ホステスになった訳

「忘れました」

「本当にですか」

「本当です」


 実際、そうとしか言いようがない。折角の書き入れ時を邪魔された苛立ちと相まって私はかなり不機嫌だった。


「出所して以降は」

「冗談抜きでこれが初対面です。帰っていいですか」

「そんな事言われても」


 そんな事言われてもはこっちのセリフだ、いつまでもこんな男に時間を取られたくない、こっちは早く戻ってお店で待っているお客さんの相手をしなければならない。


「その事なんですがお嬢さん、いや双海光江さんの務めているクラブのママさんから、光江さんの今日のお仕事はおしまいと言う事になっていまして」

「そうですか」


 この霊安室で横になっている人間の身分を知ればそういう事にするのが当たり前の処置だろう。でも私は素直に従う気になれない。


「あの、本当に覚えがないと」

「はいありません。と言うかデータベースにあるんじゃないですか」

「それはまあそうですけど……でも親族として悲しいとか何とか」


 警察官は随分としつこい。


「全くありませんよ!そう言っても悲しすぎて思い出すのも嫌だって解釈するんでしょうけどね!」

「あっいえ……結構です。お帰り下さい」


 苛立ちが頂点に達していた私は警察官に向かって揚げ足取りその物の文句をぶつけ、肩をいからせながら警察署を後にした。




「とにかく三日ほど休んで落ち着きなさい光江ちゃん、これは私の命令よ」




 と武川さんに言われても、私は全然従う気になれない。仕方がなく私物だけ取りに帰ってマンションに戻ったけど、全く休む気になれない。


(私がどういう風に死ぬかはわかりゃしないけど、あの男はずいぶんとまともな死に方をしたじゃない。因果応報とか言うけど、少なくとも自分の死を数十人の人間が追いかけて調べてくれるんだからいいご身分よ)


 双海真二、住所不定無職。享年五十三歳。それが私が先程見聞して来た死体の経歴。

 私と同じ姓。鈴木とか田中とかならともかく、双海なんて言う姓はそうそうない。何か関係があるのかと考えるのが自然な話。


 実際、腹立たしい事にあの双海真二って男は私と深いつながりを持っている。


 住所不定無職、なんて言う嫌な響きだろう。


 住所不定の人間が無職で暮らせる訳がない。実際には日雇いの職業にありつきながらネットカフェや簡易宿泊所を転々としているか、さもなくば大っぴらには言えない仕事をしているかのどちらかだろう。

 前者はまだいいとしても、後者とは絶対に関わりたくない。



 そして、そんな存在から供給された精子を受け取って生まれたのが私なのである。








 職業、地方公務員。趣味、ゴルフ。ただし道具は一番の安物。酒、毎日缶ビール一本。ギャンブル、年に一回ダービーを千円だけ。



 そんな人間がどうして住所不定無職などと言う身分に落ちぶれたのか、それは九年前の事。




 九年前のある夏の日、この男はこれが今生の別れだなとか何とか唐突に言って私の元を去って行き、そして次の日の新聞を占拠した。








「警察は住所不定無職の六角平太さん(28)を殺害したとして市役所勤務の双海真二容疑者(44)を殺人容疑で逮捕した。警察の調べによれば容疑を認めているとの事。」


 犯人が分かる前に行う自首の方が犯人が分かってから行う出頭より罪が軽いとかは良く聞くが、いずれにせよその記事は私の心と生活に計り知れない打撃を与えた。



 実際問題、他の条件が全て同じである二人の人間がいて片方が地方公務員でもう片方が殺人犯であればどう考えても地方公務員の方を選ぶだろう、私だってそうする。と言うか殺人犯と天秤にかけて弾かれるような人間がどんな物か私には及びもつかない。




 そんな存在が唯一の身内になってしまった私が、おめおめと学校に行けるはずもない。いくらお前は関係ないだろとか言うもっともらしい理屈を並べ立てられた所で、私は既に日の当たる所を生きられなくなっていた。

 それに実際問題、お金が入らないとなると高校の授業料も払えない。そして卒業したとしても殺人犯の娘を雇う企業なんかまずない、ましてや公務員など論外だろう。


 一年前まで抱いていた私の夢は、その夢を寄越した人間自らの手でこの時粉砕された。


 残っていた財産は母の母の弟とか言う見知らぬ人間に管理と言う名の横取りをされ、私は十八年間暮らしてきた町から出て行かねばならなくなり、そしてその為にひし形の底辺の状況からの就職活動を始めさせられた。

 もし武川さんに巡り合っていなければ私は今頃何をしていたのか、考えるだけで恐ろしい。




 双海真二が懲役五年の刑を受けたと言う報を聞いたのは、私が本来ならば二学期の中間テストを受けている頃だった。武川さんはずいぶんと軽かったとか情状酌量が認められたとか言ってくれたけど、それは私の殺人犯の娘と言う立場が確定してしまったと言う事でもある。

 元から無罪になるだなんて欠片も期待していなかったが、いざ定まってみると改めて絶望的な気持ちになった。どうして六角平太と言う、磨けば光り輝きそうな顔をした人間が死なねばならなかったのか、殺されねばならなかったのか。


