泣いたっていいじゃないか

増田朋美

泣いたっていいじゃないか

その日も暑い日だった。全くいつまで暑い日が続くんだろうとみんな口を揃えていうくらい、暑い日だった。なんでこんな暑い日ばかり続くんだろうか。それくらい、最近の日本の気候は、過ごしにくい世の中になっている。

その日、杉ちゃんと、ジョチさんは、今度行われる国政選挙の打ち合わせのため、八重垣麻弥子さんの家を訪れていた。相変わらず彼女の家には、何人かの知的障害者が、「家事労働」をしている。労働形態は、イギリスのビクトリア朝時代の、メイドの区分に従っていて、寝室の掃除をするチェインバーメイドとか、お茶やお菓子の管理をする、スティルルームメイドとか、そういう家事を「役割分担」すれば、知的障害がある人でも、仕事ができる。と、八重垣さんはそう主張している。確かに知的障害のある人達は、家事仕事しかできない人たちも居るし、専門的な作業に強い人も居る。そういうところを生かして働かせてあげれば、ただのお荷物さんということも、なくなると思う。

ジョチさんは、彼女のやってきた実績を彼女から聞き取って、それを、政策としてどう話せばいいかなどを打ち合わせしていた。その間に、杉ちゃんの方は、お茶を持ってきてくれたいわゆるパーラーメイドと呼ばれる、来客と、主人の間の取り次ぎをするメイドさんと一緒に、今日はいい天気だとか、話していた。そのメイドさんも軽い知的障害があったのであるが、かなり良い境遇を受けているようで、いつもにこやかな顔をしている。

しばらく、国政選挙の話をして、立候補するにあたり、応援演説を誰にするかなどを話し合っていると、お昼の12時の鐘がなった。

「あ、もうお昼ですね。それでは今日の打ち合わせはここまでにしましょうか。お手伝いさんたちも時間通りに帰らないと、不安になってしまうことでしょう。じゃあ、僕達はこれで失礼いたします。」

と、ジョチさんは、八重垣麻弥子さんに言った。

「わかりました。ある程度は融通を利かせてくれるように、メイドさんたちにも言い聞かせているんですが、理事長さんがそんな配慮をしてくれて嬉しいです。じゃあ、今日の打ち合わせは終了しましょう。駒子さん!」

八重垣さんは、杉ちゃんと話をしていた、パーラーメイドに言った。彼女は、八重垣さんにいわれると、不明瞭な発音で、はい、なんでしょうか、と言った。

「二人のお客さんたちがお帰りです。帰り支度をしてあげてください。」

八重垣さんがそう言うと、駒子さんは、わかりましたと言った。そして、杉ちゃんの車椅子を押して、玄関先まで案内する。ジョチさんと八重垣さんは、そのあとをついていった。駒子さんは、杉ちゃんに、草履を履かせてあげて、ジョチさんの草履を揃えて、履けるようにしてくれた。

「随分、かゆいところに手が届くメイドさんですね。よほど、訓練してあるんでしょうね。」

とジョチさんは駒子さんの事を褒めたが、駒子さんは、ハイとしかいわなかった。

「駒子さん、褒めてもらったときには、なんていうんだっけ?」

と、八重垣さんがいうと、

「ありがとうございます。」

と、駒子さんは言うのだった。何故か、その言い方が、ちょっと、沈んだような感じの言い方だったので、杉ちゃんはなにか感づいたようだ。

「駒子さんだったっけ。なにか悩んでいることが有るみたいだけどどうしたの?」

と、杉ちゃんがいった。

「いえ、なんでもありません。」

と、駒子さんはそう言うが、やっぱり健常者の様にすべてを隠すことはできなさそうで、なんだかその言い方にも、深い訳を隠しているような感じであった。同時に、それを隠してしまう事は辛いという事も言い方でわかったので、杉ちゃんは、駒子さんに聞いてみる。

「もし、大変なことが有るんだったら、なんでも話してくれればいいぜ。一人で溜め込んで置くことほど、悪いことは無いからな。」

と、杉ちゃんがいうと、彼女、駒子さんは、涙をこぼして泣き出してしまった。

「おいおい、どうしたんだよ。なにか不幸なことがあったのか?誰かが、流行病でもかかったか?」

と、杉ちゃんが聞くが、彼女は自分の感情でいっぱいになってしまったようで、泣くばかりだった。知的障害がある人に、話をさせるのは難しいところも有る。というのは、何かあったら成文化させるのが非常に難しいからだ。彼女もそうだった。それより、この感情をなんとかしてくれという方が先決だろう。

