第2話 『椰子の実』とハーモニカ

【二〇一六年八月四日】

「いいかぁおまんら、高校三年生にとって夏休んは、勝負んときぞ!」。

 学校からの帰り道で、三年E組の西田葉百合が叫んだ。

「・・・・・・って、愛のクラスの山下センセ、言(ゆ)てなかった?」

「言ちょった」。愛がくすくす笑った。

「あー。こげん暑か夏じゃって、山に星見けも行かならんわ(行けない)」

 葉百合と同じE組の南柚香が、ハンカチで顔をパタパタと扇いだ。

 今日は高校の終業式だった。HRでは、きっとどのクラスでも同じ言葉を先生が言っていたに違いない。

 学校から鹿児島中央駅へ向かう長くて緩い下り坂を、下校する生徒たちが三々五々の影を連ねて歩いていた。通学路には、マンションやオフィスビルが建ち並び、それらの谷間を片側二車線の幹線道路が南北に貫く。学校側の歩道は、生徒たちのために、反対側のそれよりも少し幅広に造られていた。

 愛が通う高校は、学年によって夏休みがはじまる日が違う。夏休みが終了するのは八月二十日で、これは同じだが、一年生の夏休みは七月二十三日から、二年生は七月二十九日からだった。しかし三年生は、受験に向けた授業が続き、八月五日からやっと夏休みに入り、さらに十日までは補講が行われる。選択制だが半数以上の三年生が受講する。そして、夏休み明けには特別時間割が編成され、すぐ前期末考査がはじまる。

 一年生と二年生にも補講や補習があるが、それも同じく今日で終わりだ。補習も補講も受けなかった一、二年生は、部活でも旅行でもプールでもカラオケでも、三年生よりも早く長く夏休みを楽しむことができる。

 大学受験がリアルに迫りつつあることを実感させる高校三年生の、いまひとつ晴れ渡らない夏休みがはじまろうとしていた。

 駅までの緩やかな下り坂を並んで歩く三人。

「最後の夏休みなのになぁ」。柚香が空を見上げた。ところどころに綿雲が浮かぶ。

「ゆず、遊ぶ予定ってなにもないの?」と葉百合。

「あさって、串木野の従兄弟たちと一緒に、照島で海水浴すっこぐることぐらいかな?」

「串木野?」

 柚香が口にしたその地名に、愛が反応した。

(ひいじいちゃんは串木野にある中籠小学校という学校で、終戦直後の二年間だけ先生をしていたって聞いている)

「えー。いいなー海水浴」

「じゃ、はゆも一緒に行く? 従兄弟のおにいちゃん、ちっとイケメンなんよ」

 葉百合が面食いだということを知っている柚香がからかった。

「えーっ! 行こごちゃっかも(行きたいかも)? 何時に行くの?」

「ちょっと早めの列車で行こうかな、とだけ。時間はあとで調べる」

 柚香は、よく言えば落ち着いているし、悪く言うとおおざっぱ。いずれにせよ、のんびりした性格なのだが、ときどき全体を俯瞰して、どすんといった感じのひと言を放つ。本人にしてみれば「ゴチャゴチャ言うな」なのだけれど、男子の間では、なぜか〝柚香大明神〟とあだ名されて、奉られている。

 ちょっとせっかちな葉百合と、しっかり者の愛と、いいトリオを組んでいる。

「先生は、夏休みははじまってすぐの過ごし方が勝負の分かれ目だって言ってたけど、あたしは前半に遊ぶ派なんだ」

「ゆずは、勉強のエピメテウスやね」。葉百合がハンカチをパタパタさせながら言った。

「遊びのプロメテウスって言て」

 聞いていた愛が噴き出した。

「ふたい(二人)とも、さすが天文部ね。ギリシャ神話、よく知ってる」

「そういう愛だって、よく知っちょっよね」

 

 プロメテウスはゼウスから火を盗んで人類に与えた。ゼウスは、火を手に入れた人類が、神々より強くなるのを恐れ、人類に厄災をもたらすため、炎と冶金の神であるヘイパイストスにパンドラという美女を作らせて、プロメテウスの弟・エピメテウスに与えた。

 プロメテウスは「ゼウスからの贈り物など受け取ってはいけない」とエピメテウスに警告したが、エピメテウスはパンドラを妻に迎えた。

 そしてパンドラはゼウスに与えられた箱を開けて、その箱の中にあった〝厄災〟を解き放ってしまう。

 

「プロメテウスには先見の明があった。このことから〝先に考える人〟っていう意味になった」柚香が言った。

「プロローグの語源ね」と、愛。

「そしてエピメテウスは後悔したから〝あとで考える人〟って言われるようになったんだよね。・・・・・・って、ちっと、はゆ。よく考げたら、ひでこと言てない?」

「愛も天文部に入ればよかったのに」

 愛と一緒に部活したかったなぁ、と葉百合は自分のカバンを、愛のカバンにとんっ、とぶつけた。

「だって、恵美先輩には断りにくかったし・・・・・・」

 

 高校に入学してきた愛を、同じ中学出身でひとつ年上だった山本恵美が「愛ちゃんはマネージャー体質よ」という、よく分からない言葉で、自分がいたバスケット部にマネージャーとして強引に勧誘した。

 世話好きで、やさしくて、よく気がつくという意味らしかったが、愛にはそんな自覚はなかった。

 しかし、その後の愛の活躍ぶりは他の運動部でも評判になるほどだった。

 アップのときに使うラダーの準備、ドリンクボトルや救急箱やタイマーの用意、ストレッチの時の背中押し、ダッシュの時のホイッスル、ジャージたたみ、ボトルへの飲み物補充、スコア書き、コートのモップかけ、掃除、片付け、日誌。さらには他校と練習試合するときの申し込み、打ち合わせ、出迎えや控え室の確保・・・・・・。雑多煩雑なマネージャーの用事を、愛はそつなく、完璧にこなしていった。

 背の高いバスケ部員の間を小柄な愛がリスのように駆け回る。体育館を使わない野球部の女子マネに「いつも勉強させていただいています」と言われて驚いたこともある。

 真面目で一生懸命で、穏やかな性格で、誰に対しても丁寧に接する。よくしゃべる方ではないけれど、暗いとか明るいといった図式には当てはまらない。ときどき誰かの話を真に受けて落ち込んだりすることもあったけれど、それは好意に基づいていじられているということに、愛自身は気付かない。

 愛は、面立ちも仕草も言葉遣いもちょっと古風だった。あごのラインが緩やかで、大きな目は切れ長。鼻筋が通っていて、いつも嬉しそうな表情を浮かべている口角。よく揺れるこけしカットが瓜実顔を包んでいた。同性からも好かれるその性格のよさもあり、愛は、男子の間で、実は絶大なる人気があった。

 一年生のとき、愛は、ひとつ上の先輩から告白されたことがあった。イヤな人ではなかったけれど、男性と付き合うということの意味が分からず、泣きながらごめんなさいを告げた。泣き出してしまったのは怖かったからなどではなく、お断りすることで相手を傷つけてしまうかもしれないという気持ちからだった。

 以後「山科さんを泣かせたワロ(ヤツ)はコロす」という暗黙の了解が男子の間にできた。愛は、その後は誰からも告白を受けたことがなかった。

 柚香も葉百合も、今、付き合っている人こそいないけれど、過去、複数の男子から告白されたということを愛は知っている。

「私は異性から人気がないのかな――」とは、愛は考えたこともなかったが、愛のあずからぬところで、男子が〝停戦協定〟を結んでいる、などということは、もちろん知るはずもなかった。

