合言葉は八幡

 ──「南海路なんかいろ」という言葉がある。


 これは畿内から琉球りゅうきゅう国に行く過程で、瀬戸内海を通らずに太平洋側を通る航路だ。


 元々は土佐国から熊野三山くまのさんざん伊勢神宮いせじんぐうへ参詣を行う中で発展し、後に南九州とも繋がり、果ては応仁の乱時に周防大内家が持つ瀬戸内海の制海権を避ける形で、細川京兆家の遣明船が使用するようになったという経緯がある。


 そして、この時代の航海は地乗りとなる。常に陸を視界に入れながら船を進めるために、四国から九州へ渡るには豊後水道を経由したものであった。具体的には土佐国最西部の鵜来島うるぐしまから豊後国は蒲江かまえの港へ進む形となる。そこから南下して、日向国、大隅国へと入る。


 この時点で気付く筈だ。船で南九州には直接入れないと。四国から九州に向かうなら、豊後大友家の領海を通過しなければならないと。その上で厄介なのは、豊後水道には土佐一条家が領有する日振島という存在があった。


 つまり、当家が兵を大量に乗せた船で九州に渡ろうとした場合、土佐一条家や豊後大友家との戦を覚悟しなければならない。いつでも上陸作戦が可能な船がやって来るのだ。黙って素通りをさせてくれる馬鹿は、まずいないだろう。


 ──通常ならば。


 ここからが遠州細川家の真骨頂となる。今回の遠征で使用する船は、君沢形とその後継機とも言える輸送艦 箱館形、一〇〇〇石積みの弁才船に限定した。これを計二〇隻で船団を形成している。それ以外の船は不参加とした。


 日本の江戸時代は船による輸送が発展した時代でもある。弁才船はそこで大きく活躍した。そうなれば弁才船の性能も上がり、航海技術が向上するのも当然と言えよう。

 

 結果、沖乗りと呼ばれる陸を見ずに船を走らせる技術が発展した。その成果により江戸時代中期以降、土佐国は日向国の油津港と一本の線で繋がる。豊後水道を経由せずとも、太平洋を進んで直接南九州に寄港できるようになった。


 何が言いたいかというと、当家が行っていたシャム (タイ)との交易は、土佐と南九州とを繋ぐ航路を確立する役割も果たしていたため、難なく南九州の港、志布志港が襲撃可能という話である。俺もこのような形で確立した航路が役に立つとは思わなかった。


「ただなあ……船が揃うまでどうして待てなかったのかと。これでは何回往復しないといけないか分からないぞ。洋上からの奇襲上陸で一気に主要港全てを押さえようと考えていたのが台無しになった。ったく、今回は長期戦を覚悟するしかないのか」


 とは言え、これだけの良条件を揃えていたとしても、兵を運ぶ船の数が少なければ全ては絵に描いた餅となる。侵攻計画を前倒しした事で、兵員や物資の輸送が一度に行えないという事態に陥ってしまった。本来の俺の構想では、船の数は最低でも倍の四〇隻である。


 船の数が少なければ何度も往復させるピストン輸送で対処せざるを得ない。結果、敵に各個撃破されないようにするため、消極的な軍事行動となる。海からの侵攻という有利さを生かせない形だ。敵側からしても、対処し易いと映るだろう。だから俺はこの前倒し案に反対した。


 時間さえ掛ければ、他家から商用に使用している弁才船の借り受けができるのだ。それを待ってからでも遅くはないだろうと。


 しかし、ここで家臣になったばかりの津田 算長から爆弾発言が放り込まれてしまう。それは薩摩国は島津宗家の事情であった。


「計算では四回、もしくは五回で兵の全てを輸送できるとの話です。敵となる島津宗家はまだ薩摩国を完全には統一できていないのですから、これでも十分かと。国虎様の心配も分かりはしますが、それよりも我等の力を信じてくだされ。特に父は此度の戦で大暴れすると息巻いておりまする」


「……分かった。その言葉を信じよう。俺が慎重過ぎたな」


 良くある話だと言えばその通りだが、天文二一年 (一五五二年)に朝廷より修理大夫しゅりのたいふに任じられ、且つ幕府より薩摩国守護だと認められた島津 貴久しまづたかひさは、実は庶流の出であった。下克上によって島津宗家当主の地位を手に入れたに過ぎないのだという。


