改名の意味

「まさかこうなるとはな。念のために行動しておいて良かったよ」


 阿波あわ国に戻った俺達を待っていたのは、三好 長慶みよし ながよし足利 義輝あしかが よしてるの和睦が成立したという報せであった。しかもその立役者となったのが近衛 稙家このえ たねいえ前嗣さきつぐの親子だというのだから、驚きというしかない。


 幕府側の反三好の筆頭は、近衛 稙家の妹であり、足利 義輝の母でもあり、尚且つ近衛 前嗣の叔母でもある慶寿院けいじゅいんである。そして近衛一族は、公方足利 義輝 の朽木谷くつきだに下向に一族で付き従うほど結束力が高い。ここから考えれば、近衛一族は反三好の意見で統一されていると見るのが通常だ。和睦交渉に積極的になるとは誰もが思わないだろう。


 だがここで一つの報告が俺の心を震わせる。実は「近衛 前嗣」は最初「近衛 晴嗣はるつぐ」と名乗っており、天文二四年 (一五五五年)に名の「晴」の字を捨てて「前嗣」と改めていたのだという。「晴」の字は先代公方 足利 義晴あしかが よしはるからの偏諱だというのにだ。


 一般的に偏諱された字を捨てて名を改めるというのは、決別を意味する。例えば松平 元康まつだいら もとやす今川 義元いまがわ よしもと殿の「元」の捨て、松平 家康まつだいら いえやすと名を変え独立したのが典型的だ。ならば近衛 前嗣は、足利 義輝との縁を切ったと見るのが通常の見方と言えよう。


 しかしながら、あの近衛一族に限ってはそんな常識は当て嵌まらない。むしろ改名を言い訳として、より自由な行動をする。事実改名後の近衛 前嗣は、京に住み政治活動をしていたという話だ。


 何が言いたいかというと、近衛 前嗣は三好宗家に接近していた。改名は三好宗家に近付くための策であったと考える方がしっくりくる。


 理由は当然ながら、近衛家の利権を守るためだ。足利 義輝と三好 長慶のどちらが勝っても近衛家は滅びない。いわゆる両天秤に掛けたのだろう。武家がよく使う生き残り策である。


 そんな両陣営に属した近衛家は、和睦交渉が始まれば今度は重きをなす。親子の間なら条件のすり合わせも容易かったに違いない。いや、ここまですんなり和睦が成立してしまうと、近衛 前嗣は初めから和睦目的で三好に近付いたのではないかと疑ってしまう。


 ともあれ難航すると思われた和睦交渉は、すんなりと纏まった。誰がこの結果を予想しただろうか? 幕府内部にいた細川 藤賢ほそかわ ふじかた殿でさえ近衛 前嗣の動きを把握していなかったのだから、相当なやり手であるのは間違いない。


 また、和睦の中身も見事なものだ。三好陣営からは足利 義栄あしかが よしひでの父である足利 義維あしかが よしつなの追放を。幕府側からは細川 晴元ほそかわ はるもととも和睦を。両者が互いに妥協し合い、目標を同じくした実のある内容と言える。


 こうして唐突に氏綱うじつな派と晴元はるもと派との争いは終わりを告げる形となり、次は義輝派と義栄派の両陣営が争う新たな戦いが始まろうとしていた。


 つまりは俺と三好 長慶との決戦が近いという意味である。


 さすがは近衛 稙家と言うしかない。元々足利 義輝以下の幕府陣営は、氏綱派と晴元派の争いに乗っかったに過ぎない勢力だ。それが気が付けば晴元派の主導権を握り、長である細川 晴元でさえも降伏止む無しと説き伏せてしまう。見事な手腕であった。


 それと同時に、あの時近衛 稙家の誘いに乗らなくて良かったと改めて思う。もし協力していたら、今頃は当家が骨抜きにされていたのではないかとそんな空恐ろしい妄想が過ってしまう。


 ──堺幕府の悪夢再び。


 今回の和睦成立の感想を一言で述べるなら、これ以外の言葉は見つからない。


 戦に勝ち、現公方を没落直前まで追い詰めながら、最後の最後でひっくり返される。足利 義維もまさか二度目があるとは思わなかったろう。


 これだから公家は怖い。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 情勢が動いたのは畿内だけではない。西国各地の報告も次々と届いている。


 まず播磨国では、島津 義久しまづ よしひさが西部を完全制圧したという話だ。播磨国北西部は平地が少なく山ばかりのために一見すると重要性は感じない。しかしながら、実はこの地域は意外に重要な地域である。


