第3話 天文同好会

【二〇一七年四月十日】

 翌年の春―――。

 愛は、第一志望だった東京の大学の文学部英文科に合格し、鹿児島から上京した。

 アパートは、都心の大学まで地下鉄一本で通学できる千葉県の行徳という街に決めた。部屋から海は見えなかったけれど、街を渡る南風のなかに、ときおり潮の匂いが感じられた。

 ―――私、やっぱり海の近くがいい。

 自室には、さとさんの絵も持ってきた。穂高が言ったように、鹿児島からだいぶ岩手に近付いた実感もあった。

 絵が描かれた場所が岩手のどこなのかはまだ分かっていなかったけれど、でも、いつか訪ねる機会があったらきっと見つけたい。

 修学旅行以外で九州から出たことがあるのは、家族旅行での北海道と今回の上京だけ。東北は未踏の地だった。

 行きたい、きっと行きたい。そう思った。

 

 四月のキャンパスでは、さまざまなクラブやサークル、同好会が、新入部員を勧誘するために、あちらこちらに机を並べ、看板を立てかけたり、テントやタープを張ったりして、通りかかる学生に声をかけて勧誘ビラを手渡している。

 愛は、どこか楽しそうなサークルがあれば入ってみたいと思った。

 高校時代のバスケ部のマネージャーはとても楽しかった。誰かのために懸命になれることは、やりがいもあったし、自分を成長させてくれたとも思っている。でも、大学運動部のそれは、もっともっとたいへんで、自分にはきっと務まらないだろうなとも思った。

 大学では、あまり忙しそうじゃなく、自分のペースも大切にできて、その活動に長く付き合っていくことができて、仲間たちと一緒に楽しめる部活がしたいと思っていた。

 ふと、賑やかな勧誘の波が途切れ、ほっと静かな場所に出た。すると、木漏れ日を降らせる葉桜の並木の下に、ちょっと遠慮気味に新人を勧誘しているサークルの勧誘ブースがあった。

 横の立て看板には「天文同好会」とあり、机のそばには天体望遠鏡や双眼鏡などが並べられている。

 天文同好会――。

 愛は、高校時代の同級生で、ふたりとも天文部員だった大親友の葉百合と柚香を思い出した。

 はゆは、福岡の大学の工学部に進んだ。いつか天体望遠鏡に関わる仕事がしたいから光学を専攻するのだと言っていた。

 ゆずは、「あたしは地元がいい」と、穂高と同じ大学の理学部の後輩になった。卒業文集には「夢はプラネタリアン」と書いていた。

 星空、神話、宇宙――。

 愛は、天文同好会に入りたいと思った。

(でも、私は、それほど星に詳しいわけじゃない)

 ギリシャ神話を通じて星座の物語はいくつか知っていたけれど、でも、例えば宇宙の大きさはどれくらいだとか、太陽の質量はどれくらいなのだとか、ビッグバンとはなにか、ワーム理論とはどういうものかとか、そういう科学の知識は愛にはなかった。

 みんなが科学者みたいな人たちだったらどうしよう・・・・・・。

 木漏れ日の下に立ち止まって、あれこれ考えているうちに、愛は、ペルセウスの物語を思い出していた。

 

 エチオピア王ケフェウスとカシオペア妃の娘であるアンドロメダ姫は、たいへん美しい娘でした。

 カシオペアは、ことあるごとに娘の美しさを自慢し、ついには海神ポセイドンの娘よりもアンドロメダの方が美しいと言ってしまいます。

 その言葉がポセイドンの怒りに触れました。カシオペアは両腕を「W」の字にしたまま上げ続けるという罰を受け、そしてアンドロメダ姫は、エチオピアの海岸に鎖で繋がれ、化けクジラのいけにえにされることになってしまいました。

 そして、アンドロメダ姫が化けクジラに飲み込まれようとしたそのとき――。

 魔女メドゥサとの戦いに勝利した勇者ペルセウスが、倒したメドゥサの首を持って、天馬ペガサスに打ちまたがって飛んで来ました。

 ペルセウスは、メドゥサの首を化けクジラに突きつけて石に変え、アンドロメダを救い出したのです。

(そしてペルセウスとアンドロメダは・・・・・・)

「幸せに暮らしました、とさ。――どんど晴れ」

 

「!?」

 愛の後ろから、いきなり男の声がした。

「それってペルセウスの神話だサね」

(・・・・・・え? えっ!)

