壊れし綴る天才紀貫之

リヒト

第1話

 私はお父様のように墨を硯で磨っていく。

 自分の記憶の中にあるお父様の姿のように見様見真似で試してみる。

 思ったよりも上手く磨ることが出来た。

 これまた記憶の中のお父様の見様見真似で机の上に紙を広げ、筆を持ち文字を綴っていく。

『男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり』

「何をしているんですか!」

 私が紙に文字を綴っていると、お母様が私の部屋に慌てて入ってくる。

「どうしたのですか?お母様?」

「あ、あぁ、あぁぁぁああ」

 お母様が私を見て泣き崩れた。

「私の、私のせいだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんさい……」

 お母様が泣きながら、ごめんさい、ごめんさいと繰り返す話す。

 なぜお母様が謝るのだろう?

 わからない。わからない。わからない。

 でも、書かなきゃ。

 お父様に教えてもらったことを、死んだお父様に教えてもらったことを、話してもらったことを、私の手で、『俺』の手で。

 

 ■■■■■

 

 女中たちが泣き崩れた紀貫之の奥さんを支える。

「ごめんさい。ごめんさい。私が、私があの子を丈夫に産んであげられなかったばかりに……」

 紀貫之の奥さんの心の中は絶望と後悔と懺悔で一杯だった。

 全て、全て私が悪いのだと。

 紀貫之の奥さんは変わり果てた姿となってしまった紀貫之をまともに直視することが出来なかった。

 まるで女のような衣装を纏い、女のような口調で話し、女のように振る舞う紀貫之の姿を。

 

 ことの発端は非常に単純で残酷なものだった。

 小さな娘の死。

 それだけだ。

 たったそれだけの、ありふれた残酷な現実。

 決して裕福とは言えなかった土佐の地で様々な人たちの死を、子供の死を見続け、こころを痛めていた紀貫之にとって自身の娘が自身の任期中に死んでしまい、生きているところを一回も見れなかったことは紀貫之のこころに大きなキズを与え、そして、心がおかしくなってしまったのだ。

 その結果。

 紀貫之は自分のことを死んだ娘だと、自分こそが娘なのだと盲信するようになっていた。

 娘との別れを許容出来なかったのだ。

 そして、今紀貫之は完全に紀貫之自身を殺した。

 紀貫之は、死んでしまった紀貫之に教えてもらったことを、紀貫之の娘として文を書き始めたのだ。

 こんなことが、こんなことがあるだろうか。

 こんなことが……こんなことが……。

 紀貫之の奥さんは懺悔する。

 自分が娘を丈夫に産んであげられなかったから。

 だけど、だけど、だけど、ここで私も折れるわけにはいかない。

「ねぇ」

 紀貫之の奥さんは諦めず紀貫之に言葉をかける。

 心を癒やしてあげるように。

 

 紀貫之を、愛する夫を助けられるのは私だけなのだから。

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壊れし綴る天才紀貫之 リヒト @ninnjyasuraimu

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