第2話 クラゲとお土産

 お家から連れ出されると、初めて自動車というものに乗りました。ベビーカーよりも屋根が広くて、太陽さんの日差しも受けません。その上、涼しい風が前の座席から吹いてきて、こんなに心地良い席があるのだと感心しました。

 外のむわっとした暑さと違って、お家でも感じたことのないひんやりとした、まるで冷蔵庫みたいな寒さがありました。気持ち良い空間に目を閉じていると、いつの間にか目的地に着いたらしく、お父さんたちの盛り上がりが朝ごはんの時以上でした。

 お父さんが楽しそうに、私に言ってきました。

 「着いたよ!水族館!」


 私を逃すまいと縛り付けていたチャイルドシートから、お母さんが助けてくれました。もっとも、お母さんがここに縛ってきたのですが。

 そんなことしなくても、私は水族館が楽しみで仕方ないので、逃げも隠れもしません。もし、私がお巡りさんにお世話になるとして、お巡りさんがいるのがこの水族館なら、私は歌って、踊りながら出頭します。それくらい楽しみです。

 もう2歳の私には、本気を出せば歩くこともできそうです。それでも、とても優しいお母さんとお父さんは、私をベビーカーという地面の熱気以外はとても心地の良い自動車に乗せてくれます。世間の人は何も分かっていないので、それを過保護と言います。


 水族館の入り口に着きました。すぐ隣からはこちらに向かってくる人もいたので、なぜこんなにも楽しそうな建物から出てきているのだろうかと困惑しましたが、私は自動車に乗っているだけで自然と心地良い暗闇に潜っていけるので、とても興奮しました。私の自動車を動かしてくれるお母さんの顔は見えませんが、暑そうな部屋に座るお姉さんの笑顔と、彼女ににこやかに何かの紙を渡しているお父さんは見えました。お父さんには後で注意をしておかなければいけません。

 暗闇に入っても、決められた道があって、その点では少し面白みに欠けました。

 「改装されたと言っても、展示室の順番なんかは変わってないのかなあ」

 「そうだねー。綺麗にはなってるけど、見覚えある感じする」

 「次はクラゲの部屋じゃない?」

 「そういえば、ここで光ってるのに興奮してたんだっけ」

 「子どもみたいに言うなよお」

 「ごめん、ごめん」

 お父さんとお母さんは楽しそうに思い出話をしていますが、私の知らないことを話されても共感の仕様がありません。置いてきぼりです。でも、お父さんが昔、目を光らせていたということが納得できる、暗くて明るいクラゲさんのお部屋に来ました。ここは、私にとっても思い出のお部屋になるでしょう。

 「あ!紗菜も喜んでるみたい!」

 「おお!よかったよかったあ」

 二人の顔が覗き、私が喜んでいるということにされましたが、間違ってはいないので、後で注意をする必要もないでしょう。

 クラゲさんの目の前に来ました。手を伸ばしてもコツンと防がれて、綺麗なあの子を掴めませんでした。お父さんにでも取ってもらおうかと思いましたが、どう伝えればいいのか分からなくて、結局、手元に来ることはありませんでした。

 近くで見ていると私もその中で泳いでいるみたいで、クラゲさんという太陽さんに次ぐお友だちもできました。

 「ねえ、クラゲさん」

 「なんだ?」

 「私も一緒に泳いだんだから、お友だちになってくれるよね?」

 「強引な女の子だな」

 「かわいいことを考えているのね」

 「あ!クラゲのお姉さんも私とお友だちになってくれるの?」

 「いいわよ」

 クラゲさんは人間の女の子としか見てくれていないようですが、お姉さんは快くお友だちになってくれました。彼女たちも、私のお父さんとお母さんみたいな関係なのでしょうか。とても仲が良さそうです。

 「あなたもお友だちになってあげなよ」

 「お、おれは人間の女の子と友達になったことがないんだよ」

 「あら、クラゲさんは私よりも人見知りなのね」

 水槽の中でもかっこいい方のクラゲさんでも、かわいらしい一面もあるのだと知って、私は心の中で笑ってあげました。クラゲのお姉さんも笑っています。

 仲が深まったところで、私の自動車が発進して、クラゲさんたちとお別れをすることになりました。手を伸ばしても届きませんが、お別れの挨拶とまた来ることを伝えてバイバイをしておきました。

 淡く照らされたクラゲさんたちは、水中からふわふわと手を振り返してくれました。正直に言うと、お姉さんは遠くから見た方が綺麗に見えました。あの二人には内緒です。


 今度はペンギンさんのお部屋に来ました。クラゲさんよりもたくさんいるので、飼育員さんは全員の顔と名前は覚えていないはずです。はじめましてだからか知りませんが、私は一人も覚えることができませんでした。

 ペンギンさんたちは水に入るのが怖いのか、でも入りたそうにしながら譲り合っていました。仲良しなのか、ただ自分が入るのは怖いから先に入らせようとしているのか、結果によっては性の悪い動物だと思います。きっと私なら一番に飛び込んでみせるでしょう。そんなに性悪くないからです。でもペンギンさんはかわいいです。

 クラゲさんには悪いけど、帰るときにペンギンさんのぬいぐるみを買ってもらおうと思います。

 お家に帰ると、お父さんとお母さんが昔に来たときに、お土産で買った大きなくじらさんのぬいぐるみがあるので、くじらさんとペンギンさんには仲良くしてもらおうと思います。

 水族館の中は小さい体の私にはお家の広さとは比にならない広さでした。見渡す限り水だらけの道では、大きな腕を広げたエイさんにご挨拶をしました。こちらを見ているにこやかな目は私を歓迎してくれていたので、その幸せをお父さんたちにも分けてあげたくて、見てもらうように指差しました。