 理由は鉄。鉧押し法のたたら製鉄発祥の地であり、備前びぜん国で作られる刀剣や鉄砲の原材料となる鉄はこの地域から供給されている。つまりは備前国の宇喜多 直家うきた なおいえの首根っこを島津 義久が掴んだ形となった。


 宇喜多 直家が今何を考えているか俺には分からない。それでもこの事実により、中長期的には反抗する力が無くなったと言えるだろう。


 戦は武勇だけではない。総合力によって戦うものだ。武器が無ければ戦ができないという常識を、三好側に寝返れば宇喜多 直家は嫌という程痛感する羽目になる。


 こういった点に手を回せるのが、元現代人の強みであった。


 そんな宇喜多 直家は、ついに浦上 宗景うらがみ むねかげ殿を降して備前国を統一する。それだけではなく、余勢を駆って美作みまさか国にまで侵攻しているという。


 既に出雲尼子いずもあまご家は滅亡しているのだ。無理をしてでも領土拡大をする機会だと捉えたのではなかろうか。その考え自体は俺も理解できる。


 ただ、この状況を領土拡大する良い機会だと捉えたのは、宇喜多 直家だけではなかった。備中びっちゅう国の細川 通董ほそかわみちただ殿もその一人となる。当家が米子よなご攻略の前に落とした新庄しんじょう村の砦を起点として、美作国西部を攻略しているという報告が届いた。


 これなら美作国の平定は時間の問題とも言える。今後の両者に領土問題が勃発する可能性を感じさせる動きではあるが、それを今から心配しても仕方がない。まずは旧出雲尼子領全てを喰らい尽くす。吉川 元春きっかわ もとはるが担当している伯耆ほうき国も順調に制圧が進んでいると報告が上がっている。優先順位を間違って出雲尼子再興の機会を与えてしまうのは、本末転倒であろう。


 次は九州情勢だ。


 まず肥後ひご国北部は危なげなく平定が完了する。いつもの如く主家の降伏に反抗して独立した豪族達の掃除なのだから、梃子摺る筈がない。団結をする前に各個撃破で終わらせたという簡単な一文で報告書は終わる。


 この時代の武士は大袈裟に自身の武勇を語るのが基本だというのに、何故当家の家臣達は報告書をこうも最低限で済ますのだろうか。毛利 元就もうり もとなりのようにゲンナリする程書けとは言わないものの、もう少し詳細に書いてくれないかといつも思う。


 それだけに鈴木 重意すずき しげおき改め京極きょうごく 重意の報告書は、とても新鮮であった。


 京極 重意が担当する筑後ちくご国は豊後大友ぶんごおおとも家の支配下にあるものの、筑後十五城の名の示す通り寄り合い所帯の性質を持っている。国主と呼べる中心人物がいない。


 そうなると筆頭勢力となる筑後蒲池かまち家さえ降せば、後は有象無象だ。つまり肥前渋川ひぜんしぶかわ家が西筑後の制圧に留めたのは、筑後蒲池家討伐に絞った結果と言って良い。その後は時間を掛けて一つずつ確実に豪族を潰していく。こうした絵図を描いたのだと思われる。


 ただ、今回はそれが裏目となった。前年の筑後国侵攻では要害となる高良山こうらさんを取りこぼしていたため、その地点に東筑後国の豪族が集結する。


 ある意味反抗勢力を一網打尽にする良い機会になったとも言えるが、逆を言えば高良山の戦いで負けを喫すれば筑後国を失ったかもしれない危うい戦いでもあった。こうした経緯を知ると、抜け駆けとなってもしっかりと要害を押さえた肝付 兼続きもつき かねつぐ仁木 高将にっき たかまさの戦術眼の確かさが光る。


 しかもその慧眼によって豊後大友ぶんごおおとも家の軍を釘付けにして動きを鈍くさせているのだから、その恩恵は大きい。今回の筑後国高良山での戦いは、豊前ぶぜん国戦線の影響によって、豊後大友家直属軍の後詰が無い小規模のものとなったそうだ。


 高良山の攻略で厄介なのは、中心となる高良大社こうらたいしゃを囲うように幾つもの城が配置されている点だ。つまりは一つの城を攻めれば、周辺の城から援軍が駆け付ける。攻略には同時に複数の城を攻めなければならないというものだ。個人的には難攻不落の城がでんと構えるより、こちらの防衛思想の方が好きだったりする。


