死と隣り合わせの現実

 天文二一年 (一五五二年)は本当に忙しい年だ。今度は出雲尼子家の当主 尼子 晴久あまごはるひさが八カ国守護に任じられるという出来事が起きる。


 あの周防大内家ですら七カ国だというのに、それを上回る八カ国というのはどういう意味か? 額面通りに見れば、出雲尼子家が中国地方の覇者として中央から認められた形だと言える。新たな天下人が誕生したようなものだ。


 そうなれば中国地方に新たな秩序が築かれ、畿内は元より四国にも影響が及ぶのは確実である。生き残りを望むなら、急いで出雲尼子家と友好的な関係を結ぶか、膝を屈するしかない。


 中央及び西国の勢力図が一気に塗り替えられてしまうとんでもない出来事だとも言えよう。


 ただ、一つ残念な話がある。実はこの八カ国守護は実態が伴っていない。今回の守護就任は、出雲尼子家の勢力圏以外の土地までも含まれたものであった。その証拠にこの八カ国の中には、周防大内家の勢力圏である備中国と備後国が含まれている。


 つまり、一部分において実効支配をしている勢力と名目上の国主が違うという歪な構造が誕生した瞬間でもあった。


 ならばと、周防大内家が備中国と備後国を新たな守護護 出雲尼子家に差し出すかというと、そんな筈はない。せいぜい周防大内家の統治に不満を覚える豪族が、この機に反乱を起こす程度だ。所詮はそれ止まり。大きく波及はしない。すぐに鎮圧されて終わるだろう。大きな枠で見れば何ら変わりはしない。


 変化があるとすれば、大義名分を得た出雲尼子家が侵略戦争を再開するくらいか。


 結局の所、出雲尼子家と周防大内家との間に新たな戦の種が撒かれただけというのが、この出来事の真の意味となる。恐れていた他地域への影響はまず起こらない。それが起こるのは、出雲尼子家が内実共に八カ国守護になってからである。何を思ってこのような決定をしたのかが分からないというのが正直な感想であった。


 それにしても、この八カ国守護を仕掛けたのは一体誰なのか?


 大寧寺の変が起きた周防大内家に隙ができたと見て、領土欲に駆られた尼子 晴久が仕掛けた可能性は十分考えられる。もしくは出雲尼子家と周防大内家の二家に備中国・備後国という係争地を敢えて作り、互いに潰し合わせて上洛を阻もうとした三好宗家の可能性も捨て切れない。


 どちらにせよ、今回の一件は現公方 足利 義藤にとって大きな政治的失態になる。明らかに優遇する勢力を間違えた。幾ら早急に自分達の味方が欲しいとは言え、軍事クーデターの起きた周防大内家が頼りにならないと見切りを付けるのは早過ぎる。意図としては出雲尼子家に上洛を促して三好宗家への牽制とするつもりなのだろうが、結果的に三好宗家が背後を気にせずとも良いようになり、畿内に集中できる環境が整ってしまった。


 もしかしたら、公方の庇護者たる三好宗家に対してご機嫌取りの意味で益を渡したという考えなのだろうか? いや、足利 義藤の京への帰還の経緯を見ればそれは成り立たない。蜜月にはほど遠い関係だろう。現実には、若い足利 義藤がいいように利用されただけではないかと思う。悪意のある言い方をすれば、金に目がくらんだだけではないかと。


 とは言え、このような政治的失態が起こると、隙ができたと喜ぶ者も中にはいる。それは当家の家臣達だ。


 平たく言えば、このドサクサに紛れて九州に攻め込もうという話が持ち上がる。中国地方混迷の兆しは四国の平和。ならばこの機を逃さず、当初の計画を前倒ししてでも九州への大遠征を行う。そんな声が大多数を占めてしまい、不本意ながら決定を下さざるを得なくなってしまった。こういった場合、俺がどんなに計画の無謀さを説いた所で絶対に相手にはされない。


 そういった経緯で、見舞い兼出陣前の挨拶として土佐神社内の産小屋を訪ねた俺に待っていたのは、妊婦の和葉からの強烈な一言であった。


「ずっと不思議に思っているんだけど、国虎って戦が好きでない割にはよく戦をするよね。どうして?」


「和葉……それは言わないで欲しかった。自覚はある」


 初産で不安になっているにも関わらず、それを労わるどころか長期出張を決めた旦那に対して嫌味の一つも言いたくなった。そんな所だろうか。あちらを立てればこちらが立たず。こういうのを針の筵と呼ぶのかもしれない。


