、愛の方に踏み出した。用件はやっぱりそれだった。

(それが女性に交際を申し込む態度かぁ?)

「今、フリーなんだろ? なぁ愛?」

(あいぃ? おどれ、うちらの愛ちゃん呼び捨てにしくさったか)

 世久原が、ずかずかと愛に歩み寄って、愛の右手をつかんだ。

「・・・・・・!?」

 世久原と目が合った。川面から顔を半分だけ出して、引きずり込む人間を捜している河童のようなギラギラした目。こんな男に顔を見られていることに、愛は嫌悪と恐怖を感じた。

 世久原は、声が出せずにいる愛の手を引っ張って、そのまま自分の方に引き寄せ、強引にキスしようとした。

「――やめてください!」

 やっと声を絞り出して、愛は世久原の手を思い切り振り払って飛び退いた。

「こんなことをする方と、お付き合いなんてできません!」

「・・・・・・この!」

 世久原がもう一度、愛の腕をつかまえようとしたとき、とうとう瑠衣が教室のドアを蹴飛ばした。

 げしっ!

 鈍い音が教室に響いた。

 驚いた世久原が教室の後方を振り返ると、瑠衣を先頭に、里香と香織が、ゆらりと教室に入ってきた。

「よーぅ言うたでぇ、愛ちゃん」

「なっ、何だ、おまえらっ!」

 世久原の動きが一瞬止まった。そのすきに、愛が逃げ出した。

 愛は、階段通路を駆け上がり、教室を飛びだして、外にいた麻美に抱きついて、わっと泣き出した。

「おっ・・・・・・おまえら、こそこそ聞いてたのかっ?」

「こそこそ――やとぉ?」

 里香が、瑠衣の一歩前に出て、ついにファンファーレを鳴らした。

「おい、ワレぇ、今なんちゅうたぁっ? もっぺんヌカしてみいっ!」

 世久原の顔から血の気が引いた。

「聞いとったんかぁやないっちゅうねん。ワレぇ、うちらの大事なツレになにさらしてけつかんねん! ナメとったら承知せんどゴルァ! ドタマかちわって脳みそちゅうちゅう吸うたろかぁ?」

 〝鬼斬りリカちゃん〟がモップを星眼に構えた。

 ――大阪南港の水は冷たいでぇ。

「いっ・・・・・・いや、オレはなにも」

「ほおかぁ? センパイ、言ぅといたるがのぉ、こら犯罪じゃけぇ。いややっちゅうとる愛ちゃんの手ぇ、ムリヤリ引っ張りよるん、うちら、しっかと見とりましたけぇの」

 〝地獄の月野うさぎ〟がコキッと首を鳴らした。

 ――太田川にゃあフタないけぇ。

「なっ・・・・・・」

「学生課に通報しますわぁ。前にもこげなこつしよって退学なったぁ学生いたっち聞いたことありますぁ」

 〝マットの通り魔〟がメガネを外して、ふっとレンズのホコリを吹いた。

 ――玄界灘にゃぁムクリ(元寇の蒙古軍)も沈んどるちゃ。

「おまえら・・・・・・」

 三人は、最大級の軽蔑の目を、教室の最上段から世久原に浴びせた。

 ・・・・・・ちっ!

 世久原が足もとのバッグをつかんで階段を大股で上りはじめた。三人はずっと世久原をにらんでいる。

 教室を出たところで、泣いている愛の両肩を抱きしめた麻美が、瞬きもせず、真っ赤な目をして世久原をにらみ返した。全身が怒りに震えている。

 麻美が泣きながら叫んだ。

「このホンズナスヤロ! ガッチメガすてやりでぇ!」

 世久原は、くるっと向きを変え、足早に立ち去っていった。

「あー。ごーたいくそが煮えるわ」

「あーん、瑠衣ちゃんの広島弁、こわぁーい」。里香が香織の腕に抱きついた。

「はいはい、新喜劇のお約束ね」

 こんなときでも大阪人はボケを忘れないらしい。里香と瑠衣が笑い出して、空気が少し緩んだ。

 しかし、このあとの香織のひと言で、空気は再び凍り付いた。

「なぁ瑠衣、ドアふたつに割れとるちゃ」

 

