東予戦線異状アリ

 防衛特化の城というだけあって、黒瀬城の攻略は困難を極めた。その大きな理由が黒瀬城の守りは単独ではなく、五つの枝城が脇を固めた一つの生物のような構成になっていたからである。


 功を焦っていきなり黒瀬城を狙えば、周りの枝城から兵が出て背後を強襲する。枝城から攻めてもそれは同じ。なるほど、とても良く考えられた城の配置だ。


 一つ誤算があったとすれば、この枝城の一つ一つを一日も掛からず落とせるとは考えていなかった点だろう。もしくは、本命である黒瀬城攻略など全く考えてもいないような激しい総攻撃を、枝城においても躊躇なく行う者がいるなどとは考慮しなかった点である。


 そう、黒瀬城の構成を理解した俺は、一切の出し惜しみをせずに枝城の各個撃破を行った。援軍を出す暇さえ与えない弾薬の大安売りである。本音は緻密な攻略を考えるのが面倒になっただけとは言え、経験上こうした場面で余力を残すと成果は出ない。下手な考え休むに似たりとばかりに、攻略を優先して予定より多くの弾薬や兵を投入した。


 その甲斐あってか消耗を出しつつも、枝城攻略は何とか終わらせる。気分は少年漫画の王道である四天王との戦いと同じであった。ポロポロとなりながらも五つの四天王を倒していく。満身創痍で挑む黒瀬城は、親玉の存在とも言えるだろう。


 有名な龍造寺りゅうぞうじ四天王も五人で構成されていると聞く。そこから考えれば、攻略対象が一つ増えた所でそれは誤差の範囲でしかない。


 結果、最後の黒瀬城の落城時には残り弾薬がギリギリとなっていた。それでも一〇日間で全ての城を落としたのだから、十分に快挙と言えよう。


 この時点で本体の進軍は止まる。まずは土佐からの物資の補給と別動隊との合流が優先だ。未だ南予西園寺家の家臣は多くが城に立て籠もってはいても、それを指を咥えて眺めるしかない。何度も家臣達が火器無しでも攻略できると提案してくるのを、ひたすら突っぱねる日々を続ける。


 今回の戦は南予西園寺家の攻略のみではない。本命である南予宇都宮家を壊滅させるには、ここで無駄な兵の損耗を出す訳にはいかなかった。


 とは言え、軍事行動再開まで遊んでられるかというと、そうではない。戦後処理が山程残っている。こんな時、武闘派の家臣達が見回りや警戒を言い訳にして書類仕事を逃げ出すのはいつもの光景だ。皆、文字の読み書きができないのではない。学は十分にあるというのに、報告書を書くのを全力で嫌がるだけである。何度言っても一向に改めようとしないから困ったものだ。


 それはさて置き、後始末の一つに南予西園寺家の当主の扱いがあった。枝城の城主が全員討ち死にしたというのも影響したのだろう。城を枕に徹底抗戦するという選択を取らず、黒瀬城への攻撃もそこそこで潔く降伏してくれた。もし、少しでも降伏を躊躇っていたなら、攻略中に弾薬が尽きていた。降伏の使者がやって来た時には、表情定とは裏腹に心の中でラインダンスを踊っていたくらいである。ある意味落城の最大の功労者かもしれない。


 だからと言って家臣として厚遇するかとなると、それはまた事情が違ってくる。勿論、敵側の総大将というのもそうだ。負けた以上は責任を取ってもらう必要がある。それともう一点、これが最も厄介な事情になるだろう。それが西園寺という名前の問題であった。本家とも言える京の西園寺家は、清華家せいがけという五摂家に次ぐ上位の公家だというのが理由となる。


 ただ、南予西園寺家はこの地で武家化をしているとは聞く。土佐一条家のような組織自体が全く違うといった特殊さは無い。石城を守っていた土居家を土佐へと送り、法花津家を当家水軍の下っ端へ組み込めたのもこの辺の事情があった。「家司けいし」や「諸大夫しょだいぶ」のような公家臭が漂う単語が出ていたら、迷わず追放をしていただろう。


 本質はここからとなる。南予西園寺家自体は別家で問題無いにしろ、京の西園寺家は一条家の家礼けれい (主従関係)という立場であった。つまり、間接的に南予西園寺家と京の一条家は繋がっている。何も考えずに家臣にすれば、後々面倒になるのが見えていた。恐らくは土佐一条家に対する損害賠償を吹っ掛けられるだろう。朝廷という権威を利用して。