「すみません、彼女、お父様が病院に入ったそうで、それで不安なんだそうです。まあ私達は、仕事に来てくれるだけでもありがたいと思っています。」

と、八重垣麻弥子さんがそう説明した。

「そうですか。なにかお父様は病気でもなさったのですか?」

と、ジョチさんが聞くと、

「いいえ、彼女のお父様は警察関係で、今回、電車の中でスリを止めようとしたら、逆に犯人に殴られて、重傷を負ったそうで。幸い、お母様の話ですと、足を骨折しただけで、命に別状は無いそうですが、彼女はそれがとても不安らしくて。」

と、八重垣麻弥子さんが、そう説明した。

「そうかそうか。そういうことなら、不安になっちまってもしょうがないよな。でも、足を骨折しただけなら、きっと良くなって、またいつもどおりの生活が送れるよ。気にするなと行ってもお前さんには難しいだろうが、辛いときは、淡々とやって、生きていこうな。」

杉ちゃんの言い方は、すごく優しい内容であるが、その言い方は、大変乱暴であったので、ちょっと怖い人に見えてしまうのであった。

「大丈夫ですよ。杉ちゃんは、決して悪い人ではありません。悪いようにはしませんから、あまり深く考えないでください。」

と、ジョチさんがにこやかに笑ってそういうことを言った。

「まあ、お父ちゃんのことは、お医者さんたちになんとかしてもらえるだろうから、お前さんは自分にできることを、一生懸命やってね。」

と、杉ちゃんは泣いている駒子さんにできるだけ穏やかにそういったのであるが、駒子さんは、返事をすることもなかった。八重垣麻弥子さんが、ほら、駒子さんと言って、返事を促してもだめだった。杉ちゃんたちは、大丈夫だと言って、小薗さんに迎えに来てもらおうと言うことにしたが、その辺りを理解してくれる人でなければ、なんて無礼な女中だと言って、批判する人もいるかも知れなかった。その日は、杉ちゃんたちは、小薗さんに迎えに来てもらって、八重垣さんの家をあとにした。

その数日後。杉ちゃんとジョチさんは、買い物に行くために、ショッピングモールに行った。その食品売場を二人で歩いていると、魚売り場に、八重垣麻弥子さんと、先日駒子さんと呼ばれていた女中さんが、魚を選んでいた。

「あ、こんにちは。八重垣麻弥子さん。一緒に居るのは、確か駒子さんだね。」

と、杉ちゃんがそう言うと、八重垣さんはどうもと頭を下げたが、駒子さんはそれどころではなさそうな顔をしている。

「駒子さん、人にあったときは、なんていうんだっけ。」

八重垣さんにいわれて、駒子さんはハッと気がついたらしく思わず急いで、

「こ、こんにちは。」

と、小さい声で言った。

「ああ、ちゃんと挨拶ができるんですね。それは偉いですね。」

とジョチさんがその表情に気がついて言った。

「はい。」

という駒子さんに、八重垣さんが、ほら、褒めてもらったんですからちゃんとありがとうはというと、駒子さんは、ありがとうございましたとボソリと呟いた。

「はあ、またお父さんのことでなにか不安なことでもあるんですか?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「ええ。思ったより怪我の程度がひどいものだったそうで、お父様の入院が延長されたそうなんです。まあ、彼女が自分の中だけで処理できないのは、私もよく知っていますけど。困りますよね。犯罪者というのは、なりふり構わず人を殴るんですから。」

と、八重垣さんは言った。杉ちゃんもジョチさんも、それについて責める必要も無いよなと顔を見合わせた。

「私達も、これは仕方ないことだからと何回も駒子さんにいいきかせて居るんですけど、駒子さんは、納得してくれないんです。お父さんの怪我は、自分のせいではないかって、そう言ってるんです。」

「自分のせいですか?」

と、ジョチさんが聞いた。

「ええ。彼女、幼いときに、学校の先生にいわれたことが、いつも頭から離れないようで。なんでも、彼女は小学校までは、普通学校に行っていました。中学校から、特別支援学校に通っていたのですが、小学校の担任教師の先生が、平気で生徒が傷つくことを言う人だったとか。」

八重垣さんは、そう説明した。そういう事をしっかり説明できなければ、こういう障害者を使うことはできないと思う。雇うだけではなく、その人そのものを理解するという姿勢がなければ、駒子さんのような人を雇う事はできないと思う。