エイさんとお父さんとお母さんは3人とも幸せそうでした。私も同じ気持ちです。

 この道は、クラゲさんやペンギンさんのお部屋と違って明るかったのですが、狭くて私たち以外の人間がたくさんいたので、エイさんとはお友だちになれませんでした。

 そして開けた場所に来ました。

 昔はお父さんが興奮していたというジンベイザメさんの巨大水槽があるお部屋です。

 私はお父さんの娘です。だから、お父さんの血をもらっています。だから、お父さんと同じところで興奮することもあります。

 「わあああ!」

 これは私の声が漏れたものです。

 「いつ見てもすごいなあ」

 「大きいね」

 「お父さんも昔はこうなると思っていたんだけどなあ」

 「ちょっと、笑わせないでよ」

 相変わらずお父さんは感嘆の声を上げています。お母さんは笑っています。

 「やっぱり紗菜もお父さんの血を引いてるなあ」

 「そうみたいね」

 ふふふ、と元気なお母さんが上品そうに少しだけ笑いました。外出している時はいつもこんな感じです。それでもお母さんはかわいいので、私はずっとお母さんに笑っていて欲しいと思っています。

 ジンベイザメさんの辺りを漂う大きな気泡は、それだけで私なら数時間生きられるんじゃないかと思うほど、ぎっしりと重みをもっています。私の呼吸と体の大きなお魚さんたちの呼吸は重さが違うのでしょうか。

 命としての重さは変わりないはずなので、呼吸の重さが違うのは、それは神様の裁量が数ミリ単位でずれていたのだと信じています。みんな呼吸の重さも一緒で良いと思うからです。

 ジンベイザメさんの吸息に巻き込まれながら、私はお父さんから離れて、呼吸をしていました。

 周りを囲う小さなお魚さんたちも、私にとっては大きいので恐怖すら感じましたが、それよりもみんなが一緒にいれることに水を飲む勢いでした。

 ここでは、このジンベイザメさんとお友だちになれば他のみんなとも仲良くなれると考えた私は、ジンベイザメさんの真似をしました。口をぱくぱくさせて栄養を摂り入れたり、他の誰よりもしなやかに泳いで見せたり、お客さんの歓声に乗ってみたりしました。

 時計が読めないのでいくら時間が経ったのか分かりませんが、私の中では3時間くらい経っています。3時間が短い針何周分かは分かりません。

 お母さんの声で私とお父さんが、水槽の外に連れ戻されました。

 「そろそろ行こう?」

 「はっ!」

 気が抜けてどこか彷徨っているお父さんから、なかなか聞くことのできない、いかにも我に帰ったという声が漏れました。

 私もはっとここに戻ってきました。さっきまでの水中の物語は一度終わりを告げました。

 声は出さなかったので、周りにもばれていないでしょう。その点、お父さんは視線が集まり恥ずかしそうです。何より、お母さんが恥ずかしそうです。

 昔に来た時と変わらず、お父さんは子どものままだったのかもしれません。

 長かった航海を終えて、ようやく明るい場所に出ました。お土産売り場でペンギンさんのぬいぐるみを買ってもらうことを忘れていなかった私は、計画通りにペンギンさんの前でおねだりをしてみせて、お父さんに買ってもらうことに成功しました。これが通用するのは今だけだと言わんばかりの顔が、2人の笑顔の裏に垣間見えましたが、教養のない私には難しかったので、そのことは放っておきました。

 嬉しそうにぬいぐるみを抱えて、私はベビーカーで運ばれます。喋り出すのが他人より少し遅かった私は、一人で歩くのもままならなかったのですが、2歳にして未だにベビーカーに乗っていることに、2歳のプライドが許すか許すまいかで揺れていました。

 そろそろ歩きたいと思っていました。お父さんやお母さんが歩いていて楽しそうだからです。

 それでも今日はベビーカーで良かったと思いました。たくさんのお友だちができたからです。背後が守られた状況にあるからこそ目の前の世界に入り込めたので、私もペンギンさんも喜んでいます。

 私にはよく聞こえませんでしたが、お父さんとお母さんは何か言いながら、一時間ほど前に見知らぬ人が出てきていた回転扉に着きました。入口と出口が隣り合わせにあるとは驚きです。来た時にいたお姉さんはいませんでしたが、他のお姉さんが見えたので、私は手を振っておきました。私は礼儀正しいので、挨拶は欠かしません。

 自動車のあるところに戻ると、来た時と同じようにチャイルドシートに縛り付けられました。縛ると言ってもお母さんは優しいので、決して痛くはありません。

 縛らなくても逃げないのに、というのが来た時の本音でしたが、帰るときは違います。お友だちとバイバイしなければいけないので、とても悲しいです。だから、縛って正解と言えます。

 また自動車が「チッカチッカ……」と音を出しました。少しずつ小さくなっていく水族館に手を伸ばしましたが、今度は窓に阻まれて届きませんでした。

 ペンギンさんのぬいぐるみを抱えて顔をじっと見ていると、お母さんの話し声が遠くなっていくのを感じました。

 「あ、紗菜も疲れちゃったみたい」

 「すごく楽しそうでよかったよお」

 「そうだね、ちゃんと血を引いてるなって思ったよ」

 「ははっ、僕みたいに目を輝かせていたもんなあ」

 「うんうん」

 前の席に座る二人は寝てしまった私の話をしているようです。あんなに楽しいところに行って疲れているはずなのに、寝てしまわないなんてすごいなと、大人を尊敬しました。私も早く大人になりたいですが、まだこのままでも良いかなとたくさん愛情を注いでくれる時間を楽しむことにしました。そして、もう一度夢を見ることにしました。

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