 ただ、そうは言っても、


「ごめん。嫌な事言ったかな」


「大丈夫だ。気にしないで良い。……そうだよな。言動が矛盾してるよな。分かってはいるけど治せない。俺も脳筋になってしまったかもしれないな」


「責めてる訳じゃないから落ち込まないで。ちょっと寂しくなっただけだから」


「土佐を豊かにするためとは言え、和葉には心配ばかり掛けてるな。悪い」


「私は今のままでも十分だから。無理だけはやめてよね」


「そう言ってくれるのは和葉だけだよ。ありがとうな。最近……というより結構前からか。皆の俺への期待が大き過ぎる気がする。何かが間違っているよな」


 こうしてすぐに切り替えて普段通りになるのが和葉の凄い所でもある。自分自身が大変だというのに、俺への気遣いをしてくれる。その気持ちがとても嬉しい。


「国虎、ほらっ、ここ使っていいよ。おいで」


「いや身重の和葉にそれをさせる訳には……」


「もしかして私の膝枕、嫌いになった?」


「大好きです。なら遠慮なく」


 加えて膝枕のご褒美もある。見舞いに来たつもりが、逆に俺自身が見舞いをされているような気分になってしまいそうだ。何だかむず痒い。


 和葉は自分がただそうしたいだけだから気にしなくても良いと言ってくれるが、これも出陣する俺への激励なのだろう。またここに帰って来て欲しいと。産まれてくる子供のために生き残れと。口に出しては言わないものの、そんな思いを感じた。


 だからなのだろう。普段なら心地良い和葉の膝枕の感触も、この時ばかりは少し居心地が悪くなる。


「なあ和葉、言い訳をさせてもらって良いか? 今回の九州への遠征はな、ある意味産まれてくる子供のためでもあるんだよ」


「珍しいね。国虎がそういう事を言うのは。もう別に怒ってないんだけど……いいよ。続きを話して」


「ありがとう。実は病で死ぬ幼子おさなごを少しでも減らしたくてな。これまでの俺は、皆が腹一杯食べられるようにと頑張っていたのはよく話していただろ? それがある程度達成された今、そろそろもう一つの欲を出したくなった」


「九州には薬でもあるような言い方だね」


「それに近いな。しかも、まず売ってくれないか、売ってくれたとしても吹っ掛けられるのが目に見えている。だから戦をする。そんな所だ。亡くなった兄上の事を思うとな、俺の子は当然として、領内の幼子には病気知らずであって欲しい」


「そういう所、国虎らしい。そういえば、前に除虫菊の話をしてくれた時も似たような事を言ってなかった?」


「どうしても蚊取り線香が欲しくてな。近い内に完成すると思うから、楽しみにしておいてくれ」


「はいはい。もう怒っていないから必死にならなくて良いよ。国虎が色々と考えているのは知っているから」


 こうして二人の間にはいつも通りのまったりとした時間が流れる。苦笑する和葉の姿に戸惑いつつも、これ以上余計な話をすればまた怒らせてしまうと口を噤んだ。


 家臣達には安全保障だ何だという屁理屈で九州遠征を賛成させた俺だが、実はこの遠征、いやシラスの確保は土佐統一以前から計画していた案である。


 基本的に戦国時代は汚い。汚物に塗れている。道端に糞が落ちているのが当たり前の光景だ。悪臭だってそこかしこである。これで病気知らずで生きろというのは難しいだろう。


 結果として、この時代の子供の死亡率は高い。室町時代の平均寿命は一五歳程度だと言われているが、これは長生きする者がいないという意味とは違う。圧倒的な数で成人するまでに死んでしまう。だから平均値が低くなるという話だ。


 この時代、風邪をこじらせただけで簡単に死ぬのだから、数字の低さは当然とも言えよう。俺達には衛生や栄養の知識があったから、これまで何とかやっていけただけである。


 また、移住による人口増加で今後都市化が進めば、更に汚さを増す。そんな状態で一度伝染病が発生すれば、目も当てられない事態が起きてしまうのは想像に難くない。これは歴史で証明された事実だ。為政者としては、こうなる前に正しい道に導かなければならない。