 しかしだ。ここでその面倒を嫌って安易に南予西園寺家一族を追放してしまえば、今度は宇和郡の残党が徹底抗戦を唱えるのが目に見えている。当家に幡多郡という前科がある以上は、強気の姿勢を見せれば反発されてしまうだろう。要するに、土地を差し出して当家に降っても良いと懐柔するには、南予西園寺家の力が必要になるという悪循環だ。あちらを立てればこちらが立たずの典型である。領地安堵などという温い対応を見せれば逆に舐められる形となるため、没収は決定事項であった。


 その解決は思わぬ形で行われる。ここで前総州畠山家当主の畠山 在氏が手を挙げ、南予西園寺家一族を預かりたいと言い出した。南予西園寺家を畠山 晴満の与力にし、その上で自身の息子である畠山 尚誠はたけやまひさまさを養子としてねじ込むのだとか。家を乗っ取り、京の西園寺家の影響力を排除するのが狙いだと教えてくれる。


「名乗り出てくれるのは嬉しいが、そうそう狙い通り上手く行くものなのか?」


「畠山の名を見くびらないで欲しい。こう見えてまだ京には同族がおる。その伝手を頼って手を回すつもりだ。手間は掛かると思うがな」


「そいつは頼もしい。……それで、南予西園寺家の嫡男はどう廃嫡するんだ?」


「むしろ、そちらの方が簡単ではあるな。道を選ばしてやれば良い。純粋に武士として生きるか、それとも京へと上がり本家の世話になるか。どちらにしろ、お主の資金援助は必要であるがの。これで解決するなら安いものだと思わぬか?」


「確かにな」


 要するに南予西園寺家の嫡男には別の家を作らせる。武士として生きるなら、そのまま総州畠山家で面倒を見る。本家を頼り公家として生きたいなら、京の畠山家がその活動を支援するという二本立ての策であった。どちらにしても畠山家が後見となるために、生活その他の心配が一切無い。かなりお得である。


 勿論、無理矢理廃嫡させるのだから、抵抗も考えられる。だが、その選択は幽閉行きにしかならない。自身の未来を考えれば、南予西園寺家の嫡男は廃嫡に素直に応じるしかないというのが実情であった。無理矢理出家をさせられないだけ、まだ良心的と言えるだろう。


「おっと、忘れる所だった。畠山 在氏殿は何を考えて今回名乗り出てくれたんだ? 当家で手に負えないから助け船を出したのとは違うだろう? できれば本音で話して欲しい」


「……それを聞くからにはお主にも協力してもらうぞ。今すぐという訳ではないがな、京の公家に楔を打ち込もうと考えておる。知っておろう。公家は今、生活が苦しい。余裕があるのは近衛家くらいではないか。彼の家はまだ多くの荘園が残っておるからな」


「ちょっと待て。もしかして、資金援助を行って京の公家に総州畠山家の派閥を作るつもりか?」


「正しくは遠州細川家であるな。差し当たって、京の西園寺家には一条家の影響から抜け出してもらうつもりだ」


「無茶言いやがって。幾ら京に伝手があるとは言え……できるかもな。ただ、次から次にポンポン銭は出せないぞ。長い目で見てくれ」


「無論そのつもりだ。まずは南予西園寺家の掌握から始めねばならぬからな。お主こそ焦るでない」


「畠山 在氏殿がこんな食わせ者だったとは思わなかったぞ。程々で許してくれよ」


「うむ。考えておこう」


 俺も当人の口から聞くまで知らなかったが、畠山 在氏は棚ぼたで総州畠山家の当主になった人物である。しかも木沢 相政の父親である梟雄木沢 長政の推薦によってだ。求められたのは傀儡の役割だというのがそれだけで分かるというもの。


 だが、当の本人はそれで収まらなかった。木沢 長政が討ち死にした太平寺の戦いでは、戦の前に木沢 長政陣営から離脱する。要するに木沢 長政を見捨てて、無関係を決め込んだ。自らを当主にしてくれた恩人に対する行動ではない。情勢を見極めて冷酷な判断を降せるというのが良く分かる事例だ。


 誤算であったのは、当時の尾州畠山家には追放から舞い戻った畠山 稙長が当主に復帰していた点である。何度弁明をしても聞き入れられない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。このとばっちりさえなければ、総州畠山家は没落していなかっただろう。