 

「愛も、もうマネージャー引退だよね」

 卒業かぁ、と少し気の早いことを葉百合がつぶやく。

「でも、天文部にはレギュラーとかないし、いつでも望遠鏡を覗きに行けるんじゃない? 運動部みたいに、はい、ここまでって線はないよね」

 愛は、ギリシャ神話を読んで星の世界に興味を持った。夜、ときどき空を見上げる。

 自宅は、市街地の南の郊外にある。北の夜空には六十万都市の街の灯りの靄がかかっていたけれど、南は案外暗く、大気がよく澄んだ冬ならば、オリオンやシリウスが、錦江湾の上にはっきりと輝く。

 十二月には、見た者に長寿をもたらすと言われるりゅうこつ座の一等星カノープスも見える。夏の天の川は、北に行くほど地上の灯りのために淡くなるけれど、南には、さそり座やいて座周辺の銀河がぼうっと白んで見えた。

 愛は、大好きなペルセウスの神話の登場人物たちが、北の空から南の空へ、掛け軸に描かれた絵のように次々と登場していく秋の夜空が見晴らせる真っ暗な場所に行ってみたいと願っていた。

「ところで、はゆ、どーする、あさって?」

 中央駅から電車に乗って帰宅するのは柚香と愛だけで、葉百合の自宅は、駅に着く手前の交差点を右に入って行ったところにある。そろそろ三人が別れる場所が近付いていた。

「ねえ、ゆず。私もついて行っていい?」

 愛の突然の申し出だった。柚香が驚いた。

「愛って面食いじゃったっけ?」

「いいねー。行こよ、愛。三人で。楽しそう」と葉百合。

「あ、でも、私は海水浴じゃなくて・・・・・・」

「えっ?」

「串木野に、私のひいじいちゃんが、昔、先生をしていた小学校があるの。そこへ行ってみようかなって」

「あー。愛、言てたね。ひいじいちゃんって小学校の先生だったって。ゆずも聞たよね?」

「うん。へえ、串木野の小学校だったの。で、その小学校になんかあっと?」

 このふたりに、いきさつを話し始めると長くなりそう、と思った愛は、

「・・・・・・ひいじいちゃんの歴史を、ちょっと調べているの」とだけ答えた。絵のことは、友だちにはまだ内緒にしておこうと思った。

「ふーん。えらいねー。愛って孝行娘じゃっど」。

 信号をひとつ渡った角のビルの陰で、葉百合がスカートのポケットからスマホを取りだしてなにかを検索しはじめた。

「じゃあ、明後日はちょっと早めに出ようよ。貴重な夏休みの貴重なアバンチュール。長ご楽しんたいもの」

 アバンチュールになるかどうかはまだ分からないでしょう、と、柚香と愛が心の中でツっこむ。

「えーと。こいがよかな? 中央駅午前五時五十二分発の上り串木野行き」

「ごじごじゅうにふん!? 早すぎ!」

 愛と柚香が、今度は声に出して同時にツっこんだ。

「わや(冗談)っよ」

 〝げらっぱ〟というあだ名で呼ばれる葉百合の、きゃははという個性的過ぎる笑い声が弾けた。

「串木野までって一時間もかからんもんね。じゃあこっち。中央駅八時二十九分発で、串木野に九時五分に着くヤツ。帰りは夕日を見てからもどっこようよ。照島の夕日は感動的よ。遊べる日は目いっぺ楽しまないと損だよ」

「いいねー」。柚香ものってきた。

「そうしよ。じゃあ決定ね。念のため天気も調べるね。えーと薩摩地方は・・・・・・っと」

(このてきぱきさが、はゆの恋愛の小さな障害になってるよね)

 柚香と愛が顔を見合わせた。

 葉百合のもうひとつのあだ名は〝トイレの一〇〇ワット〟。つまり明るすぎるという意味だ。やはりみんなから人気があるけれど、でも、少し〝仕切り屋〟なところがあって、男子からすると〝オレに着いてこい〟感が薄い。もちろん、それが葉百合の長所でもあることは間違いないのだけれど。

 葉百合がスマホ画面を見ながら小さくガッツポーズした。

「串木野、よう晴るっみたいだよー」

 

【二〇一六年八月六日】

「あれ、今日も補講だって言てなかった? 私服でいいの?」

 八月六日、朝七時過ぎ、長袖のTシャツにジーンズというラフな恰好で、玄関に腰掛けてスニーカーの靴紐を締めている愛の後ろ姿に、母の浩子が声を掛けた。

「今日は予定変更。図書館で、ゆずとはゆと、三人で勉強してくる」

「お弁当は? 学校って聞いてたからいちおう作っておいたけど?」

「ありがとう。でも、バーガーかなんかで済ませる。ごめんね」

 立ち上がった愛の様子が、浩子にはいつもとは違うふうに見えた。

「・・・・・・?」

 行ってきまーす、と言ってトートバッグを肩に引っかけて足早に駆けていく愛。見送る浩子。

「・・・・・・ひょっとしてデートとか? あらまあ、おとなしいと思ちょったあの子が」

 浩子は、心配よりも乙女心がうずいた。

「じゃったら、もちっとおしゃれして行けばよかて」

 

 愛は、鹿児島中央駅の鹿児島本線上りホームで待っていた葉百合と柚香と合流し、川内行きの列車に乗った。串木野までは四十分ほどだ。

 鹿児島本線の上り列車は、いったん南に向かったあと進路を西に変える。最初のトンネルを抜けると市街地の密集は消え、車窓には南国らしい深緑の鮮やかな照り返しが踊りはじめる。海辺で育った愛には、トンネルや山辺の景色がちょっと珍しかった。

 市の中心街にある高校を選んだのは、ひとつには列車通学が楽しみだったこともある。しかし、五位野駅から鹿児島中央駅までは、ほぼ住宅地の中を通る。桜島や西部の山並みは見晴らせたけれど、深緑を縫うように串木野へ向かって走る列車からの眺めは新鮮だった。

「知っちょっ?  小松くんが朝釣りに行って、海に落ちたちゅう話」

「まってか、西川センセと上釜センセが城山公園でデートしちょったのを蜂須賀くんが目撃したってホント?」

 車内ではとりとめのないおしゃべりが続いていた。愛はもっぱら相づちを打つ役に徹する。おしゃべりの合間には、青空の中に曲線を描いて続く緑の天末線を眺めたりしながら、この小さな旅を楽しんだ。

 伊集院駅に着いたとき、三人の会話がふと途切れた。愛は視線を空に転じた。

 雲ひとつない夏空が広がっている。

 今日は八月六日。広島に原子爆弾が落とされた日だ。

(あと一ヶ月でも、一〇日でも早く戦争が終わっていれば、亡くならなくてもよかった人はたくさんいたはず。広島や長崎に原爆が落とされることだって・・・・・・)

 七十一年前の八月六日の空も、こんなふうに青かったのだろうか。

 特攻隊員はどんな気持ちで、この空を飛んで行ったんだろう・・・・・・。

「誰が飛んで行ったって?」

「えっ?」

 振り向くと、すぐそばに柚香の顔があった。

「愛ってさぁ、ときどき独い言が漏るっこと、あるよね」

(またやっちゃった)

 愛は、柚香の顔を右手で制止しながら、恥ずかしそうに顔をそらした。柚香には、以前も独り言を聞かれてしまったことがあった。

「ごめん。なんでもないの」

「なんでもないって言えばさぁ、B組の彩花、大野くんとキスしたとかしてないとか『なんでもないのぉ』っていうあのビミョーな態度、ゆずはどう思も?」

 葉百合がガールズ・トーク第二ラウンド開始の鐘を鳴らした。

 

 串木野駅には、柚香がイケメンだと言っていた従兄弟が車で迎えに来てくれていた。福岡市内の大学に行っていて、昨日帰省したばかりだという。

(ちょ・・・・・・、ゆず、よかにせ(いい男)じゃっどな!)