「はあ、その鬼畜教師は、なんと駒子さんに言ったのか?」

と、杉ちゃんは急いでそういうと、駒子さんはまた泣き出してしまった。八重垣さんもここで泣かれるとはと困った顔をする。

「僕が、代わりに代金を支払ってきますから、麻弥子さんは、彼女と杉ちゃんと一緒に、カフェスペースに行ってください。ここで変なやつだと思われたら、困りますから。」

と、ジョチさんが八重垣麻弥子さんの買い物かごを顎で示しながらそういった。八重垣さんはわかりましたと言って、自分のかごをジョチさんのショッピングカートに乗せた。ジョチさんはじゃあ行ってきますとレジへ向かった。それを見届けてから、杉ちゃんと麻弥子さん、そして駒子さんは、急いでカフェスペースに向かっていった。

「いやあ、ホント、変な発言してごめんね。でも、こういう人に、黙ったままでいさせるというのもかわいそうだと思って。」

杉ちゃんは、カフェスペースでそういう事を言った。八重垣さんは、

「大丈夫よ。杉ちゃんの言う通りなんだから。できないことははっきりとさせて置かないと。国政選挙で質問された時、答えができるようにしなければ。」

と言った。ウエイトレスが、三人ぶんのコーヒーを持ってくると、八重垣さんは、できるだけお声をかけないようにしてくれと、ウエイトレスに言った。ウエイトレスはわかりましたと言って、厨房に戻っていった。

「で、それで、子供の頃、学校の先生になんていわれたんだ。お前さんがそうやって思い出して泣くくらいだから、相当ひどいことだよな。ちょっと話してみな?」

と、杉ちゃんはそう言うが、彼女はまだ泣いたままであった。とても悲しそうな顔をして、涙をこぼすのだった。

「相当傷ついたのか。まあ、お前さんのような人は、傷つきやすいというのはわかるけれど、でも、この世で生きていかなきゃいけないんだからさ。だから、忘れるって言うこともできなくちゃいけないんだよな。自分の中で、ずっとためておくより、人に話してさ、もうどうでもいいじゃないかって言うくらい話しちまえ。最近はそういう事も商売にする事もあるけど、何でも商売すればいいって言うわけじゃないしね。」

杉ちゃんがそう言うと、八重垣さんは、

「何回も私もそういうことを言ったわ。でも、まるで彼女には効果なしだった。」

と小さな声で呟いた。

「でも、いずれは獲得しなきゃいけない技術でも有るんだよ。それを先回しにしちゃいけないよな。今しなきゃならないことは、今しなきゃならない。」

杉ちゃんが言うと、

「そうね。でも、彼女はそれだけ傷ついていると思うの。だから、私は、泣いてもいいと言っています。それだけ、彼女は、深く傷ついているんだと思うんです。」

と、八重垣さんは言った。

「もちろん、仕事に支障が出てしまうことはあると思います。でも、それはどんな人間でもそうなんじゃないかな。障害があるから、悲しみを我慢しなければ行けないという法律はどこにもありません。」

「そうかあ、八重垣さんは優しいんだね。今、そういうことが言えるやつってのは、話を聞くことを商売にしているようなやつだけだろう。ほかのやつは、こいつは駄目なやつってバカにするか、関わりたくなくて逃げちまうか、そのいずれかだ。それを、教えていくことも必要だと思うけど。だって、世の中は、いいやつより悪いやつのほうがずっと多いんだからなあ。」

八重垣さんの話に杉ちゃんは急いでいった。

「そうね。それは変えていかなきゃいけない、日本の社会の欠点なのかもしれないわね。私も、国会議員になれたらの話だけど、そこを一生懸命訴えるつもりよ。昔は日本にはそっとしておく思いやりがあった。でも、今の日本では、ちょっとでも自分と違うと、直ぐに排除しようとするじゃない。それは直していかなければならないと思うの。」

八重垣さんは政治家候補らしい話を始めた。でも、杉ちゃんの反応はちょっと違っていた。

「そうかも知れないね。でも、肝心なのは、彼女が泣いているのを止めることだろ。国会議員になったときの目標の話なんかしてもしょうがないよ。」

ちょっと意外そうに八重垣さんは杉ちゃんを見た。普通なら、そういう話をすれば、頑張ってねとかそういう事を言うはずなのだが、杉ちゃんの言い方は違っていた。

「そうね。ねえ、駒子さん。コーヒーを飲みましょうよ。お父様が怪我がひどくて、不安なのもわかるけど、それは、あなたがいくら不安に思ったからと言っても、解決できないことなのよ。それは、あなたも少し理解しないと。」

