第5話 雲の峰
【二〇一七年八月六日】
天文同好会の遠征合宿は、連日晴天に恵まれ、予備日を使うことなく八月六日で終了した。
合宿最終日、朝食兼昼食をすませたあと、同好会員たちはテントを撤収し、全員で管理人さんにあいさつをして、午後二時、迎えに来たバスで種山ヶ原を下った。
会員たちは、水沢江刺駅から東京駅へ戻ったあと、そこで解散式を行うことになっていたが、八人ほどが岩手に残った。
ここから日本海側に出て新潟の実家へ帰るという川上先輩、平泉に寄っていくという二年生グループ、南部鉄器に興味があるから奥州市の資料館へ行くという岩本先輩など、残留組は駅前の広場で小さな現地解散式を行った。
愛と北条は、函館の実家へ帰る佐藤有紀先輩と一緒に盛岡行きの『やまびこ』に乗り込んだ。有紀は、盛岡駅で『はやぶさ』に乗り換えるという。
「今日はひとつ乗り換えがあるけれど、新幹線が函館まで延びてくれて楽ちんだわ」。
終点まで寝て行けるのが嬉しいと笑った。
遠野を目指すふたりは、新花巻駅で有紀と別れ、釜石線に乗り換えた。
釜石線の新花巻駅は、高架駅である新幹線駅の下にある。新幹線駅の堂々とした風格に比べ、単線のレールに片側一本の短いプラットホームがあるだけの小さな駅だった。
愛は、そのプラットホームに掲げられた駅名表示板に描かれている星座の絵に気付いた。「新花巻」という駅名のほかに「Stelaro ステラーロ:星座」と書いてある。
「ステラーロ、星座・・・・・・? 先輩、これ、なんですか?」
「ああそれ? エスペラント語だサ」
「エスペラント語?」
「そう。宮沢賢治が詩や童話のなかでよく使ってたんダ。世界中の人たちが共通の言語で話せるようにってつくり出された、いわゆる人工言語ってやつだナ。実際は英語が世界共通語になってしまってるけれど」
「そういえば、賢治さんって花巻の人でしたよね」
そうサ、と答えたあと、北条は下り方向、遠野・釜石方面を指しながら言った。
「釜石線って『銀河鉄道の夜』のモデルになった路線なのサ」
「えっ!」
「覚えておきなよ、天文同好会一年生」
北条が胸を張って笑った。
「この路線が釜石線になる前、『岩手軽便鉄道』ってのがここを走っていた。正しくはそっちがモデルだって言われてる。今では路線にも愛称があって『銀河ドリームライン』っていうんだ」
「そうなんですね」
「で、賢治さんにちなんで、釜石線の駅には、本来の駅名のほかに、エスペラント語でそれぞれ愛称が付けられているのサ」
(・・・・・・その釜石線に乗れば寝ちゃう人なのに)
でも、星や賢治のことになると、北条は詳しかった。
「今日は遠野までは各駅停車だから、ひと駅ずつ見ていける。ちなみに遠野は『フォルクローロ』」
「『民話』?」
「あたりっ」
小山田駅「Luna Nokto ルーナ・ノクト:月夜」
土沢駅「Brila Rivero ブリーラ・リヴェーロ:光る川」
晴山駅「?eriz-arboj チェリーズ・アルボイ:桜並木」
宮守駅「Galaksia Kajo ガラクシーア・カーヨ:銀河のプラットホーム」
鱒沢駅「Lakta Vojo ラクタ・ヴォーヨ:天の川」
愛は、駅に着くたびに駅名表示板を目で追いかけた。
今日は北条も眠っていなかった。向かい合った席で真剣な顔をして、エスペラント語の駅名を小さな声で復唱する愛の様子が、北条はおかしかった。
「楽しそうだな」
「はい!」
あまりにも素直すぎる愛の返事に北条も苦笑するしかなかった。北条もつられて嬉しくなった。
「よかった」
「えっ?」
「んっ? いや、山科を遠野に誘ってよかったってことサ」
愛は、改めて北条の横顔を見た。案外まつげが長いんだなと気付いた。
昼行灯とあだ名された北条は、対人接触も穏やかで、がっしりと大きな身体の上に懐っこい笑顔をのせている。やや骨張った頬にはいつも無精ひげがそり残されていたりして、あまり外見にこだわるところはなさそうだ。ばっさりと垂れた前髪を、ときどきうるさそうにかき上げる。
いつも遠くを見ながらにこにこしている感じの大きめな瞳。ちょっとおにいちゃんに似ているかも?
北条が愛の視線に気付いた。
「なに?」
「北条先輩・・・・・・って」
「ん?」
「下のお名前はなんて言うんでしたっけ?」
「はぁ?」。北条が、怒気のない目で愛をにらんだ。
「部員名簿ぐらい見ろよ。・・・・・・なんだ、ぼーっとしたヤツだなー。山科って」
「先輩にだけは言われたくありません」
愛がくすくす笑った。
「さとしだよ。哲学の哲って書いてさとし。山科の話に出てきた中屋敷哲さんって人と同じサ」
愛は、もちろん「北条哲(さとし)」の名前を知っている。でも、今、岩手県生まれの〝さとしさん〟と一緒に岩手にいて、銀河鉄道のモデルになった鉄路に乗っていることがちょっと不思議に感じて、あえて北条の口から言わせてみたくなったのだ。
「先輩も〝さとさん〟って呼ばれたことはありますか?」
「ここらへんだと・・・・・・」
北条が窓の外を目で示す。北条が言う〝ここらへん〟とは、今にもトトロの猫バスが出てきそうな、森と田んぼと草原が広がる〝この地方〟のことを言っている。
「訛るから〝さどっすぁん〟だな」
さどっしゃん? さどっさん?
