地雷百選
年も明け、天文二一年 (一五五二年)となる。
この年は俄かには信じ難い出来事が起きた。それは三好 長慶の幕府
つまり、三好宗家が公方の直臣へと認められた。
公方 足利 義藤にとって三好宗家は親の仇のような存在と言っても良い。だからこそ昨年は争い続けていた。にも関わらず、和睦を飛び越えて自身の直臣にまで任命するというのは通常なら考えられない。本来なら一時的な和睦が関の山だろう。
なら、何が原因でこの離れ業が起こったのだろうか?
杉谷家からの報告書によると、直接的には一月二日に近江六角家当主である六角 定頼が病死したのが大きな要因としている。確かに公方最大の庇護者とも言える管領代の死亡は、三好 長慶と公方との和睦の契機となるのは妥当と言える。
とは言え和睦交渉自体は、六角 定頼の仲介によって以前から行われていたようだ。昨年七月に起きた相国寺の戦いによって、細川 晴元が力を失ったのがその発端となる。例え公方自体が戦を望んでいても、細川 晴元の力が無ければ継続できないというのはさぞや無念であったろう。
しかしながら、この交渉は暗礁に乗り上げる。それはそうだ。例え細川 晴元が力を失ったとしても、まだ背後には六角 定頼がいる。近江六角家の力が温存されているならば、交渉で下手に出る必要は無いというもの。公方陣営がより有利な条件を得ようとするのが筋である。これでは交渉は簡単に纏まらない。
そんな中での六角 定頼の死去だ。状況は大いに変化しただろう。
後を継いだ
その隙を三好宗家が逃す筈がない。
また昨年は、三好 長慶の弟である三好 実休が阿波国にいる足利 義維を公方にしようと動いていたという。細川 晴元が力を失ったのを良い機会と捉えたのだろう。それに六角 定頼の健康状態も把握していたに違いない。どんなに時間が掛かろうと足利 義維が公方になれば、周防大内家の脅威に怯える必要も無くなり、現公方との面倒な交渉も打ち切りにできる。奇しくも俺が三好 長慶に提案した策を現実にしようとした者がいた。
この動きは公方陣営を相当焦らせたに違いない。ただでさえ、細川 晴元と六角 定頼という大きな後ろ盾が無くなったのだ。これで公方の地位まで失ってしまえば、足利 義藤は一介の武士となる。それだけは止めなければならなかった。
三好 長慶の御供衆入りは、公方陣営が追い込まれたからこそ引き出された妥協の産物とも言える。これでは和睦が成立したのか、それとも公方が三好 長慶に負けたのか分からない結果だ。公方陣営が己の力の無さを嘆いたのは想像に難くない。
三好宗家の要求はこれで終わらない。細川京兆家の家督を細川 氏綱殿に譲り渡す約束も交わされた。元々の戦いの発端が細川京兆家の家督争いなのだから、この要求は当然とも言えよう。長かった細川 晴元との抗争も、ようやく一つの区切りが付く。
こうして公方 足利 義藤が京に戻り、新たな政治体制が築かれる形となる。ただ残念ながら、これで畿内から戦が無くなり平和が訪れるという訳ではない。所詮は無理矢理飲まされた和睦だ。何かの火種が起きれば、すぐに燃え広がる。また新たな戦は近い内に始まるだろう。あくまでも、チャンピオンベルトが一時的に三好 長慶に移ったに過ぎない。
蛇足であるが、この報告書を読んで三好宗家は細川 氏綱殿の家臣という立場を捨てたのではないか? それは裏切り行為じゃないのかと勝手に勘違いをする。
ただ、この回答は実に呆気ないものとなる。それは「両属」という言葉。つまり、三好宗家は細川京兆家の家臣であり、公方の家臣でもあるという意味だ。
相変わらず三好は両属がお好きなようで。
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天文二一年 (一五五二年)はもう一つの事件がある。それは、
これが何を意味するかと言うと、駿河今川家が尾張侵攻を画策するようになった。そこで手始めに行ったのが、
それが、何をどうすればこの発想に行き着くのか? まるで、駿河今川家の友好国である当家もその支配強化の一翼を担うのは当然とでも言いたげである。誰の差し金かは想像がつくが、よくもまあ駿河今川家当主もこれを許したものだとほとほと呆れ返っている。
目の前にいる僧侶はそんな俺の気持ちを察しながらも、笑顔を崩そうとしない。師が師なら、弟子もまた弟子。そんな所だろう。
「
「これは異な事を。当家と遠州細川家は、今後とも手を取り合う仲でなければなりますまい。その友好の証として人質を出したまでですぞ。そこに何の他意もありませぬ」
「そうは言いましても……この面子を見て、純粋な友好だと信じる方が難しいですよ。まあ、それはそれとして、人質というからにはこちらで責任を持って預かりますし、重用も致します。当家は慢性人手不足ですので。ただ、教育はこちらの流儀となります。それで宜しいですか?」
「全ては細川様にお任せ致します。後、師である太原 崇孚からは、可能であれば遠州細川家からも人を出して頂ければと言伝を受けております。どなたか良い方はいらっしゃるでしょうか?」
「申し訳ないのですが、当家は一族が少ないのでご容赦願います。ただ……そうですね。代わりとして、当家の水軍に所属する者を出しましょう。捕鯨船の操船が分かる者です。これなら太原 崇孚様も喜ばれるでしょう」
「おおっ、確かに。それは妙案ですな」
三年前の太原 崇孚との会談以降、駿河今川家との交易は年に二、三度という頻度ながらも続いていた。だが、当初目的としていた改良型弓胎弓は回数を重ねる毎に取引が少なくなり、今では他の商品が取引の大部分を占めるようになる。中でも鉄素材はお気に入りらしく、銑鉄・軟鉄・鋼と全種類を毎回のように購入するようになる。
対して交換する駿河国の商品は、そう簡単に需要が増える筈がない。多くが未だに贅沢品の域である。辛うじて反物が伸びている位だろうか? 目玉商品とも言える臭水もそう大量に消費とはいかないために、今では数回に一度の仕入れに落ち込む。
なら駿河今川家は、どのような形で取引の対価を支払うようになったか?