 葉百合のテンションが上がっている。どストライクだったらしい。

 帰りは別々だねー、と言って、愛は、ゆず&はゆコンビと別れ、駅前でバスの時刻を確認した。目的地は「中籠」という海辺の街。市街地からは少し離れている。

 朝のバスはもう出発し、次の便は午前十時五十分発だった。ちょっと時間を持てあます接続。駅でもらった地図を見ていたら、少し離れたところに市立図書館を見つけた。

(もしかしたら、ひいじいちゃんが勤めていた小学校の卒アルとか記念誌とかがあるかもしれない)

 歩けば十五分ほどかかりそうだったが、愛は行ってみることにした。

 ところが歩きはじめた図書館までの道は、ちょうど南東に向かって延びていて日陰が少ない。フレンチハットを深めに被り直す。まだ九時台なのに、気温はもう三十度に近付いていた。

(暑い――)

 図書館に着いて館内に入ると、冷房の風が心地よかった。普段は冷房が苦手な愛だったが、助かったという気持ちで帽子を脱ぎ、ハンカチを取り出した。

(こんなことで中籠まで行けるかな・・・・・・?)

 少し不安になった。

 

 書架に『中籠小学校百年誌』という本を見つけて、ページをめくった。

 昭和二十一年から二十二年まで、曾祖父が代用教員として勤めていた小学校。記念誌の後半の方に、各年度の卒業生の集合写真が掲載されていて、愛は、若き日の重太郎の写真を見つけた。

 愛の思い出の中に浮かんでくるひいじいちゃんの顔は、白い頭髪と白い眉、黒いメガネフレームに縁取られたやさしい目尻、そしてシャープな頬のラインだった。

 写真の中の重太郎先生も、同じようなメガネをかけていた。眉はきりりと持ち上がり、頭髪は黒々と分厚くて、目にはやさしさと強い意志が感じられた。

(ひいじいちゃんとおにいちゃん、やっぱり似ているかも?)

 

 一九四五年(昭和二十年)、終戦を迎えた日本は窮乏していた。食料や物資ばかりではなく、各界各分野の人材もまた不足していた。

 戦時後半には、教師も戦地にかり出され、そのまま帰ってこなかった先生たちも少なくない。さらに満州や朝鮮半島など外地からの復員や、学童疎開が解除されたことで、児童数は特に都市部で急激に増加。教員不足とあいまって、子どもたちの教育環境は一気に悪化した。

 空襲などで校舎を焼失した学校も多く、校庭で〝青空教室〟による授業が行われたこともある。また、校庭の一部は耕され、野菜が栽培されていたりもした。雨が降った日、他の建物を借りられない場合は臨時休校となった。

 なお〝青空教室〟は、一九九五年、「阪神・淡路大震災」が発生したときも、一部の学校で行われた。

 そんな終戦直後の教員不足解消のため、日本各地では、旧制中学や兵学校卒業の者が、戦後の数年間、小学校の「代用教員」として採用された。十代で教師となった者も多く、児童たちと年齢が近かったこともあり、おにいちゃん先生、ねえさん先生として慕われ、教員を辞したあとも、教え子たちとの親しい交流が続いたという逸話が多い。

 

 串木野駅前へ戻ると『藤沢経由 中籠行』というバスが、もう停車していた。発車時間まではまだ数分の余裕があったが、愛は置いて行かれそうな気がして、慌てて飛び乗った。

 走り出したバスは、川を渡って市街地を抜け、間もなく出合った海に沿って北西を目指した。左側の車窓に、錦江湾では望むことができない大きな水平線が広がっている。

 どんな場所なんだろう。私はなにを探して、なにに会いたくて、今、バスに揺られているんだろう・・・・・・。

 バスが坂道にさしかかった。

 

 終点のひとつ手前で降りた。目の前に小学校があった。

 花崗岩を使って立てられた古めかしい校門に、陶製の校名表示板が嵌められていた。

(『中籠小学校』――ここが、ひいじいちゃんがいた学校)

愛は、学校の四囲を見渡した。

 小高い丘の上に、こぢんまりとした校舎が建っている。生徒数はそれほど多くはなさそうだった。校門の前から南を見晴らすと、小さな街のような集落の家並みがすぐ下に見え、瓦屋根の連なりの向こうには小さな漁港もあった。その先には、真夏の逆光の中に眩しい海がずっと広がっている。

 校舎の背後には、深緑をたっぷりと身にまとったクスノキの巨木が、大柄過ぎるほどの樹影を夏空のなかに立ち上げていた。

(――大きい)

 校門には鉄柵さえなく、すぐ校庭に立ち入ることができた。グラウンドを縁取るように並んだ桜の木が、風もない暑い日射しの中で動かない。

 夏休みの田舎の小学校。校庭には誰もいない。学校前の道を歩く人もいない。時間が止まったような景色。

 

 愛は、着いたばかりだというのに途方に暮れた。

(このあと、どうしよう・・・・・・)

 ブランコに腰掛けて、被っていたフレンチハットをとって、バッグから取りだしたハンカチでとんとんと額の汗を叩いた。

 ひいじいちゃんがいた場所へ行ってみよう、なんて飛びだして来たのはいいけれど、でも、ここでなにかが見つかったわけじゃない。どこで、なにを探せばいいんだろう? 特攻隊の基地があった鹿屋へ行った方がよかったのかな?

 かつての海軍鹿屋飛行場は、今は自衛隊の基地になっている。特攻隊、自衛隊・・・・・・。愛は、なんだか行きにくい気持ちがあった。

(これじゃエピメテウスだわ)

 ブランコに乗った自分の影が小さく揺れている。

 

「エピメテウスがどうかしましたか?」

 愛が、はっとして顔を上げると、帽子のつばの先に、白いポロシャツと紺色のジャージ姿の若い男性が、心配そうな顔で愛を見下ろして立っていた。

「あっ、いえ、あの・・・・・・」

「本校の教員ですが、ご気分でも悪いのですか?」

 先生? どうしよう。勝手に校庭に入り込んだことを咎められるかもしれない。

「すみません、なんでもありません。大丈夫です」

 愛はブランコから立ち上がり、帽子をとって、その先生にお辞儀した。

「この辺の方ではなさそうですね?」

 先生の顔が、愛を訝しむ表情に変わった。どきっとした。

(家出人って思われたかも?)

