真面目なホステス

 私の母さんは私が六歳の時に死んだ、そのせいで家事の一切は私がやらなきゃならなかったからそういう技量は身についている。



 でも、技量があった所で心根まで主婦になれる物じゃない。地位は人を作るとか言うけど、私は小学校から十幾年間家の中で主婦業をやっていたって言うのにそういう自覚は全然湧かなかった。

 そしてそのせいで十年以上部活もまともにできず、友達も片手の指ぐらいしかいなかった。その件で母さんを恨んだ事は一度や二度じゃない。


 勉強は人並み以上にできていたから先生たちからは受けが良かったけど、私はそれより対等に付き合える友達が欲しかった。たまに友達がいた所で、私を頼って来ると言うタイプの人間ばかり。



「素直に認めちゃえばいいのに、本当ミツママって強情だよねー」



 ミツママってのは中学一年の時に付けられた私のあだ名。みつ豆って何って言ったら違うよ光江ってお母さんって感じだからさとか言われて、私がどんなに否定しても誰も同意してくれずそのまま定着してしまった。


 そのあだ名を名づけた同級生が今何をしているのか私は知らない、向こうは気になっているのかもしれないけど。



 もしあの時ああしていればとかああしていなかったらとか言う繰り言は人生に付き物だけど、もし私が十二歳の時中高一貫の女子校に入っていなければどうなっただろうか。

 同じ年頃の男子たちに囲まれて私は今とは違った形の人間になっていたかもしれないし、なっていなかったかもしれない。

 そんなのは誰でも考える事でもあり、誰にでも起こりうる事態でもある。そしてやはり、誰にでもあるような忘れてしまいたい過去もあった。



 特に思い出したくないのは、進路指導の事だ。十七歳と言う多感を極める年頃とは言えその年齢なりに純粋だった私は、今となっては思い出すだけで顔色が真っ赤に変えるほどの破壊力を持ったとんでもない言葉を口から吐き出してしまっていた。




「ああやっぱりねえ」

「ミツママならばそうかなと思ったんだけど」




 そしてその判断に対して疑問の色を呈した人間は一人もいなかった。そういう筋の物言いはして来なかったつもりなのに、私にはいつの間にかそういうイメージがくっついていたらしい。

 マイナスのイメージではなかったにせよ、そうやって自分の思っている自分と離れたイメージが先行するのは嫌、まあそんなのはどうでも良かったんだけど。








「今月も随分と売り上げを稼いだものね、あなたを雇っていて本当に良かったわ」


 私が真面目に働くのがご飯を食べる為でないとすれば、この人の為だろうか。


 卒業まであと半年の所で高校を中退した私を引き取ったのは、このクラブのママである武川さん。

 武川さんは私が荒れようとして行く中、ただ一人真摯に接してくれた人。


 今私があのマンションに住む事が出来ているのも全て武川さんのおかげ。もちろん、高校を中退した十八の娘を即酒を飲ませるクラブのホステスにさせる訳には行かない。

 だから武川さんは私が二十歳になるまでの間コンビニ店員のバイトを斡旋してくれた。冗談抜きでこの人に捨てられたら生きて行けないと言う思いがあったから私は懸命に働き、その結果かどうかはともかく二年後に私が二十歳になるやすぐホステスとして雇ってくれた。


「まあぶっちゃけて言うとね、最初にあなたを保護した時はちょっと下心があったの。あなたの真面目さをうまく生かして立派なホステスに仕立て上げれば、うちの店も繁盛するかもしれないって言うね」


 武川さんはある時、私に給料袋を手渡ししながらそんな事を呟いて来た。


 だいたい、どこの企業だって儲ける為に動いている物だし、そのためにはいい人材を集めて育てるのは当たり前の事。

 私に武川さんが言う所の立派なホステスになれる下地があったとは未だに信じられないけど、私の受け取った給料袋の中に少なくとも百人の福沢諭吉さんがいると言う事を知った時の衝撃と重みは今でも忘れられない。

 お金の重みを生身で感じてこそ大事にする気も起きると言う武川さんのポリシーだそうなんだけど、そのせいかうちのクラブはいつも現金手払い。


 同僚の絵里とかは不満を口にしてるけど、今の所このクラブで売り上げ一位である私はこれ以外の方法で給料を受け取った事ない以上正直どうとも思わない、そしてその事を楯に武川さんはやり方を変えようとしない。

 口座ならば自分で作ればいいと言うと言う事なのだろうが、そのせいかクラブから八分の所にある銀行には武川さんを含め私たちの口座がずらりと並んでいる。そして武川さんはいつもその銀行のお偉方が来ると自分が貼り付いて接客を担当しものすごい額の現金を使わせている。そして私たちは給料としてもらったお金を預金としてその銀行に預ける、そうなれば当然銀行の信用は上がる。

 いわゆる持ちつ持たれつの関係と言う物かもしれない。

 それでありながら直接口座に振り込まさせないのは自分のポリシーを守ると共にそういう事を言うのならば余所に乗り換えてもいいんですよと言う一種の駆け引きなのだろう。

 行き場をなくした私を拾ってくれたように情に溢れていると言うだけでなく随分と優秀な経営者であり、私もああいう強かさは見習いたい。



「私はねえ、正直なんて言うかへこたれちゃったって言うか、一応短大に入ってはみたんだけどさ。一年生から就職云々言われて正直疲れ果てちゃったって言うかさあ、私なりに目一杯頑張ってやっと短大に入ったのに学生生活を楽しむ暇もなしって、正直気持ちが折れっちゃったって言うか」


 久美にクラブに勤める事になった理由を聞いたらそんな言葉をこぼしていた。それでもホステスになると決めてからは親に申し訳ないと言う事からか学費も含めてほとんどバイトで稼いでいたから柔弱って事はないんだろうけど、どうしても頼りなさを感じてしまう。