それはやはり人であった。とは言え、当家が望む職人をほいほいと出す訳にはいかない。基本的に土佐にやって来る職人は、見習い程度の若者か現役を引退した老人が主となる。これだけでは当然対価としては足りない。
そこで目を向けたのが、同じ人でも奴隷である。
例え駿河今川家の領地が裕福だとしても、末端の民が全員恩恵を受ける訳ではない。債務超過に陥る者は何処にだっている。それに、繁栄している都市ほど河原者のような住居を持たない者が数多くいるのが世の常だ。そうした者を奴隷として友野屋が取り纏め、商品として土佐へと連れて来ていた。
土佐や阿波国は人口が少ない。現代でもその伝統は続き、必ず人口ワーストに入る程だ。京や本願寺から移民は続いているというのに、未だに人手不足が解消される気配が感じられないのも、そもそもの人口の少なさが原因である。友野屋はそこに目を付けたのだろう。機を見るに敏とはまそにこの事だ。
ただ奴隷と一口に言っても、この時代は年季奉公に近い。労働によって借金を返済する。中には自身を商品として売り込む者もいるという。契約が終われば後は自由の身。故郷に戻ろうと思えばいつでも戻れる。
だからこそ俺は奴隷を移住者と割り切り、仕事だけではなく人並みの衣食住も提供する。奴隷としてやって来た者に土佐を好きになってもらい、年季が明けてもそのまま土佐で暮らしてもらえればと願っての措置だ。中にはどうしても故郷に戻りたいと訴える者がいるとは思うが、その場合は諦めるしかない。
それの延長という訳ではないだろうが、今度は人質となる。しかもその数は四人であり、お付きの者を含めれば一〇人の大台に乗った。
そして、ここからが本題となる。やって来た四人の人質の経歴があり得ないものばかりであった。
まず一人目が駿河今川家当主 今川 義元殿の三男となる。まだ年端も行かない幼さだというのに既に仏門に入っているらしく、名を
例え側室の子供でも有力家臣の家に養子に入る道もあったろうに、何故こうなったのかが分からない。
しかし、この辺りは家それぞれの事情だ。他人がとやかく言う筋合いのものではない。だからこそ、長得の人質はまだ分かる。
理解不能なのは残りの三名だ。
二人目が
これがまた凄い。五年前に今川 義元殿の東三河侵出に協力して領地を得たかと思うと、その翌年には反今川の行動を起こして領地を没収された。何がしたいのか分からない。
まだ一〇代の若さだ。きっと怖いもの知らずなのだろう。人質でやって来たというのに一切しおらしい素振りなど見せない。それ所か平気で俺を睨んでくる。この反抗的な態度が土佐行きの原因だと思われる。
三人目は……土佐にやって来てはいけない者だ。名を
駿河今川家の領国にいる吉良氏と言えば一つしかない。それは三河吉良氏だ。足利御三家とも言われる足利一門の中でも、最も家格が上の存在である。細川京兆家を含む三管領家よりも、駿河今川家よりも上なのは言わずもがなだ。
そんな貴種中の貴種がここ土佐までやって来た理由は、そう複雑な事情ではない。ただでさえ扱いづらいというのに、駿河今川家の統治に対して反抗的な態度を取る。だからと言って命を取ってしまえば、今度は駿河今川家の評判に関わる。出家の強要や幽閉は以ての外となれば、遊学を名目として領外に放り出すのが最適解というもの。
また都合の良い事に、吉良 義安は庶子でもある。そういった意味でも土佐行きの片道切符を渡すには良い条件であった。
最後の四人目はこれまた出家した子供で、名を
松平 広忠と言えば、戦国三大英雄の一人である徳川 家康の父親だ。つまり、恵新は徳川 家康の兄弟となる。
そこで東谷宗杲殿より衝撃の事実が聞かされる。恵新は竹千代 (徳川 家康の幼名)の異母兄弟だと言うのだ。それも同年同月同日に産まれたと。
……そんな都合の良い異母兄弟はいない。東谷宗杲殿はそれ以上何も言わないが、間違いなく恵新と徳川 家康は双子の兄弟である。その事実が発覚するのを恐れて、この土佐に人質として出されたのだろう。駿河今川家幹部候補生の竹千代は忌み子であった。
