第4話 〝はやちねさん〟

【二〇一七年八月二日】

 種山ヶ原は、北上山地のほぼど真ん中にある標高八〇〇mほどの高原だ。天文同好会の第九回遠征夏合宿は、そこにあるキャンプ場で行われた。

 天気のことも考慮して、日程は予備日を入れた八月七日までの五泊六日。予備日を使わなければ八月六日に、五日間で予定を終了する。

 東京駅から東北新幹線で水沢江刺駅を経て、さらにチャーターしたバスに乗り換えて、計約四時間の移動となる。

 

 東京駅から走りだした新幹線の車内に、麻美はいなかった。

 合宿がはじまる二日前、角館のおばあちゃんが突然亡くなって、秋田へ帰らなければいけなくなったという。

「分かったわ。浜野先輩には、私から連絡しておくね」。

 合宿に参加できなくなったことを愛に知らせてきた電話の向こうで麻美は号泣していた。

「夏合宿が終わって帰省したら、おばあちゃんにも星や星座をいっぱい教えてあげたかったのに・・・・・・」

 もらい泣きしながら、愛は、鹿児島の自宅の庭から見上げていた天の川を思い出した。 

(ひいじいちゃんが生きていたら九十二歳。私も一緒に星を見上げたかったな)

 

 麻美がいないのは残念だったけれど、初めての東北、初めての岩手行きに、愛は期待に胸を膨らませていた。車内では、三人掛けのシートを回転させた席で、里香、瑠衣、香織、先輩の有紀や小泉たちと、神話や賢治の童話を話題にして盛り上がった。

「あいつ、ホントによく寝るよな」。隣の席から浜野先輩の声がした。

 浜野が振り返っている視線の先、愛の席から通路を隔てた斜め後ろのふたり掛けの席で、北条が背もたれを目いっぱいリクライニングしてぐっすり眠っていた。まだ大宮駅を出たばかりだった。

 水沢江刺駅で、予約していたバスに乗り換える。駅には、三年生で宮城県出身の萩野史朗が実家から車でやって来ていた。

「遠征」のとき、合宿地の出身者がいた場合、もしも可能なら実家の車を持ち出して、追加の買い出しや、急な病気やケガ人などが出た場合の緊急搬送などに利用することになっていた。それがムリな場合は、近県出身者の者が車を出すかレンタカーを用意する。レンタカーも念のため予約していたが、萩野が父から了承を得たという。

 同好会で唯一の岩手県出身者である北条は、まだ免許を持っていなかった。

 

 バスでは、愛と北条が隣り合って座った。

「岩手へようこそ」と、北条が愛に笑いかけた。

「絵の場所は? なにか分かったか?」

(覚えていてくれたんだ)

 四月のミーティングのあとは、顔を合わせても絵についてなにも言わなかった北条だったが、そう言って声をかけてくれたことが、愛は嬉しかった。

「まだ分かりません」

「種山ヶ原は見晴らしがいいはずだから、見つけられるかもな」

「はず? 合宿候補地として推されていたのに、来られたこと、なかったのですか?」

 北条が、少し困った顔で照れた。

「いや、実はオレも初めてなのサ。でも、賢治が見上げたっていう星空が見たかったから、行ったことのない場所だったけれど『遠征』の候補地に上げたんダ」

 だから楽しみなのサ、という北条の期待に、もちろん愛も同感だった。早く高原に着きたいと思った。

 見つかるといいナ、と言ったあと、北条はあくびをして、また眠ってしまった。

 駅を発ったバスは、すぐ田舎の風景に飛び込み、次第に森が迫る山中へと進んでいく。スノーシェッドというトンネルをくぐると、どうやら国道の峠に着いたらしい。右手に道の駅があったが、バスはそこへは立ち寄らず、道の駅の前の交差点を左に折れて、さらに山の上を目指した。

 しばらくすると、車窓左手に、ところどころに残雪を載せた高い山の連なりが見えてきた。奥羽山脈だ。愛は、絵に描かれていた山に似た峰を探したが、バスはまたすぐ林間に入った。

