醜い万華鏡
@wizard-T
ホステスの一日
「光江ちゃんはいつも真面目よねえ」
私はそんなに真面目なつもりはない、久美が怠惰なだけだ。
そんな調子だから同期の私に差を付けられてるって言うのに久美はまるで気にしていない。
そんなに金銭を溜めて何をしたいのか、そんな陰口もしょっちゅう耳にする。
実際、中途半端な簿記の知識で去年の年収を計算してみたら経費を差し引いても700万円を超えていた。
私がこんなに稼いでいると聞いたら世の人間はどう思うだろうか。羨ましいとか、世の中不公平だよなとか言われるか、いやそれならばまだいい。
降水確率10%なのに濃い曇天なのをいい事に、私は色の褪めたジャージを身に纏いそのジャージにふさわしい安物のスニーカーを履いて、やたらと収納が多い事と風呂とトイレが別な事以外特段取り柄のない三階建て2LDKのマンションから飛び出して走り出した。
こんな事をしている私の姿を見て私の職業を当てられる人間がいたら超能力者だと思う。
「お互い体が資本だからねえ、私も体力は欲しいんだけどねえ」
久美はマンションの周りを走り回っている私の方を眺めながら、朝の八時だって言うのに顔を飾りたて派手派手しい服を身に纏っている。
休日と言う事を差し引いてもそっちの方が私たちとしては正しい姿なのだろうが、私はこのランニングをやめる気はない。
そして休日とは言ったけど、日曜日であるとは言っていない。
例えば今日は水曜日。私の休日はいつなのか、それを知らされるのは早くてひと月前、たいていは一週間前。世間のサラリーマン様がやっと一週間の労働から解放されるぜと安堵する金曜日は、私にとってほぼ間違いなく出勤日。
そんな生活を五年以上続けているから、別に苦でも何でもないんだけれど。
私がマンションの敷地を飛び出すや否や、管理人の桃井さんが久美に向かって朗らかな笑みを浮かべながら頭を下げていた。
声は聞こえなかったが、おそらくおはようございますと言ったのだろう。
私のランニングコースは決まっている。マンションを一回りしてから徒歩十五分の最寄駅まで行って帰っての都合一時間相当。
正直このランニングはいい事ずくめ。まず第一に体が鍛えられるし、第二にお金がかからない。一回に付き500ミリペットボトル一本分のスポーツドリンクだけで十分な運動ができる。さすがに夏場とかは二本だけど、それだって一回三百円ぐらい。同じ体を動かすにしたって、ジムとかに通って毎回毎回数千数万単位のお金を注ぎ込むよりずっと経済的。
スニーカーやジャージの値段?両方合わせてもジム一回分ぐらいの値段だけど何か?
何より有り難いのは、このランニング中に出会うお年寄りの皆さん。
最初の頃は平日の昼間から走り回っている私を不審がる人も多かったけど、今となっては気軽に声をかけてくれるようになった、もっとも全員が全員そうと言う訳ではないけれど。
その中でもマンションの管理人の桃井って言うおばあさんなんか最たる物で、ランニングから帰って来ると待ち構えていたかのようにお茶でも飲みなさいと誘って来る。私が断るといいからいいからと言いながらあんな細い腕のどこにそんな力があるのかと言わんばかりの握力で私の腕を掴んで来る。
それでもなお腕に痕が付いたら仕事に差し支えますんで言うとようやく離してくれるが、するとこの一年で何十回と聞かされた身の上話をぶつけて来る。
「私にはあなたの仕事を云々言う気持ちなんか欠片もないわよ。よく言うじゃないほら、人間の……その三大欲求って言う奴?その一つをちゃんと担ってるんだから十分偉い仕事だと思うわよ。
それにねえ、聞いたわよあなたの評判。何でも店で今ナンバーワンの稼ぎ手なんだって?何にせよ頂点を極めるってのはいい事じゃない、私はあなたが羨ましいわ。ったくうちの人なんて延々四十年会社勤めをして来たのに結局部長で終わっちゃったし……」
よくもまあ同じ話をこう何度も続けられるなと思わずにいられない。私が同じ事をすればたちまちステータスダウンにつながるって言うのに、やはり住む世界が違う人なんだなと思わずにいられない。
飽きているなら飽きていると言え?第一に可哀想だし、何より他人の心証を悪くするのは嫌だ。