ちょっと難しいです、と言いながら、愛が小声で復唱している。
列車が遠野駅に着いた。時刻はちょうど午後五時だった。
遠野駅では愛だけが降りて、北条はこのまま釜石の実家へ帰り、翌日、遠野駅着九時五十八分の列車で、また来てくれることになった。
「藤田先輩に、北条がよろしく言ってたって伝えてくれ」。
愛は、駅に付設されたホテルにチェックインした。北条が卒業した高校時代の先輩が勤めているとのことで、北条が電話で予約してくれたのだった。
「お待ちしておりました。山科様。北条くんのお友だちの方ですね?」
レセプションで対応してくれたのは、大学を出たばかりかな? と思う、子馬のように澄んだ目が美しい大人の女性だった。
(この人が、先輩の先輩?)
「北条先輩の高校時代の先輩にあたられる方、藤田さんですか?」
左胸に「藤田佐智代」と刻字されたネームプレートを見つけた。
「高校時代?」。
佐智代が嬉しそうな笑顔で、くすっと笑う。
「たしかに釜石南陵高校の先輩っていう意味では間違いないけれど、家が隣同士の幼なじみなんですよ。〝さとくん〟は私の七歳年下のかわいい弟分なんです」
七歳違いということは、二十七歳! とてもそうは見えない。
「北条先輩が、藤田先輩によろしくとのことでした」
「山科様、ありがとうございます。って、アイツ、普段は『佐智ねえ』って呼ぶクセにサ」
北条先輩の〝お姉さん〟がいた。――ここは、岩手なんだ。
宿はB&B形式で、夕食は付いていない。空はまだ明るかった。愛は遠野の街を歩いてみることにした。
それほど遠くないところで、どこか街を見晴らせる場所へ行きたいのですが、とフロントの佐智代に尋ねると、鍋倉公園という場所を教えてくれた。
駅の少し南、歩いて二十分ほど。お城の跡だという。
坂道だから気をつけてね、と、佐智代が小さく手を振ってくれた。
一方、北条は、釜石線の列車の窓から早池峰山を探していた。
遠野駅から釜石方面へひとつ目の駅、「Kapao カパーオ:カッパ」と愛称された青笹駅付近で進行方向後ろを振り返ると、里山の連なりの向こうに、夕日と対峙する早池峰山の姿が確認できた。
(そうか。釜石線から見えんだサ、早池峰山)
釜石線を走る車輌は固定窓で開閉できない。北条は、窓ガラスに顔を押しつけて早池峰山が見えなくなるまでその姿を追っていた。
北条が列車の窓から振り返った早池峰山の残照を、愛も鍋倉公園の旧三の丸跡に建つ天守閣型の展望台から見ていた。
眼下に広がる遠野の街は、もう西郊の山の影に翳されていたけれど、街の背後に連なって見える東方や北方の山並みは、まだ夕日に照らされていた。
市街地の少し先、田んぼの中から山容を立ち上げた、ちょっととがった山の向こう側に、早池峰山が〝見つかっちゃった〟というふうに、山頂部分を小さく覗かせていた。
見つけちゃった―――。
愛は小さく手を振って、早池峰山にあいさつした。
【二〇一七年八月七日】
翌日、愛と北条は、遠野駅で合流した。
朝から気温がぐんぐん上昇している。北条を改札口で待つ間、愛が見上げた駅前の気温表示板は、午前十時少し前だというのに、もう三〇度を示していた。
北条は、駅のホールからすぐ入館できる付設ホテルのフロントで〝佐智ねえ〟にあいさつをしようと思っていたが、今日は遅番とのことで、フロントに佐智代はいなかった。
「――さて。ある程度の目算というか、だいたいの場所を想定しないとナ」
北条は、そう言って地図を広げた。
「昨日、下り列車の窓から確認したんだ。確かに釜石線から早池峰山は見えた。でも、あの距離感は少し違うかな?」
こっちの方へ行ってみよう――と、ふたりは、駅前で借りた黄色いレンタサイクルで、遠野郷の北東、土淵というエリアを目指して漕ぎ出した。
だが、この日、愛は朝から身体がだるかった。
前日までいた種山ヶ原は、夜は気温が二十度を下回るほど涼しかった。昼の間に寝るときも、テントのなかを吹き抜けていく風は涼しくて、長袖のシャツでシュラフの上に転がるだけで、高原の静けさとも相まって、気持ちいいほどよく眠れた。
しかし、昨夜の遠野は暑かった。冷房の風が苦手な愛は、部屋の窓を開けてガマンしていたが、夜になっても気温は下がらず、とうとう冷房のスイッチを入れ、そして、そのまま寝落ちしてしまった。
明け方になって寒さで目を覚ました。まずいと思ってすぐ冷房を切ったが、腕のあたりが冷えきっていて、ぞくぞくする感覚があった。
(風邪、引いちゃったかも・・・・・・)
窓を開けると、朝の大気は、昨日の暑さをそのまま今日に持ち越して、寒かった部屋の空気をどんどん外へ引っ張り出した。早朝だというのに盆地には熱気が溜まっていた。
見上げる空に雲はない。山の端から昇ってきた太陽が商店街の窓を照らしはじめた。
(今日も暑くなりそう)
・・・・・・と、愛が予想したとおり、自転車を漕ぎ出した瞬間、逃れようもない暑さと日射しが愛の身体を包み、たたいた。