 また、戦も強い。舎利寺の戦いで遊佐 長教軍を散々に打ちのめしたのは、畠山 在氏率いる総州畠山家軍の活躍が一役を買っている。敵が自軍の何倍もの数にも関わらず、それを物ともせずに打ち崩す精強ぶりだ。


 その上で領地を捨てて当家に飛び込んでくるこの度胸を見れば、並の人物ではないのが分かる。


 見た目は品良く、言葉遣いは多少横柄。そんな絵に描いたような名門中年は、土佐の地でただ余生を送る人物ではなかった。むしろここからが本番である。剣を使った戦ができないなら、代わりに朝廷工作に手を伸ばそうとする。不屈の精神と強かさには恐れ入るしかない。


 ともあれ、南予西園寺家の問題は畠山 在氏に任せる形とした。今の俺は公家や朝廷と渡り合う自信も無ければ、その余裕も無い。反目している現状をありがたいと考えている程だ。口出しをせずに、やりたいようにやらすのが、良い結果へと繋がるだろう。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 補給部隊の到着を待たず、南予西園寺領の占領は大詰めを迎えていた。陸路で北上していた別動隊の合流によって、作戦が大きく前に進む。


 所詮は残党だったと言わざるを得ない。特に宿毛港のすぐ西にある御荘みしょうの地は、土佐一条家の家司であるまち氏が養子に入っていたために抵抗も激しくなるものと覚悟していた。だが実際は呆気ないもので、当家と徹底抗戦しようと考える者はごく僅かだったという。求めている物が失った既得権益ならば、威勢が良いのは口だけというのは古今東西変わらないのだろう。長けるのは自己保身ばかりで、いざ戦闘となれば大人しくなる。焙烙玉の一斉投擲によって士気を落とした後は鎧袖一触だったらしい。


 本隊との合流に時間が掛かったのは、逃げた残党の山狩りに手間取ったというこれも良くある話だった。


 この後続部隊の到着は、底の尽きた焙烙玉の補充を意味する。仮に敵に徹底抗戦されても対応できるようにと、持たせた大量の焙烙玉を半数以下しか使わなかったというのがその内幕であった。


 そうなれば、これまで書類仕事をサボり暇を持て余していた家臣達も、俄然やる気になるというもの。連名で侵攻再開の書類を出してくる。普段報告書は書けないという割には、こういった書類だけは光の速度で書き上げるのは最早お約束だ。持っている技能の使い所を間違っているのが、当家の武官達である。


 結果、まるでパーティーにでも参加するかのように、皆が一斉に南予西園寺領に散らばっていった。


 報告書を読んでいて面白かったのが、この掃討戦で活躍したのが南予西園寺家の元嫡男である西園寺 公高さいおんじきんたかだった点である。当の本人は廃嫡時にはまだ元服していなかったが、これを機会に別家として新たな西園寺分家を立て、初代当主に就任する。何でも当人はずっと武家として生きたかったらしく、むしろ京の本家との関わりを厄介だと思っていたと話したそうだ。歌を詠むよりも槍を振り回す方が性に合っているらしい。


 そうするとどうなるか。新生西園寺家には人がいない。自らの家臣となる者を求めて、勧誘に精を出す。総州畠山家には遊佐 家盛ゆざいえもり平 誠佐たいらまさすけが執事としてしっかり補佐しているので、こうしてきちんと報告書を出してくれるのがありがたい。


 城に籠った者達も、元若君に降るならと十分に言い訳が立つ。例え陪々臣 (陪臣の家臣)となろうとも、例え領地を失おうとも、新生西園寺家の未来に夢見るのは必然であった。しかも厚遇が約束される上に生活の保障もある。今ここで機会を逃せば、道は族滅しか残っていない。そういった流れで、一人、また一人と西園寺 公高に降っているらしい。


 そのお陰か、畠山 晴満率いる総州畠山家の隊がこの掃討戦では一番の成果を上げていた。この調子で行けば、予想以上に早く南予西園寺領の制圧が終わる。後はその完了の報告を待つだけの身となる。


 報告書はもう一つある。これは東予方面の安芸 左京進から送られた書状であった。


 結論から言うと東予の制圧はほぼ終わった。まだ一部残した地があるため、後はそこに全力を投入すると書いてある。周りは敵だらけ。しかも限りある兵や弾薬という悪条件の中、何故こうも上手く侵攻が進んだのか? その理由は実に単純である。