 夏休みになると、福岡や大阪、東京などの都会から〝どこか遠く、日本の端っこへ行ってみたい〟という、曖昧な感傷気分で鹿児島までやってくる高校生や中学生がときどきいるのだということを、愛も聞かされたことがあった。

「えーと、あのぅ、実は・・・・・・」

 愛は、大きく息を吸い込んだあと、昔、曾祖父がこの学校で代用教員をしていたこと、そして、曾祖父について少し調べていることがあって、今日、鹿児島から串木野まで訪ねて来たのだと話した。

 自分の名前、通っている高校の名前も告げた。三年D組三十九番ですと、どうでもいいことまで言ってしまった。

「そうでしたか」

 先生は、少しおかしそうに、でも、ほっとした表情を浮かべた。

「家出少女かと思いました」

「・・・・・・」

「ひいおじいさんの、どんなことを調べていらっしゃるのですか?」

 先生は、ちらっと校舎の方に視線を向けた。なにか分かる資料があるかもしれませんよ、と言いたげだった。

 愛は一瞬ためらったけれど、

(今はまだ、なにもかも手探りのままだ。思い切って、この先生に話してみよう)

 そう思って、愛は先生の顔を見上げながら、わけを話しはじめた。

 曾祖父の名前、その曾祖父が昭和二十一年から二十二年までの二年間、この小学校に代用教員として勤めていたこと、そして曾祖父が大切にしていた絵について知りたいと思っているのです、といった事柄を、簡潔に説明した。

 先生は、首にかけていたタオルでときどき顔の汗を拭いながら、愛の話しをゆっくり聞いてくれた。

 話しながら愛は、こんな暑い日に女の子がひとりでブランコを揺らしてうつむいていれば、確かに不審だと思われても仕方ないなと思った。

「山科重太郎先生ですか。この学校で代用教員をなさっていた・・・・・・。私の大先輩ですね」

 先生は、少し姿勢を正し、そして、

「名乗りが遅くなり失礼しました。本校で四年生の担任をしている永留聡と申します」と、愛に対して丁寧に頭を下げた。

「あっ。こちらこそ、すみません。山科愛と申します」

 愛もあわてて、もう一度お辞儀を返し、二度目の名乗りをしてしまった。

「実は私の祖母もこの小学校の卒業生なのです。昭和二十一年から二十二年って、もしかしたら山科先生に教えていただいた年齢かも知れません。よろしければ祖母に会って訊いてみますか?」

 思ってもいなかった申し出だった。愛は、息が止まりそうになった。

 聡は、校舎の裏手で草むしりをしていて、それが終わって昇降口の方へ戻ってきたとき、ブランコ少女の姿が見えたのです、と言って笑った。

「もうお昼だし、終わらせて帰るつもりでした。どうぞ、うちに寄って行ってください」

「でも、いきなりおじゃましては、ご迷惑をおかけすることになりませんか?」

 家出少女かと思っていた女の子の律儀すぎるほど丁寧な言葉遣いと真面目な顔。それが永留先生にはおかしかったらしい。聡が笑い出した。

「・・・・・・?」

「すみません。いや、ちょっと」

 まだくすくす笑いながら、聡は愛の背後を指して言った。

「片付けを済ませてまいりますので、あちらの桜の木陰で待っていてください。家はここから歩いてすぐです。うちのばあちゃんもきっと喜びますよ」

 校舎へ向かって歩いて行く聡の後ろ姿を見送って、愛は木陰に飛び込んで深呼吸した。

 

 愛は、聡に連れられて、グラウンド下の瓦屋根の家並みに入った。焦がされるような真夏の太陽の下、路地を歩く人影はなかった。

「田舎でしょう?  赴任先がたまたま母校でした。東京の大学へ通った四年間以外は、ずっとこの街に暮らしているんですよ」。聡が笑った。

 集落を横切ると、よく耕された畑の先に、屋敷林に包まれた大きな家があった。蔵、農具小屋、畜舎もある。永留家は土地の旧家であるらしい。

 

 唐突な来訪者を、聡の祖母は喜んで迎えてくれた。

「ほお、重太郎センセの曾孫さんかえ」

 名前は永留かなえ。真っ赤なアロハシャツが若々しい。昭和十一年生まれだという。

(ビンゴ――)

 昭和二十一年から二十二年の間に中籠小学校に在籍していた一年生から六年生は、昭和十年から昭和十六年の早生まれの人。現在の年齢では七十六歳から八十二歳である。

 かなえは、さっき図書館で見たのと同じ百年誌を持ち出して来た。

「やさしいセンセじゃったよー。亡くなったときはみんなで五位野までおんぼ(お葬式)にも行ったんだよ」

 愛は、串木野にやって来た理由を話し、スマホで撮影しておいた、あの風景画の写真を見せた。

「・・・・・・さあてねぇ」

 覗き込んだかなえは分からないという。

「あたしが六年生になる年の春に、重太郎センセ 辞めてしもたから。センセが担任してなさったのは六年生じゃったんだよね」

「そうですか・・・・・・」

「でも、ちょっと待って。一つ上の学年のコらもまだ近所にゃ、ずばあ(たくさん)住んどる。どりゃ、ちっと集合をかけようか」

 かなえがスマホを取りだした。細い指が鮮やかなスピードで画面を滑る。何かをサクサクと打ち込んでいる。

(・・・・・・?)

 ピッという送信音のあと、かなえが言った。

「十年、十一年生まれでヒマなヤツは、永留かなえの家に来い、いうてグループLINEに一斉送信したったわ」

(・・・・・・!)

 さらに、

「おお、シゲかい? ちょっと忠一とノブちゃんも誘ってうちに来んかい?」

「もしもし。せっちゃん、今日ヒマかな? ちょっとお茶飲みに来んね?」

「あー。わしや。急いでうちまで来い。ああ、ごちゃごちゃ言な。早よ来い」

 続けざま、何人かに電話もかけはじめた。

(・・・・・・どうしよう、大ごとになってきた)

 

 座敷のふすまが開け放たれた永留家は広い。

 あっという間に九人も集まって来た。

「ほおかー。ジュウタロせんせの曾孫さんかね」

「ええ先生じゃった」

「口元あたりがちっと似とるわ」

 みんなが愛の顔を覗き込む。

 どこに目線を置けばいいんだろう。私、きっと引きつった顔をしている――。

 

「・・・・・・っちゅうワケで、誰か先生から、この絵のこと、なにか聞かさっいたもんはおらんか?」

 かなえが言った。

「うーん?」

 お年寄りが九人、スマホの小さな画面を覗き込んでいる。愛は、その様子がおかしかった。

「わからんのー」

 よく日に焼けたじいちゃんがアゴひげをさすった。

「見たことなか」

 メガネを外して目を細めていた姉さんかぶりのばあちゃんが言った。

「あ、みっちゃんなら、ないか知っっちょっかも?」

 ピンクの割烹着のばあちゃん。

「おお、みっちゃんナ。絵が上手だったナ。東京の美大に行って、そのまま教授になったナ」

 じいちゃん、ランニングシャツに穴空いてる。

「そうじゃ。山科センセにも、わっぜか(すごく)絵をほめられちょったわ」

 鼻毛が出てるよ、おじいちゃん。

「みっちゃんにもライン送ったけ、もいっき(もうすぐ)来るじゃろ」

 まだ、人が増えるの?