 愛が振り向くと、背の高い男子学生が立っていた。驚いてその顔を見上げた。一八〇㎝はありそうだった。愛との身長差は二十㎝以上あるだろう。

「うちの同好会の看板を見ながら、なにかをぶつぶつ言ってる子がいたから。ごめん。つい後ろから聞いてしまいました」

「うちの?」

「そう。天文同好会」

 男子学生は、ぽかんとしている愛の背中をぽんっと叩いて、勧誘ブースへ促した。

 愛は、今、なにが起きているのか分からない。

 同好会のブースに行くと、女子会員たちがくすくす笑いながら迎えてくれた。

「見てたわよ、北条くん」

 先輩らしい女子が言った。彼の名は北条というらしい。

「ありゃ。見られてましたか」

 北条と呼ばれた学生が頭を掻いた。

 別の男子が言った。

「北条が、女の子の後ろに立って匂いを嗅いどるわー言うて、みんなで笑っとったんや」

 会員たちがどっと笑った。

 

 愛は、やっと声が出た。

「聞こえていたのですか?」

(愛って独り言が漏れるよね)。柚香に何度か指摘されていたのに。

「うん。つぶやきにしてはちょっと大きな声だったよ」

「・・・・・・どのあたりから聞いていらしたのですか?」

 愛は、自分の顔が赤くなるのを感じた。

「メドゥサの首を持って天馬ペガサスに打ちまたがり、ってところからかな?」

「――立ち聞きなんてひどいじゃないですか!」

 愛が北条に抗議すると、同行会の会員たちが、愛の味方に付いてくれた。

「そーよ、そーよ。北条くん、ヒドイ」

「ホンマや」

「ストーカーじゃねえんだから」

「ここはまず、きちんと謝らなアカンで」

 部員たちが、笑いながらはやし立てる。

「しかし、昼行灯のお前が女の子をナンパするとはな」

 昼行灯?

 愛が北条を見上げた。

「そう。コイツ、でかくて、どこかぼーっとしてるから、付いたあだ名は『昼行灯』」

 部員たちがまたどっと笑った。

(昼行灯。・・・・・・たしかにそんな感じ)

 ブースには笑いがあふれていた。みんな楽しそうな人たち、と愛は思った。

「気を悪くしたらごめんなさい。謝ります」。北条が深々と頭を下げた。

「あっ。いえ、いいんです。どっちみち入会しようかなって思っていたところでした」

 愛がそう言うと、部員たちが歓声を上げた。

 おー! よっしゃ! やったね。ようこそ天文同好会へ!

 宇宙に関する物理学の知識はまったくありませんが大丈夫でしょうか? と愛が恐る恐る尋ねると、会員たちがまた笑い出した。

「法学部も経済学部も文学部も体育学科の学生もいるわよ」。女子会員がにこにこしながら教えてくれた。

 よろしくお願いいたします、と言いながら、愛が入会希望カードに名前や連絡先などを記入している間、北条は、色若い葉桜から漏れてくる陽光の下で、天気でも心配しているような顔でぼーっと空を見上げていた。

 

【二〇一七年四月二十四日】

 天文同好会の新年度第一回ミーティングが行われた。

 愛が通う大学には、三〇〇以上もの部や同好会やサークルがあった。すべての団体が部室を持っているわけではない。天文同好会に部室はなく、ミーティングは、開催の都度、教室の使用許可を得て行われる。望遠鏡などの機材は、BOXと呼ばれる学内のロッカールームに保管してある。

 同好会は新入会員八人を加え、今年度は四〇人となった。男女比では、やや女子が多い。

 週一回のペースで行われるミーティングで、活動報告や予定連絡、観測会や合宿といった各種活動やイベントへの出欠確認などが行われる。

 週末などを利用して郊外へ出かけて行う観測会、観望会、学園祭の出展と出店、プラネタリウムや科学館、天文台など天文関連の施設を訪ねるツアーなどが主な活動内容だ。

 メインイベントは合宿だ。夏合宿と第一次冬合宿と第二次冬合宿がある。

 夏合宿は、大学のセミナーハウスがある山梨県で行われるのが恒例なのだが、四年に一度だけ、ちょっと遠出する。同好会では、これを「遠征」と言っていた

 ちなみに、同じく山梨県の合宿所がベースになる冬合宿も、やはり四年に一度は山梨県以外への遠征がある。夏合宿と冬合宿の遠征はそれぞれ二年ずれていて、つまり四年間の学生時代で、二回はどこか違う場所へ行ける。

