雨を照らす

花見川港

序章

空想の幽霊(1)

 しなやかな鞭の結界をすり抜け、何人にも許さなかった懐へ入り、劉帆リュウホの剣はその体を貫いた。


 ようやく、ようやく届いた!


 ここまで来るのに途方もない時間が過ぎたように思う。最初は家族の敵を打つために。けれど今はそれだけではなく、旅をしているうちにかの悪党によって傷つき、苦しめられた人々の想いも背負ってここにいる。


 研ぎ澄まされた牙はついに、怨敵・荊雨宸ジンユーチェンを捕らえたのだ。


 刺されたというのに荊雨宸は慌てふためくこともなく、剣格の根本を掴み、己の体を後ろに下げて剣を抜いた。体に空いた穴からは血が滝のように流れ、内臓がほんの少しはみ出している。荊雨宸はふらつきながらも、散々劉帆を嘲笑った瞳は変わらず鋭い眼光を放ち、口から溢れた血を地面に吐きつけた。


 助かる傷ではないというのに、覇気は衰えず、一度崩れたかのように見えた壁が再び立ち塞がる。


 しかしそのとき、天より振り下ろされた突風が荊雨宸を崖から突き落とした。その下にあるのは生きては出れぬ底無し沼。麗人と謳われた男の最後が泥塗れとは、なんという皮肉。いやもしくは、これが相応しい結末であるという配剤か。


 まるで自我があるように沼は意欲的に、時間をかけず荊雨宸の体を呑み込んでいった。


 仲間たちの歓声を背に、劉帆は一人静かに崖の上に佇む——




「あいつ、まだ起きてんのか」


 気づけば時計の短針が頂点をとうに過ぎていて、寝る前にトイレに立った少年は、隣の妹の部屋から漏れる光に気づいた。


 妹は昨日の昼から「神が降りた!」と叫んで部屋に閉じこもっている。食事に引きずり出しても、掻き込んで戻ってしまい、しかも昨日から徹夜しているようで、まるで試験前日並みの必死さ。


 明日は学校があるというのに遅刻したらどうするのか。自分も夜更かししていたことなど差し置いて、少年は妹の部屋のドアをノックする。返事はない。ドアを少し開けて隙間から様子を窺う。


 妹の枕砲弾が襲ってこないのを確認してから中に入る。妹は机に上半身を預けて、腕に顔を埋めていた。


「おーい」


 近づいて声をかけてもぴくりとも反応しない。完全に眠り込んでいる。


 ったく、しょうがない。


 少年は妹の体を抱え、ベッドの上に降ろし、丁寧に布団までかける。が、妹は布団を蹴り飛ばし、ごろりと寝返りを打った。一瞬起きたのかと思ったが、すよすよと寝息が聞こえる。


 布団をかけ直し、机の上で開きっぱなしになっているノートパソコンを閉じようとしたが、画面を見て止まる。白い画面に並ぶ文字の羅列。ざっと見た感じ小説のようだ。


 ベッドの上で背を向けている妹をチラ見して、少年は椅子に座る。そしてスクロールバーを一番初めに向かって動かした。


 バレたら枕砲弾どころか拳が出てきそうだとわかっているのに、少年は己の好奇心に逆らえない。


 ちょっとだけ、ちょっとだけ。


 プロローグをさらっと読むぐらいの気持ちだったのだが。


「————はぁ」


 時計の長針が周回して、深夜三時。少年は椅子の背もたれに寄りかかり、疲労した目の間を揉む。


 まさか恋愛小説ではなく、冒険ものだとは。妹らしくない作風に、すっかりのめり込んでしまった。


 悪政蔓延る栄香国を舞台に、少年・劉帆が旅をしながら人々を苦しめる悪党を倒し、世直しをしていくという中華ファンタジー。アクション多めで、恋愛要素がほとんどない。恋愛ものしか読まない書かない妹にしては本当に珍しい。


 物語は、劉帆が宿敵・荊雨宸を倒したところで終わっている。


 主人公の家族を殺し、故郷滅した仇敵であり、国中のあらゆる悪事に裏で繋がっている諸悪の権化のような悪役。荊雨宸がいなくなったことで物語は終盤を迎えたように考えられるし、少年の世直し旅が続くのであれば、これは一区切りに過ぎないともとれる。


 どちらにしろ、今はここで終わっている。続きを期待して待つしかない。


 固まった首と肩を解そうと、背筋が反るほど伸びをする。椅子の背もたれが軋み、ややひっくり返った視界に、あるモノが入る。最初はそれが何かわからなかったが、理解した途端引き攣った声が出た。逃げ出そうとして足がもつれ、椅子から転げ落ちる。


 人がいた。


 髪が長く、百合のようなかんばせは中性的で一瞬女と見間違うほど。しかし中国の時代劇に出てきそうな裾の長い男物の衣装を纏っていた。伏した睫毛の影が瞳の虚ろを深め、立っているのが不思議なほど全身に力を感じない。


 呆然と見上げて、はくはくと無駄に空気を食む少年の顔が白くなっていく。


 なぜなら、その男の体が透けていたからだ。


「むぅ?」


 寝ていた妹が呻き、のろのろと体を起こす。


「……お兄ちゃん!?」


「ぶっ」


 妹の投げた枕を顔面に受けた少年は、それどころではないと振り向く。


「おま、これ——」


「ああ! また勝手に読んだの!?」


 頭を沸騰させながらパソコンに飛びつき、閉じて少年を睨む。


 妹には、この部屋の異常がまったく目に入っていなかった。


「そうじゃなくて、こいつ——」


「もう出てってよ! バカ兄!」


 部屋から叩き出された少年は呆然とドアを見つめ、のろく振り向いて視界の端の人影に震えた。目を逸らし、深呼吸。


 駆け足で自室に飛び込みベッドに潜り込んだ。布団を頭から被り目を瞑る。


 気のせい気のせい気のせい気のせい!

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