 やがて前方が大きく開けてきた。大きな空のなかに、緑の草原が空と大地との境界線をゆったりと描きはじめた。

「北条先輩、もうすぐ着くみたいですよ」

 愛が通路側の北条に声をかけると、北条はもう目を覚ましていて、そして〝あれ〟というふうに窓の外を指した。

 バスの左側、草原が空へなだらかに盛り上がっていく先に、恐竜の背中のような丘山があり、そしてその横から、残雪こそなかったが、あの絵によく似た山影が、ひょっこりと頭をのぞかせていた。北条は、それを愛に教えていた。

「先輩、あの山って?」

「〝はやちねさん〟だな」

「はやちねさん?」

「またあとで話そう。もう着くぞ」

 バスは草原の中で向きを変え、その山――はやちねさんも、いったん姿を隠した。

「各自、降りる用意して。忘れ物などないようにー」。浜野の声が車内に響いた。

 

 バスはキャンプ場のセンターハウス前に着いた。

 総勢三十三名。各自の荷物のほか、同好会としての団体装備も相当量あった。望遠鏡や赤道儀などの精密機器は分担して運んできたが、先だって送れるものは、すでに宅急便で現地に送ってあった。

 キャンプ場は、センターハウスやコテージがあるオートキャンプサイトと、道をへだてて隣接するフリーサイトから構成されている。

 センターハウスには、一回二〇〇円で入浴できるサウナ付きの浴室や、日中だけ営業するレストランも備わり、バーベキューコンロの貸し出しのほか、木炭や薪などの販売もある。

 センターハウスの前には、よく手入れされた緑の芝生が広がっていて、真ん中に宮沢賢治の『風の又三郎』をモチーフにした少年の像がある。その像の先には炊事棟があり、さらに彼方に目をやると、なだらかな稜線の向こうに〝はやちねさん〟の山影が浮かんでいる。

 天文同好会の主な活動のフィールドとなるのはフリーサイトで、そちらに四人用テントを七張準備し、六人用のコテージを一棟借りた。

 コテージは、同好会が所有する屈折式と反射式の二台の天体望遠鏡と赤道儀、天体写真撮影用の赤道儀、カメラ、二〇倍双眼鏡といった団体装備の管理と、個人の貴重品保管場所を兼ね、また、テント泊が苦手な会員もこちらに宿泊できることになっていた。でも、人気が高いのはテントのほうだった。気軽に横になれる。

 テント割りは、学年別とか、男女別といった区別はなかった。気の合う同士が同じテントで寝ればいいという大らかさだった。もっとも夜を徹して起きている同好会なので、テントは夜明けにもぐり込んで寝るだけの〝屋根〟のようなもの。しかも寝るのは昼間であり、風を入れるために入り口も開けっ放しだったりする。

 初日、いちおう愛と同じテントになったのは、同じ一年生の香織、そして有紀先輩と男子の小林先輩だった。でも、誰もが空いているテントに勝手にもぐり込んで勝手に寝てしまう。

 合宿では、晴れてさえいれば、一晩中、夜空を眺める。

 就寝は午前四時三十分、起床は午前十一時。食事は毎食とも自炊で、キャンプ用のガスコンロやバーベキューコンロを使い、これも学年や男女など関係なく全員が協力し合ってつくる。食材は、実行委員たちが作成した食糧計画に沿って東京を出発する前に購入し、分担して運んできた。なお、酒類については個人装備となる。

 十一時三十分に朝食兼昼食を摂り、その後は太陽の黒点観察や各自のテーマ発表などがあって、その講評などが行われる。しかし、ときには雑談に流れてしまい「先輩、その話、去年も聞きました」なんていうオチに終わる。

 午後三時から午後六時までは自由時間。夜の観望に備えてもう一度寝る者や、センターハウスの浴室を使う者、付近を散策したり、一台だけある自動車に乗り合わせてコンビニに買い物へ行く者もいた。いちばん近い商店は「道の駅」で約一〇分だが、コンビニまでは三〇分ほどかかる。