「うちは息子二人しかいなくてねえ、上の方は普通に健康食品の会社に勤めて普通に奥さんもらって普通に孫も作ったんだけどねえ、それより十個下の次男坊の方がちょっとねえ。まあ何て言うの、甘やかしちゃったって言うか、ずっとここから離れようとしないのよ。
なんでも不動産の何かの資格取ったとかで、ここの管理人の座を継いでやるって言ってるけどねえ、いい年して結婚もしないで管理人室のすぐ上の部屋にへばりついてるのよ。まあ管理人らしい仕事はやってくれてるからいいんだけどね」
それで四年前、その時ちょうど不機嫌だった私がもしかして私の事を実の娘とでも思っているんですかとぶっきらぼうかつ厚かましい言葉を言い放ったら、そうなのよと言いながらこれだけの言葉を並べ立てて来た。
実際、こういう母親に育てられたら私はどんな人生を送って来ただろう。二十六にして人生云々を語るなどおこがましい話だが、自分で言うのも何だが波乱に満ちた人生を送って来たと言う事に関してはかなりの自信がある。
「どうしてもダメなの……?」
そしてその我が身に降りかかって来た災難を自分の中の言い訳にして私が桃井さんの部屋に上がり込む事を拒否すると、桃井さんはひどくしょぼくれた顔をした。
残念ですけどどうしてもダメなんですと泣き顔を作りながら念を押すと桃井さんはさすがに踏み込んではいけない領域を感じたのかそれ以上は迫って来なかった。
でもそれ以外の事はまだ諦めていないようで、それから四年経った今でも私の部屋に入ろうとしたり今日のようにペットボトル入りのお茶を渡そうとしたりして来る。
「まあ親身に話聞いてくれるし有り難いと言えば有り難いんだけど、不意打ちで来るのはやめてもらいたいよね。なんて言うかさ、あの人よほど光江の事気に入ってるみたいでさ、私の所来るのってお義理って感じなのよね。冗談抜きでさ、何かあったの?」
それで私だけじゃなく久美にも公平に接してあげてくださいって言ったら二週間後に久美からそんなLINEが来た。
どうやら桃井さんたら久美の世話を一回焼いたら私の世話も一回焼いていいんじゃないかって思ってたみたいだったけど、それじゃ久美って完全な私のおまけじゃない。その事を指摘したら桃井さんはその日から久美にもやたらと親切になった。
ただ、私と違って久美は休みでもマンションにあまりいないせいかわざとじゃなくその機会を逃してるっぽいんだけど。
「いやあ今日もずいぶんと肌の色つやがいいねえ」
私はありがとうございますと丁重に物を言いながらワインをグラスに注ぐ、自分でやっておいてなんだけど随分と曲芸めいた事をしてるなと思わずにいられない。
冗談抜きでこの六年間はこの曲芸を習得する為に費やされたと言っても過言ではないぐらいだ。
「光江ちゃんさあ、実際相当儲けてるんでしょ?そのお金さあ、何するの?」
「その……渡したい人がいまして……」
「そうかい、光江ちゃんにもついに春が……って訳じゃなさそうだな。こんなに綺麗で気が効くのにどうして、なあお前ら」
大手企業の専務であり私を贔屓にしてくれる市川さんはそう言いながら部下の男の人たちに話を振ったけれど、みんな揃ってはいそうですよねとか本当何故でしょうねとか言いながら日本人的な曖昧な笑みを浮かべるばかり。
「もったいねえよなあ、俺に息子がいりゃ嫁にしてもいいと思ってんだけどさぁマジで」
「もう、冗談やめてくださいよ」
この口調は絶対に冗談じゃない。
市川さんは桃井さんと同じように本気で私の事に好感を抱いている。どうして光江って好かれるのってよく言われるけど私もなんでだかよくわからない。
こういう商売をしている手前好かれなかったら即クビの危機ってのもあるんだろうけれど、それにしてもと思う事はある。
「ああつまらん冗談聞かせちまって済まなかったな。そのおわびって事でさ、シャンパン三本持って来てくれ」
「三本……?大丈夫ですか専務」
「なーに、俺を誰だと思ってるんだ?お前らの上司だぞ。上に立つ者っつーのは支えてくれる下の人間の心を掴まなきゃなんねえ。いつも粉骨砕身してくれるお前らへのご褒美として考えりゃ安い安い!」
今時珍しい程に豪快な市川さんの声に応え三本のシャンパンが運ばれて来る。週一のペースでこのクラブに来ては毎回数万単位、多い時は十万円以上のお金を落としてくれる。