 その時私は、双海真二が殺したその男の写真を見るだけで絶望できた。



 

「連絡はまるで取っていなかったのね」




 あの男が出所して来たのは四年前のある日、その事は武川さんからの電話で知らされた。

「それで今日は何時ごろから」

 私の労働時間は基本的に午後六時~深夜零時半ぐらい。


 と言う訳で表面的な労働時間は休みが週一日として週三十九時間半だけど、常連のお客様への贈り物やメールのチェック、衣装やアクセサリーなどの買い物の時間は入っていない。

 それを含めれば一週間の労働時間は本気で倍ぐらいになる。

 酒を飲ませているだけでお金が入る様な簡単な世界じゃないのだ。


 そしてこの勤務時間が削られる事は給料が削られる事に等しい。


 仕事中毒とかそんなにお金が好きなのかとか言われて否定する気はないが、もし武川さんが私があんな男の事を気にかけているのかと考えていたのならば余計なお世話だった。

「いつも通り零時半までね」

 そういう私の長々と理屈をこねくり回しているようで実際は単純で子供染みた本音が込められた仏頂面な文句を武川さんはあっさり飲み込み、そしてその日も私はいつも通りに務め上げようとした。


 それで六年間もホステスをやっていれば当たり前の話だけど、嫌な客にぶち当たる事もある。

 よりによってその日、今までの六年間で一番嫌な客に当たった。お金払いその物は良くて酔っても体を触って来るような事はないんだけど、その代わりと言うべきか話が長い。


 まあそれはいいんだけど、よくないのは話の中身。


「敷かれたレールの上をたどって行く人生なんて嫌だ、若い時はみんなそんな事を言うもんだよ。それでいろいろジタバタしてあちこちさまよい歩き、そしてしまいにゃ結局どこかに収まっちゃう物だろ?

 故意でないにせよあるにせよ、レールを外れちまった人間相応のレールって奴が存在するんじゃねえかなって思う訳なんだよ俺はね……何、なんか俺まずい事言っちまった?いや悪いね、俺も昔は色々やって来たからさ、その話が嫌ならもうやめるよ俺、悪いねお嬢ちゃん」


 三十分でその話はもう五回も聞かされている。今更やめられてももう遅い、十分に気を悪くしてしまっている。

 生きる為に不機嫌さを覆い隠してはいたつもりだったけど、それでもなお顔に出てしまったらしい。


 私だって本音を言えばホステスになんかなるつもりはなかった。と言うか、小学生の時に将来の夢はホステスだなんて書く子がいたら親の見識を疑いたくなる。

 私は自分が通ると考えていたレールを、その上世間的に言ってかなり安全で王道とも言うべきレールを外れた結果こういう所に流れ着いた人間。


「ちょっと光江、顔が暗いわよ」


 一緒の席にいた久美からそんな声をかけられた時私は人目構わずえっと言う声を上げてしまった。

 その声にはお客様や久美をひるませ店中の視線を集めさせてしまうほどの破壊力があったようで、我ながら全く恥ずかしい思い出である。


「光江……?」

「大変申し訳ありませんでした、お飲み物の方は……」

「あっ、もしかして俺地雷踏ん付けちまったって奴……すまねえなお嬢ちゃん、ここ白ワイン二本追加で」

「ああ、はい……」


 その時誰かがそうやって相手の気持ちを揺れ動かしてさらに注文を稼ごうとするなんて光江は流石うちのエースよねって言って、後で武川さんに口さがないわよって叱られてたけど否定する気には全くなれない。


 看板の後、失態の詫びを入れようと下を向きながら足を運んで来た私を武川さんは温かく迎えてくれた。


「消費者様の財布を開けさせるのが私たちの、と言うか商売人全般の仕事よ。偶然にせよ何にせよそれを成し遂げるのは立派な仕事。もちろん何度もああいう真似をやらかすのは良くないけれど、いつも真面目なあなたならばそれほど大過はないでしょうからね。まあね、不調であっても不調なりにできる事はあるのよ、世の中ね。私だって毎日毎日絶好調とは行かない物よ、ここに来るお客さんだってしかりでしょ?」

「はい、でも不調であるお客さんを好調にするのが私たちの」

「あなたも人間でしょ?その事が分からないような人はここに来ても何の意味もないわよ。まあ、私も私で少し甘く見ていた点はあったから今日はこれでおしまい」

 お客さんがクラブのホステスと言う物に期待するのは、日頃のストレスを受け止めて吸い上げると言う役目。

 そういう別世界の住人であるはずの私が隠し切れないほどのいらつきを抱え込んでお客様に伝染させては問題だ。こんなどうでもいいはずの事で動揺するだなど何がエースだか、その日はあらゆる意味で最悪の一日だった。








 ――――にしても金曜日と土曜日が休みだなんて、一体何か月ぶりだろうか。

 仕事もせずに家に籠っているとそれだけで時間を無駄にしているような気分になって来る。今度の日曜日はひと月前から休みと言われているからある程度予定は出来ていたとしても、不意の休日ってのは不意の仕事以上にペースが狂う。


