第2話 檻に囚われた者
処刑戦が行われた日の夕刻、アデリシア王国に大雨が降り始めた。
突然の大雨に、王城に仕えるメイドたちの動きが慌ただしくなる。洗濯物を入れ、外に出ている兵や官僚たちの為にタオルを用意し、言いつけられた仕事をこなす。
また、城を守る衛兵たちも走り回る。馬や武器の手入れをし、持ち場を確かめ、雨に不満を言いながら走って行くのだ。
そんな王城の中を、一人の青年が優雅な足取りで歩いて行く。ここで働く誰もが彼を見て足を止め、最敬礼をする。それを喜びとしない青年は、曖昧な笑みを浮かべて足早になる。
彼の名は、
幼い頃から勉学にも武芸にも才覚を発揮し、更には読書を好むという好青年。濃い藍色の髪は短く整えられ、浅葱色の瞳が芯の強さを感じさせる未来の王だ。
そんな夢を見るような評価を知りながら、弦義は辟易していた。
勉学は好きで本の虫であるが、武芸に関しては始めた頃からうまかった訳ではない。何度も先生に打ち据えられ、青あざも作れば骨折もした。それでも何度も何度も挑み続け、ようやく成長することが出来たのだ。
「……でも、ここでの
弦義にとって、王城は自分を押し殺す檻のようなものだ。
そんな真実と偽りの間で揺れ動く青年は、今からルールを一つ破る。王族を含め、許可された者以外は決して入ってはいけない場所へと忍び込むのだ。
コロシアムで見た、無感情な瞳の彼に会うために。
処刑人が閉じ込められているのは、王城の地下にある牢獄だ。その場所は大昔、罪人を捕えて処刑まで留めておく場であったが、最近までもぬけの殻だった。
ただの元牢獄であったはずの地下は、今や獰猛な獣を閉じ込める檻と化している。普段は衛兵が入口を固めているのだが、空白時間があることを弦義は知っていた。幼い頃から時間が空くと王城内を探検していたのだから、隅々まで承知している。
「よし」
運良く、衛兵の交代時間だ。この五分間、地下牢の入口には誰もいなくなる。こんな警備で大丈夫なのかと自国のことながらに不安だが、今だけは感謝する。
弦義は地下へ繋がる階段を、一歩ずつ下りて行った。
鼠が走り、甲高い鳴き声をあげる。更には通気口から外の音が聞こえ、大雨が降っているのだと知ることが出来る。地下牢の湿度は普段以上に上がり、蒸し暑さが増した。
「……」
しかしそんな状況に置かれながらも、最奥の牢に閉じ込められた青年に動きはない。ただ、ぼんやりと光のない目で暗い通路を見詰めている。鉄格子の向こう、岩盤がむき出しの壁が見え、そこには名も知らぬ草が生えていた。
処刑人として罪人を屠った昼間とは違い、その時の俊敏さも殺意もない。ただ人形のようにそこにあるだけの青年。
彼の名は、
那由他の服は昼間の返り血がこびりついたままであり、まだ換えていない。夜の見回りの際、当番の役人が食事と共に古着をあてがうのを待つばかりだ。
そこへ、普段は聞こえないはずの足音が聞えてきた。彼の牢の常連客である鼠が身を隠し、那由他は気のない瞳を鉄格子の向こう側に向ける。
「きみが、処刑人かい?」
那由他の目の前に現れたのは、彼とは全く服装の違う高貴な青年だった。
「……?」
「突然、申し訳ない。私、いや、僕の名は弦義という。アデリシア王国第一王子だ」
胡乱な目を向けられ、緊張しながらも弦義は名と身分を言う。それでも反応を見せない那由他に、弦義は尋ねた。
「きみの名を、教えてくれないか?」
「……那由他」
「なゆた、か」
もしかしたら喋れないのかもしれない、そんな弦義の心配はなくなった。しかし那由他の声はしわがれ、苦しそうに聞こえた。
だから弦義は那由他に声を出すことを強要しないよう、頷くか首を横に振るだけで応じられるように話す。
「僕は今日、きみを処刑戦で見たんだ。初めて、父上に来るように告げられた。……正直、心地良いものではなかったけれど、何よりもきみに目が惹きつけられた」
弦義は地面に胡坐をかき、那由他と同じ目線になる。じっとりとズボンが湿るような感覚があったが、そんなものは気にならない。
「僕と同じくらいの年恰好で、素晴らしく舞うような剣捌きに見惚れた。だけど同時に、深淵のような瞳に驚いたんだ。まるで、感情を何処かに置き忘れたような。……だから」
弦義は身を乗り出し、那由他を直視する。
「きみのことが知りたくなった。また、ここに来ても良いかな?」
「……好きに、しろ」
「ありがとう」
しゃがれた声で、那由他が応じる。その許可の言葉に、弦義は安堵して笑みを零した。すると、那由他が一瞬だけ目を見開いたように見えた。
「那由……っ」
地上から、衛兵たちの声が近付いて来る。夜の見回りの時間になったようだ。見つからないようにここを出なければ、父にバレるわけにはいかない。
「また会おう」
「……っ」
暗がりに姿を消す弦義を追うように手を伸ばし、那由他は自分の行動に首を傾げた。じっと手のひらを見詰め、やがて握って開くと背中を壁に預けた。
「おい、飯だ。それから、これに着替えておけ」
やがてやって来た衛兵が投げてよこしたのは、硬くなりかけたパン二つと薄汚れた服の上下だ。衛兵が去ってから服を着替え、汚れたものを鉄格子の外に放り投げる。
それからパンをかじり、零れないよう鉄格子のすぐ外に置かれたスープをすする。それで食事はおしまいだ。
那由他は目を閉じ、眠りにつく。脳裏に蘇ったのは、初めて自分に笑みを向けた第一王子の姿だった。
「弦義、か」
耳元を鼠が走り、それ以外は音のない夜。初めて呟く人の名にくすぐったさを覚えつつ、那由他の意識は闇に沈んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます