八章 王二人
プロパガンダ合戦
──
この時代、人の命は軽い。ましてや俺は武家の当主である。家臣や兵を死地へと送る決断をしなければならない身だ。だからこそ、これまで多くの家臣や兵の死を見ている。
なのに、身近な者の死は未だに慣れない。毎回のように胸の奥が締め付けられるような痛みを感じてしまう。死は死。それ以上でもそれ以下でもないのは頭で分かってはいても、特別な思いが込み上げてくる。
「
一門の
翌日には二日酔いで大量に吐くのだが、それでも止められないのが俺の心の弱さである。
蝋燭の明かり一つしかない暗い部屋の中。湯呑みに麦焼酎を並々と注ぎ、一気に煽る。ただそれの繰り返し。ツマミは一切食べない。一口飲んだだけでも舌が不味いと訴えてきて、飲み干した瞬間には体に悪寒が走る。たった一杯で酔いが全身に回り気分が悪くなるというのに、それでも湯呑みに酒を注ぐのを止めない。
「本当、三好との共存を選べればどんなに楽だったかと今でも後悔するな。いや所詮は、言い訳か……」
馬路 長正の最期は京の地となる。
思えば、俺が早まって
だが俺は
今思えば畠山 義長の管領就任は、俺に拉致を決行させるための撒き餌だったと思わざるを得ない。
「せめてもの幸いは、目的である細川 氏綱殿の拉致……いや保護には成功した事か。ただ、その代償が大きい。三好は死者に鞭まで打つとは思わなかったよ。こんな結末になるなら、もっと入念に計画を立てていれば良かった。本当、不甲斐ない親分だよな」
細川 氏綱殿の拉致に成功した数日後、京の町では細川 氏綱殿暗殺の罪で犯人の首が晒されたという。当然ながら、その首は遠州細川家 馬路党隊長 馬路 長正の名付きとなる。討ち取ったのは三好三人衆の一人
あろう事か、俺は主君殺しの大罪人へと上り詰めていた。細川 氏綱殿は生きており、撫養城に連れて来られたという真実はどうだって良いのだろう。
大事なのは細川 氏綱殿を武装した集団が襲ったという事実のみ。それを暗殺と結びつけて大々的に発表した。見事なプロパガンダと言うしかない。結果として三好宗家は、俺という大罪人を処罰する大義名分を手に入れた形となる。
いや、俺の扱いはどうなろうと気にはしない。それよりも問題なのは、俺の失策で馬路 長正の名誉が不当に傷つけられてしまった点だ。それが何より悔しくて堪らない。
全ては三好を甘く見過ぎていた罰と言えよう。幾ら馬路 長正以下の馬路党員が豪傑にも引けを取らない強者だとしても、相手はあの三好だ。剣術家を揃えて対抗する位は十分に考えられる。その可能性に思い至らなかった。
「国虎様、深酒は体によくありません。本日はその辺でお止めになって寝てはどうでしょう?」
「その声は
「先ほどもそう仰ったので寝所に戻ってお待ちしていたのですが、一向にお出でくださらないので今一度様子見にきました」
「……今日は大目に見てくれ」
そう言って湯呑に入った酒をまた飲み干す。
「その言葉、今日で三日目ですよ」
「こうでもしないと眠れそうにないんでね。幻滅するだろう? 俺が英傑でも何でもなく、単なる飲んだくれだと知って」
「……そうですね。国虎様は何を言っても深酒するわ、物凄い額の借財を抱えているわ、意地汚いわ、本当にどうしようもない方だと思います」
「そうそう、そんな感じ。って、どうした椿?」
気が付けば俺の背中側に椿が回り、後ろから抱きしめられていた。
「それでも椿だけではなく、多くの方が国虎様をお慕いしております。何と言われようとずっとお供しますので、それだけは忘れないでください」
「ありがとう。その一言で救われるよ。……って、悪い。急に吐き気が来た。厠に行ってくる」
だが時既に遅し。例え頭は酔いを自覚できていなくとも、体はとうに限界を超えていた。立ち上がろうとした瞬間、膝に力が入らず勢い余って顔面から板間へと突っ込む。その瞬間、口の中には酸っぱさが充満していた。
それが雪崩を打って床に吐き出されるのはもう止められない。
「きゃーー! 国虎様、大丈夫ですか? 誰か、誰か、国虎様が!」
不幸中の幸いは、俺の口から出たのはほぼ液体のみだった点であろうか。食べ物が混じっていれば、逆流した際に喉を詰まらせていたかもと思うとぞっとする。これがあるから俺は酒を飲む際、ツマミを一切食べない。
それはともかく、これでようやく今夜は眠れそうだ。
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
「遠州殿……今日は随分と酷い顔をしておるな。眠れなかったのか?」
「面目ございません。昨晩の酒が祟り、二日酔いになりまして」
翌日、拉致した細川 氏綱殿と面会をする。
俺の方は目の下に隈を作り、片や細川 氏綱殿はまるで憑き物でも落ちたかのような清々しい笑顔で向かい合ったのだから、最早どちらが城主でどちらが拉致されたのか分からない。
「まあ、儂もこの
「細川 氏綱様、その『当初』という言葉の意味はもしかして……」
「ああ、此度の件はもう気に病むな。儂は水に流すつもり……と言うより、そうだな。結論から言おう。遠州殿は此度の責任を取って、三好宗家を倒して細川
「細川 氏綱様を当家の城に無理矢理お連れしたのは、三好宗家との決戦の旗頭となってもらうためですので、勝利すれば結果的には細川京兆家の中興は果たせると思いますが……」
