万華鏡

 九年前のあの日以来、私は一度も登校せずほとんどの同級生たちと顔を合わせないまま高校を中退し、その後全てから逃げるように誰も知っている人間がいない町をさまよい歩き、その結果十一月半ばに武川さんに拾われた。



 判決が出てからひと月位の事であり、さぞ苦労したんでしょうねとか武川さんに言われたが、それが意外にそうでもなかった。

 家から出て行く事になったと言っても、父と私の財産を管理する事になった母の母の弟の、これまた弟の長男の家に居候状態だったのでとりあえず寝食は保証されていた。

 私の心を傷付けまいとしたのか、矛先が自分に向かって来ては困ると思われたのかはわからないが、その家で父の事件について云々言われた事はない。

 その時の私は、人とのつながりを避ける事以外には全く無気力であり、将来の展望すらなかった。余りにも突然にかつ途方もない事が起きてしまったショックのせいだとか言葉を取り繕った所で、その時の私が抜け殻だった事を否定する事など出来ない。

 町をふらついていたのは他に何もする事がないからであり、何を期待していた訳でもない。携帯のメモリーすら全消去してしまった私をかろうじて生かしていたのは、このままのうのうと消えては六角さんの親族縁者の心を逆撫でするだろうと言う事だけだった。


 そして二人とも、私が家にまともに居付かない事に関しても何も言って来なかった。

 たぶん仕方がないなとしか思っていなかったのだろう。ひと月足らずで私が家を出て行く事になった時も、極めて淡白に頑張ってねと言い返したに過ぎない。

 私は家の中では二人の事をおじさんやおばさんと言っていたが、それは叔父さんや叔母さんではなく小父さんや小母さんだった。詰まる所、私たちはあくまでも居候とその身元引受人以上の関係ではなかったのだ。

 だがそれは同時に、私が被差別的な待遇を受けていなかったと言う意味でもある。それで武川さんに拾われた後は、意外とすんなりコンビニのバイトを経て123のホステスになり、そのまま仕事だけに全精力を尽くして現在に至ってしまったのだ。


 自分の人生がこれまで自分が考えているような苦難に満ちた物であったかどうか考えていた最中、ソリティアを終えて充電していたスマホが鳴り響いた。




「もしもし」

 三村和美さんだった。

「もしもし……」

「光江さん、三村です。今ご在宅ですか」

「はい」

「犯人が捕まったそうですね」

「はい」

「これで事件も解決と言う事で、改めてお願いですが真二さんの遺体を引き取らせて頂きたいと」

「そうですか」

「主人も了解してくれました。それで今度そちらのマンションに改めておうかがいして」

「葬式の打ち合わせ…………ですか」

「あの、もしもし……?」

「いえ、何でも……」


 三村さんは昼間と変わらず相変わらず丁寧であり、一方で私の返事は我ながら随分と棒読みで素っ気なく、123のナンバーワンホステスのする返答ではなかった。


「やはり気になるんですか、六角さんと言う人の事が……」

「はい…………」

「確かに六角さんの親類縁者に何も謝らないまま葬儀を行い安らかに眠らせると言うのは図々しいかもしれません。でも六角さんの親類縁者の皆さんだって真二さんや娘の光江さんを探そうとしていたかもしれませんよ」

「あっ……」


 今の今まで全くその可能性に気付いていなかった。無宿人同然になった父はともかく、私の住所は武川さんに拾われてから七年間変わってないし、双海などと言う珍しい姓である以上探すのはさほど難しくない。

 責任を問うにせよそうでないにせよ、探すのは比較的簡単だったはずだ。それなのに六角さんの親類縁者を名乗る人物は、今の今まで一人たりとも私の前に現れていない。


「あるいは既に真二さんや光江さんの身の上を知り、もうこれ以上贖罪を求める必要はないと判断したのかもしれません」

「私は」

「私がもし同じ状況に追い込まれたら、やって行ける自信なんてまるでありません」

「私だって全くありませんでしたよ、でも今は違います。ちゃんとお金も稼げます。もちろん金銭的な償いだけしてもだめなんでしょうが、誠意を見せると言う点では私になりに勤勉に働いている所を示すのが必要だとも思いまして」

「そうですよね。ところで真二さんの遺品なんですが」

「何があったんです?」

「はい、お仲間さんが持っててくれて。カバンにタオル、衣類や財布……それとお茶のペットボトル……」

「全部三村さんが処分してください」

「本当にいいんですか」


 予想通り、出所後父はあちこちの簡易宿泊所をさまよい歩き日雇いの職にありついて口に糊していたらしい。そんな人間の遺品だなんて言われても、どんな物があるかはまだともかく数は完全に高が知れていた。