八重垣さんは駒子さんにそう呼びかけた。

でも、駒子さんは、お父さんのことが心配なのだろうか。まだ、涙をこぼして泣いているのだった。

「駒子さん、人間には自分の力が及ばないということも有るんだ。現に僕だって、歩いてみたいということは何回も有るけどさ。どうせ、つかまり立ちしたって立てないんだからよ。それは、諦めて、この車椅子に任せっきりにしている。世の中そうしなきゃならないことはなんぼでもある。僕も、八重垣さんも、ジョチさんも。だからさ、お前さんもさ、お父さんの事は、いくら心配してもしょうがないんだって、諦めたら?」

杉ちゃんが、できるだけ口調を抑えて、そういうことを言った。でも、駒子さんはやっぱりお父さんが心配なのだろうか、涙をこぼしたまま、嗚咽するのだった。それはもしかしたら、そういうことなのかもしれなかった。杉ちゃんが移動するには車椅子の手助けが居るのと同様で、駒子さんも気持ちを切り替えるには、人手がいるのかもしれない。

「駒子さん、私はね、これから、選挙に出て、日本がもっと明るい国家になれるように、頑張ろうと思っているの。駒子さんも、その活動を手伝ってもらえないかしら。いつもの、お客さんが来たことをを知らせる役目ばかりじゃないわ。ポスター貼るとか、立会演説会に来てもらうとか、そういう事を私は駒子さんにお願いしたいの。」

「そうそうそうそう。お前さんを必要としているのは、ご家族だけではないよ。こうやって八重垣麻弥子さんが、お前さんの事を必要としているんだ。そこに早く気がついてさ、それで、泣き止んで一緒に活動すると思ってくれ。お父さんの事は、医療関係者にまかせてだな、駒子さんは、駒子さんにできる事をしてくれや。」

八重垣さんもそう言うと、杉ちゃんも彼女の発言に合わせた。

「私、だって、学校の先生が。」

駒子さんは、やっと真実を話してくれるつもりになったらしい。それが何なのか八重垣さんは急いで身構えた。こういう人が話すことは絶対に嘘はない。だからこそ、正確に聞き取って置くことが、大事なのだ。

「私のことを必要としてくれるのは、お父さんとお母さんだけで、世の中にはこんなのろまを必要とする人はだれもいないって。」

「それ、だれがいったの?」

八重垣さんは、直ぐに彼女の話にはいった。

「学校の先生です。あまりにも勉強も運動もできない私にそう言いました。私は、勉強ができないから、そういう人間は、世の中必要ないって。」

学校の先生も無責任な発言をするものだ。学校というところは、本当に教育機関なのか、首をかしげたくなるほど、ひどいことが平気で行われている空間でもあった。ときに、なんてこんなひどいことを言って、止める人はいなかったのかと疑いたくなるような発言も出てくる。

「学校の先生は、お前さんに直接そういったのか?それとも、お前さんだけではなくて、クラスの人全員に言ったのか?その言葉がどんなときに出たのか、よく思い出してみてくれ。」

と、杉ちゃんが言うと、駒子さんは、

「はい、授業を聞かないでみんな隣の席同士でおしゃべりをしていたときです。」

と答えた。

「そうなの。それじゃあ、あなた一人に言った言葉じゃないかもしれないわよ。あなたは、ただ、それを自分がいわれたのではないかと思ってしまったのね。そこがあなたの間違いだったかもしれない。」

と、八重垣さんが訂正する。

「でも私は、それ以前に、勉強ができなかったから。」

きっと、駒子さんは日頃から勉強ができないせいで、先生を怖がっていて、クラスが叱られていた時、自分が叱られていると勘違いしたに違いなかった。こういう勘違いは、普通の生徒なら、自分のことではないと切り離して考えることができるし、友達もそれを助けてくれるかもしれなかった。でも、駒子さんのような女性は、そういう事はできなかったのだろう。それは、昔から、駒子さんができないことを示しているような気がする。

「大丈夫だよ。もし、そういう悲しいことを思い出して苦しくなるんだったら、お前さんが悪いわけじゃないんだって、自分に言い聞かせてみな。お前さんの劣等感はこっちもよく分かるからさ。だからこそ、お前さんには、なかないでもらいたいんだ。それは、わかるよな?」

杉ちゃんにそういわれて、駒子さんはさらに泣いて、ハイとだけ答えた。

「ここにいたんですね。レジが混んでいて遅くなりました。すみません。」

ジョチさんが、ショッピングカートを押しながらやってきた。駒子さんはそれに気が付き、ごめんなさい私、とだけ言った。すぐに状況を把握してくれたジョチさんは、

「でも、駒子さんが泣くことで浄化されたのなら、いいことですよ。」

とだけ言った。



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泣いたっていいじゃないか 増田朋美 @masubuchi4996

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