早瀬川を渡り、バイパスを越えて、家並みの中を一五分も走れば、やがて左手に、出穂したばかりの稲の青波が風と太陽の光に踊る、のどか過ぎるほどのどかな景色が、遠い山の端まで広がりはじめた。
道はほぼ平坦だ。今日ほど暑くなければ、自然にとけ込んでいるような人々の暮らしの風景の中を、どこまでも、ずーっと自転車で走っていたくなっただろう。
土淵に近付いたとき、左手の見晴らしをさえぎっていた田んぼの先の山影が途切れ、風景の奥行きがぐっと深くなった。
北条は、路肩に自転車を止め、少し遅れてついてきた愛に、「ここ」と地面を指した。
そして愛と合わせた目線を、北西の空へ誘導した。
「なあ、ここ、あの絵の構図に近いんじゃないか?」
愛も気付いていた。北条に追いついて自転車を止め、稲田の沖を見晴らした。
残雪こそ消えていたが、永劫の風雪に洗われた早池峰山の荒々しい山肌が見える。
とくんっ。
愛は、胸が小さく鳴るのを感じた。
(そうだ、似ている。あの絵が描かれた場所・・・・・・)
緑色の明るい大地の広がりの彼方に、空の青とは一線を画した早池峰山の影が浮かぶ。
だが、その山容は、熱い大気に揺らされ、にじんで、空色に同化してしまいそうだった。
少し心もとないその姿が、愛に別の疲労感を誘った。
愛が、スマホを取り出して絵の写真と風景とを見比べた。
「絵は、もう少し、・・・・・・高いところから、田んぼを見晴らしていますね・・・・・・。それに、もう少し遠景・・・・・・」
愛は、呼吸の乱れを北条に知られないように息を懸命に整えながらゆっくりと話した。緩やかに寄せてくる風の中で、北条は愛の息づかいに気が付かない。
「高いところといったら――」
ふたりは走ってきた道の右側に盛り上がる丘を見上げた。
しかし、そこはカラマツの大木が生い茂り、自転車も人も登って行けそうになかった。見晴らしも利かなさそうだ。
北条がもう一度地図を見た。
「こっちはどうかな?」
北条が指したのは、土淵町のやや東南にある下山という山だった。現在地からは一㎞ほどだろうか。
でも、こんな地図では不十分だと北条は後悔した。地図は、駅の「ご自由にお取りくださいラック」に置かれていた観光マップだった。デフォルメされたイラストマップなどではなかったけれど、平面的すぎて土地の起伏が分かりにくかった。
もう少し立体的に俯瞰できる地図がほしい。北条が、スマホを取り出して、国土地理院の地図を検索しようとしたとき、北条は、愛の異変に気付いた。
「山科? 大丈夫か?」
愛は、道の数メートル先に視線を落とし、ハンドルに寄りかかるように呼吸を整えていた。じりじりと照りつける太陽。近くに日陰はない。
「・・・・・・大丈夫です」。ムリに明るい表情をつくって北条に向けた。
絵の場所探しなんて、他者にはきっと無意味な行為だ。見つけたとしても何か価値あるものが得られるわけでもない。ましてや探している本人でさえ理由は未だに曖昧なままなのだ。
そんなことに付き合ってもらっている北条に、迷惑はかけられない、と思った。
しかし、ペダルを踏む愛の足は重い。午前が深まるにつれて、遠野盆地の気温はさらに上昇しはじめていた。
「自転車、押して行くか?」
「いえ、乗っていた方が楽です」
駅から走り出して、まだ三十分ほどだったが、愛はひどくつらそうだった。
北条がディパックからスポーツドリンクを取り出して愛に手渡した。出発前に駅前の自販機で買い、保冷パックに包んでおいたものだ。
口に含むと、冷たくて、喉が心地いい。冷たさがそのままお腹の中に落ちていくのが分かった。
水分が補給できたことで、愛は少し落ち着くことができた。
「行きましょう」。今度は愛が先に漕ぎ出した。
北条は、愛の後ろ姿を見ていた。全身にムダな力が入り、ムリしている様子が分かった。
土淵の交差点を右に曲がり、早池峰山を背にして田んぼの中を東南に走る。逆光の中に稲田が遠く続いていた。太陽が正面から顔を叩く。
左側に山があった。これが下山らしい。しかし、こちらも森が深く、登って行けそうな場所は見あたらない。
振り返ると、早池峰山は下山の裾に隠され、見えなくなっている。
駅をスタートして、走った距離はおそらくまだ六㎞ほどだったが、愛の様子は、もうハッキリとおかしかった。
愛の自転車が止まった。サドルから降りて両足をつき、ハンドルにうつぶせて苦しそうに呼吸している。
「山科、ちょっと休もう」
北条は、脇道を少し入ったところにあった柿の木の下に自分の自転車を止めたあと、戻ってきて愛の自転車を押して運んでくれた。愛の足取りは重い。
柿の木の先は、深い雑木林になっていた。北条は、愛をその中へ誘導し、林に少し入ったところにあった丸太の上に座らせた。
雑木林の中には、信じられないほど涼しい風が流れていた。
(・・・・・・なにこれ? 涼しい――)
暑さに包まれて逃れる術もなかったアスファルトの路上とは、きっと三度から五度ぐらい気温が違っただろう。緑が繁れる林にはこんな不思議があったのかと、愛は感動さえ覚えた。