 そして案の定、ろくな物はなかった。財布の中にはお札は一枚もなく、硬貨を全部合わせて二千円ぐらいらしい。それでカバンやその他も安物ばかりだったそうだ。本当にいいんですかと言われても、実際どうでも良かった。


「それではお茶のペットボトル以外は私の方で」

「ペットボトル?」

「はい、あの時私とこの子を救ってくれたのがそのペットボトルで」


 他人から見ればどれだけの価値があるかわからない物でも、本人にとっては宝物なのだと言う事は山とある。

 話によれば、あの時父は簡易宿泊所の仲間に頼まれて近所の自販機に買いに行き、その際に事件に出くわして持っていたペットボトルを五味啓太郎に投げ付けたそうだ。

 だが逆に言えばそのペットボトルが父の命を縮めたとも言える。


「それと……気になる物がひとつ」

「何ですか」

「カバンの中に万華鏡が入ってたんです」


 万華鏡に最後に触ったのは母さんが亡くなる一年前、五歳の時だった。

 幼稚園においてあった万華鏡を何となくつかみ、何となく覗いてそれっきりだった。回して楽しむ物だと言う事を知らず、また先生を含む他の誰にも聞こうとせず、幼稚園の時に触ったそれが万華鏡と言う物体である事を知ったのは中学生になってからだった。

 私の万華鏡と言う物体に対しての歴史は、それがほぼ全てだった。


 未練がましく私との思い出を引きずる品としては不適当な万華鏡などを、なぜそんな状況で持っていたのだろうか。刑務作業で作ったのをそのまま持っていたのか、出所後の就労先での報酬として受け取ったのか。


「そんな物をどうして」

「わかりません、でもなぜか気になってしまって」

「模様とか中身は」

「ごく普通ですけど。それで結構新しそうでしたよ」

「私には万華鏡と言う物には何の思い入れもありません。どうぞご自由に」

「本当にいいんですか」

「ええ」

「では明日もし時間があれば主人と共にそちらにおうかがいさせていただきたいのですが」

「どうぞ、明日も休みなので」

「わかりました。では明日そちらにおうかがいします」


 私は通話の切れたスマホを床に置きながら、深く溜め息を吐いた。




(私はこの数年、目の前のお客様の事だけを考えて過ごして来た。それがプロである者の使命だと思っていた。だからこそ123のナンバーワンホステスになる事ができた。

 でも実際には、逃げていただけだったのかもしれない)




 振り返ってみると、殺人犯の娘と言う理由で私が辱めを受けた事がどれだけあっただろうか。高校中退後すぐ親族の家に引き取られ、引き取り先の夫婦からはいい意味で機械的に扱われ、誰も知る人のいない町で何となくその他大勢になり、それからひと月もしない内に武川さんに拾われて現在のマンションに入り込み、一年半はコンビニのバイト、その後はずっと123のホステスとして生きて来た。


 123では無論、コンビニでも殺人犯の娘云々と言う差別を受けた事はなかった。最初の頃に店長からなぜまた高校を中退したんだと聞かれたものの、諸事情ありましてと言う武川さんの言葉でその話はしまいになり、それからはただのアルバイト店員だった。


 私が殺人犯の娘である事を知っている人間が、武川さんを除いて何人いるかわからない。三村さんや五味美奈子さんと言った双海真二殺害事件に関わっている人たちを除けば、久美にも市川さんにも桃井さんにも明かしていない。

 あるいは桃井さんは私の身元引受人である武川さんから聞かされているかもしれないが、だとしてもその二人だけである。

 私の実家の近所の人や学校の同級生その他は知っているんだろうけど、そういう人たちがその事を言い触らして何かいい事があるのだろうか。




 八時間睡眠で午前六時起床と言う全くホステスらしからぬ朝を迎えた私は、二月にふさわしい弱々しい日の光を浴びながら呼吸を整えた。

 全く、太陽って奴はこちらの都合なんか知らずに照り続ける。いいご身分だと思わない訳ではないが、実際にいいご身分なのだから仕方がない。じゃなかったらお天道様なんて言う御大層な言い方はしない。太陽がなければ人類、いや地球の生物なんて一瞬にして滅んでしまうだろう。


「今日の朝ご飯は何にしようか……」


 そう言いながら冷蔵庫を漁ったが、野菜とハムぐらいしかない。米はたくさんあるが、後は出来合いのおかずばかりだ。

 まあ、朝食を普通に取る事さえまれな生活をしていれば冷蔵庫に食材が溢れかえっている方がかえって奇妙なのだが、それにしても貧相だ。料理はしないだけでできるつもりではあるし、実際野菜とハムを適当に切って調味料を勘任せで混ぜて作った炒め物は我ながら結構いけると思うし、それにインスタントの味噌汁と出来合いの昆布の煮物、ご飯一膳と言う組み合わせは決して悪くないと思う。でも、だからと言って気分が晴れる物でもない。