 光江は大学とか行きたくなかったのと聞かれた時は首を横に振ったけど、本音を言えばそんな事どうでも良かった。今の私の夢は武川さんを日本一のクラブのママにする事であり、私がその日本一のクラブのエースになる事だから。



「確かにまじめに貯蓄を行うのはいい事よ、でも必要な分のお金は使わないと」


 武川さんからそう釘を刺された事もあるぐらい、私はお金を使っていない。


 美容室や衣服にアクセサリー、プレゼントや化粧品等々ホステスと言う職業上必要な物にはお金を注ぎ込んでいるけど、それ以外は衣食住ともかなり削っている。もっといい物を食べなさいとか言われても栄養のバランスの方が大事でしてでごまかして来た。

 酒も仕事以外では吞まないし、タバコだって一本たりとも吸わない。男遊びもしないし、ギャンブルにもジャンボ宝くじぐらいしか手を出さない。

 趣味はと言われるとランニングと答えているが、そのランニングに対しても全然お金は使っていないし元より健康維持以上の目的はない。


「もし私が何か趣味を持てって言ったらあなたどうする?」

「へ?」

「………その反応じゃまるで考えてなかったみたいね。あまり一人の人間、一つの目的に寄りかかると危ないわよ」

「やっぱりお客様との会話を広げるためにも何か」

「あのねえ、この年まで独り身の私が言うのも何だけどね、光江ちゃんってホステスにしておくにはもったいないぐらい真面目で純粋な子だから悪い男に引っかかっちゃいそうで心配で……」


 もちろん武川さんは私の給料を知っている。そういう人間が私の生活ぶりを知ったら給料の大半が一体どこに消えているのかと疑いたくなるのもお説ごもっともだろう。


 だが、自分の中でのその給料の使い道は既に決まっている。


「だからこそ休みの日は朝にランニングをして昼間からはずっと家の中で寝てばっかりの一日を送ってます」

「嘘は吐いていないようね」


 そう言いながら武川さんは再来週の予定表を出して来た。


 月・水・金曜日が休みと言う大盤振る舞いだ。


「あなたは少しゆっくり休むべきよ。何なら火曜と木曜も有給休暇を使って」

「いやその、そんな」

「あなたって本当にずるい人よね。そんな素敵な人を独り占めしようだなんて」

「恋愛とかそんなじゃないんです!素敵な人でもないんです」

「あらそう……?ちょっとうちの店の信用を傷付けないでよ、あなた看板なんだから」

「断じて悪いお客さんでもありません!」

「いやねもう、あなたの事をそんなのに引っかかるほどバカだとは思ってないわよ。でもね、私はどうしても知りたいの。ママとしてお店の子の悩みを解決してあげる事は重要な仕事じゃない。お願いだから私に仕事をやらせてくれないかなって思ってるんだけどー、それもだめなの?」

「ごめんなさい、そればっかりは……」


 私がだんだんむきになり声のトーンと音量を上げる中、武川さんはあくまでも自分のペースを崩そうとしない。そうやって穏やかかつ淡々と外堀を埋めて行くその物言いは私も身に付けなければいけない技だと思う。

 でも私だって一人の人間であり嫌な物はある。例えそれが私を拾ってくれた恩人でも、主張すべきことは主張したい。

 二十年間母親なしで過ごして来た私は、母のぬくもりなんて忘れていた。武川さんに拾われてからもこうやって精神的にも肉体的にも甘える事はほとんどなく、精一杯肩肘張って過ごして来た。それが私の役目であり、義務だと思っている。


 確かに私は武川さんの心配の通り悪い男に引っかかっているのかも知れない、しかしそれでも構わなかった。

 その人の所在を自分なりに調べてみようとも思った。図書館に行って昔の新聞も調べてみた、でも今の住所はわからなかった。

 テレビの中で元気にはしゃぎ回るアイドルたちのようにこっちは向こうを知っていても向こうはこっちを知らない。知りたくもないかもしれない。


 と言うより、知りようもないだろう。



 ――――その男は既にこの世を去っているのだから。




 住所不定無職、しかも九年前に死亡。それが私が探している男。



 もちろん本人はとっくの昔に埋葬されているから親族を探すしかないけれど、もし積極的にせよ消極的にせよ関わりたいと考える親族がいれば住所不定になんかならないだろう。

 そんな男なんかに振り回されて人生嫌にならないのかと考えた事もある、だけどその考えに及んだ自分がとても無責任で下賤な人間に思えて来てすぐにその考えは振り払った。



「今日はまた随分とはきはきしてるねえ、それでこそ光江ちゃんだよ。ところでちょっと気になってるんだけどさ、ホステスって儲かるもんなの?光江ちゃんみたいな売れっ子なら給料どっさりもらってるんじゃないの?」

「それはまあ、皆様のお陰で」

「ほれ見ろ、実るほど首を垂れる稲穂かなって言うだろ?どんなに売れても油断をしちゃいけませんよって言う事なんだよ。その姿勢に敬意を表して、スコッチちょうだい」


 市川さんは相変わらず景気よく財布を開けてくれる。

 この人には本当に頭が上がらない、一体どれだけのお金をもらったのか今度計算してみたい。一応こまめにプレゼントも送って来たけど、今度は市川さん本人だけじゃなく奥様にも何かを用意してあげたい。



「光江ちゃん、電話。警察の人からだけど」



 そう思っていると武川さんが据え置き電話の子機を持って来た。


 まったく、これからが本番のはずの夜九時に一体警察が何の用件なのか。私は笑い顔を崩さぬままに子機を受け取り耳を当てた。

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