バブルなんて歴史の教科書の一ページになってしまったはずなのに、ここだけはまだ続いているような錯覚を覚える。
「嫁公認だよ、心配すんなっての。ったく光江ちゃんは本当に気が利くよねえ、何なら一昨年みたいに嫁を連れて来てもいいんだよ」
二年前、市川さんが奥様と一緒に来店して来た時は本当に驚いた。
その時はビール一本しか頼まなかったけど、その間ずっと市川さんは奥様に向かって私の事を褒めちぎっていた。奥様の面前でホステスを褒めるなんて豪快と言うより無神経過ぎやしないかと、私は奥様の心を傷付けやしないかとはらはらしっぱなしで始終謝りながら二人の相手をしてたんだけど、奥様もずいぶんと度量の大きい方だった。
「うちの人が今、休みの日はマンションの周りを走り回ってるそうだって言ってるけど本当なの?」
「はいそうです」
「あら本当なの、いやあなたって本当に真面目よね。こういう仕事してる子ってどうも近視眼的なイメージがあったけど、私ったらいい年してつまんない偏見を抱いてた物よね」
そうやって私の事を褒めてくれた時は本気で驚いた。以前は結構揉め事もあったみたいだけど、それ以降は奥様公認になったらしい。
「専務さーんずるいですよ、光江ちゃんを独り占めしようなんて」
「独り占めはしてないだろ、ほらこうやって他にもたくさん、なあそうだろ」
「ええ、まあ…………」
「ずるいですよもう部下の皆さんを楯にして、あっやっぱり奥さん怖いんですか?」
「まあちっとはな」
と言ってもあくまでも奥様公認なのは私だけのようで、私が他に行こうとするとこうやって引き留めにかかる事もあり、あるいは途中で帰ってしまう事もある。
こっちとしてみれば例え上得意様であっても一人のお客様ばかりへばり付いている訳にもいかない。私は誠に申し訳ありませんがと言いながらシャンパンを全員のグラスに注ぎ、そしてその勢いに任せてテーブルを離れた。
「おー光江ちゃん待ってたよ、と言う訳でバーボン追加」
「ちょっと久美何やってるの」
私が新たに向かったテーブルのお客さんは、私が席に座るや否やいきなりバーボンを追加して来た。見ればそこのテーブルには既に久美が座っていた。
「えー何光江、いきなり説教モード?」
「当たり前でしょ。私は都合三十分も向こうにいたのよ」
テーブルの上には日本酒一本しかない。お客さんにどれだけ金を使わせるかが私たちの価値を決めると言っても過言ではない以上、日本酒一本ぐらいでは十分な仕事を果たしているとは言えない。
もちろんお客さんの財布の中身もあるしお酒の好みやその他の事情もあるんだろうけど、それにしても久美は財布の紐を緩めさせる事が出来ていない。自分にできなくて私にできていると言う事の意味が分からないんだろうか、そう考えるとどうしても久美の言うとこの説教モードになってしまう。
「まあまあ光江ちゃん、飲もうじゃないか」
「この業界も大変なんだよね、本当」
「あっはいすみません、今からお注ぎいたします」
先ほどお客さんの財布の中身と言ったが、久美と一緒に座っていたのは市川さんより更に年上っぽい三人の男性。市川さんの奥さんみたいに寛容な伴侶を持っているかどうかはわからないにせよ、とりあえずこういうクラブに来られるぐらいのお金は持っていそうな人たち。そういう人の財布の紐を緩めさせるのが私たちの仕事。
「光江ちゃんってなんて言うかさ、いわゆるそのさ、お嫁さんタイプ?」
「あーあー、俺もそう思う。なんて言うかそんな感じ。世話女房っつーか」
「そうですか」
「何でも細やかにやってくれるって感じの」
「じゃあ私は?」
「久美ちゃんは……妹かな」
「そうそうそれ、何か世話してやんなきゃって感じでさ」
確かに久美は妹っぽい。私と同期の六年目で二十六歳、そして誕生日で言えば一ヶ月だけ私より早く生まれたのに、傍から見ると私のが年上に見えるらしい。
でも私が世話女房タイプって言うのは的を射ていない気がする。
よく細やかで気が利くとか褒められるが、それはあくまでも口に糊するための方便であってもしそんな事をしなくても飢えないのならばそんな疲れる事などやっていない。
それに、私は母親の気持ちって言うのはいまいちよくわからない。
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