「なら丁度良い。条件を守ってくれるなら、儂からは遠州殿を養子として迎え入れを。一条 内基様からは
「お待ちください。それは私に細川京兆家の家督を継げと言っているのと同じではないですか? もしや私自身に旗頭となれと?」
「ああ、そうだ」
細川 氏綱殿が清々しい笑顔となっていたのはこれが理由であった。要するに細川 氏綱殿を拉致した件も、作戦がバレて一条 内基が京から逃亡する羽目になったのも、俺が細川京兆家の当主になれば見逃してやるという意味である。京兆家当主になるためには右京大夫への任官が必須である以上、それと献金を絡める辺り見事な連携と言わざるを得ない。
しかも細川 氏綱殿は、俺が京兆家当主となる環境が整い次第に隠居して出家するとも言っている。
確かに弟である
そんな中で無理矢理連れて来られれば、通常なら協力は渋る筈。勝ち馬に乗る訳ではないのだ。この豹変は何か理由があるに違いない。
それは一体何なのか。
「儂はな、常々思っていたのだ。
「何を仰いますか。一族にはまだ当家や
「気付かぬか? それらは全て遠州殿の功績ぞ。儂の功績ではない」
「私は細川です。なら、一族を盛り立てるのは当然かと」
「だからだ。遠州殿、いや以後は国虎殿と呼ぼう。国虎殿が京兆家当主となって盛り立てよ。それが一番自然な形であり、お主ならできる。儂では管領職を取り戻せなかったからな」
そういう事か。畿内を巻き込んだ細川一族の争いは、勝利者のいない空しい結末である。畿内の覇者は細川から三好へ。これでは何のために家督争いをしたのかが分からない。
加えて管領職までもが三好に奪われたのが相当堪えているのだろう。幕府から見放された。あの細川 晴元ですら管領に任じられていない。管領代としてその役割は
自身の目が黒い内にもう一度かつての細川を取り戻す。細川 氏綱殿の思いはその一点なのだろう。これまでは細川 晴元の打倒だけを考えていたのが、唐突に終結すると自身の足元が如何に脆弱か気付いてしまった。そう受け取れる。
ただそうは言っても、はいそうですかと簡単に首を縦に振れはしないのもまた事実だ。何故なら既に京兆家次期当主は決まっている。そこに俺が割って入るのは筋違いと言えよう。
「お待ちください! 細川京兆家の次期当主は、
「ああ、忘れた」
「──! さすがにそれは無茶が過ぎます。撤回してください」
「国虎殿、儂は昭元に京兆家当主を譲るとは約束していない。たった今そうなった。もう諦めよ」
「で、では私が京兆家当主になったとして、遠州細川家は今後どうなるのですか?」
「そう難しい問題ではあるまい。国虎殿が両家の当主になれば良いだけだ。確か今京では、国虎殿は儂を暗殺した犯罪者になっておるな。城中ではこの話題で持ちきりだぞ」
「お恥ずかしい話です」
「この件も丁度良かろう。国虎殿が両家の当主となれば、その疑いは晴れる。むしろ儂を殺そうとしたのは三好宗家で、国虎殿の家臣はそれを阻止した忠義者として派手に喧伝せよ。儂の命を救った功績が京兆家当主への就任とな」
「……はっ、はは。食えぬお方だ」
目的のためには横紙破りも平気でする。世論を味方に付けるための宣伝工作も分かっている。何なんだこの人は。……いや、細川 晴元打倒に費やした半生は伊達ではなかったと評する方が正しいのだろう。
しかも拉致されてからのたった数日間でこれらを全て決めてしまうのだから、江口の戦い以降の細川 氏綱殿は単なるお飾りではなかったというのが良く分かる。きっと世が世なら、細川 氏綱殿の下で細川一族は繁栄を謳歌できていただろう。
「分かりました。京兆家当主の件、快く受けさせて頂きます。討ち死にした当家家臣への配慮も誠にありがとうございます」
「うむ。これで死した者達の名がこれ以上汚される事は無いであろう」
つまりは俺の京兆家当主就任は、京で討ち死にした馬路 長正以下の馬路党隊員の弔いにもなる。それならば答えは一つしかない。細川 氏綱殿の描いた絵図に乗っかり、細川京兆家当主として一族の再興を果たす。これが俺の演じる役割だ。
「そうと決まれば、急いで日の本中に檄文を送らなくてはなりませんね。三好は主君であった
「……国虎殿、さすがにそれは大袈裟ではないか。それに国虎殿は
「そうですね。失礼しました。では、そんな不忠者を重用する現公方は、自身の利益のみしか考えていないとしておきましょう。だからこそ、当家が正しき道を示し、足利 義栄様が天下を正しき姿にする。日の本の武士達よ、足利 義栄様の元へ集え。こんな所でしょうか?」
「ま、まあ儂は
俺自身、この檄文は何の役にも立たないと思っている。ただそれでも、これからの三好との争いに当家には大義名分があるのだと伝わればそれで良い。目的は東国の武家への牽制であり、義輝派とならずに中立を保ってもらう。これだけで今後の展開が大きく変わる。
改めて昨夜の椿の言葉が身に染みる。俺は一人ではないと。例え失った物が多くあろうと、手にした物はそれ以上にあるのだと。
きっと俺はこれから多くの仲間を死なせていくだろう。しかしながら、それ以上に俺を手助けしてくれる者がいるのだ。それだけは忘れてはならないと。
今日の酒は、昨日より美味く感じられそうな気がする。
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