空想の幽霊(2)

「どうしたんだお前。大丈夫か?」


「……おー」


 クラスメイトに生返事だけして、少年は机に項垂れていた。


 朝起きて、支度して、家を出て、登校して。行動を並べればいつも通りの朝だが、精神負担は非常。


 何もせずとも少年の精神はすり減り続け、授業などまったく集中できない。一限目を終えた五分休憩で向かったトイレで、鏡越しにソレを見てとうとう、少年は爆発した。


「もういい加減にしてくれ!」


 男子トイレから突然の大声に驚いて引き返す同級生。当然、外で不審に思われているなど少年は知らない。


 曇りガラスを通して自然の光が室内を明るくし、トイレにあるマイナスイメージを払拭していた。


 この環境なら幽霊なんて怖くない。と、己を励ます少年の体は大変強張っている。


 起きてからずっと背後に佇み、走って引き離そうとしても気づけば後ろに戻っていて逃げられない。希薄で、意思のない人形のように思考が読めない不気味さ。向かい合っていると、滲むように広がる陰気が見えるような気がした。白系統の壁や天井に光が反射して明るいはずなのに、曇りの日のような鬱々とした雰囲気に呑まれそうだ。


 そのとき、幽霊の目に一点の光が宿った。力なく閉じかけていた目蓋が上がり、細く鋭い眼光が真っ直ぐ少年を貫く。眉間にシワが刻まれ、少年は初めて幽霊から生気を感じた。


「ここは……冥府ではないのか」


 トイレの中を見回し、訝しげに呟かれた言葉の意味を少年は察する。


 この男は己が死んだことを自覚している。


「地獄でもないし、天国でもないよ。それよりあんた、誰なんだ。なんで俺にまとわりついてくんだ」


 幽霊は何も答えない。見下してくる表情からは何も読めず、恐ろしいほど静かで、少年は緊張してそれ以上問い続けることができなかった。


 チャイムが鳴ると、少年は逃げるように教室に戻る。


 取り憑いている状態については、幽霊自身にもどうにもできないらしい。離れようとしても、気づけば少年の背後に戻されている。


 忌々しげに自分を睨んでいるのを、少年は背中越しに感じた。


 俺のせいじゃないのに!


 教師の声がまったく頭に入ってこない。少年はただ、開いた世界史の教科書の世界地図を眺めているしかなかった。


 チョークが黒板を走り、周りからそれを追いかける音がしても少年のノートは真っ白なまま。


「——栄香国は滅んだのか」


 誰に聞かせるつもりもないような、ぽろっと出たような呟きを少年は聞いた。思わず振り向いて、虫けらを見るような目とかち合い、首を痛める勢いで頭を戻す。


 左手で首筋を撫でながら、もう片方の手に持ったシャーペンを意味もなく動かし、空白に黒い靄を描く。


 今、確かに『栄香国』って……。


 滅ぶも何も、それは実在しない。栄香国は、妹が書いた小説の舞台。空想上の国である。


 ん? 待てよ。


 今度は目が合わないようにそっと幽霊を窺う。


 天女の如き端麗な美貌、目は鋭く高圧的。を表現するそんな類の言葉を少年は何度も読んだ・・・


荊雨宸ジンユーチェン?」


 幽霊が振り向き、その瞳に少年の動揺した様子が映り込む。


 いや……いやそんなまさか!


 妹の創作キャラクターだとしたら、男は幽霊ではなく幻覚だ。


 あの小説が史実を基にした可能性を思いつき、こっそりスマホで『荊雨宸』を検索。ヒットなし。


 名前を変えたか? いや、それだったらこいつが反応するはずない。


「うわっ!?」


 目の前に何かが振り下ろされ、少年は飛び上がる。椅子が倒れる音が響き、クラス中の注目を浴びた。教師はぽかんと口を開けっ放しに瞬く。


「ど、どうした?」


「いや、なんでも、ないです……」


 机には何の異常もなかった。


 蛇のように素早く使い手のもとに引き戻されたそれは、鞭だ。


 いつの間にか幽霊は横にいて、不具合でもあったのか、確かめるように鞭を両手で掴んで引っ張っている。


 ああ、こいつは間違いなく荊雨宸だ。


 何もかもが教室にそぐわない浮いた存在。認識しているのはただ一人。虚空を見つめて固まっている少年に教師とクラスメイトは首を傾げる。


「すいません、ちょっとトイレ行かせてください!」


 許しを乞うような宣言をして、教師が何か言う前に少年は教室を飛び出す。


 屋上に逃げ込み、振り返るとやはり荊雨宸は憑いて来ていた。


「私を、知っているな」


 荊雨宸愛用の鞭・虎月こげつは、一振りで十数人の命を奪うことができる凶器。非力な少年を刈り取るなど容易いことだろう。


 だから少年は、早々に吐いた。


「あんたは妹の妄想なんだ!」


 瞬間、避けるどころか、構える余裕もなく、気づいたときには鞭が少年の体を貫いていた・・・・・


「やはり触れられないか」


 心臓が弾けそうな胸を手で押さえながら、少年は察する。この荊雨宸には実体がない。他人には見えない、所有物虎月も含めて物理的接触ができず、すり抜ける。だから少年は無事なのだ。


 あっぶねぇえええ!


 まともに受けていたらと思うとゾッとする。


 傷は負わないとわかっても、武器を持つ荊雨宸の立ち姿が恐ろしいことに変わりはない。


 けれどほんの少しだけ、心に余裕が生まれたので言葉を選ぶ。端的に「あんたのことは『劉帆の英雄譚』で知ったんだ」と言い直した。


『劉帆の英雄譚』とは当然、妹の小説のことである。無題だった為、適当に名付けた。「妹の妄想」発言は、妹が史実を基に・・・・・劉帆の話を書いていたからと、勘違いするようなニュアンスで上塗りした。


 それ以上、少年に話せることはなかった。

 

 なぜ、荊雨宸は日本に現れたのか。


 なぜ、荊雨宸は少年に取り憑いているのか。


 なぜ、少年から離れられないのか。


 そんなことを聞かれても少年にはわからない。


 首を振り続ける少年に、荊雨宸は追求しなかった。異界の景色を見下ろしながら彼は、悲観でも、驚愕でもなく、「はっ」と嘲笑う。


 そのとき荊雨宸に対する恐怖心が不思議と消えた。


 それは誰に対したものか、何に向けたものか。気になったけれど、すぐに人形のようにすんとした顔に戻ってしまった荊雨宸に、鞭を振われた時の気持ちが蘇って訊くことはできなかった。

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