 その証拠に薩摩国では、未だ薩州さっしゅう家当主の島津 実久しまづさねひさが公然と反旗を翻しているのだとか。しかもこの島津 実久の方が、島津宗家当主の正当性が高いという話だ。


 つまり島津 貴久は、腕力と中央からの箔付けという外部の権威によって何とか体裁を維持しているに過ぎない。出雲尼子家の一件と同じく、中央が目先の金欲しさに現場を無視した裁定を行ってしまった形だ。これで島津氏の一族や家臣の全てが納得するというのは考えられない。態度を表明しないながらも反対派は多数いる。なら、当家が志布志港を攻め落とせば、勝手に内部分裂を起こすだろうという見立てが当家の家臣達に共有されてしまった。


 こうして俺の慎重論は押し切られる形となる。


 とは言えこの時代、内向きには抗争を続ける豪族達も外敵には一致団結する場合もある。そうそう楽観はできない。万が一そうなっても対処できるよう、保険を掛けるのを認めさせる形で遠征の前倒しをしぶしぶ承認するに至ったのが今回の流れである。


 算長なら俺と同じ慎重論を唱えると期待していたのだが、早速当家の雰囲気に馴染んでしまったのが意外の一言であった。


「……見えてきたか。仕方ない。腹を括るか。杉谷隊、準備を始めろ! 港が射程に入り次第、新居猛太改を好きなだけぶっ放せ! 君沢形は露払いだ。こちらに向かってくる船を大筒で蹴散らせ! 最後に弁才船は最大速力で吶喊! そのまま浜に上陸して、港を占拠しろ!」



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 志布志港の占拠は実に呆気なく終わる。予告無しの突然の強襲のためか恐れていた軍船による迎撃は一切無く、何の妨害を受けずに兵が上陸して港に雪崩れ込んだ。港にいた警備兵も少数だったようで、あっさりと片付けてしまう始末。瞬き一つの占拠だと言えるだろう。そのためか俺が上陸する前には、幾つかの隊が近くにある志布志城の攻略に勝手に出発していた。


 今回、俺が率いる第一陣の本隊五〇〇〇には物凄く元気な三隊がいる。


 一つは言うまでもない馬路党の面々。逆にこいつ等が大人しい方がおかしい程だ。最早手柄を立てるというよりは、ただ強い敵と戦いたいという戦闘集団へと進化しつつある。


 次が土佐山田家。賊との戦いは数多くあるものの、本格的な戦は実は長宗我部との戦い以来のご無沙汰であった。そんな中、新たに組織した私兵集団である白虎隊のお披露目もあるとなれば、血気盛んになるというもの。昔の馬路党を彷彿とさせる。


 最後が大野 利直率いる久万衆だ。現在伊予国から離れられない安芸 左京進が、少しでも遠征を手伝いたいという思いで派遣をしてきた。大野 利直自身は前回の伊予遠征を終わらせた後に当主を引退しており、息子の大野 直昌に家督を譲っている。けれども、それで急に大人しくなるような性格ではなく、むしろ今は領地の心配をしなくて良いと喜んで左京進の派遣依頼に応じた形となる。


 この三隊が揃えば、先を争って敵を求めるのは必然でしかない。普段真面目な山田 元氏も、今回ばかりはアクセルべた踏みをしても笑って許すしかないと思っている。


 余談ではあるが、今回の遠征では大野 直昌が俺の護衛役となっている。当主に就いたばかりだというのに領地から離れるのはいかがなものかと思うが、直昌からすれば当主となったからこそ俺の傍で学びたいらしい。俺の民を思う気持ちに感銘を受けたのだとか。明らかに勘違いをしている。


「押忍! 国虎様。次は手近な所にある大隅肝付きもつき家を滅ぼしましょう。当主の肝付 兼続きもつきかねつぐはかなりの戦上手との話です。相手にとって不足はありません。では行きますよ」


「せめて志布志城の攻略に向かった元氏と利直が戻ってくるのを待て。元氏の顔を立てて志布志城攻めを譲ったかと思っていたら、そういう魂胆かよ。ったく、何考えてんだ。それよりも手が空いているなら、物資を下ろすのを手伝うか、炊き出しを手伝うかしろ。もしくは募兵に回っている忠澄や直之を手伝ってくれ」