丸太に座り、青草の上に足を伸ばした。ハンカチを取り出して汗を拭い、自分のおでこに右手を当ててみた。熱かったけれど、風邪のときのような発熱の感覚はなかった。
「熱、あるのか?」。
北条は、愛と向かい合って下草の上に胡座をかいて座り、心配そうに愛の顔を見上げている。
「熱はありません。ホントです。ただ・・・・・・」
愛は、今朝起きたときに感じた違和感を北条に話した。
「合宿の疲れだナ。涼しい高原で昼夜逆転みたいな合宿したあと、こんな暑い盆地に来て朝から自転車漕いだら、そりゃ気分も悪くなるべナ」
昨日までの種山ヶ原と今日の遠野盆地では、きっと十五度以上の気温差だ。
「そう言えば、朝食もほとんど食べられませんでした」
「なんだ。ハンガーノックアウトもプラスだな」
北条は、愛の状態が深刻でないことにほっとした。しかし、この暑さの中、自転車を漕ぎ続けるのはもうムリだろうと思った。まだまだ暑くなる。熱中症や日射病のリスクもある。
「山科。今日は中止にしよう」
「え? でも」
(わざわざ遠野まで戻ってきてくれた先輩に申し訳ない――)
「ホントにぶっ倒れるぞ」
「・・・・・・」
確かに、もしも今、休憩していなかったら、あと数分で本当に倒れてしまっていたかもしれない。
「でも、鹿児島県人が、そうそう何度も来られる場所じゃないですから・・・・・・」
「なんだ。オレが言ったこと、気にしてたのか」
北条が笑った。
「今回の合宿で、だいたい岩手までの距離感が分かったべ? それほど東京から遠くなかったサ? 日帰りだってできる」
そうだった。思っていたほど遠くは感じられなかった。
東北新幹線に乗って三時間、釜石線に乗り換えて一時間。同じく新幹線で鹿児島まで帰ろうとしたら、まだ広島あたりだろうか。
「機会はまだあるサ。なんなら、あの絵が描かれたのと同じ、春にまた来ればいい」
愛は、それもいいなと思った。桜、たんぽぽ、残雪・・・・・・。星空だってきっときれい澄んでいるに違いない。
「そういえば、先輩は暑くないんですか?」
「暑いサ。実はオレも倒れそうだった」。
笑いながら、北条は深草の上に転がった。
北条の白いTシャツに、半月の形をした木漏れ日がたくさん降っている。
(そんな気配はちっともなかったのに)
自分に合わせてくれているのだ。そう思うと、愛はだいぶ気が楽になった。
「もう少し休んだら、ちょっと早いけど、昼飯を食べに行こう。山科の場合は朝食兼昼食だナ」
来た道を戻り、土淵の交差点で国道を横切って、茅葺き屋根の建物を移築保存している「遠野伝承園」という観光施設の食事処に入った。レジで注文して、先払いするシステム。
ここはオレがおごってやるから、好きなもの頼め、と北条が言ってくれた。
「そんな――。暑い中を付き合わせてしまった私にこそご馳走させてください」
「遠野に誘ったのはオレの方だから。気にすんナ」
押しつけだったり、いいところを見せようといった感じはない。北条は、いつもナチュラルだ。
メニューを見ていた愛が、そのなかのひと品を指して北条に尋ねた。
「先輩、〝ひっつみ〟ってなんですか?」
「〝すいとん〟って言えば分かる?」
「あっ、〝だご汁〟!」
愛の意外な大声に、北条が笑い出した。
「鹿児島ではそう言うのか?」
「母が熊本生まれで、ときどきつくってくれます。鹿児島よりも、もう少し北の方でよくつくられるって言ってました。大好きなんです」
「確かに〝だんご汁〟っぽいかもな」
温かい食事の方が、お腹にも身体にもやさしそうだと思った。だご汁との味の違いも知りたくなって、愛はひっつみを選んだ。
「じゃあ、それふたつ」
岩手の田舎料理だと思っていた北条は、愛の故郷でも食べるのだということを知って嬉しくなり、同じものにした。
小麦粉を耳たぶほどの柔らかさにこねて一時間ほど寝かせたものを、鶏肉や野菜、ごぼうなどが入った鍋にちぎって放り込む。「引きちぎる」ことを、岩手では「ひっつむ」という。とってなげ、はっとうなどともいい、農林水産省選定「農山漁村の郷土料理百選」にもなっている岩手県の郷土料理だ。
「あと、ざるそば大盛り。それから味噌おにぎりも」。北条はお腹が空いていたのか、さらにオーダーを追加した。
「そんなに !? 食べられますか?」
「カレーがあればそれも食べたかったナ」
愛が、少しあきれて北条の顔を見上げた。
愛は、運ばれてきたひっつみを、お玉ひしゃくですくい取り、お箸でつまみ上げて興味深そうに眺めたあと口に運んだ。
「どう?」。味噌おにぎりを頬張りながら北条が訊いた。
「母がつくってくれた味とはやっぱり少し違いますけれど、でも、とてもおいしいです」
身体も気持ちも癒されるような味と温かさ。愛は、ベストチョイスだったと思った。
「先輩、すみませんでした。こんな暑い日に・・・・・・」
愛は、食後のお茶を一口飲んだあと、北条に詫びた。
「気にすんナ」
北条は平然としている。ホットコーヒーもぐびっと飲み込んでいる。
(寒暖や冷熱に対する感覚が、ほかの人とは違うのかしら・・・・・・?)