 大学祭に出展する天文同好会の各企画の準備のため、会員たちも忙しくなっていた。

 週一で開いていたミーティングも週二回行われるようになり、授業の合間を縫って空き教室を確保。展示物の作成やポスター、チラシ作り、おでん屋台の組み立てなどが行われた。また、大学に近いアパートを借りている学生は、臨時の作業部屋として自室を開放するなどした。

 麻美たちは、世久原の所業を、会長の浜野にだけは報告した。

『厳重注意 F-3教室のドアを破壊した者がいます』と貼り出された学生課の掲示板の前で、浜野は四人から、その出来事を聞かされた。

「・・・・・・あの問題児」。浜野が頭を抱えた。

「山科にケガはなかったんだな? ・・・・・・分かった。世久原にはオレからも厳しく言っておく。今度なにかやらかしたら強制退会させる。お前たちの怒りはもっともだが、アイツももう半年で卒業だし、就職も決まっているから、学生課への通報は待ってくれ」

 四人は腹の虫が治まらなかったが、浜野が「オレの監督不行届きだ。山科にも、佐竹にも、和泉にも、佐伯にも、小倉にもイヤな思いをさせてしまった。オレから謝らせてくれ。ホントにすまん」と言ってくれたことで、ここは浜野の顔を立てることにした。

 大学祭へ向けた各企画の班編制も改められた。愛と麻美は、北条がいる写真班に移り、プラネタリウム班には里香と瑠衣と香織が入った。世久原はプラネタリウム操作のエキスパートでもあり、同班に残ることになった。

 里香たち三人は、どこで買ってきたのやら『喧嘩上等』とプリントされたTシャツを着て世久原を見張った。

 世久原は居心地が悪そうだったが、黙ってプラネタリウムの準備を進めた。

 写真班の北条は、この異例の〝人事異動〟を特に気にすることもなく、現在の進行状況をふたりに説明し、写真のパネル貼り、キャプション用のテキスト作成、必要資材の調達、教室や学校備品の使用に関する実行委員会との渉外といった役割を振った。

「すまんけンど、山科には、もひとつ頼みがある」と北条が言ったのは、種山ヶ原の動画のナレーションだった。

 山科は声がやさしく、発音がきれいで、一語一語のキレもいいというのがフィーチャーの理由だった。

「シナリオはオレが考えていた分が、だいたいできている。それに山科なりの味付けをくわえてもらえたらありがたい」

 愛は、北条に頼まれたことが嬉しかった。でも、

(北条先輩の目、どうして見られないんだろう?)

 夏合宿でも、釜石線の車内でも、カッパ淵でも、常堅寺でも、ちゃんと目を見て話せていたのに。

 怖い? キライ? ウザい? つらい? 違う、どれでもない。

 世久原先輩に迫られたときも北条のことを思った。北条先輩が背中を守ってくれていたら、何も怖くないと思っていた。

(なのに――)

 いつの間にか、愛は、向かいの席でPCを覗き込んでいる北条の顔を見つめていた。北条は、愛の視線に気付かない。気付いたのは、北条の隣にいた麻美だった。

「・・・・・・愛ちゃん?」

 麻美の声で、北条も顔を上げた。愛と目が合った。

「・・・・・・ごめんなさい。台本のアドリブ考えていました」。愛の目が伏せた。

「すまんな山科、面倒かける」

 北条は、すぐPC画面に戻った。

 

 大学祭での天文同好会の出し物――おでん、プラネタリウム、写真展示、動画は、いずれも大好評だった。

 おでんは、前年の売り上げを大きく超え、浜野会長は「新しい反射式望遠鏡を卒業の置きみやげにできる」といって泣いた。

 プラネタリウムは、特に子どもたちに大人気で、ドームの前には三〇分待ちの列もできた。機材、照明、音響を操作する世久原の手さばきも、有紀先輩の解説も鮮やかで、里香と瑠衣と香織は、世久原がやらかしたことは別にして、ちょっと感動していた。