 今日、三村さんが再び家に来る。遺体の引き取りと葬儀の日程についての打ち合わせを行う予定だ。

 これで双海真二と言う人間は完全に過去の人となり、そして私の人生から何の関係もない人間になる。残る物があるとすれば、ローンを払い終わって一年後に主が逮捕された家だけだ。

 私はそんな所に全く未練はないので相続が終わり次第即売却する予定だが、それが終わればいよいよ全てが消える。主がどんなに悪辣であっても、九年間放置状態だったと言う問題はあるにせよ、いや実際は管理人と言う名の元に独り身の大叔父が生活していたのでそうとは言えないが、平屋一戸建てとは言え立派な家屋である事に変わりはない。なんなら大叔父が死ぬまではただ同然で貸し付け、その後に売ると言う形を取ってもいい。


 食器を片付けて見慣れない朝のニュース番組を見ているとスマホが鳴り響いた。

 三村さんからだった、十時半に来るらしい。


 時計が九時を指している事を確認した私はジャージとスニーカーに着替え、いつも通りのコースを走り回る事にした。そのランニングに深い意味はない。習慣と言う物ですらなく、あえて言えば現実逃避であり、正確に言えば居ても立っても居られないと言う所だ。


 どんな顔をして会えばいいのかわからなかった、昨日は不意打ちでありほぼ素の状態で会う事が許されたが今日はそうも行かない。

 コンビニのバイトを含めれば接客業を八年以上やって来ておいて、人との接し方に困るなどお前は阿呆なのかと言われても言い訳ができない話だが、仕事とプライベートは全くの別物であり、これまで殺人犯の娘と言う理由を楯に人付き合いを避けて来た私はプライベートでの他人との付き合いがとんとない。同年代の友人を無理矢理探せば久美ぐらいだが、彼女とて気を許せる仲ではない。


 雑念を抱えながら何かを行うと碌な事にならないのは世の常である。その日のランニングは初っ端からオーバーペースになり、中盤には早くもスローダウンしてしまい、しまいには完全に息が上がっていた。

 全く、ここまでひどいのは今までのランニングで初めてだ。原因がはっきりしている事は救いとは言え、こんな調子で今後大丈夫なのか不安にならざるを得ない。

 早く家に帰ってLWYのスポーツドリンクでも飲んでゆっくりしようと思いながら重い足を引きずっていると、突如視界に思わぬ顔が入って来た。


「光江さん」

「三村さん…えっと…」


 三村さんだ。あわてて時計を見たがまだ十時になったばかりだ。


「ごめんなさい、驚かせちゃいましたか」

「いえ……それにしても随分お早いですね」

「すみません、私って人を待たせるのが嫌でして……」


 実に真面目でいい人だなと思うが、同時に十時半のつもりで待っていた人間の事も考えてもらいたいなとも思う。

 こんなジャージ姿で遺体の引き取りなんて言う御大層な交渉ができるはずもない。これから帰ってLWYのスポーツドリンクを飲んで着替えて、できればシャワーも浴びたい所だった。人と会うからにはそれぐらいするのが最低限のマナーと言う物だろう。三村さんがそれを理解してくれない人だとは思えないが、だからと言ってその為に他人を待たせるのはこっちの方が心苦しい。


「待つのは平気なんですか」

「はい平気です」

「それじゃとりあえず着替えてシャワーも浴びたいんでしばらく待ってくれますか」


 結局、都合二十分近く私は三村さんを待たせてしまった。



 それで打ち合わせは一時間で終わった。いや、打ち合わせとは名ばかりで、ほぼ三村さんの細やかな提案にはいそうですねとかじゃあそれでとかうなずくだけだった。あさって正式に三村さんが父の遺体を受け取り、木曜日に葬儀を行う事になった。

 自分の殺人犯の娘及び殺人被害者の娘としていかに振る舞うべきかと言う心配は、ひとまず杞憂に終わった。

 だが今後、三村さんの様にこっちの事情を斟酌した上で一方的に引っ張ってくれる人間ばかりと出会うとは限らない。


 殺人犯の娘と言うだけで大半の人間から軽蔑または敬遠され、事情を分かってくれる人間はなるべく中立的に付き合おうとして却って悪目立ちをさせてしまい、積極的に親しくしようとする人間は故意であるなしを問わず自分をいい人間だと思わせたいと言う欲がある物、もし欲がなければそれは神か仏だ。

 これまではそうやってパターン化ができた分楽だったが、これからはそうも行かなくなる。マイナス1にプラス1を加えたからゼロになるなんていう単純な計算は通用しない。


「独身が楽なんてでたらめ!」


 ファッション雑誌に載っているそんな結婚相談所の出会い広告に向けて、私は心の中で目一杯大きく口を開け舌を伸ばした。

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