 今年の夏合宿は、その四年に一度の「遠征」だった。

 

「こらぁ、北条、寝るなぁ! まだミーティング中だぞっ」

 窓際の席で、机にほおづえをついてうつらうつらしかけていた北条に、天文同好会の会長・浜野賀津也が、やや呆れた声で怒鳴った。

「あ。すんません」

 北条が、のそっと顔を上げた。会員たちが小さく笑っている。

 浜野が教室の演壇に立った。

「さて、夏合宿の場所をそろそろ決めたいと思います。宿の手配とかもあるからね。

 えーと、今年はちょっと月齢に恵まれなくて、夏休みがはじまる八月一日以降は月が明るいので星空ウォッチングにはちょっと不向きです。月が沈むのが夜半になります。でもまあ、月は月でいいし、昼間は黒点観察もするし、例年どおり、夏休み開始の翌日から行いたいと思います。いいですか?」

 いいよー。仕方ないさー。星と月のめぐりが相手の同好会だしね。月面もいいじゃん。といった声があがり、異議なしでまとまった。

 浜野が言った。

「じゃあ、日程は八月二日から七日まで、予備日含む五泊六日。晴れの日が続いたら八月六日に撤収ということにしますね。

 えーと、さて、今夏の合宿は四年に一度の『遠征』です。前回は、長野県の阿智村で行われました。さあ、今夏はどこがいいか? 推したい場所がある人は手を挙げて」

 四年生の佐藤有紀が手を挙げる。

「北海道の大沼を推します。風がない夜は、水面に星空が映るんです」

 おおー、という声が上がった。

 次に、挙手したのは四年生の小林俊彦。

「高知の桂浜。龍馬が仰いだでっかい星空があるぜよ」

 教室が湧いた。

 次に、三年生の小泉美雪がそっと手を挙げた。

「小笠原の父島での合宿って、天文同好会の永年の夢ですよね? 片道だけで、船で二泊三日もかかりますが、今夏こそ思い切って行ってみませんか?」

 会員たちがざわめく。

「――静粛に」

 浜野がホワイトボードに、大沼、桂浜、父島・・・・・・と書いて振り返った。

「はーい、ほかに誰か?」

 天文同好会の夏合宿は、夏休みに入ってすぐ行われるのが恒例で、今年の夏休みは八月一日からだ。

 帰省の都合もある学生は、自分の出身県をアピールしたりする。今年度のメンバーは都内と近郊、関東地方出身者が多い。彼らは、どこでもいいから街の灯りにジャマをされない星のきれいな場所へ・・・・・・と考える。

 ただし、例えば知床とか沖縄とか、あまりに遠すぎる場所は行けないという雰囲気もある。もちろんその一方では、小笠原いいねと思っている者もいた。

「いいスか?」と、北条が手を挙げた。

「岩手県の種山ヶ原はどうでしょう? 宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』のストーリーを思いついたって言われている場所です」

(岩手県?)

 愛がノートから顔を上げた。同時に教室がどよめいた。『銀河鉄道の夜』という単語のせいだろうか。小笠原案のときよりも教室内のささやき合う声が大きくなった。

「えー。みなさん静粛に」

 浜野が再び言った。

「ほかに候補地を挙げたい人は?」

 挙手する者はおらず、会員たちのざわめきが、すぐにまた広がった。

「じゃあ、このまま二〇分間の検討に移ります。そのあと決選投票するよ」

 浜野のその言葉を合図に、教室が一気に騒々しくなった。

 どこの星空が美しいか。どこへ行ってみたいか。それぞれが、それぞれの〝星の旅〟に想いを巡らせる。

 四年間という短い時間、勉強にも遊びにも全力でぶつかる。みんな、それが楽しいのだ。

 

「大沼って函館の近くだよね」「イカ刺し食いてぇ」「函館山の夜景もいいよね」「北海道も憧れの地だな」「沼の水面に映る天の川を撮影したい」「新幹線も通ったし、そう遠くないよね」「北の大地の大空だな」

 

「龍馬好き」「〝月の名所は桂浜〟って『よさこい節』だっけ?」「おみやげはかんざしね」「カツオのタタキおいしいよな」「オレ大阪より西に行ったことないから行ってみたい」「海があるから空も暗そう」「空と海を渡る天の川かぁ」