これが東谷宗杲殿に文句を言った理由となる。人質として土佐にやって来たのは良いものの、その四人には全て曰くがある。地雷という表現がとても似合っていた。
まだ長得は今後僧として一生生きるよりも、武家として身を立てられる可能性を残したいという親心を感じる。俺も本人が望むなら、当家で働いて欲しいと願う程だ。
けれども残りの三人は、完全に駿河今川家の統治上の問題で危険人物を押し付けてきただけである。
その上で土佐に来てしまえば、三名の実家の影響は無くなり、ただの人になってしまうというのだから更に性質が悪い。三河吉良家に対しては多少気後れするかもしれないが、庶子で家を継げなかったという噂さえバラ撒いておけば、真実はどうあれその権威は地に落ちる。
それに当家には一つ奥の手がある。
「足利御三家の筆頭である三河吉良家の儂がこの辺鄙な土佐まで来たのだ。日々最上の持て成しを用意せよ。遠州細川は三河吉良家より格下の三管領の分家であるぞ。身を弁えるように」
「それを言うなら、まずは当家で保護している堺公方の御嫡男に対してしっかりと臣下の礼を尽くしてからですよ。亀王様は足利の出であるにも関わらず、それをおくびにも出しません。年の近い者と机を並べて日々勉学に勤しんでおります。その姿を見習ってください」
「なっ……それは誠か? ……あい分かった。ここではそうするしかなさそうだな……」
それは阿波国からやって来た足利 義維の家族御一行の存在だ。足利という権威を笠に着るなら、これ以上の存在はまずいない。いるとすれば、現公方である足利 義藤のみだろう。
領地を餌にしているとは言え、亀王様はこの土佐で想像以上に真面目に過ごしている。幕府打倒という壮大な野心が良い方向に出ているのだろう。酒や博打、それに女に溺れるような行動は一切無いと報告を受けている。遊びと言っても、年の近い者同士で川遊びや相撲を取ったりするのが関の山らしい。何とも微笑ましいものだ。貴公子然とした立ち居振る舞いから異性からの憧れの的とも聞いているが、何故か浮いた話一つないとも聞いている。
そんな者がこの土佐にいれば、どんなに家格の高い御曹司がやって来ようが膝を折るしかない。これが理由で権威が一切通じないというのはお笑い種である。もしかしたら、太原 崇孚はここまで読み切ってこの四人を人質に出してきたのだろうか? そうだとしたら、相変わらず恐ろしいとしか言いようがない。
何にせよ、新たな人材がやって来たのだ。今後は当家で頑張ってもらおう。義父上からは、思い出したかのような間隔で大和国や伊賀国から弱小豪族の二男や三男を寄越してくれているものの、文官が足りないという状況は一切変わっていないのが実情だ。お付きの者も含めて教育期間を設ければ、その穴も少しは埋まるだろう。
こうなると、太原 崇孚のしたり顔が目に浮かぶようで何とも癪に障る。いや、それよりも太原 崇孚のとぼけた顔が見たかったな。
「東谷宗杲殿、次回は是非師匠である太原 崇孚殿と共にお出でください。前回はお忙しいようで一緒に食事をする余裕もありませんでした。今度は皆で楽しく食事をしたい所です。まあそれはそれとして、準備もできたようですし食事にしましょうか? 東谷宗杲殿は酒……いや、薬ですね。それは嗜まれますか? 土佐の薬は珍しい物が多いですよ」
「それは嬉しいお話です。実は拙僧、遠州細川家行きを師より伝えられた時より、ずっと楽しみにしておりました。特に薬は大好物でしてな」
「是非遠慮なく飲み食いしてください。友野屋殿もご一緒に。駿河での楽しい話を聞かせてください」
あと一つ。天文二一年 (一五五二年)と言えば、今川 義元殿の娘が武田 信玄の嫡男と婚姻する年でもある。それは
それまでに一度くらいは食事を共にしたいものである。
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