空想の幽霊(3)

 幽霊に取り憑かれて、ひと月。


 神社仏閣を巡ったり、駄目元で友好関係を図るも惨敗。相変わらず二人の間には緊張感があった。


 街並み、乗り物、服装、道具。何もかもが荊雨宸にとって奇天烈だろうに、彼は動じたり、あれはこれはと少年を質問攻めすることもなかった。注意深く周りを見て、少年にひと声かけて反応で自分の所見が正しいかどうか確かめるだけ。


 荊雨宸は適応力のある、柔軟な思考の持ち主であった。


「その喧しい板を止めろ」


「へいへい……」


 リビングでテレビを見ていればそんな命令が下される。二ヶ月前まで欠かさずに見ていたバラエティ番組だが、少年は渋々リモコンの電源ボタンを押した。


 触れられないからと、彼を無視してはいけない。


 執行当事者による悍ましい拷問話が始まってしまう。抑揚のない語り口、けれど詳細な内容で充分に聞き手の想像力を掻き立て、吐き気を催させる。耳を塞いでも不思議と彼の声は入り込んだ。


 小説では、荊雨宸が奴隷や捕らえた敵を拷問するシーンでの具体的な描写は省かれていた。本来作者の頭の中にしかないはずのそれは、荊雨宸という人間が確かに生きていた証明のようにも感じた。


「あれお兄ちゃん、見ないの?」


「ああ」


 カウンターキッチンからひょっこりと顔を出す妹。手に持ったマグカップからココアの甘い香りがする。


「ふーん……ねえ、最近変じゃない?」


「なにが」


「なんか、最近帰りが早いし、部屋にこもりがちだし……」


 放課後に友人とゲームセンターに行って荊雨宸の不興を買って以来、友達付き合いは控え目になっていた。


「あー、ただ勉強してるだけだって」


 妹はじーっと半目を向ける。


「あ、そうだ」


 あの小説のことを聞こうと思った。続きは書いたのか、荊雨宸に弱点はないのか、作者である妹には聞きたいことがたくさんある。


 しかし、まるで射殺さんばかりに妹を凝視している荊雨宸に気づいてしまう。


「なに?」


「やっぱなんでもない」


 最初に名前を出してしまったのが悪かったのか、妹を前にすると荊雨宸が纏う空気が張り詰めるのだ。これがいわゆる敵意というものだろうか。彼がポルターガイストを起こせる幽霊でなくてよかった。


 もう一人の存在に気づきもせず、兄にばかり注視している妹に向けられる視線を遮るように立ち位置をズラし、腕を上げて体を伸ばし壁になる。


「さて、勉強でもしてくるかー」


「あ、お兄ちゃん。もう!」


 逃げるように部屋に戻る。勉強は嘘ではない。イヤホンを付け、教科書を広げて集中している間は、背後の存在を忘れることができた。


 荊雨宸に気を使っての生活が周囲に不審を抱かせたのはわかっている。しかし妹が作ったキャラクターの幽霊に取り憑かれた、なんて話せるわけがない。正気を疑われるだけだ。


 気を損ねない限り、荊雨宸は大人しい。瞑想している間は、老若男女を魅了したという美貌観賞するチャンス。あまり見過ぎると腰に付けた鞭に指が伸びるので、一分未満が限度であるが。


 切長の目を縁取る長い睫毛、すっと通った鼻筋、少しふっくらとした桜唇。華の似合う高雅な貴族。皮だけなら彼が悪党だとは思うまい。その美貌にいったい何人が騙され、血涙が流れたことか。


 睫毛が震えたのを見て少年は顔を逸らす。




 学校から帰宅途中、道の真ん中で子どもが泣いていた。


 木枯らしが吹いているというのに半袖姿の男の子。近くに大人の姿はない。


「放っておけ」


 立ち尽くす少年に荊雨宸は淡々と言い放つ。


 だけど少年は、子どもに近づいた。


「君、どうした? お母さんは?」


 子どもは驚いた様子で一応泣き止みはしたものの、警戒か人見知りか黙り込んでしまう。


「交番、おまわりさんのとこ行こうか?」


 固く口を閉ざし、服の裾を両手で掴んで俯いた頭を左右に振る。


「時間の無駄だ」


「一人にしていくわけには……この子の親だって心配してるだろうし」


「捨てられたんじゃないか」


「おまっ」


 自分以外には聞こえていないことを忘れて、少年は声を上げてしまった。


 子どもが震えながら後ずさる。


「この国でも珍しいことではないのだろう」


 珍しく会話していると思ったらこれだ。バラエティの笑い声は疎んで、なぜ悲しいニュースは耳に入れているのか。


 否定したくても、半袖姿にどきりとしたのも事実。そんな問題に遭遇するなんて思いもしなかった少年は、不安を煽られ、然るべき所に連絡するべきだろうかとポケットの中のスマホに触れる。


 そのとき、駆け寄ってくる女性が現れた。手に子どもの上着を抱え、名前を叫ぶ。


 呼ばれた子どもは「ママ!」と飛んでいった。


 母親は走って来た子どもをしっかりと抱きとめる。


 母子は近くの公園に遊びに来ていた。走り回っているうちに子どもは上着を脱ぎ捨て、母親がそれを拾ってほんの少し目を離した隙に、公園から出てしまっていたらしい。


 事情を聞いて、杞憂だったのだと少年は安堵する。


 手を繋いで立ち去る母子を笑顔で見送る。


 対して荊雨宸は、苦虫を噛み潰したような顔で「くだらない」と呟く。


 やっぱりこいつは、感性がズレてる。


 彼の予想が外れたばかりだからだろうか。カチンと頭にきた少年は、気づけば盛大に口を滑らせていた。


「あんたさ、無駄に気張り過ぎなんだよ」


 道端に泣いている子どもがいれば、普通はどうしたのだろうと一瞥でもするものだ。けれど荊雨宸は見向きもせず、他者の存在を拒む。感触はないだろうに肩がかすりそうになるのも疎み、人通りの多い道では少年を盾にする。


「貴様のような馬鹿面を晒しながら歩けと」


 癇に障ったのか低く唸るような声は、たおやかな外見とは裏腹にまるで猛獣だ。


「もっと気を楽にしたらどうだって言ってんの」


「ほぉ、今更私を気遣うフリをするか。何の為に? それとも下僕精神でも芽生えたか?」


 非力な少年相手にも彼は決して油断せず、常に周囲を警戒する。少年に誰かに話しかけられたとき、道端で人とすれ違うとき、ぴりっとした感覚が少年の首筋を走り、緊張を促す。


 相対している今も一挙一動に注視しながら少年の意図を探っていた。


 敵が多く、命を常に狙われ続けていたことを思えば、彼の対応は当たり前のことなのかもしれない。


「あのなぁ、あんたを騙してなんの得がある。お偉い立場にいたから色々あったのかもしれないが、今のあんたはただの幻だ。言っちゃ悪いが、貶めるほどの利用価値なんて、今のあんたにはないだろ」


 勢いで言ってしまってから、鞭打ちを覚悟する。実際に痛みはないけれど、それに匹敵する責め苦を味わうだろう。実体があったら、腕の一本切り落とされていたかもしれない。


 少年は頭を抱えて目を閉じる。


 しかしいつまでたっても、鞭の打つ音も、罵倒も聞こえない。


 荊雨宸は何もしなかった。


 初めて現れたときのようにぼんやりと。安心より不安になる。


 まさかショックだったのか?


 調子が狂う、と少年は眉尻を下げた。

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