 愛のナレーションを加えた動画は、映画研究会主催の映画祭で、ドキュメント部門のグランプリを獲得した。さらに愛の声は「落ち着きあるナチュラルな演技と、美しくかわいらしい声が聞く人の心をやさしく癒す」と講評されて、審査員特別賞に輝いた。

 天文同好会の大学祭は大団円――となるはずだった。

 しかし〝事件〟が起きた。それは、大学祭終了後の打ち上げの席でのことだった。

 そして、その〝事件〟のあと、北条は、天文同好会を退会する――。

 

 天文同好会の打ち上げは、新宿の居酒屋の大部屋を借り切って行われた。

 浜野は会員たちの活躍を労い、そして北条の動画のグランプリ受賞と、愛のナレーションの審査員特別賞受賞をみんなの前で称えた。

 北条は「種山ヶ原の星空の勝利です。そして、山科のナレーションのおかげです」と短くあいさつした。

 愛は「北条先輩の映像と台本がステキだったからです。私は読んだだけです」と謙遜した。

 そして浜野は、おでんの売上金を振り込んだ銀行の預金通帳を、天文同行会の新会長である三年生の内記航(わたる)に渡し、これで新しい望遠鏡を買ってくれと言った。


 さあ、今日は無礼講でいくぞーぉ。

 内記が乾杯の音頭を執り、酒宴がはじまった。

 愛は、一年女子のグループで寄り合い、ウーロン茶を飲んでいた。

「愛ちん、飲まないの?」。里香が大ジョッキを片手に、愛に尋ねる。

「だって未成年だし・・・・・・」

「相変わらず真面目ね。じゃあ、あたしたちの立場は?」

 瑠衣は『賀茂鶴』の、麻美は『刈穂』の四合瓶をそれぞれ抱いていた。

「ポン酒っておいしいの?」。グラスに『黒霧島』を注ぎながら香織が訊いた。

「ポン酒って言うな。日本酒って言ってよ」。麻美が香織に抗議した。

「ねえ、誰がいちばん強いの?」。愛がみんなに質問すると、里香と瑠衣と香織が同時に麻美を指した。

「あさちゃん?」

「麻美はね、強いなんてもんじゃないわ。うわばみよ、うわばみ。っていうか、もうザルね。いや、ワク?」。香織が苦笑した。

「お酒が強い弱いっていうのには酒豪遺伝子ってのが関わっていて、その出現率は、秋田県民だと七十六%なんだって。つまり下戸は四人にひとりしかいないの」

 経済学部でマーケティング専攻志望の香織は物識りだ。数字にも強い。

「秋田じゃ、水道の蛇口をひねるとお酒が出てきて、それでご飯を炊いて味噌汁も作るんだって。逆にいちばん弱いのは三重県だったかな。確か三十九%」

「広島は?」。アタリメを食いちぎりながら瑠衣が尋ねた。

「細かいランキングは覚えてないわ。でも上位三県は、確か秋田、岩手、鹿児島だったはずよ」。香織の歯がゲソを引き裂いた。

「なら愛ちんも、きっとイケるんちゃう?」。里香がつくねにかぶりつく。

 里香は、すらりとして姿勢もよく、長い髪を後ろで束ねると、いかにも美人剣士という感じで、きりっとかっこいい。

 瑠衣は、目がくりっとした可憐な印象で、整った顔立ちを、ボブヘアがふわりとした輪郭で囲んでいた。

 香織は、口角がきゅんと上がって、笑うと両頬にえくぼが浮かび、メガネもよく似合っている。落ち着いていて、一年女子のリーダー格でもある。

 今年の天文同好会一年女子は、みんなかわいくて粒ぞろいだ、というのが男子会員たちの一致した印象だった。

 〝※ ただし、もう少しガラがよければ〟という「※印」付きだったが。

「じゃあ、あたしと、さと先輩と、愛ちゃんでトップスリーだね」

 麻美が四合瓶を大事そうにかかえ、コップに注いだ。しかし、半分も満たさずに瓶が空になった。

「あれっ? なんだ、もう空っぽ?」。麻美は顔色さえ変わっていない。

「あさちゃん、どれぐらいまで飲めるの?」。愛は、ちょっと怖くなった。

「わかんない。だって未成年だし、二升までしか試したことないもん」

「もうええ。それ以上試さんでええ」。瑠衣も怖くなったらしい。

(北条先輩もきっと強いのかな?)