結局、絵が描かれた場所がどこなのか。はっきりとは分からなかったが、短い時間で得られた情報をまとめると、①遠野で描かれたことはほぼ間違いない。②今いる土淵からは遠くない。③田んぼを見下ろす少し高い場所。
「――ということかナ?」
北条が、スマホで国土地理院の地図を検索して、見せてくれた。
「こっち・・・・・・。土淵飯豊ってところか、沢田、あるいは青笹町のやや東・・・・・・」
「今度来るときは、もう少し詳細な地図が必要ですね」
「あと考慮すべきは、八十年近く前と今とでは、山も野原も変わっているということだべナ」
そうかもしれない。雑木林が針葉樹の人工林になっていたり、野原が耕地になっていたり。
「それに雑木林は落葉すれば、案外遅い春まで芽吹かないから、冬や春なら視界が利くかもナ。カラマツ林もそう。だからさっきの小山もまだ候補のうちだ」
常緑樹が多い鹿児島と、落葉樹が多い岩手とでは、移ろう四季の色も違う。
北国では、樹葉は散り落ち、雪が降って、やがて芽吹きの春を迎えたら、新緑の森は次第に深緑へと陰を満たし、錦繍が大地を輝かせたあと、再び雪が舞い積もる。
(景色に対する観察眼も、南の人とは少し違うのかも)
ちょうど昼時の食事処は満席に近かったが、待ち時間が出るほどではなかった。愛は、ゆっくりと温かい食事を摂って身体を休ませることができたこと、また、場所についての大まかな目当てがつけられたことで、やっと元気になれた。
けれども、外はいよいよ暑そうだった。その熱気と日射しに張り合って、もう一度、自転車を漕ぎ出すためには、元気よりも勇気が要りそうだった。
時刻は午後一時を少し過ぎていた。
「近くに涼しそうな場所があったナ」
食事処に併設された売店を覗いていたとき、河童のストラップを見つけた北条が言った。
「カッパ淵サ行ってみよう」
歩いてでも行けるはずだ、と北条は言った。自転車を伝承園の駐輪スペースに止めおいたまま、ふたりは再び強烈な日射しのなかを歩きはじめた。旧国道を渡り、ホップ畑の中を横切って、道の先に見えている杉林に向かった。
ほどなく、常堅寺というお寺の、堂々とした山門に出合った。
うるさいほど降ってくるセミの声。黒々とした杉林。そこから漏れてくる光のコントラスト。境内に漂う寂寞とした空気に、愛はふと、芭蕉の句を思い浮かべた。
「あった、あった」
北条が足早に駆け寄った先に、頭のてっぺんが平らな狛犬が、木漏れ日の中にちょこんと座っていた。
「十年ぶりぐらいだな」。北条が狛犬の頭をなでた。
「先輩、ここを訪ねたことがあるんですか?」
「小学校の遠足以来だけどナ」
そばに「かっぱ狛犬」と大書された木柱があった。
「かっぱ狛犬?」
「そう。こんな話しがあるンだ」と、北条が教えてくれた。
常堅寺は、延徳二年(一四九〇)に開山された曹洞宗の古刹で、ある時、常堅寺が火災に遭ったとき、寺の裏を流れている小川から河童が現れて、消火活動を手伝ってくれた。住職はこれに感謝し、河童を模した一対の狛犬をつくって、お寺の守り神としたのだという。
「ステキなお話しですね」
愛も狛犬の頭をなでた。
しかし、柳田國男が『遠野物語』に記した遠野の河童伝承は、河童に見初められ、魔に捕らえられて河童の子どもを身ごもった女の話である。
『川には河童多く住めり。猿ヶ石川殊に多し。
松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕みたる者あり。
生まれし子は斬り刻みて、一升樽に入れ、土中に埋めたり。
其形極めて醜怪なるものなりき』
生まれてきた子どもの手には水かきがあった。その赤子は殺され、切り刻まれて樽に入れられ、地中深くほった穴に埋められたのだという。
遠野の河童にまつわるエピソードには、常堅寺のかっぱ狛犬のようなハートウォームな話もあれば、『遠野物語』のような、おどろおどろしい怪異譚もある。
愛が北条の先に立ち、カッパ淵へ続く小径を歩きはじめた。
北条は『遠野物語』に採録されている逸話を知っていたが、冒頭の一行だけを愛に教えた。
「そうかぁ。遠野にはたくさん棲んでいたんですね。河童くん」
愛は、遠野駅前の広場にあった河童の像を思い出した。遠野では、あちらこちらで河童の像やイラストを見かける。かわいらしく表現されているものが多いが、遠野駅前の小さな庭園に置かれていた像は、少し怖かった。
ボサボサ髪の上に皿をのせて、大きく鋭い目と、鼻から口のあたりがとがったように突き出してキバをむいている奇怪な顔。ガリガリに痩せた四匹の河童たちが甲羅を背負って岩の上でキュウリをかじっていた。
「『遠野物語』の河童の逸話って、本当は怖いお話しなんですよね」
「えっ? 山科、知ってたのか?」
「『遠野物語』を読んだわけじゃありませんけれど、以前、ラジオの深夜番組で怖い話の特集をしていたとき、遠野の河童の話を聞いたことがあります」
「・・・・・・」
「先輩、ご存じだったのに、怖いお話しだから、気を遣ってくださったんですね」
愛が歩きながらくるっと振り返り、北条の顔を下からのぞき込んだ。