 上座に座らされた愛の身体が、いっそう小さくなった。

 

 白髪のじいちゃんと、パープルメッシュのおばあちゃんが遅れてやって来た。

 じいちゃんが「かなえちゃん、これ、今朝の漁で捕まえたキビナゴじゃ」と言って、持ってきたビニール袋をかなえに渡した。

 漁師さんなのかな、と愛は思った。漁船メーカーの名前が入った作業用シャツの袖から、よく日焼けした太い腕が伸びている。とても八十歳を過ぎているようには見えない。

 おばあちゃんの方は、少し細面で鼻が高い美人。どこか垢抜けた感じだった。

「山科愛と申します。今日は突然に申し訳ございません」と、ふたりにあいさつした。

「ほぉ、重太郎センセの。鮫島仁兵衛です」。漁師が名乗った。

「山科先生の曾孫さん。愛さん? 初めまして。長谷川美千子です」。

 美千子の声は、訛りのない東京の言葉だった。

「愛さん、私ね、山科先生のおかげで絵を描く職業に就けたの」

 美千子の意外な言葉に、愛が驚いた。

「絵を描く職業、ですか?」

「そう。先生が励ましてくださったのよ」

 美千子は、小さなころから絵を描くことが大好きで、ある日、重太郎に、美術学校という絵のための学校があるから、いつかそこへ行くといいと勧められたのだという。

 絵を専門に学べる学校がある、ということを初めて知った美千子は大いに喜び、やがて本当に東京の美大に入学。そしてその大学の教授にまでなった。

 六十代で伴侶を亡くし、その後、郷里である串木野に帰ってきた。次男も鹿児島についてきて、今は鹿児島市内の会社に勤めているという。美千子は串木野の街で小さな絵画教室を開いて、子どもたちに絵を描く楽しさを伝えているのだと言った。

 

 愛が、絵の画面をふたりに見せた。

「ああ!」

 美千子の目が輝いた。

「この絵! そう、たしかに山科先生に見せてもらいました。仁ちゃん、あなたも一緒じゃなかった?」

「うむ。思い出したわ」

 メガネをずらして目を細めていた仁兵衛が言った。

「ワシも絵が好きじゃったから、この絵を見て、水彩絵の具だけでこげんキレイに描けるんかってびっくいしたんじゃ」

 愛も驚いた。

「絵のこと、ご存じなのですね ?!」

 美千子は、昔を思い出すふうに、しみじみとした声で言った。

「『美千子は絵が上手だな』って、山科先生いつも私をほめてくれたわ。私、先生が教えてくれた、絵の学校に行きたいって言ったの。すると先生が、ある日、この絵を見せてくれたわ」

「そこんとこのいきさつは、ワシは覚えちょらんけれど、絵を見せっもろたのは、天気のいいよろいもて(夕方)じゃった。たしか音楽室じゃった。ワシが驚いて『センセっ、これセンセが描いたのじゃっとな?』って聞いたら、違うって言うて、んで、そのあと急にしんみりしんさって、特攻隊のこと話しはじめなさったんじゃ。・・・・・・なあ、みっちゃん?」

 美千子は小さくうなずきながら、目を細めてじっと絵を見つめている。

「この絵、鉛筆画に柔らかく彩色してあるでしょう? 私、下描きがすごいなーって思ったのよ。先生は『スケッチやクロッキーはたくさん描くほど上手くなれる。だから美千子もいっぱい描いて上手くなれ』って」

 愛は、この絵について、ほかになにかご存じでしょうか? と、美千子に尋ねた。

「私の家族に聞いても分かりませんでした。その作者の方のこと、この絵がどこで描かれたのか、私、知りたいんです」

「そうでしたね」

 美千子は、細めていた目を閉じた。

「この絵にまつわるお話し、山科先生から聞かされました」

 美千子がうつむく。

「先生は、とても丁寧にお話しくださいました。よく覚えてます」

 

 ◇   ◇   ◇

 

 昭和二十年、夏―――。

 山科重太郎は、海軍の戦闘機の整備士として鹿屋の海軍航空隊の基地にいた。そこで、ぼんやりと空を仰ぐ同い年ぐらいの青年と出会った。

(あの人も故郷の空を見上げているのかな)

 基地にいる海軍飛行隊の兵士――パイロットたちは故郷を離れて、ここ、日本の南の端にあたる鹿児島にやってきている。だから彼らは、北や東の空を見上げていることが多かった。

 青年もやはり北の空を見上げていた。が、視線は低い。重太郎が青年の目線の先を追うと、椰子の木があった。

 重太郎の視線に気付いたのか、青年が重太郎のほうを振り向いた。

 青年は、腰に下げていた手ぬぐいで顔の汗を拭きながら重太郎に近付いてきた。

「・・・暑いなヤ」

「は?」

「鹿児島は暑い。もう夕方だっつうのにヤ 暑いごだぁ。それにあんな木がおがってる(生えてる)なんて、鹿児島は異国だナ」

 重太郎は、訛りを隠さないその青年の話し方に好感を持った。

「一整曹(一等整備兵曹)の山科です」

「ヤマスナさん? アンダはどごの生まれっしゃ?」

「わが(自分)は、かごっま(鹿児島)です。舞鶴の工機学校を出て、たいかなこて(たまたま)さと(故郷)に配属されもした」

「したれば今日っくれえの暑さはなんつぅごどねえべナ。オレは岩手の生まれなんダ。夏はヤマセ(冷夏をもたらす真夏の北東風)の風っコ吹いでナ、こんな暑い日はながながねぇ」

 青年は人懐っこい笑顔を重太郎に向けた。重太郎から見てもけっこうな美男子だった。どこかかわいらしく響く方言とのギャップがおもしろいと思った。

 重太郎が返した笑みに、青年はいよいよ懐っこく重太郎に話しかけた。

「とうほぐ弁、おもっせぇスか?」

「おもしろいというか、新鮮です」

「オレは、こっちの鹿児島弁の方がおもっせぇナ。空気も言葉も、おがってる木も、もうすっかりヨソの国サきた感じだぁ」

 

 ◇   ◇   ◇

 

「その岩手出身の方はサトウさんというお名前だったでしょうか?」

 愛がスマホ画面の絵を拡大し、絵の中の「sato」というサインを指さしながら美千子に尋ねた。

「うーん。先生は名前をおっしゃってたかもしれないけれど、でも、さすがに、もう・・・・・・。ね? 仁ちゃん?」

「うーん。名前は言ておらんかったよな気がする。岩手の人だちゅうことは言ちょった」

「美男子だったって言ってたことは、はっきり覚えてるわ」

 美千子の顔にちょっと笑顔が戻った。

「先生とその隊員の方はすぐ仲よくなったそうよ」

「そう。そん人がハーモニカを吹いて、センセもいっどき(一緒に)歌とたって言ちょった」

 

 ◇   ◇   ◇

 

 休憩時間、青年が吹くハーモニカに合わせて重太郎が歌ったこともあった。青年はハーモニカが上手だった。ふたりは、島崎藤村が作詞し、大中寅二が作曲した叙情歌『椰子の実』が大好きだった。

 焼いた芋をこっそり差し入れたり、ラムネを回し飲みしたこともあった。

「やっぱり今日も暑いなヤ、重さん」

 標準語も普通にしゃべることができた青年が、あえて方言を交えて話してくれるのは、自分に好感を抱いていてくれているからなのだと重太郎は思った。

 青年は飛曹長で、重太郎よりひとつ年上の大正十四年生まれだった。

 両親が早くに亡くなったあと、ひとつ違いの妹と一緒に、盛岡に住む伯父の家に引き取られ、そこで育ったという。

 

 ◇   ◇   ◇

 

「伯父さんちゅう方は、わぜ(凄く)いい人じゃったらしい。そん人を旧制中学にも行かせっくれたそうだ。でも、やっぱし、やどかい(居候)ちゅう引け目みたいなのがあったんだとか?」

「伯母さんとの折り合いがどうとかって。それで学校を辞めたって」

「冷害もあったらしい。食糧難やら物価高騰で、居候の身としては居づらかったことじゃんそ」

 美千子と仁兵衛の話を聞きながら、愛は、七十年前の岩手の情景を懸命に思い描いていた。

 

 ◇   ◇   ◇

 

