一番近い他人のあなたへ

百日紅

一番近い他人のあなたへ

4時間目の授業が終わる。クラスメートの真希と向かい合わせに座って、私達は弁当を開いた。真希のお兄さんに彼女ができた話をだらだらと聞きながら昼食を食べていると、不意に真希が私に言った。


由香ゆかんところには、たしか妹がいたよね」


卵焼きを箸で一口大に切り分けながら、私は答える。


「そう、双子の妹がね。しかも一卵性」

「学校は?」

「M女」

「うっそ、M女? じゃあめっちゃ頭良いじゃん」


M女学院中・高等学校__通称「M女」は、由緒正しい私立の女子中高一貫校だ。うちの県ではダントツの偏差値を誇り、日本トップレベルの大学への進学者を毎年数多く輩出している。


6年前、私と双子の妹である小春こはるは、揃って中学受験に挑んだ。いくつかの学校を受験したが、2人とも第一志望はM女だった。結果として、M女には小春だけが合格。私はワンランク下の中高一貫校に通うことになって今に至る。


「双子ってことは、妹ちゃんも今年受験生でしょ? どこの大学受けんの?」

「さあね。進路の話とかしないから」

「何? 仲悪いわけ?」

「ってこともないけど。共通の趣味もあるし」

「ふーん」

「うちの妹、めっちゃ良い子なんだよね。思いやりがあって、勉強ができるくせに、一切それをひけらかさない。だからこそ……」


口に放り込んだブロッコリーを咀嚼する間、私は小春への感情を説明する言葉を慎重に選んだ。黙ってたっぷり30回ほど噛んだ後、それを飲み込み、口を開く。


「たまに、無性に憎たらしくなる」

「おお、怖っ」


おどけたような真希の言い方で、自分の声が思った以上に冷たかったことに気づいた。


「でも、もし由香みたいにM女の妹がいたら、私もそうなっちゃうかも」


真希はそう言って笑った。この学校に通う女子は、真希も含め、その多くが私と似た境遇の持ち主だ。すなわち、M女に落ちたか、M女に願書を出すほど偏差値が高くなかったか。


ただでさえ大学受験を目前に控え、神経質になる時期だ。それでもなお、M女に通う妹を相手に醜い感情を抱かずにいられるほど、私達は聖人君子にはなれなかった。


そして、私にとって何よりも憎たらしいのは、なんの罪もない、ただ努力家で成績優秀なだけの小春への憎しみを抑えきれない、私自身だった。




その日は塾の授業もなく、七時間目の授業が終わると真っ直ぐ家に帰った。この時間にもなると、既に空は薄暗い。次第に早くなっていく日没の時刻は受験へのカウントダウンのようで、私の気持ちをいっそう沈ませた。


小春はまだ帰宅していない。M女は私が通っている学校よりも、家からずっと遠い位置にある。だから、お互い部活を引退した今、塾の授業がなければ私の方が早く帰宅することがほとんどだ。


自分の部屋に戻ろうとした私は、ふと小春の部屋の扉が半開きになっていることに気づいた。


(妹ちゃんも今年受験生でしょ? どこの大学受けんの?)


昼に聞いた、真希の言葉が頭をよぎる。


小春と進路の話をすることはない。学校の話も、勉強の話も。けれど、小春がどこの大学を目指しているのか、気にならないと言えば嘘になる。


申し訳ない気持ちを感じつつ、私はそっと小春の部屋の扉を押し開けた。


几帳面な小春らしく、部屋はきちんと整理整頓されていた。学習机の棚には、教科書や参考書がずらりと並べられている。いくつかの大学の過去問も置いてあった。背表紙にでかでかと書かれた大学名は、どれもこれも、自分が受験するつもりの大学よりずっと偏差値の高い大学だ。


さらに手がかりを探すうち、学習机の棚の右端に、数十ページほどの冊子をいくつか見つけた。見覚えのあるサイズのそれを引き抜くと、案の定、大学のパンフレットだ。小春が取り寄せたものらしい。


パンフレットのラインナップは棚に並んでいた過去問とほとんど同じだったが、1冊だけ、過去問のないものがあった。日本最高峰の大学の名前がプリントされたT大学のパンフレットの表紙には、設立者の銅像の写真が使われている。


もう一度、過去問が並んでいるあたりに目をやる。1冊分だけ不自然な隙間が空いていた。ここに置いてあったのがT大学の過去問だとすれば、小春が学校に持って行っているのかもしれない。


T大学のパンフレットを開く。付箋が貼られたページには開き癖がついており、はっきりとしたフォントで「医学部」と書いてある。美しい校舎、崇高な理念、整った環境。そこで生き生きと学ぶ小春の姿が、目に浮かぶようだった。


私は中学受験で、小春に負けた。ずっとそれがコンプレックスだった。そして大学受験で、私はまた小春に負けるのだ。そう思うと、苦しくてたまらなかった。小春が憎かった。


「……死ねばいいのに」


刺々しい言葉が、口をついて出る。それが小春に対するものなのか、自分に対するものなのか分からないまま、私はパンフレットを全て元の位置に戻すと、小春の部屋を出た。


勝手に傷ついて、イライラして、妹に八つ当たりして。なんて惨めなんだろう。本当に、あんなもの見るんじゃなかった。




その日の深夜、私は誰かの足音で目を覚ました。枕元のスマホで時刻を確認すれば、夜中の3時前だ。一度目を覚ますと、今度は寝付くことができず、私はひとまず喉の渇きを潤すためにキッチンへ向かうことにした。