 だからこそ俺は領内での肥溜めを廃止した。少しでも寄生虫を減らそうという施策となる。なら今度は、赤痢やコレラなど六〇種類以上の病気の媒介者であるハエに目を向ける番だ。牛の敷料の話は、そんな俺に対する希望の光とも言える。多分だが、シラスには水分を奪う効果だけではなく、何らかの殺菌作用があるのではないかと踏んでいる。


 正直な所、何もかもが足りていないこの時代、ましてや貧しい土佐国で、多くの者に衛生を徹底させるというのは本末転倒でしかない。何より環境が悪過ぎるのだ。順番から言えば、石鹸で手足を洗うよりも汚物を撤去する方が先である。


 そこで考えたのが、汚物を無効化するシラスの舗装であった。


 勿論、シラスを使わなくとも衛生的な環境を整える方法は幾らでもある。例えば人海戦術で掃除を行えば、辺り一面は大きく生まれ変わる。ただそれは、掛かる費用が大きく圧し掛かってくるために現実的ではない。


 より低予算だからこそ、実現可能になる施策でもある。


 それも現状が都市化する前だとなれば、この機会を逃す訳にはいかない。


 また和葉が言った除虫菊は、交易の成果である。鉄などを求めてシャム (タイ)に船を出すようになって以降、確保に向けて動いていたのがようやく形となった。


 除虫菊自体は、現代のクロアチア ダルマチア地方原産の植物である。南ヨーロッパのバルカン半島に位置する。通常なら、日の本からこれほど遠く離れた植物の種子は手に入れられない。幾らシャムまで手が届くようになったとしても、まだ目的地までは道半ばだ。


 だが、ここで親信から面白い話を聞かされる。実はこの時代のダルマチア地方は、商業国家とも言われたヴェネツィア共和国の植民地なのだとか。海軍力と交易を背景に台頭したヴェネツィア共和国は、出会った当初に語っていた構想そのものだ。お手本とした国なら、詳細をある程度知っているのも頷ける。


 その情報を知り、俺はピンとくる。これならば何とかなると思い、シャム行きの姫倉 右京に除虫菊の種子の確保の依頼をした。実際にはシャムでポルトガル商人に依頼をし、そこからヴェネツィア商人へと依頼するという伝言ゲームのような形で探してもらう。何年もの時間を掛けて多額の費用が掛かりはしたが、その結果何とか除虫菊の種子を確保できた。


 以後は試験栽培を経て山間部での大規模栽培へと進んでいる。製品化までは間近だ。蚊取り線香の製造はそう難しくなく、花が咲いたら摘み取り、乾燥させて粉末化すれば完成する。薬品を使用して手を加えなくても良いため、この時代でも大量生産可能となっている。しかも、蚊取り線香の需要がなかった場合も、農薬に転用できるというのが大きい。絶対に損をしない魅力を持っている。


 寄生虫にハエ、蚊への対策の道筋がこうしてできあがる。現代日本のような環境は無理だとしても、これで幾分かはマシになると思いたい。体の冷たくなった幼子の姿を見るのはもう懲り懲りであった。


「さてと、俺はそろそろ行くよ。和葉が元気そうで良かった。アヤメの時は突貫で作らせた掘っ立て小屋だったが、建て直させた今なら生活も不便無さそうだな。安心したよ」


「設備も充実してるし、快適に過ごしているよ。こういうのをこてーじと言うのかな? 確か前に国虎からそう聞いたような」


「そんな感じだ。俺はしばらく土佐を空けるが、何か困った事があればいつでも神社の者を頼ってくれて良いからな。遠慮するなよ」


「うん。けど、義母上もちょくちょく訪ねてきてくれるし、心配は無いかな」


「確かにそれなら安心だ。和葉、死ぬなよ」


「大袈裟よ。国虎こそ頑張って」


「ありがとうな。必ず戻ってくるよ」


「うん」


 この時代の出産は死と隣り合わせだ。それだけ壮絶な戦いを、和葉はこれから挑まなければならない。それを知っているだけに、俺は産まれてくる子供の性別に興味は無く、ただ母子共に健康であって欲しいと思う。


 槍を突き合わせる戦場だけが死と直結している訳ではない。この時代の死はすぐ傍らに転がっている。


 今回の一件は、そんな当たり前の現実を再確認する良い機会となった。

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