 愛が会場の中に北条の姿を探した。二つ隣の座卓の壁際で、北条は世久原と会話していた。

 愛がテーブルに向き直り、ウーロン茶のグラスを唇に近づけたそのとき――。

 

「ほおじょおーっ」

 世久原の大声が会場に響いた。

「おおおおまえ、グリャンプルとっとっとったって、いいいい気んなんにゃよ!」

 だいぶ酔っぱらっているらしい世久原が、向かい合って正座している北条に、おしぼりを投げつけた。会場が静まりかえった。

 北条は、歓談の輪に加わらずにひとり会場の隅で杯を重ねていた世久原に、瓶ビールを持って行って、声を掛けたのだった。

 世久原はすでにしたたか酔っていた。初めは、北条、お前はいいやつだなぁ、などと言って北条の酌を受け、笑っていた。

 ところが、世久原は、この酒宴がはじまってから、ちらちらと愛の姿を追い続けていた。その愛が、会場に誰かを捜しはじめ、その目線が北条に止まったことに気付いて、〝あの日〟から抱いていた身勝手な憤懣と鬱屈が爆発した。

「北条、おまえ・・・・・・」

 世久原が、よろよろと、危なっかしく立ち上がった。

「おまえ、山科とは何回寝たんだ?」

 ――私? どうして私の名前がでてくるの?

 愛が驚いて、世久原と北条を見た。

 北条は、きっ、と世久原をにらんでいる。

「どうだった。え?」

(また、あんカバチタレがぁ――)

 立ちかけた瑠衣を、香織が制する。

「あの女ぁな、誰とでもすぐに寝る女だぞぉ」

 世久原が愛を指した。それにつられてみんなの目が愛に集まった。

 反射的に目を向けてしまっただけの反応だったが、愛は、みんなのその視線と、世久原の汚い言葉に、全身の血が凍り付くようなおぞましさを感じた。

 世久原は、愛にフラられたことを根に持っていた。その愛が、北条の動画を手伝い、グリャンプルもといグランプリを獲得したこともおもしろくなかった。

「おい、世久原! やめろ!」

 浜野が、世久原の手首をつかんで座らせようとしたが、世久原は浜野の手を振り払った。

「んなぁ、何回ヤったんだぁ?」

 トロンとした目。口元がにやついている。

 北条が立ち上がって、世久原を見下ろした。

「世久原先輩――」

 北条は、世久原よりもずっと背が高い。世久原は一瞬たじろいだ。

「オレのことは女たらしでも好色漢でもスケベでも、どう呼んでもらってもいいです。だけんド、山科のことをそんなふうに言うのだけは、なんぼ先輩でも許せません」

 愛は、動くことも声を出すこともできなかった。

 今いったいなにが起きているのか、どうして自分があんなにひどい言われ方をされなければいけないのか、どうして北条先輩が私のことで世久原先輩にからまれているのか――。

 〝あの日〟の世久原の目が、頭の中で愛に迫ってきた。愛の視界がだんだん白くなっていった。

「――愛ちゃん?」

 麻美が声をかけるのと同時に、愛が倒れた。

 北条が、麻美の声に反応した。崩れていく愛の姿が見えた。

 北条が拳を握った。

「昼行灯」とあだ名された北条が怒るところなど、誰も見たことがない。

 北条の全身から怒気が放たれていた。それを世久原は真っ正面で受けている。

「・・・・・・おまえ、オレを、なぐ――」

 世久原が北条の拳を見て、後ずさりしたそのとき、世久原の足がもつれた。

 ガチャーンという音とともに、世久原が右側の座卓にひっくり返った。

 北条は、とっさに世久原の身体を支えようと、左手を世久原に差し出した。しかし、支えきる前に世久原が倒れ、北条の左手は、世久原の身体の下敷きになり、その手がコップと皿を割った。