 とは言えこの厄介さは、武装に攻城用の大筒が無いというのが前提であった。残念ながら九州方面では、既に薩摩斯波さつましば家が大筒を製造しているためにこの防衛思想は根底から崩れている。


 そのお陰で高良山の攻略は、呆気ないものであったと書かれていた。


 城の制圧を最初から考えない。防衛機能を無意味にする。この俺の得意技を援軍の斯波 元氏しば もとうじが実践し、城兵に逃げるか降伏するか玉砕するかの三つの選択肢を与える。ここで玉砕を選んだ兵達は、哀れ元雑賀衆の京極 重意の手によって一掃される。そんな作業のような戦いに終始しそうだ。


 最後に残った高良大社は砲撃前に全面降伏をし、筑後国の平定は完了する。後は東筑後の城を一つ一つ接収するのみだとして報告書は〆られていた。


 高良大社は筑後国一帯に根付いている存在だけに、これを傘下に収めたのは大きい。今後は統治の難度が大きく下がるであろう。


 それにしても、何故高良大社が敵に回ったのだろうか? これが無ければ東筑後の豪族達は団結していない。京極 重意が高良大社を怒らせる何かをしたから、今回東筑後の豪族を結集させる戦に発展したと考えた方が妥当であろう。その要因を考えてみる。


「そうか。重意は筑後国で一向門徒を増やすのを目的にしていたな。高良大社と衝突したのは、これが理由と考えればしっくりくる」


 これが分かれば善は急げだ。京極 重意には以後無理な改宗を迫らないよう釘を刺しておかなければならない。信仰はあくまでも現世利益で。一向門徒になれば得をするという触れ込みで信者を増やす。これを守るよう書状を出しておくとしよう。


 戦国時代は仏教の宗派間対立ですら、信者が暴徒化して寺を焼く事例が幾つもある。そんな悲劇を筑後国で起こさないで欲しいと願うばかりであった。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



「国虎様、肥前渋川家より書状が。無事対馬つしま国を降したとの内容です。それと……ついでに壱岐島いきのしまも制圧したと書かれております」


 九州戦線最後の報告は、豊後大友家関連から外れた蛇足的な内容となる。


「えっ? 対馬の制圧は元氏に依頼してあった筈だが」


「何でも斯波様は筑後国での戦の援軍があるため、代わりに担当したと書いております」


 豊後大友家は全盛期の周防大内すおうおおうち家と真正面から渡り合った勢力だ。それだけに今はそちらに集中して欲しい。対馬制圧は、豊後大友家を十分に追い詰めてから対処するのでも遅くないと俺は考えていた。


 だというのに、こうも早く達成されると苦笑するしかない。


 報告書を読まなくとも内容は分かる。対馬を肥前渋川家が担当したなら、対馬国内で鉛採掘を行っている根来衆関係者が蜂起すれば良いだけだからだ。人口の少ない島では、鉱山労働者が暴動を起こすのは為政者にとって致命的となる。津田 算長 つだ かずながが兵を率いて向かった所で、後詰の役割が精々であったろう。


 ……そうか。それでついでに壱岐島も制圧したのか。行き掛けの駄賃で制圧された壱岐島の領主には御愁傷様というしかない。


「それにしても、どうしてウチの連中はこうも血の気が多いんだ。豊後大友家との全面的な争いはまだ始まっていなくとも、備えに集中するだけで十分だと思うんだがな」


「国虎様があの月山富田がっさんとだ城をいともあっさり落としたからですよ。それを知れば、皆様が奮起するのは当然です。……と、それよりも以前の答えをお聞かせください。対馬の一部をいえずす会へ寄進するのは、どういった意味があるのでしょうか? これを知らなければ、家臣一同が反対すると思われます」


「そんな事もあったな。忘れていたよ。三好が若狭わかさ国を併呑した今だからこそ、この一手は大きく生きる筈だ。忠澄ただすみ、聞いてくれ。イエズス会への寄進は、外の国の資本を対馬に投資させるのを目的としている」


「国虎様、それには一体どのような効果があるのでしょうか?」


「経済特区……と言っても分からないよな。端的に言えば、寄進をした場所はイエズス会が勝手に発展させてくれる」


 例えば深圳しんせん。税制などの優遇を受けたこの地域は、現代では中国のシリコンバレーとも言われている。経済特区に指定されて以降、目まぐるしく発展したのは現代人なら誰もが知る所だ。