 

「小笠原いいね」「南十字も見えるんでしょ?」「グリーンフラッシュも見られるらしいぞ」「ホシミストの聖地だよね」「でもやっぱり遠いかな? 往復で一週間以上ってのはちょっと」「台風が来たら欠航するリスクもある」「でも行きたい」「椰子の葉の向こうにきらめく夏の大三角形!」

 

「『銀河鉄道の夜』の舞台かぁ」「夏休みの宿題の読書感想文を書いたことがある」「岩手なら空気も澄んでいそう」「夜も涼しいんだろうな」「みんなで『星めぐりの歌』を歌いたい」「四時間ぐらいで行けるんじゃね?」「賢治が見た夜空、あたしも見たい」

 

「ねえ、愛ちゃん」

 隣の席にいた、愛と同じく新入会員の佐竹麻美が、愛の手をとんとんっとたたいた。

「愛ちゃんは、どこがいいと思う?」

 愛にとっては、北海道以外は、どこも行ったことがない土地ばかりだった。

「あたしは秋田の生まれだからさ、どちらかと言えば小笠原とか、高知とか、南に行ってみたいかな?」

「私は岩手がいいかな?」

 愛が北条の方を見ると、北条は、四~五人のグループで話し合っていた。

「岩手かぁ。うん。それはそれで実家に近いから、あたしの場合、そのまま帰省するのにはいいかも」。麻美がころころと笑った。

 麻美は明るくはきはきした性格で、整った顔立ちは、誰の目にも美人だと映る。ふっくらとした涙堂の上に、大きくて澄んだ瞳がある。ほんの少したれた目元がやさしくかわいらしく、すうっと結ばれた唇が全体の印象をきゅっと引き締める。

 でも、本人は自分が美人に分類されるなどいう自覚もなく、むしろタレ目がコンプレックスであるらしく、自己紹介のとき「秋田県の女性の誰もがササキノゾミだなんて思わないでください!」と、秋田出身の美人タレントの名前を出してウケをとり、一気にサークルになじんだ。

 愛ともあっという間に仲よくなり「愛ちゃん」「あさちゃん」と呼びあう仲になっていた。

 

「えーと。そろそろかなぁー。はーい。静粛に」

 浜野の声で、教室のざわめきが、少しずつ落ち着いていった。

「採決してもいいかな?」

「いいともー」と小林が叫び、皆がどっと笑った。

「遠くへ行きたい気持ち、帰省の都合、金銭的な事情など、まあ、みんなそれぞれだし、また、スケジュール的な問題とかも、やっぱりそれぞれあると思う。また、キャンプになる場合は、水場やトイレ、お風呂のことも考えないといけない。

 今、みんなが話し合っている間に、各候補地を調べてみました。どこもキャンプ場があるし、お風呂やコテージがあるところもある、種山ヶ原以外は旅館や民宿も近くにあって、宿泊に関しては四候補地とも基本的な条件はクリアしています。

 でも、大前提として、なるべく多くの会員が参加できる『遠征』にしたいと思います。それらを考慮しつつ、では採決に移ります」

 いいですね? という表情で浜野が教室を見渡すと、はーい、いいよ、いいでーす、異議なし、OK、ええよ、かめへん。いろんな返事が返ってきた。

「んじゃあ行きまーす。えー、大沼がいい人、手を挙げて」

 五人が挙手した。

「桂浜がいい人」

 これも五人。

「小笠原の人は?」

 麻美のほか、八人が手を挙げて、教室がざわめいた。

「んじゃ、最後に岩手がいいと思う人」

 二十人が手を挙げた。

 おお、という声と拍手が起きた。

 やっぱり『銀鉄』の勝ちかぁ。天気輪の柱。銀河すてーしょーん! アルビレオって停車場だっけ? 観測所じゃね? 輪になって回るトパーズとサファイア。赤い目玉のさそり。広げた鷲の翼・・・・・・!