 破片が世久原の肩と側頭部に刺さった。北条の左手からも血が滴った。

 会場は大騒ぎになった。店員が駆けつけ、すぐ救急車が呼ばれた。世久原は頭を打っていたが、意識はあり、うーんと唸っている。

 一年生の座では、麻美が愛を抱いておろおろしていた。里香と瑠衣は立ったまま、倒れた世久原の身体をにらみつけて全身を振るわせていた。

 麻美と一緒に愛を支えていた香織が、北条の顔を見た。北条は、左手を押さえながら、さっきまで世久原が立っていたところを見下ろして動かない。

「どうしてこんな――」

 香織の視線に、北条が気付いた

 傷におしぼりを当てて、ポケットから引っ張り出した手ぬぐいをぐるぐると左手に巻き付けてから、香織たち一年生の方へ歩いてきた。

 北条は、愛の前に膝をついた。目に涙が浮かんでいた。

(さと先輩――?)。麻美が北条の目を見て驚いた。

 北条は麻美の腕の中で介抱されている愛の手を取って、手ぬぐいに血が滲んでいるのにもかまわず、両手でそっと、その小さな手を包んだ。

「山科、すまね。オレのせいで――」。

 里香と瑠衣も座りこんだ。

 北条は、一年女子たちに頭を下げながら言った。

「すまねえが、山科のこと頼むナ。オレは今から世久原先輩に付き添って病院サ行ってくる」

「さと先輩、なんで先輩が付き添わなアカンのですか?」

 行く必要なんてないじゃないですか、と、里香が泣きながら北条のシャツの袖を掴んだ。

「ケガをさせたのはオレだ」

「あんアホが勝手に転んだんです。さと先輩は悪くない」。瑠衣も泣き出した。

「いや。オラぁあのとき先輩をぶん殴ろうとしたんダ。その素振りに先輩は驚いて倒れたんだ。オレのせいだ」

「そんなこと――」。香織も納得がいかない。

「それに、オレもこの通りだしナ」。左手を持ち上げた北条の顔が一瞬歪んだ。

「佐竹、小倉、頼んだぞ。和泉、佐伯、ありがとうナ」

 北条は、里香と瑠衣の頭をぽんっとたたき、立ち上がったあと、到着した救急隊員に担架に乗せられ運ばれていく世久原と、やはり世久原に付き添うという浜野と内記と一緒に店を出ていった。

 愛は、眠っているように、麻美の腕の中で目を閉じていた。

 

 翌日、北条は、浜野と内記に会い、退会届を出した。

「北条、悪いのはお前じゃない。世久原が勝手に暴れて、勝手に転んだんだ」。浜野は留意した。

「そうだ。お前が背負い込むことじゃない。お前はオレの次の会長候補だ。辞めるな」。内記も北条に去られることは寂しかった。

 だが、北条は、自分が世久原先輩に礼を失した態度をとったから、世久原先輩は驚いて転んだんです。無礼講だったとはいえ、オレのせいです、と上下関係にこだわる。

「いや、しかし――」。浜野が説得を続ける。

 

 病院で酔いが覚めた世久原は、お前のせいでケガをした、責任を取れと言って北条を責めた。

 そのあまりの態度に、ついに浜野賀津也かづや(横浜市南区出身・山手ボクシングジム練習生・ウェルター級一四四パウンド・別名〝ハマのカヅヤ〟)の怒りが爆発した。

 キュッキュッと軽くステップを踏んだあと、浜野は世久原の顔面に右ストレートをぶち込んだ。世久原が鼻血を吹き上げた。

 浜野は、今のは山科の分だと言い、続いて左ボディフックをレバーに、右ボディアッパーをストマックにワン・ツーでたたき込んだ。げぼっと胃液を吐いた世久原に、今のは北条とオレの分だと言った。