「?」
木漏れ日の中で愛が笑っていた。北条は、その笑顔をかわいいと思った。
愛は、すぐに正面に向き直り、手を後ろに組んで、北条の少し前を軽いステップで歩いて行く。
ふと、北条の心の中に淡い光芒が浮かんだ。秋の空、星々が粒立つ夜空に、ぼんやりと光の渦を滲ませるM31・アンドロメダの雲のような。北条は、ズームレバーを動かしてその光に焦点を合わせようとした。しかし、セミが飛び立つ大きな鳴き声に、その小さな渦は弾けた。
(元気になってよかった)
愛の後ろ姿を見ながら、北条は両腕を広げて軽く背伸びした。
境内を抜け、裏手を流れる小川の畔に出た。小川にかけられた橋を対岸に渡り、小径を下流の方へ少し歩くと、岸辺に繁る深色の葉緑に包まれた、昼なお暗い淵がある。
流れの岸を青草が縁取り、木梢の合間に見える空の青色とともに、木漏れ日が、よく澄んだ川水の上に涼し気な光をやさしく散り降らせている。そこがカッパ淵だった。
河童ばかりでなく、草むらからウサギがひょっこりと顔をのぞかせそうな、リスが背中を駆け上って来そうな、小鳥が肩に止まってささやいてくれそうな、不思議な安らかさを満たした水と緑の素朴な空間――。
愛は、わぁ――と小さく叫んで、淵のそばへ駆け出し、河岸の大きな平石の上にしゃがんで左手を流れに浸した。
「河童に手ぇつかまれるぞ!」
北条がからかうと、愛はぱっと立ち上がって北条を振り返った。右手で左手をかばい、目が丸くなっている。ほんとうに怖かったらしい。
「だるさはもう平気か?」
もう一度、石の上にしゃがんで流れを見つめる愛の背中に声をかけた。
「大丈夫です。こんなにステキな場所に連れてきてくださって、嬉しいです」
空を見上げた。木梢の間から、青空と白い大きな雲が見えた。
観光シーズンの「カッパ淵」は、記念撮影待ちの列ができるほどだが、この日は、先にいたひと組のカップルがスマホの画面をのぞきながら、ちょうど帰路を歩きはじめたところだった。
ステキな場所を独占できた――。愛は平石の上に座った。
北条も少し離れた場所に腰を下ろした。小川の畔に座っている愛の姿が童話の挿絵のように思えて、景色ぐるみ眺めたくなった。
緑のトンネルの中を流れる小川は、さらさらというより、水量をたっぷりたたえて滔々と流れている。緑の中の水辺。暑さが遠のいていく。
愛が、空に向かって両手を広げた。降ってくる光をつかまえようとするみたいに、少し伸びをして涼しい空気を吸い込む。
この空気、東京まで持って帰りたい――。
そこへ、川下から、二羽のツバメが水面すれすれに飛んで来て、ふたりの前をあっという間に通り過ぎた。川面の羽虫を狙っていたらしい。
「先輩、今のツバメですよね? すごいスピード」
愛は、突然飛んできた、その小さな黒いものに驚いた。
「最速で時速二〇〇㎞も出せるらしいぞ。普段はまあ五〇㎞ぐらいだそうだけど」
ツバメは川上でターンして、またふたりに迫ってきたが、途中で急上昇して木梢の影に姿を消した。
「先輩って、ツバメにも詳しいんですね」
「釜石の実家に、毎年、つがいが来て巣をつくるんだ」
「えーっ? かわいい」
「ツバメがやって来る家は、火事にならないなんて言われてナ」
ツバメは、野生動物なのに人間のそばが大好きという不思議な鳥だ。
他の鳥とは違って、木の上や藪のなか、あるいは廃屋や電信柱などには営巣せず、民家の軒先や学校、駅といった人々が行き交う場所を好む。人間の暮らしのそばにいると、天敵であるカラスやヘビが近づきにくいということを知っているからだとも言われる。
そして人間たちも、ツバメが巣をつくる家や商店は「縁起がいい」「繁盛する」「火事にならない」などと言ってツバメを歓迎した。
特に農家にとっては、ツバメは農作物を食い荒らす昆虫などを捕らえてくれる益鳥でもある。農の守り神・福の神として、人間にもっとも大切にされてきた鳥かもしれない。
「先輩のご実家は、ツバメにとって居心地がいい場所なんですね」
「そうなのかナ?」
「居心地いい場所を選ぶのは、野生の本能ですよ」
ツバメはまた、一度つくった巣の場所を忘れずにいて、翌年には、再び同じ巣に戻ってくることもある。
震災以前の釜石の街には、平場にあった家々にも、毎年ツバメがたくさんやって来て巣をつくり、街の中をひゅんひゅん飛び交っていた。
しかし、二〇一一年の春、桜の花が咲くころ、かつて家々が立ち並んでいた場所では重機が動き回っていた。
そこに建っていた家は「ガレキ」と呼ばれるものになり、「撤去」という言葉を使われて、どこかへ運ばれていった。
北条の家のベランダの前にある電線には、三組のツバメが羽を休めていた。ツバメたちは街を見下ろし、かつて自分たちを迎えてくれていた人を、家を探していた。
その年、北条の家には二組のツバメが営巣した。でも、次の年にはまた一組になった。来なかったもう一組は、新しい家を見つけたのか、かつての〝家主〟に再会できたのか、あるいはもっと内陸の、例えば遠野にまでやって来たのか。
「・・・・・・津波のあとの海辺では、そんなこともあったんですね」