 また教室がざわめきはじめた。

「いいんじゃない? 種山ヶ原。実はあたしもいつか行ってみたいって思ってたの」と、有紀も賛同した。

「『壬生義士伝』の吉村貫一郎の故郷だな」と小林。

「『種山ヶ原の夜』っていう作品もあったね。炭焼きの青年が夢の中で木の精霊と会話するお話」

 賢治好きー、と小泉が言った。

 有紀が窓際の北条の方を向いた。

「そっか。北条くんって岩手だったよね」

 

(北条先輩って――)

「岩手県だったんですか?」

 愛は声を出してしまった。麻美がびっくりした顔で愛を見た。教室が一瞬静かになった。

「どうした? 山科?」

 また北条に後ろから何かされたのか? という顔で浜野も驚いている。

「・・・・・・すみません。なんでもありません」

「こら、北条。言い出しっぺがあくびすな!」

 浜野が、パソコンを見た。

「えーと。一九八二年から始められた天文同好会の『遠征』。過去八回あったけど、岩手で行われたって記録はないね」

 よっしゃ。

 浜野が演段に両手を置いて、会員たちを見渡しながら言った。

「どうかな、みんな。岩手に決めちゃっていい?」

 意義なーし、という声と同時に、教室に拍手が広がった。

 愛が窓際の北条を見た。あくびをこらえているような北条と目があった。

 

 ミーティングのあと、愛は、北条と麻美を学食横にある喫茶店に誘った。

「北条先輩って」

「岩手県だよ」。向かいの席で、昼行灯がにこにこ笑っている。

「山科、なんだかずいぶん岩手に反応してたサ。岩手に何か思い出でもあンの?」

「思い出ではありませんが、絵が描かれた場所を探しているんです」

「絵?」

「先輩、それシャレですか?」

「えっ?」

 混ぜっ返した麻美が噴き出した。

 愛は、バッグからスマホを取りだし、撮っておいた風景画の画像をふたりに見せた。

「この絵の場所が、岩手のどこなのか知りたいんです」

 愛の隣の席に座っていた麻美が北条の隣に移り、北条と一緒にスマホの画面を見つめている。その様子に、串木野のお年寄りたちのことを思い出した。

 そして、曾祖父のこと、串木野でのエピソードを話した。

 特攻隊、戦争、連れて行った写真、岩手の人―――。北条と麻美は、黙って聞いてくれた。

 

 愛の話が終わって、北条がもう一度スマホの画面を見つめた。そして、スマホを愛に返しながら、小さくため息した。口元が少し引き締まっている。

「なんだかすごい話しだな」

「ホントですね。あたし、ちょっと感動しちゃいました」

 両手でカップを握りしめるように持ち上げた麻美が、冷めてしまった紅茶を口に運んだ。

「でもごめん。オレ、岩手の出身だけど、その絵の場所はちょっと分からない」

「そうですか――」

 愛が、鹿児島から上京してきて最初に出会った岩手県人。天文同好会に入ろうか迷っていたとき「ぽんっ」と背中を押してくれた人。映画の中のよくできたエピソードのように、もしかしたら絵の場所もすぐ分かるかもしれないという期待を膨らませていただけに、愛はちょっと残念だった。

「でも、それ、いい絵だナ。内陸の方には、そんな感じの景色はたぶんあると思う。何しろ岩手は広いから。日本一広い県だし」

「そういえば先輩って岩手のどちらですか? 盛岡のガンダイ(岩手大学)に進んだ友だちが何人かいるんです」

 麻美が北条に尋ねた。

「ああそうか。佐竹は秋田の出身だっけ? どこ」

「仙北市の角館です」

「へえ、角館か。中学ンとき、武家屋敷街のシダレザクラを家族で見に行ったことがある」

「ほんとうですか? あそこはあたしの散歩コースですよ」

 ふたりが、愛の知らない地名を挙げながら会話をはじめた。

 同じ地方に生まれた者同士は、すぐ了解しあえる風景や感覚を共有している。あっというまにうち解けた会話をはじめたふたりの会話に、ちょっとだけ疎外感を感じながらも、武家屋敷街の散歩と聞いて、愛は鹿児島県の知覧の街並みを思い出した。