 そして、お前がまだこれ以上ガタガタ言うなら、一年女子たちと一緒に学生課に行って、お前が山科にはたらいた〝狼藉〟を訴えると言った。

 何なら警察でもいいぞ? ――午前二時の本牧埠頭には誰もいなかったなぁ。

 北条と内記は、浜野から、世久原の〝狼藉〟を初めて聞かされた。

 北条は、怒りよりも、世久原のことが心配になった。

 この先、この人はどんな人生を過ごして行くのだろう――。

 

「一応分かった――」。浜野は、退会ではなく休会扱いにすると言った。

「世久原はもう強制退会させた。三月にはもう大学からもいなくなる。強制退会処分だからもうOB会にも出られん。だから遅くとも四月には復帰して、内記を支えてやってくれ」

「オレからも頼む」。内記が北条に頭を下げた。

 先輩に頭を下げられて、北条もうなずいた。

 内記が、包帯をぐるぐる巻きにされた北条の左手を見た。「何針縫った?」

「七針と九針。だったっけかナ?」

「まだ、だいぶ痛むか?」

「痛いッス。――いろんな意味で」

 

 愛は、北条たちが店を出ていって間もなく目を覚ました。有紀や小泉も愛を囲んで泣いていた。

 愛は、その状況をすぐ理解した。そして世久原の言葉を思い出して、再び嫌悪がこみ上げ、その場で嘔吐した。

 男性の中には、あんなふうに女性を見る人もいるのか――。悔しくて、悲しかった。

 その日は、阿佐ヶ谷の香織のアパートに泊まり、一年女子全員が愛に付き添った。

 翌日には、一年男子会員三名も、愛を心配して、香織のアパートにやって来た。

 そこへ、内記から、同好会のグループLINEで一斉送信されたメッセージが届いた。

 北条が退会届を出したが、しばらくは休会扱いにする。近日、緊急ミーティング行う――。

 北条を慕っていた男子たちは憤ったが、拳を握りしめてぐっとこらえた。北条の日々の立ち居振る舞いが、彼らに与えた薫陶だろうか。

 ――どうしてこんなことになっちゃんたんだろう。

 愛は、北条に会いたくてたまらなかった。

 

 緊急ミーティングは三日後に行われた。

 浜野賀津也前会長が、セクハラ課長、もとい、世久原可長を病院のベッドに沈めた、という話を聞かされた武闘派の一年女子たちは快哉を叫んだ。

 内記新会長は、北条はしばらく休会するけれど、四月までには復帰させると言った。

「冬合宿には、北条にも来てもらいます。アイツがいないと四年生の先輩方も、もちろんオレたちも寂しいからね」。一年男子が沸いた。

 続いて浜野は、世久原が、北条と山科を侮辱する言動と行動をとったことから強制退会処分にしたと話した。

「世久原の山科に対する暴言は、北条のグランプリ受賞に嫉妬した酔漢のたわごとである。・・・・・・なあ、オレたちはみんな、山科がどんな女の子であるか、もちろんよぉーく知ってるよな?」。全員が拍手した。

「山科を泣かせたヤツはオレがコロした」と言って喝采を浴びたあと「さぁ、次は冬合宿だ。四年生にとってはいよいよ最後。最高の合宿にしたい。みんな、よろしく頼むぞ」と、同好会の団結を確かめるように言った。

「山科――」

「はい?」

「お前が元気を出さないと、北条も帰って来づらい。北条のこと、頼んだぞ」

「――はい!」

 浜野のスピーチは、全員の共有するところとなり、何よりも愛をひどく励ました。

「ハマのカヅ先輩、めっちゃ、かっこいいー!」

 里香と瑠衣と香織が浜野に抱きついた。

 里香のフライングボディアタックと、瑠衣のスリーパーホールドと、香織のベアハッグがキマって、浜野は教室の床に沈んだ。

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