 昼食兼夕食は、支度とあわせて午後六時から午後七時三十分まで。午前〇時からの夕食兼夜食の分も、このときに作っておく。

 夜の観望では班ごとに分かれ、星空の明るさ観察、流星観測、星野写真の撮影などのほか、テーマ別の観望や観察を行う。ただし、今年は夜半まで月が出ているので、真っ暗な星空が望める時間は短い。

 それでも全体活動ではメシエマラソンの練習も行った。フランスの天文学者シャルル・メシエが作成した、その名も「メシエカタログ」に記載された全天に一〇七個ある星雲・星団・銀河、すなわちメシエ天体を一晩中観測し続けて、その発見数を競うもので、地味な観望や観測が多い天文の世界で、彗星や新星発見とはまた違う、誰もが参加しやすい競技性のある星空観測の楽しみ方だ。

 本来は三月中旬から四月上旬の間の新月に近い日に行われるものだ。もちろん、その時期の〝本番〟も行うけれど、夜が短い夏合宿でも「トレーニング」として行われる。

 こと座のM57(リング状星雲)、いて座のM22、はくちょう座のM29、M39、この時期「土用三郎」と呼ばれて明け方近くに昇ってくる真夏のオリオンのM42・・・・・・。

 

 そしてなによりも、夏の夜空を縦断する銀河の流れは、一晩中見ていても飽きない。観望というより、ウォッチングがたまらなく楽しい。

 見上げていると、この星空の美しさをだれかに伝えたくなる。浮かんでくるさまざまな単語、形容詞、擬音、比喩、修辞――が星座のように結びついて行き、それぞれの物語が、それぞれの言葉で心に綴られていく。

 そんな無限無数の言葉や思いのピースをかき集め、自分の心象世界にちりばめながら、はるか広大な宇宙をどこまでも流れて行く銀河のほとりを幻想の列車で旅したのが宮沢賢治だ。

 

 愛は、星空の観望もさることながら、バスの中から見えた「はやちねさん」のことも気になっていた。

 合宿二日目、夕食準備までの自由時間のとき、愛は、北条の姿を探した。

「――山科ぁ」

 愛の後ろから、北条のほうが先に声をかけた。

「自由時間だし、ちょっとあそこまで行ってみっぺし」

 北条が指した方向に、来るときに見えた丘山があった。

「物見山っていうらしい。あそこへ行けば〝はやちねさん〟がもっとはっきり見えると思う」

「お願いします」。愛は、ぺこりとお辞儀した。

 北条は、ディパックに飲み物と地図を入れ、会長の浜野に、物見山へ登って来ますと行き先を告げて、草原の道を歩き出した。

「先輩、あの山って?」

 北条のあとを追いながら、愛が、バスのなかで尋ねた言葉をもう一度繰り返した。

「はやちねさん・・・・・・って、先輩、ご存じだったんですか?」

「民俗学者の柳田國男が書いた『遠野物語』って知ってるか?」

 北条が、逆に愛に訊いた。

「書名は知っています。でも、読んだことはありません」

 

『遠野物語』は、民俗学者・柳田國男が、遠野出身の民話蒐集家・佐々木喜善によって語られた遠野盆地・遠野街道にまつわる民話を聞き書きし、編纂して、一九一〇年(明治四十三年)に発表した説話集である。

 柳田は、文献研究を中心とする日本民俗学のそれまでを批判し、民俗学が「常民(普通の人びと)」の生活文化史を解明する学問であるならば、フィールドワークによって民俗資料を収集することこそが重要だと唱えた。いわば「書を捨てよ。まちへ出よう」である

『遠野物語』は、まさにその方法を世に問うた一冊であり、「日本民俗学の黎明を告げた名著」と言われ、その後の日本民俗学の発展に寄与した功績と影響は大なるものがある。

 内容は、遠野地方に伝えられる民話や奇譚で、カッパ、天狗、座敷童子といった妖怪話、山人、神隠しなどにまつわる怪談、そして民間信仰や祭事などの民間伝承だ。

 SFかホラーかと思わせるような話も数多く収録されているが、ことさら読み物仕立てにするなどの改編は行われず、聞き書きの内容が淡々と綴られている。奇異な内容ながらも、詩的・文学的な独特の文体が、時代を超えて新たな読者を獲得している。