「伯父の家にも子ども三人いだんダ。台所事情は楽デねがった(楽じゃなかった)サ。伯父は何も言わなかったけど、あるとき伯母が、台所で『なして(なんで)自分の子でもないのに』ってつぶやくのを聞いた。それと妹が、年上の従姉がきつく当たるって言って泣くこともあった。だんだん居づらくなってサ。んで、三年生の終わりで中学を辞めて、生まれた家サ戻ったんだ」

 自分たちが生まれた家といっても、両親はもういない。家の壁やふすまなどはもうボロボロになっていたけれど、自分たちで直した。

 青年は、近くの材木店で事務の仕事に就いた。現場の仕事もこなした。中退とはいえ、県下で一番と言われた中学にいた青年を採用できたことを社長は喜んだ。青年も懸命に働いた。妹も町の旅館で仕事の口を見つけた。

「貧乏は相変わらずだったけんト、それでも兄妹だけの暮らしは気楽だったし、楽しかったナ」。

 両親が他界し、この世に残された、それぞれにとってのたったひとりの肉親。

「妹さんとは仲よしなんですね」

 重太郎がそう言うと、青年が照れくさそうに笑った。

「んだナ。あいつとはなんでも半分コしてた。あいつ自身が、オレの半分みでなもんだった」

(半分だった――)

 重太郎は、青年が、妹をひとりぼっちで残してきてしまった現在の状況をそういうふうに言っているのだろう、と思ったが、しかし、次の瞬間、その言い方に、もうひとつの違うニュアンスを感じて、心臓が一瞬すぼんだ。

 つい訊いてしまった。

「・・・・・・妹さんは、息災でいらっしゃるのですか?」

 青年の、さっきまでの照れ顔がふと凍った。そして、少しニヒルに歪んだ笑みが口元に浮かんだ。

 昭和十七年の初冬、十六歳になったばかりの妹は、急な病に伏せてしまったという。

「もともと丈夫ではねがった(なかった)んダ」

「えっ――?」

「あっけなかったナ」

 青年は、詳しくは語らなかった。

 

 ◇   ◇   ◇

 

「肺結核とかじゃろか。あのころは、結核はテーベー(TB)いうて、かかったら治らん死の病じゃったち。陸海軍は軍隊内で感染すっこっを特に気にしちょったから、身内に結核患者がいたちゅうことを、そん人は語らんかったかもしれんの」

 

 ◇   ◇   ◇

 

「妹の葬式が終わって数日後、勤め先だった材木店の先輩に召集令状が届いたンだ。そンときに思った。自分もいずれは徴兵される(十七年当時は二十歳以上に赤紙が届く)。だったら、いっそ自分から志願して海軍サ入るべって思った」

「なぜ海軍に?」

「空を飛んでみたいと思ったのサ。そしてどうせ飛ぶなら、上も下も、世界が全部青色になる海の上がいいって、単純にそう思ったんダ」

 重太郎にもその気持ちが分かった。海の果て、空の彼方には、何かわくわくする世界がきっと待っている・・・・・・そんな思いがあった。

 それに、海の彼方には、不老不死の理想郷とされる「常世の国」もあるというではないか。そんな国があるのなら、自分も海と空を越えて飛んで行ってみたい。

 重太郎は、高等小学校一年生のとき、指宿の長崎鼻で、錦江湾と違って遠く広がる水平線を初めて見て、そんなことを思った。

「ンでがら(それから)横須賀サ行った。そンとき、生まれて初めて海を見たんだ。海の水があんなにしょっぺぇなんて知らねかったヤ」と笑った。

「んだけんト、まあ、やっぱり甘い世界ではながったサ。ケッツ(尻)を棒で叩かれだり、何回もビンタされだりナ。操縦だって簡単でねぇし。んでも飛行機が浮かび上がった瞬間は、やっぱワクワクしたもんだ」

 昭和十八年、岩国海軍航空隊を経て、丙種飛曹となり鹿屋へやって来た。

「鹿屋サ来たのは特攻隊サ」

 重太郎が青年の顔を見た。削ったような横顔を夕日が照らしていた。笑顔はもうなかった。

 青年は、空を見上げて、東北弁のまま言った。

「重さん、補陀落渡海(ふだらくとかい)って知ってっか?」

 昔々、紀州の熊野では、苦行僧が渡海船と呼ばれる笹舟のような小型の木造船を浮かべて乗り込み、そのまま南の沖を目指して出て行ったという。伴走船が沖まで曳航し、途中、綱を切って見送ることもあった。

 死を恐れず、それどころか死を歓喜であると捉え、その歓喜に憧れて漕ぎ出した者もいれば、一方ではなかば強制されたこともあったという。舟はやがて潮に流され、風に運ばれ、死に向かって大海原をただ漂流する。

 重太郎も補陀落渡海のことは知っている。しかし、青年がなぜ、今、それを言うのか。

(こん人は、死にたがっているのじゃろか?)

 重太郎は波間を漂う椰子の実を思った。

 青年は、重太郎の答えを待つことなく、空を遠く見つめたまま、言った。

「オラ、軍神だの英霊だのって言われデ奉られるのは嫌ンだな。ただの霊でいい。とうちゃん かあちゃん 妹のそばサ並んでいられる霊がいいナ」

 

 ◇   ◇   ◇

 

「神風特別攻撃隊」のことは、愛は小さいころから、周囲の大人たちに何度も聞かされてきた。飛行機に爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりする、文字通りの特別な攻撃。

 基地を飛び立つときの飛行機の燃料は片道分だけ。生きて帰って来ることはかなわない決死の旅。それなのに、戦果を挙げた例は決して多くはなかったのだと教わった。

「山科先生が、その隊員の方からこの絵をもらったのは、その方が特攻隊で出撃する前の晩だったって言ってたわよね?」

 美千子の問に仁兵衛がうなずく。

「特攻隊は、みんなと違ご宿舎に入(い)っんだ。それぞれ遺書を書(け)たり、田舎に宛てた手紙に、わが(自分)の爪や髪の毛を切って入れたり・・・・・・」

 

 ◇   ◇   ◇

 

 特攻機が出撃する前夜、重太郎は、青年が乗り込む飛行機の整備を続けていた。

 特攻隊員たちが最後の夜を過ごす特別宿舎は、作業している整備士たちからは少し離れた場所にあった。

 出撃前夜の特別宿舎には、司令官さえ立ち入ることを避けていた。特攻隊員たちは、それぞれの気持ちのままに〝最後の夜〟を過ごす。

 重太郎は辛かった。乗員と一緒に敵艦に突っ込む機体。それを整備する。整備兵が思うべきは、第一には機体である。それが整備兵の本分。それが務め。それが戦時である。

 だからこそ、完璧に整備しなければいけない、とも思う。

「誠心整備スベシ」。

 だからこそ、やるせない。

 

 整備が終わったとき、重太郎に大柄な影が近づいてきた。暗がりの中で、重太郎はあの人だと直感した。

「飛曹長どの?」

「重さん、ちょっといいか?」

 青年は、少し離れた外灯の下に重太郎を連れて行った。そして、

「これを重さんサ預けたい」

 スケッチブックの紙を破いて描いた二枚の絵だった。

 

 ◇   ◇   ◇

 

「二枚? ――ですか?」

 愛が美千子に尋ねる。

「先生は二枚だって言ってた。そうよね。仁ちゃん」

「そうそう。じゃっでワシはあのとき『もういっめ(もう一枚)も見ろごちゃっ(見たい)』ってセンセに言た記憶がある。結局、見せっはもらえんじゃったが、確か、そん人の妹さんを描いた絵だとかって言てなさった」