 そう、反逆者石川 通昌の陣営から離反者が出ていたのだ。それも当家と戦闘に入る前から。


 離反した者は金子 元成かねこもとなりという石川 通昌の腹心とも呼べる人物だった。伊予金子家は東予でも相当な実力者であり、父親の代から伊予石川家に二〇年以上家臣として仕えている。そんな家の現当主が掌を返したようにあっさりと裏切った。それも所領を全て返上するという条件にも同意する形でだ。


 こうなれば安芸 左京進も受け入れるより他ない。例え伊予金子家が東予での謀反に大きく関わっていたとしても、当家の目的は石川 通昌一党の成敗ではない。伊予国全域の占領にある。途中過程で兵の消耗は避けたい所だ。ならば使える物は使うというのは合理的な考えだろう。


 とは言え、伊予金子家に出て行かれた石川 通昌一党は堪ったものではない。最も頼りとする家臣が敵対したのだ。下克上成功直前だった状況が一転、今度は逆に窮地へと立たされる。これ以上の悪夢はそうそう起こらない。茫然自失という言葉がとても良く似合う。


 安芸 左京進がこの機を逃さず石川 通昌一党を壊滅させたのは言うまでもない。


 また、その余勢を駆って高峠城にいる予州河野家を降すのも抜け目なく行う。これにて東予地方の主要地域は遠州細川家の管理下となった。


 思わぬ展開ではあったが、これほど順調に進むと笑うしかない。それも兵や物資の損耗も抑えた上でとなれば、最高の成果であった。いっそ、このまま好きにさせておくのが良いのではないか? 俺が余計な口出しをしない方がより功績を期待できそうである。そんな考えの元に、報告書への返信には功績を大袈裟に褒め称える傍ら、東予・中予地域に於いての全権委任を書き添えておいた。平たく言えば「いいぞ、もっとやれ」となる。


 返信を書きながらずっと考えていたが、何故金子 元成は当家との決戦を選ばずに全てを捨てて降伏したのだろうか? その点が結局分からなかった。もし降伏していなければ、石川 通昌一党も大敗はしなかった。侵攻作戦自体も途中で足踏みしていただろう。金子 元成は功労者でもあり、最大の戦犯とも言える存在である。よくぞここまでの大それた行動を取ったものだと。


「今や馬路党の高岡郡での戦いは語り草ですので。金子殿が遠州細川家を調べていたのなら、尚更かと」


「忠澄の言い分は分かるが、あの戦いは敵の留守を襲っただけの火事場泥棒じゃないのか?」


「土佐の民はそうは見ません。いいですか。国虎様が考えている以上に当家の武勇は高く評価されているのですよ。それをもう少しご自覚ください」


「あの馬路党がねぇ。良く分からんものだな。……まあ俺も、馬路党とは正面から戦いたくはないか。そう考えれば、金子殿の判断は間違ってなかったのだろうな」


 要するに、見え方の違いだと谷 忠澄は言いたいのだろう。津野家との戦いにおいて、馬路党は畑山 元明と組んで独断専行を行った。けれどもそれは内側から見た評価であって、外からは津野家を降伏へと追い込んだ勝利の立役者という評価のされ方をしている。そんな最強の精鋭部隊が川之江へとやって来たのなら、争えば負けはしなくとも大きな損害を被ると考えてもおかしくはない。


 それでは何のために下克上したのか分からなくなる。例え遠州細川家を追い返したとしても、次は予州河野家が牙を剥く。もしくは協力関係にある河野本宗家が、掌を返して襲い掛かってくるかもしれない。


 結論としては、石川 通昌一党は馬路党が川之江に入った時点で詰んでいた。ならば最も高く買ってくれる勢力に商談を持ちかけるのが後の出世にも繋がる。ここで河野本宗家ではなく、当家を選んだのが金子 元成の真骨頂と言うべきか。


 何が言いたいかというと、金子 元成は積極的に当家の伊予侵攻の手助けをして、功労者になろうと考えた。それによって当家での地位を築こうとしたというのが最も自然である。裏切って陣営を変える手前、領地安堵の要求を先に出せば疑われると考えたというのが妥当な所か。石川 通昌が謀反人だというのをしっかりと理解していたのだろう。だから全てを捨てた。


 ……やり口が本山 梅慶とそう変わらない。


「それにしてもこの潔さは何なのだろうな?」


「全てを失うよりは遥かに良いと思いますが」


「そんな根こそぎ奪う極悪人みたいな言い方はやめてくれよ」


「国虎様が土佐で何をしたのかもう少しご自覚ください」


「……その通りだけに何も言い返せない」

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