「……周辺の巡回をしてきます」


 珍しく馬路 長正が俺の上陸を出迎えてくれたかと思えばこれである。ようやく古参としての自覚が出て、落ち着いたかと喜んでいたのが無駄になった。しかも面倒な雑務からはすぐ逃げる。何年経っても変わらない。


 とは言え次の一手は、俺も長正と同じく大隅肝付家への侵攻だと考えている。長正が言う通り、この大隅肝付家が志布志港の西に位置する有力者であるというのはそうだが、それよりも大隅肝付家を降せば、大隅国の穀倉地帯でもある肝属きもつき平野を手にできるというのが大きい。更にはこの肝属平野の北部には、シラス台地として有名な笠野原台地がある。俺が今回最も欲している資源だけに、真っ先に手に入れられれば今後に弾みが付くというもの。是非相手が戦力を整える前に確保をしたい。


 それにしても言っている内容は戦略的にも正しいというのに、何故か長正が発言すると無謀にしか聞こえないのはおかしなものである。それに逃げるように巡回に出て行ったのも、本気で賊を警戒したからだ。今回は兵と共に大量の食糧その他を運んできている。坊津という倭寇の巣窟がすぐ近くにある地域でそんな真似をすれば、鴨がネギを背負ってやって来たのと変わらない。いつ目を付けられてもおかしくないと踏んだのだろう。


 実の所、馬路 長正は大局な視点をしっかり持っていた。それを感じさせないのが長正の良い点でもあり、悪い点なのだと思われる。但し、書類仕事は相変わらず嫌いなままである。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



「……まさかこれが倭寇の実態なのか。いや、単なる賊の可能性も捨て切れない。長正、こいつ等の身元は吐かしたか?」


「押忍! 賊共は地元の村の者です。当家の船から物資が下ろされるのを見て、奪いに来ておりました。捕まっても悪びれる素振り一つありませんでしたので常習です。生かしておく価値はありません。殺しましょう」


「ちょっと待ってくれ。こいつ等の事情を知りたい。常習ならやはり倭寇じゃないのか? 賊なら村で受け入れてもらえない筈だ。ただ、俺の知っている倭寇とは違うな。長正、悪いがこいつ等が気分良く話せるように数発ぶん殴ってくれ」


「押忍! では行きます。歯を食いしばれ!」 


 翌日、早速巡回の成果を出す。五人の賊を捕まえた。長正が言うには、散々ぶん殴ってアジトを吐かした所、出てきたのは近くの寒村だったという。賊を殲滅しに出向いたというのに、それらしい姿が一切無かったという話だ。馬路党は村を襲っての略奪は行わないため、そのまますごすごと戻る羽目となる。


 俺が今この場に居るのはその報告を知ったからこそ、捕まえた賊に倭寇との繋がりがないかを確認するためであった。単なる賊なら長正の言う通り、殺してしまって構わないと考えている。


 倭寇というのは元々が日の本の者による海賊の意味だ。かつては九州北部を拠点として大陸沿岸や朝鮮半島で略奪や暴行を行っていた。ただそれは、時代が下ったこの戦国時代では大きく意味が変わり、今では明国人主体の密貿易が主となる。日の本の者による倭寇がいないとは言わないが、その数は少ない。武力による海賊行為をする者がいないとは言わないが、それは寒村の村人がするような行為ではない。坊津のような国際港の一画をアジトにしているだろうと。そう考えていた。


 だが捕まえた村人達からは、意外な事実が語られる。


 ──合言葉は八幡ばはんとでも言えば良いのだろうか。


 実はこの五人の村人は、倭寇として日常的に明国沿岸での海賊行為を繰り返していた。それも漁でもするかのような感覚で。ただ、この五人だけが倭寇ではない。村丸ごと、この辺りの寒村に住む者達は皆、多かれ少なかれ倭寇として活動しているのだという。当然ながら誰かに雇われてではない。協力者はいるが、自らの意思で倭寇をしているのだという。


 まさかとは思ったが、こんな近くに倭寇はいた。しかも海賊行為を八幡と呼び、生活の一部となっている。


 ──あなた、ご飯にする。お風呂にする。それともば・は・ん。


 そんな日常会話が聞こえてきそうだ。


 詰まる所、生活苦によって犯罪行為に走ったという、古今東西どこにでも落ちている話でしかないのだが、南九州には伝統的倭寇がこの戦国時代でも生き続けていた。そしてそれを止める所か、むしろ後押ししている領主を幾つか知っているのだという。呆れ果てる内幕だ。