「オレは釜石だよ」

 北条が答えた地名は、愛も知っていた。六年前からテレビで幾度も聞かされている地名だった。

「釜石って三陸海岸の街ですよね? 北条先輩は東日本大震災のときは大丈夫だったんですか?」

 北条は、愛が大丈夫だったかと尋ねているのが津波のことだとすぐ分かった。

「実家は山手の方だったから無事だった。でも、周りは、その・・・・・・まあ、いろいろあったんだけどナ」

 北条の顔が、少し暗くなった。いきなり直截すぎる質問だったかしら・・・・・・と、愛はちょっと後悔した。

「角館は震度五強で、ものすごい揺れでした。授業中で、ずーっと長く三分ぐらい揺れていて、あたし机の下で泣いてました」

 ほんとうに怖かったです、と、あの日のことを思い出したのか、麻美の目が少し潤んでいた。

「釜石は震度六弱だった。オレの中学校は、あの日、短縮授業だったから家に帰ってたんだ。そうしたら、すごい揺れと・・・・・・津波が来たんダ」

 そうか、ふたりは、あの日、東北地方に起きたあの大災害のなかにいたんだ。

 愛は、津波からの避難先だったらしい高台の公園で、当時の自分と同い年ぐらいの女の子がお母さんに抱きついて泣きじゃくっているニュース映像を思い出した。

「釜石の小中学生たちは、大津波警報を聞くまでもなく、自主的に高台に避難したんだ。おばあちゃんを連れて逃げる準備をしていた子や、病気で休んでいた子とか、五人が亡くなったけど。でも、釜石の子どもたちの生存率は九九.八パーセントだった」

 麻美が、それ知ってます、と言いながら中指で目の端をぬぐった。

「〝釜石の奇跡〟ですよね。でも高台から自宅が流されるところを見ていた子が『うわぁ』って言って泣きながらしゃがみ込むニュース映像を見て、あたしも大泣きして――」

 すん、と鼻をすすりながら、麻美がハンカチを取りだした。麻美も同じようなシーンを記憶していたらしい。

「オレはテレビなんて見られなかった。釜石は、あの日から長い間停電していてラジオばかりだった。釜石とか宮古とか大船渡とか・・・・・・。宮城や福島とか他の三陸沿岸の街がどうなっているのか、目に見えなかった」

 

 東日本大震災のとき、愛と麻美は小学校六年生。北条は中学一年生だった。

 愛は教室にいた。揺れは少しも感じられなかったが、家に帰ると、母と祖母が、取り込んだ洗濯物を手に持ったままテレビの前で立ちつくしていた。

「ああぁー」「こんなことって・・・・・・」

 テレビは、津波が押し寄せてくる仙台市の郊外を映していた。

 ヘリコプターが上空から中継していたライブ映像には、灰褐色に濁りきった大津波が、スライムの大きな化け物のように家や畑やビニールハウスや自動車を次々に飲み込んでいくシーンが映っていた。実況していたアナウンサーが「うぁ・・・・・・」と絶句していたことも覚えている。

 テレビは、その夜も、次の日も、ずっと大津波のニュースばかりだった。CMも放送されず、繰り返し映し出される津波襲来の映像。そして判明していく被害の大きさ。

 愛は、画面の中で泣いている人を見るのがとてもつらくて、自分も何度も泣いた。

 中学一年生になったある日、全校生徒でツルを折ったことがあった。先生が、宮城県の中学生たちに送るのだと言っていた。

 ツルには手紙も添えた。愛は、その手紙の内容をもう詳しくは覚えていないけれど「ガンバレ」という言葉は少し違う気がして「負けないで」と書いたように思う。女の子とお母さんが泣いているニュースの映像を思い出しながら書いていた。

 愛も六年前の自分の悲しさを思い出して、鼻の奥がつんとした。

「ごめんね、愛ちゃん」

 麻美が、自分の胸元をトントンたたいた。

「愛ちゃんの絵のお話だったのに、違うことで泣いちゃって」

「そんな。あやまらないで」

 愛は、東日本大震災のとき、鹿児島にいた小学生だった自分が感じていたつらさや悲しさが、東北の小学生だった麻美のそれと同じだったことに、また胸が痛んだ。でも人は、遠く離れていても思い合うことができて、繋がることだってできる。痛みを感じたり、分け合うことだってきっとできるのだと感じて、胸に温かさが滲んだ。

「こら、佐竹、こんなところで泣くな。『北条が喫茶店で女の子を泣かしとったわ』とか、また早坂先輩に言われる」

 早坂とは、天文同好会の新人勧誘のとき〝北条が後ろから女の子の匂い嗅いどるわ〟と言ってはやした先輩だった。あのときのことを思い出した愛が、恥ずかしそうに顔を伏せた。