 それをこの対馬で行おうというのが今回の寄進の目的である。


 対馬は古くからの大陸航路の要衝でありながら、その実開発の全く進んでいない島だ。特に北部に於いては、良港を抱えながらも明治に入るまで殆ど手付かずの状態である。


 ならその北部を日の本のキリスト教本部にさせて、いち早く出島の役割を果たしてもらおうというのが寄進の意味であった。そうすれば対馬領主の開発は島南部のみで済む。結果として対馬は相乗効果で大きく発展し、日の本の玄関口たる存在になり得ると考えた。

 

「それが我等にとって何かの利に繋がるのでしょうか?」


「大量にあるんだがな、こう言えば分かるか? 南蛮の支店が対馬にできる」


「確かにそれは魅力的です。ですが、そこまでしなくとも南蛮の船は今も土佐に寄港しておりますが……」


「それだと南蛮の商人個人との取引だからな。もっと大量に売り買いができるぞ」


「待ってください。それでは三好もその恩恵を受けるのではないですか?」


「いや寄進するのは当家だぞ。独占契約を結ぶさ。領国がここまで大きく広がったのだから、規模的にも大丈夫だろう。土佐や阿波の一国単位で考えるなよ」


 他にも寄進地が中継港として利用されるようになれば、酒や食料が言い値で売り放題となる。対馬は食料生産能力が貧弱だけに、発展すればする程売り上げが右肩上がりになるのが何より美味しい。


 俺としては対馬が三好の南蛮貿易の中継港となれば、それだけで結構な利益が出せると踏んでいる。可能なら三好が支払う銀も掠め取りたい所だが、この辺は状況を見ながらとなるだろう。


「ですがより取引量が増えれば、当家の銀が出て行くだけではないのですか? ……あっ、なるほど。そのための石見いわみ銀山ですか」


「いや、銀の流出は少ないと考えている。探せば意外と南蛮人が喜ぶ産物はあるものだぞ。最悪の場合は、永楽通宝のような銅銭の支払いでも良いしな」


「……銅銭ですか?」


「そうだ。日の本だけではなく、明の周辺国では銅銭で決済をしている所が結構あってな。常に銅銭不足で悩まされている。それを当家が解決する訳だ」


「何て悪辣な」


「酷い言い方だな。混ぜ物をして銅の比率が落ちた粗悪永楽通宝より遥かに良心的だぞ。まあ、これが理由で畿内は永楽通宝を悪銭扱いするんだがな。これで分かったろう。対馬に南蛮貿易の支店ができれば、当家は永楽通宝の私鋳銭でぼろ儲けできる」


「……此度の件、聞かなかった方が良かったかもしれません」


 この時代、倭寇や南蛮人は日の本の銀を求めてやって来ている。だがそれが全てでは無い。樟脳や珊瑚を基本として意外と売れる商品はある。


 その中でも質の良い銅銭は、アジア各国で喜ばれる主力商品となり得る物であった。


 例えば周防大内家が行っていた日明貿易でも、宋銭は輸出の主力品であったのは意外と知られていない。また江戸時代初期、日の本で作られた銅銭がアジア各国へ大量に輸出されていた事実もある。


 元々アジア各国の基軸通貨は明国やそれ以前の国が担っていたのだが、明は慢性的に銅不足に悩まされており、銅銭の鋳造が度々中止されたり銅銭の使用自体が禁止されるようになっていた。


 加えて南蛮貿易というのは、基本的にアジア各国で仕入れた商品を日の本に持ち込む形が多い。ここまで分かれば、南蛮人に当家の私鋳銭が喜ばれるのは明白であった。


 また、当家には精巧な永楽通宝を作る技術がある。銅もある。鉛も錫もある。これだけの条件が揃っているのだ。対馬の未開の地をイエズス会に渡したとしても、その数倍、数十倍の利益が出るのが分かるというもの。


 何より実際に私鋳銭をバラ撒くとなっても、それを担うのが南蛮人だというのが尚良い。全てのクレームはイエズス会へ。イエズス会が私鋳銭である事に文句を言ってくれば、寄進地没収で事足りる。何とリスクの無い商いであろうか。


 とは言え俺はそれに頼らなくとも、土佐産の生糸で十分勝負できると考えている。試行錯誤の末、品質はかなり上がっている。その上特殊加工によって、縮みがほぼ出ないのがその強みだ。世界市場で戦える商品力を持っているだろう。


「これで忠澄にも良く分かったんじゃないか? 俺の言う『キリスト教は心の友』という意味が」


「それが言えるのは国虎様だけです!」


「そうか?」


「そうですよ」

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