 

 ◇   ◇   ◇

 

「これはオレの田舎の景色なんだ。岩手を出る前に描いたンだ」

 風景画の下に、もう一枚絵があった。

「そしてこっちはオレと妹だ」

 盛岡の伯父の家から遠野の実家へ帰る前に、伯父に勧められて写真館で撮った、最初で最後の兄妹の記念写真。それから絵に描き起こしたのだという。

 青年は、胸ポケットから写真を取り出して見せてくれた。絵と同じ構図で、青年と女の子が並んで写っていた。ぶっきらぼうな表情の兄。はにかむように微笑む少女。

「妹が写っている写真はこれだけだ。この写真は明日オレが連れて行く。一緒に飛んで行く。ンでも、写真が消えでしまったら、こいつがこの世にいたときの姿も消えてしまう。だから写真から絵サ描いた」

「なぜ自分に?」

「重さん。重さんも、うすうす気付いてンだろうけど、この戦争、日本は負ける。広島と長崎には新型爆弾も落とされたっていうでねえが。特攻なんかで、もうどうにかなるようないくさでねえ。ンでも重さんは、この戦争では死なない。死んではダメだ。戦争が終わったあと、この国をもう一回、立派な国に作り直してくれる人になる、きっとなる」

 

 ◇   ◇   ◇

 

「特攻隊員は、飛び立った飛行機ン中で、けね(家族)の写真やら、きっとなんべんも見とったんじゃろな」

「この世にいた姿が消えてしまうから・・・・・・って、重太郎先生がおっしゃっていた言葉。私、人物画を描くたびに思い出すの」

 

 ◇   ◇   ◇

 

「今度生まれでくっとぎ(来るとき)は、こんなにやんたことばり(いやなことばかり)あるよな時代でねえばいいナ」

 青年は、絵のなかの少女に語りかけるように言った。

「特攻だのって、こんな残酷なことは、もうさっさと終わらせだほうがいい。こんなこと、このままずっと続けたら、日本という国が消える。日本の国民が消える。誰もいなぐなったら、この国の文化だの歴史だの、この国の人たちがずっと作ってきたモノは子孫サ伝えられねぐなる」

「・・・・・・」

「国も文化もなぐなったら、未来サなンにも残んねえ。一億総玉砕だのって・・・・・・んなのダメだ」

 重太郎はなにも言えない。

「オレはもう、この戦争を終わらせたい。ンだから明日飛んでいくんダ」

「えっ・・・・・・?」

 重太郎は、青年が放ったその言葉の意味が分からない。

「飛曹長どのが出撃することで、なぜ戦争が終わるのですか?」

 青年は、外灯に背を向けて、ゆっくり歩きだした。人目を避けるようなそぶりだった。そのあとを重太郎も追う。

 重太郎の反問に、青年からの答えは返って来なかった。背後から外灯に照らされて前方へ伸びた二人の細長い影が、やがて暗闇に溶けて消えた。

「オレな、ホントは美術学校サ行って画家になりたかったンだ。戦争が終われば、ワラス(子ども)たちは、兵隊にならねえで、自分がなりたいものになれる。だから重さん、あんだは戦争が終わったら偉ぐなれ。偉くなってワラスたちサ教えてやってくれ。日本をもっともっと立派な国にしろって言ってやってけろナ」

 押し殺した感情が、それでも高く低く往き来する声を、重太郎は生涯忘れられなかった。

 

 今夜も暑いなヤ。なあ、重さん。

 青年が、夜空を見上げた。重太郎も夜空を仰ぐ。

 はくちょう座、わし座、こと座。夏の大三角形・・・・・・天の川がふたりの真上を流れていた。

「戦争なんかさっさと終わって、またみんなが平和に暮らせんのがいい。早く終わらせるためにオレは行く。そのためならオレの身体なんか、燃えでもかまわねぇサ」

 

 ◇   ◇   ◇

 

 座敷が静まりかえっていた。美千子と仁兵衛が泣いている。

「早よいっさ(戦争)を終わらせるため――。そうじゃ。あと一ヶ月でも一〇日でも早よにいっさが終わっちょったら、亡くならんでもよかった人は、ずんばいいたじゃろに。原爆だって・・・・・・」

 立ち上がりながら仁兵衛が言った。

「先生は――」

 美千子がハンカチで鼻を包んで、短く息を吸い込んだ。

「『絵は、言葉では伝えられない想いを描くこともできる。美千子はそういう絵を描ける人になれ』っておっしゃってくださったのです」

 

 愛は、何も言えなかった。

 七十年前、日本は、世界は、非情な戦争のまっただ中にあった。ひいじいちゃんも、そしてこのお座敷にいるおじいちゃんやおばあちゃんたちも、そんな戦争の時代に生きていたんだ――。

 平成生まれの女子高生が、その時代の出来事を、まして戦場のことや兵士たちの心中を想像することは容易ではなかった。しかし、歴史の事実は消すことも、なかったことにもできない。ただ、今、この座にいるお年寄りたちが、あのころを思い出して泣いている。愛は、それだけで胸が詰まった。

 座敷の向こうには、午後の光に照らされた紺碧の海が広がっている。水平線に溢れる光が、愛の目の中で淡く歪んだ。

 

 鼻毛のじいちゃんが口を開いた。

「しかし、センセはないごて(どうして)、わが(自分)のご家族には、こんことをお話しされなかったのじゃろ?」

「まあ辛れ話じゃっで。センセもあのとき泣いてなさった」

 隣室へ行って、電話台の隣に置いてあったティッシュの箱を持って戻ってきた仁兵衛が、紙を数枚引き抜いて鼻をかんだ。

「話すたびに涙が出っようでは、だいか(誰か)に話すのも辛れじゃんそ」

「じゃあ、ないごてみっちゃんと仁ちゃんには?」

 仁兵衛からティッシュの箱を受け取ったピンクの割烹着が、目を拭いながら訊いた。

「みっちゃんが、絵の学校に行こごちゃ(行きたい)って言たからかもしれんな」

 仁兵衛が言った。

「ほうじゃ。そん特攻隊の人も〝絵の学校に行こごちゃった〟って、言てなさったんじゃろ?」

 と、ランニングシャツ。

「センセは、『じっぱ(立派)な絵描きになれ』って、みっちゃんに伝えたかったんじゃな」

 あごひげがつぶやく。

 かなえが、お茶を入れ替えながら言った。

「『こいかあの、じで(時代)は、お前らは、お前らのなりたかもんになれる。お前らはわが(自分)のさっざっ(将来)を選(え)って行っがなっ』って、センセの口癖じゃった。みっちゃんは、しっかいと重太郎センセの思いを受け止めたんじゃ」

 

 美千子と仁兵衛の話から、作者の名前は分からなかったが、岩手県出身の特攻隊員が、自分の故郷を描いた絵だということが分かった。曾祖父が青年からもらった絵が、二枚あったということも初めて知った。青年と、青年の妹が描かれた肖像画。でも、ひいじちゃんの遺品の中にあった絵は風景画だけだった。もう一枚の絵はどこにあるんだろう?

 美千子が、ハンカチで涙を拭いたあと愛に尋ねた。

「愛さん。でも、なぜ?」

「はい?」

「どうしてこの絵の場所を探しているの?」

 ―――どうして?