「なんのこと?」。麻美が、北条と愛の顔を見た。

「なんでもないよ」

「あっ? そう言えば〝あのとき〟北条先輩がおっしゃっていた『ドンドハレ』って、なんですか?」。愛が北条に訊いた。

「ん? ああ。岩手では、じいちゃんやばあちゃんが、子どもに昔話を聞かせたら、お話しのおしまいにそう言うんダ。『めでたしめでたし』っていう意味サ」

 北条が、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。そして、

「絵の場所、見つかるといいナ」と愛に言ってくれた。

 

 ゴールデンウィークが過ぎ、授業も本格的にはじまって、学生たちは忙しくなった。

 天文同好会の新入生歓迎コンパも行われた。愛は麻美だけでなく、和泉里香、佐伯瑠衣、小倉香織など、同じく新入会の一年生たちとも仲よくなった。

 一年女子たちは、先輩たちにも早速愛称をつけて親しく呼びはじめた。会長の浜野賀津也は「カヅ先輩」、副会長の内記航(わたる)先輩は「ナッキ先輩」。小林俊彦先輩は「トシ先輩」――というふうに。

 でも、愛だけは、すべての先輩に対して名字のあとにそのまま先輩とつけて呼んでいた。なんとなく愛称では呼びにくい照れくささがあった。

 といって、先輩たちに距離を置いているわけではない。先輩たちは、男女問わず、多くが「愛ちゃん」と呼んでくれた。

 ゴールデンウィークの観望会、週末の観測会など、愛はできるだけ活動には参加したかったが、他の予定と重なることも多く、また天気に左右されやすいという天文同好会ならではの事情もあって、メンバー全員が揃うことは多くなかった。

 麻美たちとは、会の活動以外でもときどき会い、誘い合わせて食事に行くことなどもあったが、北条とは、あのとき以来、会話する機会はあまりなかった。

 

 七月の第一回目のミーティングが開かれ、夏合宿に参加する人数の確認が行われた。

 合宿地は、岩手県奥州市と気仙郡住田町にまたがって広がる種山高原にあるキャンプ場。

 四月の時点で四〇人分の予約を入れ、コテージ二棟とキャンプサイトを六つ押さえてあった。参加者が少なければ、サイトやコテージを他のキャンパーに譲るため、その分のキャンセルをキャンプ場に知らせることにしていた。

 新幹線の時刻はもちろん、東北新幹線の水沢江刺駅から移動するための貸し切りバスの手配、急病人が出たときなどのための搬送と緊急連絡用のレンタカーほか、キャンプ用品のレンタル、現地での観望といった活動計画は、前回、前々回のミーティングを経て、実行委員たちが練り上げ、ほぼ完成していた。

 言い出しっぺの北条もその委員のひとりだった。他の委員とともに、会員たちと向かい合う形でホワイトボードの横に座っていた。

「では、夏合宿に参加できる人は手を挙げてください」

 会長の浜野が参加希望者を数えるため、挙手を求めた。

 会員四〇人のうち、今日、出席していたのは三八人。愛も麻美も北条も手を挙げた。挙げない者のほうが少ない。

 それを見た浜野が「じゃあ逆に行けない人、手を挙げて」。と言うと、四人が手を挙げた。

 四人のうち三人は四年生の男子会員で、就活の都合からどうしても参加できないらしい。もうひとりは三年生女子会員で、母が急に入院してしまい、母親の代わりを務めなければいけなくなったという。

 四人はひどく残念そうだった。特に四年生は、これが最初で最後の『夏遠征』だったのだ。

「今回ほど〝どこでもドア〟がほしいって、本気で思ったことはない」

「オレ、夜八時にベガを見上げるから、みんなはアルタイルを見上げてオレの名前を叫んでくれ」

「星が流れたぁとか、死兆星だぁとかっていうコメ、就活生に送って来んなよ」

「〝雨乞い〟しておくからね」

 四人のスピーチに、メンバーたちが爆笑した。

 浜野が、まとめに入った。

「じゃあ、今日の時点では三十四人が参加ということで。今日来られなかったふたりにも電話で確認します。北条、まかせる」

「はい」

「・・・・・・今、アクビしかけなかったか?」

「気のせいですよ」。北条がちょっと背筋を伸ばし直した。

 浜野が演台に手をついた。

「では、今日の結果を踏まえ、次回のミーティングで計画書を配布します。それと、急に行けなくなってしまった人は、オレか委員に連絡を入れるように。以上です」

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