「あら光江ちゃん、今日はお休み?それでお買い物?」

「はい。で、今日は何が安いんでしたっけ?確かしいたけとさやえんどうだったそうですけど」

「そうなのよ、今から行こうと思ってるんだけど一緒に行く?」

「わかりました、それじゃ」

「あっゴメン用意とか整えて来るからちょっと待って」


 桃井さんは相変わらずだ。私が唐突に休みになったイライラをごまかす為だけに買い物に出て自炊しようとしていると聞いて用意もまともにできてないのに乗り気でそんな事を言って、結局十分以上私を待たせた。


「お待たせ、さあ行きましょ。年寄りって昔から近ごろの若い子はってよく言うけど、光江ちゃんを見てから言いなさいって思うのよね。まあ私も立派な年寄りだけど、年寄りだから正しくて立派だなんて言うのって固定観念って奴よね」


 葬儀だ何だっていろいろな話がおそらく私の所に回って来るんだろうけれど、正直耳を貸したくない。

 今現在の私にホステスと言う仕事を軽蔑するつもりはない、でも高校生の時は別だった。

 上っ面だけを飾って甘ったるい言葉で男たちをとろかして財布の中身を搾取している、そういう世の中の大半の人間が抱くのと同じような偏見を抱いていた。十年前の私が今の私を見た所で、少なくとも尊敬はしないだろう。


「あの、桃井さんって兄弟とかいるんですか?」

「年子の姉さんが一人いたんだけど、二年前に死んじゃってね。両親はもう十年以上前に死んじゃったわ」

「二年前って、その時言ってくれれば手伝ったのに」

「ごめんね、姉さんの旦那の親族の人がいろいろ丁重にやってくれたから私さえもあんまり出番がなくてさ、楽できたからいいんだけどね」

「やっぱり悲しかったですか」

「そりゃそうよ。でもね、立派な人生を送って来たから悔いはないわって姉さんも言ってたし。いわゆるピンピンコロリってやつだったから死に顔も安らかで」

 死ぬ間際まで元気いっぱいで、かつ病気に苦しむ時間もごくわずか。理想的な死に方として語られるそれを成し遂げた桃井さんの姉って言う人は素晴らしいと思う。

「でもまあ苦労もあったのよ、姉さんの亭主の弟って言うのがまともに仕事もしないで競馬ばっかりやってて、姉さんが結婚するや私の両親にまでお金をたかろうとしたのよ。それである日、いい加減にしろって言って姉さんがその義弟を引っぱたいたのよ。それで馬券売り場近くのアパートの契約を取って来て、これ以上はびた一文たりとも出しませんからってきっぱり言ってやったのよ」


 その話が私を安堵させた事を、多分桃井さんは知らない。


「悪い事は悪いって言わないとダメですよね」

「そうよね、それを怠ったら本人の為にさえならないわよ。結局その人、七十越した今でも仕事も含めて馬券売り場に引っ付きながらずっと一人で暮らしてるらしいのよ」

「それはそれで立派ですよね」

「姉さんも死んだら一応墓に入れてあげるって遺言はしてるし、そして甥っ子もそれは守ってあげるって言ってるし。まあね、姉さんの旦那とその実弟を見ればわかるように兄弟姉妹なんてのは似ない物でね。いい加減な私に比べて随分姉さんは真面目でね」

「桃井さんがいい加減には見えないんですが」

「姉さんからはしょっちゅう言われてたわ、実際自分でもそう思うし、まあだからこそ姉さんより長生きしちゃっているのかもしれないけどね。それで甥っ子と姪っ子も随分違うのよね。二卵性双生児って奴なんだけどね、一応姪っ子の方がお姉さんだけど昔っから気まぐれな子でね」


 私にこんな思い出話を語る事が出来る時間が来るのだろうか。

 こんな仕事をしているとなかなか本気の恋愛に入る事が出来なくなり、また本気の恋愛に入ったとしてもホステスと言う仕事に対する社会的信用のなさから親世代に受けが悪く、結果結婚は遠くなってしまうとかよく聞くが、それ以上に殺人犯の娘と言う社会的に覆し難い負債を背負っている私はまず結婚などできないだろう。


 結局、私はいつもの三割引きの値段が付いていたしいたけとさやえんどうにこれまた安売りの鶏肉とにんじんにたまねぎ、そしてミネラルウォーターを持ってレジに向かい、千円札とポイントカードを差し出した。

 そしてそのままお釣りをもらってそそくさとレジを通り過ぎようとした刹那、バッグにしまい込んでいたスマホがデフォルトの着信音を上げた。


「すみません、私です……」


 まったく、何でこんな時に限って鳴り響くのか。私は周囲の人たちに平謝りを繰り返しながらレジを通り抜け、買い物かごの中身を雑に買い物袋に突っ込みながらスマホを手に取って着信音を止めて耳に当てた。


「あっはい、今から帰る所なんで……」


 訪問客があるらしい。

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