 そして現代になっても、なお多くの人たちが、遠野というフィールドへ実際に足を運び、風や小川の音に包まれながら、夕陽や月の光、気温や湿度、方言の温もりを感じ、今も息づく風俗の舞台装置に触れながら、その個性誇れる物語世界を〝追体験〟している。

 

「『遠野物語』の冒頭には〝はやちねさん〟が登場すんダ」

 北条がちょっと立ち止まり、自分のバッグから地図を取り出して、バサバサと広げた。愛もそれを覗き込んだ。

「ここが種山ヶ原。〝早池峰山〟はこっちだ」

(早池峰山)

 愛は、山名の漢字表記を初めて知った。

 北条が歩き出した。愛は北条の地図をたたんでパーカーのポケットに入れ、北条のあとを追う。

「実は来るとき、新幹線の中でちょっと検索してみたんだ」

 北条は、種山ヶ原は高原だから見晴らしもよく、岩手の山がきっと見晴らせるだろうと思い、種山ヶ原の画像などをスマホで探したという。すると、物見山から眺めた早池峰山の写真を見つけたのだと言った。

「何ていうかサ、山頂から下に向かって筋状の線が走っているような山肌だった。以前、山科が見せてくれた絵の中の山と似てるかなって思ったんだ」

(わざわざ探してくれたんだ)

「ってか、山頂、遠いなヤ」

 急な登り坂はなかったが、草原を横切って延びる山頂までの道は長く感じられた。振り返ると、キャンプ場が小さく見える。

 物見山は、南北二〇㎞、東西一一㎞の大きさで広がる北上山地の準平原・種山ヶ原の中心にある標高八七一mの山だ。山頂直下の駐車場まで車で行くこともできる。

 その駐車場を過ぎて遊歩道に入る。西に傾いた日射しの中で、背の低い灌木が遊歩道に濃い影をつくる。北条は、ときどき愛を振り返り、少し遅れ気味になると、立ち止まって待っていてくれた。

 東屋を過ぎて小さな芝生の広場に出た。すぐ先に岩がいくつか芝生から飛びだしている。そこが山頂だった。

 登りきった物見山の真っ正面、いくつかの稜と谷を重ねた広大な空間の中に、標高一九一三m、北上山地の最高峰である早池峰山が、赤茶色の岩肌を、暮色を兆した西日にさらしていた。

(あれが、早池峰山――)

 風が少しある。ところどころに浮かんだ雲が、三六〇度の見晴らしの中をゆっくり動いて大地に影を落としていた。雄大なパノラマとコントラスト。

 ふたりは岩の上に並んで座った。そして愛のスマホに入っていた絵の画像をのぞき込み、早池峰山と見比べた。

「似てる」

「・・・・・・かな?」

 ふたりの声がハモった。当たっているような当たっていないような――。微妙なところだった。

 確かにルンゼ(岩溝)のようなタテの筋が山肌に走っているが、絵とは反対側の左側に見えていた。

「山科、さっきのオレの地図を見せてくれ」

 愛がポケットから地図を出して広げた。北条が、地図と実際の見晴らしを比べた。

「ここに前衛峰みたいなのがある」

 地図上で北条が示した指の先に「薬師岳」という山があった。早池峰山の南にある峰だ。北条は顔を上げて、早池峰山の方角を指した。

「あそこ。右側に山が重なってる。あれが薬師岳だな」

 愛のスマホの絵とも見比べた。絵の中の薬師岳らしい峰は、早池峰山の左側稜線と重なって描かれていた。

「・・・・・・ということは、絵はおそらく、こっちの方角から描かれたんじゃないか?」

 北条の指が、地図上の早池峰山から南東の方角になぞった。

「遠野?」

 愛が、北条の指の先にあった地名を見つけた。

「遠野からは、早池峰山が見えるんですか?」

「たぶん見えるんだろうな。なにしろ『遠野物語』には何度も登場する山だから」

(たぶん・・・・・・?)