キッチンには明かりがついている。様子を窺ってみれば、そこには小春がいた。コップと麦茶のポットを出したまま、ぼんやりと突っ立っている。


「小春?」


声をかけても、反応しない。


「具合でも悪いの?」


ようやく小春がこちらを振り向き、呟いた。


「……眠れなくて」


真っ赤に腫れた目はうつろで、表情もずいぶんやつれている。キッチンのごく小さい照明に照らされた小春は、なぜかいつもと違った印象だった。


「ねえ、由香」


消え入りそうな声で、小春が私の名前を呼んだ。


「ここ最近、由香の成績がどんどん伸びてるのを知ってる。お父さんやお母さんと話してたのを聞いたから」

「それで?」

「……羨ましい。あんたが憎い」


ひどく気弱な声がこぼれ落ちる。その言葉を、一瞬遅れて理解する。


「……何、それ」


それだけ言えば、あとは堰を切ったように言葉が溢れ出した。握りしめた拳が震える。


「中学に入学した日から6年間、M女の制服を着たあんたを、一卵性で顔がよく似た双子の妹を、私がどんな気持ちで見てたと思う?」


その度に、小春に負けた事実を突きつけられてきた。悔しくて仕方なかった。


「小春の鼻を明かしてやろうと思って、今まで必死に勉強してきたんだから。そりゃ成績も上がるに決まってるでしょ」


それでも、勝てなかった。私が腫れ物のように進路の話を避けていたうちに、小春は自分よりずっと先を進んで、ずっと高い目標を見上げていたのだから。


「私よりずっと成績良いくせに、『羨ましい』? 笑わせないでよ」


小さな照明が灯るだけの薄暗いキッチンで、じっと睨み合う。逃げ出したくなるような沈黙が、その場を支配した。


「由香より成績が良い? ……当たり前じゃん」


やがて、小春が口を開く。引きつったような、意地の悪い笑顔を浮かべて。


「M女に1人だけ受かった時、すっごい嬉しかった。優越感もあった。だから由香にだけは、追い抜かれたくなかった」


その声は震え、敵意すらこもっているようだった。


「由香にだけは負けたくない……負けちゃいけない。誰に言われたわけでもないのに。でも、最近はずっとスランプ。どんなに勉強しても成績は伸びない、模試を受けてもT大は毎回D判定! もし由香が第一志望に受かって、私が浪人なんてことになったら、どれだけ惨めか……!」


初めて聞いたその話は、私にとって衝撃的だった。大きな声を出せば、親が起きてくるかもしれない。そんなことすら考えられない程度に彼女が追い詰められていたなんて、気づきもしなかった。


2人して押し黙る。壁かけ時計の秒針が時を刻む音が、やけに大きく聞こえる。呼吸すらできないような重苦しい空気の果てに__急にそれがアホらしくなった私は、ふっと息をついた。


「……馬鹿だね、私達」

「は……?」


呆気に取られたように、小春は口を開いた。それに構わず、私は続ける。


「あんた、T大目指してるんでしょ」

「そうだけど」

「私はN大の経済学部」


それだけ言えば、賢い小春は私が言いたいことを察したらしい。気が抜けたように、ふにゃりと表情を緩めた。


「……そっか。私達、目指してる進路も全然違うのに、なんでお互いのことをライバル視してるんだろうね」

「ほんとだよ」

「お互い無駄に神経すり減らして、ストレス溜めて。……いくら何でも馬鹿すぎる」

「馬鹿だよ。なんで今の今まで気づかなかったんだろうね」

「私達は双子だから、かな」

「何それ」


つい先程までの空気が嘘のように、クスクスと笑い合う。ひとしきり笑った後、私は口を開いた。


「もうやめよう。お互いのことばっかり気にするのは」

「うん、これで終わりにしよう」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい」


私達は、それぞれ麦茶をコップ一杯飲み干すと、さっさと解散した。念のために親の様子も伺ってみたが、幸いにも寝室からは規則的な寝息が聞こえるだけだった。もしかしたら、寝たふりをしてくれたのかもしれないけれど。


あの夜以降、私達は、ただひたすらに勉強に打ち込んだ。相変わらず、小春とは進路の話も勉強の話もしない。する必要もなかった。


お互い、割と酷いことを言ったと思う。多少の罪悪感はあったけれど、少なくとも私は、小春の言葉にほとんど傷ついてはいなかった。むしろ安心感すら覚えたほどだ。何か吹っ切れたような小春の表情を見ると、もしかしたら、小春も同じなのかもしれない。


ああ、相手も聖人君子じゃなくて良かった、と。




数ヶ月後。


私は地元の国立大学に合格し、実家からそこに通うことになった。第一志望のT大学に落ちた小春は、別に受験していた東京の名門私立大学に進学する。春からは上京して一人暮らしだ。結局、スランプから脱することはできなかったらしい。


「じゃあね」

「うん、またね」


小春が実家を出る日、別れの挨拶はあっさりとしていた。インターネットさえあれば、遠くにいても繋がれる時代だ。特に惜しむようなこともない。


「私達は双子だから」というあの夜の小春の答えは、案外的を射ていたのかもしれない。同じ遺伝子を持つ私達は、たぶん今まで距離が近すぎたのだ。少し離れるくらいが、ちょうどいいのだろう。


私はどこか寂しく、そしてすっきりとした気持ちを抱えながら、キャリーケースを引く小春の後ろ姿を見送った。

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