愛の右手が座っていた平石をそっとなでた。岩手の大地をなぐさめるように。
「ツバメが街を見下ろしてたのは、単に休んでいただけかもしれないけんド、オレには何かを探しているように見えた。んでも、また今年も釜石サ帰って来てくれたんだなって、すごく嬉しかった」
北条が空を見上げた。
「海の向こうには『常世の国』っていう楽園があって、ツバメは、その国からの使者だっていう話もある。長寿や富貴や、恋愛をもたらす春の神様サ」
「恋愛も?」
「らしいよ」
北条が立ち上がった。
「恋愛ってサ、言い方を変えれば〝縁〟だサ? 新しい縁、絆、繋がり――。震災のあとの春、たくさんの人たちが、全国から、釜石だけでなく東北に来てくれた。ツバメを見ると、あの年の春を思い出すんだ」
カッパ淵に揺れていた木漏れ日が消えた。
北条は、愛に歩み寄ると、愛の右手をつかんで、抱き寄せるように立ち上がらせた。
(――えっ?)
驚いている愛の顔を北条が見下ろした。
「そろそろ来る。そろそろ行こう」
同時に、ガラガラガラーッと、何かが崩れるような音が近くに聞こえた。
「この暑さだ。思ったよりも早く来た」
「えっ?」
「カミナリ様サ。へそとられねえうちに伝承園サ戻るぞ」
言ったとたんに、川下から、冷たい風が急にさぁーと吹き付けてふたりを追い越していった。北条が愛の手を取って川上に走り出した。
左岸から右岸へ、橋を渡りきると、空があっというまに真っ暗になった。稲光りが走り、さらにドドーンという音が、遠野盆地の空気を震わせた。
ふたりは常堅寺の本堂前を駆け過ぎて、山門をくぐってホップ畑の道へ出た。そこへ、ガラスのプールの底が割れたような大雨が、ざざあーっと落ちてきた。
伝承園まではもう間に合わない。ふたりは急いで引き返し、常堅寺の山門に駆け込んだ。
ところが、山門の屋根は大きかったけれど背の高い構造になっていて、ふたりが逃げ込んだ場所には、風とともに雨が吹き付けてきた。
ドーン! ガラガラガラ――。
愛が耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「山科っ! 雷は苦手かぁ!」。雨の音は北条の声もかき消してしまいそうだ。
北条は愛を立ち上がらせて、壁際へ誘導した。
「普段はそんなに怖いと感じたことはありません。でも、今日のは――」
再び、空が破裂したかのような大音響。
「・・・・・・外にいて、こんなにすごい雷に囲まれたのは初めてです」。愛の身体が震えていた。
「山科、後ろ向け」
「えっ?」
「昔、妹にしてやった〝まじない〟をかけてやる」
北条は、愛の肩をつかんで、壁の方を向かせた。そして、立ったままの愛を、背中から包み込むようにして自分の両手を壁についた。
変形の〝壁ドン〟のような恰好だ。
「背中は守ってやっから、へそは自分で守ってろ」
「だっ、大丈夫です。それよりも、それだと先輩だけ濡れてしまいます!」
「濡れるのは、ひとりでいいべサ」
ガラガラ・・・・・・ドドーン!
愛は耳をふさぎ、目をつぶって、山門の壁におでこをもたせかけてうつむいた。
肩のあたりに北条の胸を感じた。塞いだ耳の奥で心臓の音が高まったのはカミナリのせいだけではなかったかもしれない。
少しだけためらったあと、愛は、おでこを壁から離して北条の胸に背中を預けた。北条も半歩分だけ胸を近づけて、愛の背中を包んだ。
雨がまた強くなった。風も吹き荒れている。稲光が走るときのピキッと空気を切り裂く音。
怖い。でも――。
(背中・・・・・・)
北条の〝まじない〟が効いてきたらしい。
ガソリンスタンドの車輌洗浄機のように吹き付けていた雨が、やがて小降りになり、一〇分ほどすると、まるでなかったことのようにピタリと止んだ。雨の音より、山門の屋根から落ちてくる雨だれの音の方が大きくなった。
遠くでは、まだ空がゴロゴロと鳴っていたけれど、どうやら嵐は去ったようだ。
「・・・・・・先輩、もう大丈夫です」
「おう」
北条が、愛から身体を離した。
愛は、もぐり込んでいた布団をはぎ取られたような、居心地のいい場所から追い出されたような寂しさを少し感じた。
本堂の上空、西の空はもう明るくなりはじめていた。なんだかキツネにばかされたような嵐の時間だった。
「先輩の背中、濡れませんでしたか?」
愛が北条の背中をのぞき込んだ。
「ああ。風向きがよかったらしい」
北条はそう言ったけれど、背中から腰、そしてふくらはぎのあたりがだいぶ濡れているようだった。
「まあ、これぐらいなら、また自転車に乗ればすぐに乾くべ。山科も、足もと、けっこうキテるナ」
「表面にちょっと浸みてるだけで、靴の中は平気です」
北条が腕時計を見た。午後二時半になろうとしていた。
天からの打ち水で、周辺は少し涼しくなっていた。止んでいたセミの声も響きはじめ、山門にも太陽の光が戻ってきた。
「先輩、さっきの〝おまじない〟って、妹さんに?」
「んっ? ああ。アイツももう高校二年生だけど、小学生のころはカミナリが大嫌いでナ。いっつも泣き出すもんだから、後ろから抱いてやったンダ」
(抱いて・・・・・・?)