(どうしてなんだろう)

 曾祖父の遺品のなかから絵を見つけて、その絵にひかれた。そして描かれた場所を知りたいと思った。初めは、ほんとうにそれだけだと思った

 しかし、今は、もう少し違う思いが、実は胸の奥のどこかにあったのかもしれないと思いはじめていた。

 その思いがなければ、こんなに暑い夏の日、強い日射しに打たれていることを後悔しながらも、鹿児島から中籠までやって来ることはなかっただろう。

 けれども、愛は、それがなんなのか、自分で自分に説明ができなかった。ただ、改めて「なぜ?」問われた愛の脳裏に、幼い日、縁側で曾祖父の膝にのせられていたときの場面が、ふと浮かんだ。

「私が、この絵が描かれた場所に行くことで、ひいじいちゃんが喜んでくれるような気がするんです――」

 とだけ答えた。

 

「長崎に〝新型爆弾〟が落とされたあと、八月十二日、鹿屋基地から出撃して行った特攻隊員の名簿があります」

 やっと言えるタイミングになったという感じで、部屋の隅でタブレットを開いていた聡が、検索して出てきた画面をみんなに見せた。

「ほーお、そげなこっが、いっき(すぐ)分かっのか。エライじで(時代)じゃの」

「岩手県出身の方がおひとりだけいらっしゃいますね。でもサトウさんじゃなくて〝なかやしき てつ〟さんという方です」

「どらどら、見せっみろっ」

 爺婆たちが、ドヤドヤと、聡の前に駆け寄ってタブレットの画面に食いついて大騒ぎになった。

 見えん 読めん 暑いわ 足踏むな 手ぇどかさんかぁ あっ ほれ、お前がかかった(触った)から画面が消えたぞっ

 聡は、もう一度画面を呼び出し、指で拡大して見せた。

「おお、すごいのぅ」

「ワシの折いたたみ携帯ではこげなこちゃでけんぞ」

「えーと、あー、こん人じゃな。〝中屋敷哲〟さん」

「サトウさんちゅう名前じゃなかったか」

「・・・・・・いや、待て。この字なら〝てつ〟のほかに〝さとし〟とも読んぞ。漁協にひとい(一人)おんぞ。」

「おお、そうじゃ。わしのきょで(従兄弟)にも、哲と書いて〝さとし〟ちゅうヤツがおる」

「そうか。ほしたや、こんサイン、サトウじゃねじ、さとしの〝さと〟かもしれんナ」

「さとちゃんと同じ名前じゃな」

 爺婆たちが、聡の顔を見た。

「いつまでも子ども時代の呼び方をしないでください」

 聡が、少しむすっとしたテレ顔で言った。

「でも、〝さとしさん〟だった可能性はありますね。〝てつさん〟だったら〝さと〟ってサインはされないでしょうから」

 聡は、画面を自分の方に向けて持ち直した。

 

 岩手県出身の特攻隊員――。曾祖父が鹿屋の基地で出会ったという東北出身の人は、きっとその〝中屋敷哲〟さんだ。愛はそう思った。

 でも、生まれたところが、岩手のどこなのか、絵が描かれた場所がどこなのか、それを知ることはできなかった。そして、もう一枚の絵――。

 ひとつを知ることができたけれど、新しい疑問も増えた。しかし、

(〝ひいじいちゃんが喜んでくれる気がします〟――)

 愛は、美千子の質問に対する自分のその答えはきっと間違っていないと思った。まだそれだけじゃない、という気持ちもあったけれど、自分に対する自分の疑問にも、ひとつ答えが見つかったような気がした。

 ――ひいじいちゃん、串木野まで来た甲斐があったよ。

 

 愛は、かなえ、美千子、仁兵衛、鼻毛、割烹着、ランニングシャツ、姉さんかぶり、アゴひげといった面々に、丁寧にお礼を述べて永留家を辞した。

 午後三時を過ぎていた。串木野駅へ向かうバスはまだ一時間以上もあとだということで、聡が駅まで送ってくれるという。愛はその申し出に甘えることにした。少し疲れてもいた。

 友だちが照島へ海水浴に来ていることを伝えると、聡は、じゃあそこまでお送りしましょうか、と言ってくれたが、葉百合と柚香は夕日を見てから帰ると言っていたことを思い出し、ふたりに付き合っていたらさすがに遅くなると思い、駅で降ろしてもらえるようにと聡にお願いした。

「愛さん、絵の場所が見つかるように、重太郎先生の教え子さんたちと一緒に応援していますね」

 駅前で、わざわざ車から降りて見送ってくれた聡に、愛は握手を求め、何度も頭を下げた。

 聡の言葉がとても嬉しかった。

 

 五位野の自宅に帰ると、浩子が、ねえ、どうだった? 楽しかった? うまくいった? 今日は夕空がキレイでいい感じだったわね? と、愛の〝デート〟の結果を知りたがった。目のなかに乙女星が光っている。

(・・・・・・?)

 おかあさんには、絵の場所を探していることも、朝、串木野へ行くっていうことも言わなかったのに、どうして〝うまくいったの?〟なんて訊いて来るんだろう。

 ひょっとして、もうバレバレだったのかな?

 串木野では確かに成果があった。そして〝いい感じ〟だった。愛は、その嬉しい余韻もあって、

「うん。ばっちり。最後は握手しちゃった」と答えた。

「あ、あくしゅ・・・・・・?」

 

 離れに行き、穂高の部屋をノックした。おう、という返事があった。

「おにいちゃん、あの絵のこと少し分かったよ」

 愛は穂高に、今日の出来事を報告した。

 穂高は、いつものように遠くを見るような目でうなずきながら、愛の話しを聞いてくれた。

「そうか、岩手の人だったのか」。

 分かってよかったなと、穂高も、愛の小さな旅の成果を喜んでくれた。

 ――と、穂高の目が少し潤んだ。愛が驚いていると、穂高は、

「オレも重太郎さんのことを思め出したんだ。あの絵にそげな思いが込められちょったのかって思もと、やっぱい重太郎さんは、オレが〝絵を描く人になりたか〟っていったことを、わぜ喜んでくれたんだな――」

 愛も思っていた。長い間、ひいじいちゃんのこと、忘れてしまっていたけれど、ワシのことを、あの絵のことを〝おまえたち、よく思い出してくれたな〟って、ひいおじいちゃん、今、きっと喜んでくれている・・・・・・。そう思った。

 泣き出しそうになった愛の顔に、穂高がタオルを放った。

「東京の大学にとおったら(合格したら)、岩手にも近こなるな。そんためにも、絶対にとおっように、がんばれ」

 絵の場所探しはそれから再開すればいい。そう言って穂高は愛を励ました。

 愛は自分の部屋に戻り、着替えを持って、足早に浴室に向かった。泣き顔を早く洗いたいと思った。

 汗ばんだTシャツとジーンズを脱ぎ捨てて、浴室に駆け込み、頭からシャワーを浴びた。

 

 部屋に戻って、タオルで髪の毛を叩きながら、改めて絵をじっと見つめた。

 串木野の永留家での大騒ぎを思い出した。

(さとちゃん、さとしさん―――)

 さとしさん。わたしは〝さとさん〟と呼ばせていただきます。

 さとさんが守りたかったこの国で、私は、自分の未来をきっと見つけて、さとさんに恥じないよう、しっかりと生きて行きます。

 そして、いつか、さとさんの故郷に近づき、訪ねることができるように、どうか私を見守っていてください。

 愛はタオルを机の上に置き、Tシャツの襟元を整え、さとさんの絵にそっと手を合わせた。

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