 この事実を知って放置する訳にはいかない。


「長正、悪いが今回は縄を解いてやってくれ」


「国虎様! 何ゆえ!」


「こいつ等を今殺した所で何の解決もしない。それが理由だ。で、お前等。堅気に戻る気があるなら志布志港を訪ねろ! そこで遠州細川家が募兵をしている。飯を腹一杯食わしてやるし、給金も出す。幼子以外は女、老人を含めて全て受け入れる。ああ、土佐に移住希望の者も受け付けるぞ。住む所と仕事を用意する。それと近い内に肝属平野で人足を募集する。これを村の者達に伝えろ。他の村の倭寇仲間にも教えてやれ。とにかく飯が食いたければ遠州細川家を頼れと。但し襲ってくるなら、命があると思うな。よし、行け!」


 顔をパンパンに晴らした男達が逃げるように去っていく。途中何度もこちらを向いてはお辞儀をするという、よく分からない行動を取るのが印象的だった。命を助けた俺への感謝なのだろうか? 


 片や隣にいる馬路長正は、苦虫を潰したような表情で無言を貫く。今回の俺の決定が不満なのだろう。今でこそ生活は向上したが、かつての長正は食うに困るような生活を送っていた。それでも犯罪行為には手を染めずに耐え続けていた。そんな過去があるからこそ、解放した五人が許せなかったのではないか。そう思う。


「……長正、そんな顔をするな。言いたい事は分かるが、今回は我慢してくれ。もしかしたら、この地は思っている以上に深刻かもしれない。多分、あの手の者はこの地域だけではない。下手をすると南九州全体の可能性がある。海賊行為という安易に飢えを凌げる方法があれば、誰もが飛び付きたくなるのは道理だからな。もう既に感覚が麻痺しているんだろう」


「……」


「だからと言ってそういう者達を根切り (皆殺し)にする訳にもいかない。時間と手間を考えれば割に合わないからな。かと言って放置するのはまた違う。いつ賊化するか分からない民との共存などあり得ないからな。なら最適解は、倭寇の取り込みだ。積極的にこちらの味方とする。そのためには仕事を与えるのが手っ取り早い。一度安定的な生活を手にすれば、それを手放してまで賊に戻ろうとは思わないからな」


「……俺には国虎様のような考えは持てそうにありません」


「いいさ。それで。納得はしなくて良い。そういうものだとただ理解さえしてくれれば良い。今回の措置は、侵略者である俺達を守るためでもあると考えてくれ」


「分かりました。今回は従います。ですが、次は容赦しません」


「分かっている。相手は倭寇だ。舐められたら終わりだからな。今回は賭けでしかない。相手が調子に乗った場合は、とことんまで根切りに付き合ってやる」


 これまでの当家ではやらなかった敵地での募兵を、今回に限っては行っている。これが俺が皆に飲ました保険だ。


 本来で言えば現地で掻き集めた兵など、当家では役に立たない。それは分かっている。けれどもそんな役立たずの兵を敢えて集めるのには訳があった。


 大隅国や薩摩国は貧しい国だ。食うのにも困る者が大勢いるだろうと。だからこそ現地で兵を集めれば、多くの者がやって来る。現在はまだ志布志港のみの占領のために集まる数は少ないが、占領地が増えていけば集まる数も多くなる。そうなれば噂が噂を呼び、やがては島津一族が集める兵の一部がこちらにやって来るだろうと考えてのものだ。また島津一族の兵を奪えなくとも、圧倒的な数の差を見せつければ、戦意も削げもしよう。


 そんな考えで、かなり多めの食料を運び込んでいた。


 だが賊の一件により、その意味が大きく変わってくる。敵は島津一族だけではなく、倭寇もいるというのが判明した。二つの敵を同時に相手するのは厳しい。持ち込んだ食料は倭寇への懐柔策へと役割が変化する。


 島津一族には武力で。倭寇には食料で。二つの敵を相手にする今回の遠征は、これまでとは様相が違うものと言えるだろう。一手で良い。何か一手あれば、この状況を覆してこちら有利へと手繰り寄せられる筈だ。


 二つの勢力が手を組む、そんな最悪の事態だけは避けなければならない。

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