愛の顔が赤くなった。
「背中ぁ守ってやっから、ヘソ守ってろってナ。そしたら、あとで『さとにいちゃん、ありがとう。すごく安心だった』ってナ」
愛の背中には、まだ、北条の胸の感触が残っていた。
「カミナリの音を聞くとアイツを思い出すんだ。だけんド、女子高生に、今、それをやったら、ひっぱたかれるべナ」
北条が振り返り、愛の顔を見下ろして笑った。
「山科も、アイツと同じぐらいの背格好だナ」
「――?」
戻ってきた日射しの中で北条が笑っている。雨の中、山門に駆け込んだときの怖そうな表情とは違って、いつものやさしい顔に戻っていた。
愛は、その笑顔を子どものようだと思った。
ふと、愛の心の中に、小枝のようにパチパチと、小さな火花を散らす線香花火のような光が浮かんだ。膨らんで、ぷるぷると震える光の球。しかし、次の瞬間、名残の雷鳴がどーんと空に響いて、その小さな火の玉は、胸のどこか深いところへ落ちて行って、消えた。
大地から立ち上る湿った空気のなかに夏の匂いがした。
伝承園に戻り、自転車を拾って、ふたりは遠野駅までの道を、肩を並べてゆっくりと自転車を押して歩いた。
途中、立ち止まって田んぼの沖を見晴らした。重なり合う里山の稜線の彼方の雨上がりの午後の空には、早池峰山と、そしてそれよりも高く大きな真っ白な雲の峰たちが、首座を競い合うように居並んでいた。
自転車を返却したあと、北条は、愛が前夜宿泊した駅併設のホテルの佐智代にあいさつした。
「いやぁーや。あづくてたまげだサ。倒れっかど思ったヤ」
「なしてこんな日に自転車サ乗さったの? おれぇさま(御雷様)は大丈夫だったの?」
懐っこい表情でのどかな会話を交わすふたり。愛は、このあと帰省する鹿児島の家族のこと、高校時代の親友・葉百合や柚香のことを思った。
愛はフロントで預かってもらっていた荷物を受け取り、佐智代にお礼を述べた。
「ぜひ、また遠野へおいでくださいね」
佐智代の笑顔に見送られ、愛は、北条と一緒に改札口をくぐった。東京までは四時間ちょっと。さらにアパートに着くのは午後一〇時近くになるだろう。
「オレは、残りの夏休みは地元のラーメン屋でバイト。それと自動車学校だナ」
鹿児島サも気ぃつけて帰れよ、と言って、北条は、跨線橋を渡って下り線ホームへ歩いて行った。
この日は、絵が描かれた場所を見つけることはできなかったけれど、愛は、遠野郷をたくさん楽しんだ。
蒼影の早池峰山、緑の森の風、青々と広がる田んぼ、温かくやさしいひっつみの味、光降るカッパ淵、眩しく透き通った雨上がりの空、そして今、車窓から見る猿ヶ石川の夕日。
(また来る。きっともう一度来よう――)
帰省した鹿児島では、串木野の永留家も訪ねた。
訪問することを伝えておいたところ、かなえは、あの日のメンバーに集合をかけて待っていてくれた。大広間の座卓には、たいへんなご馳走が並べられ、爺婆たちは芋焼酎を飲んで盛り上がった。
愛は、聡の甥っ子や姪っ子、近所の子どもたちと花火などで楽しく遊ぶうち、すすめられるまま、永留家に一泊した。
翌日、聡は、五位野にある愛の自宅まで車で送ってくれた。無理に引き留めて宿泊させたことを愛の両親に丁寧に説明してくれた。お詫びです、と言って聡が持参した発泡スチロールのトロ箱には、中籠漁協厳選の海の幸が詰め込まれていて、母の浩子が踊り出さんばかりに喜んだ。
葉百合も柚香も、相変わらず元気いっぱいだった。三人だけの同窓会は帰省中に五回も開かれた。地元の言葉、友だち、故郷の風と海と空。愛の自宅近くにある公園で、小さな観望会も行われ、三人は夜更けまで星を見上げ、語り合った。
穂高にも種山ヶ原や遠野で撮影した写真を見せた。合宿も遠野探訪も楽しかったと報告すると、自分よりも先に東北の写真を持ち帰った愛に嫉妬したのか、オレならもっといいアングルで撮ってみせると、スマホの写真を相手にちょっとムキになって、愛を笑わせた。
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