 北条の返事は心許ない。

 地図を見ていた愛が気付いた。

「ここ――。遠野を通る釜石線って、先輩の街に通じている鉄道路線ですよね?」

「・・・・・・うん」

 返事にキレがない。

「先輩がよく使う路線じゃないんですか?」

「いや、よくは使わないよ。これまで五回とか六回ぐらいしか乗ったことがない、と思う」

 北条は、大学に進学するまでは、あまり釜石の街から出たことがなかったと言った。小学生のとき、遠足で遠野を訪ねたことはあったが、覚えているのは二~三カ所のことで、バスがどのルートを走ったのか、よく分からないというか正直知らない、と言って苦笑いした。

「オレを乗りものに乗せたらお終いだサ」

「はい?」

「動き出したら、まあ、だいたい寝てしまう」

 愛が噴き出した。

「納得です。先輩」

「だから遠野に早池峰山っていう山があることは知ってたけンど、実際の姿を見て、ああ、あれが早池峰山かって、そう確かめたことはなかったンだ。んでも、やっと今日、確かめられた」

 北条が頭をかいた。

 

 物見山の山頂からは、和賀岳、夏油岳、焼石岳、栗駒山など奥羽山脈の峰々を西に望み、南から東の方には室根山や五葉山といった標高一〇〇〇m前後の山も見える。

 山の向こうにはまた山があった。ゆったりとした大地の起伏が、夕映えの光の中に重畳とうち続いている。

 さらに早池峰山の北西に見晴らしを移せば、姫神山、岩手山、秋田駒ヶ岳なども望まれる。電信柱も電線もない。山頂に国交省の物見山雨雪量レーダー観測所の白くて大きなボール状の建造物はあったが、それ以外に眺望を区切ったりさえぎったりするような建造物もなければ、トリミングして外したくなるような景色もなかった。

 見上げた空は、とことん大きく、青かった。飛び立つことはできないけれど、愛は、今、空の中にいる感じがして、肩から腕にかけての筋肉が少しむずむずした。翼なんてないのに。

 北条が時計を見ると午後五時を少し過ぎていた。そろそろキャンプ場に戻らなければならない時間だ。風もだいぶ涼しくなってきた。

(遠野――)

 先輩の推理が正しければ、絵が描かれた場所は遠野にあるのかもしれない。

(この合宿が終わったら、東京へ帰る前に、遠野へ行ってみようかな・・・・・・)

「山科」。北条が言った。

「この合宿が終わったら、東京へ帰る前に、一緒に遠野サ行ってみるか?」

 愛は、心の中を読まれたのかと一瞬、驚いた。それとも、またつぶやきが漏れた?

 北条は、夕日が打ちかけられた早池峰山を遠いまなざしで見つめている。

(一緒に――って、先輩はさらりと言ったけど)

 愛にとってそれは、生まれて初めて男性とふたりきりで旅行するということだった。

 合宿が終わってから遠野に移動すれば、着くころはきっと夕方になっている。

 遠野には行ってみたい。そして、北条先輩と一緒なことがイヤなわけでもない。むしろ誰か、岩手を知る人が一緒にいてくれることは心強い。

 えっ、でも、お泊まり?

 愛がちょっと返事に困っていると、北条がまたさらりと言った。

「オレは釜石の実家サ帰るから、次の日にまた合流するべ」

(――)

 そして、次の北条のセリフが決定打になった。

「遠野なんて、鹿児島県人が、そうそう何度も来られるとこじゃねえしナ」

「行きます! お願いします」

 

 北条がなにかをつぶやきはじめた。

 

『ところがどうも わたくしは

 みちをちがへて ゐるらしい

 ここには 谷がある筈なのに

 こんな うつくしい広っぱが

 ぎらぎら光って 出てきてゐる

 山鳥のプロペラアが

 三べんも つゞけて立った』


「誰かの詩ですか?」

「宮沢賢治の『種山ヶ原』っていう詩サ」

――さて、帰るべ。

北条が、座っていた岩から飛び下りた。

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