第6話 ベイカー親子
激しい物音が聞こえて、ハンナ・ベイカーは目が覚めた。今日は、自宅に帰らずに病院内にある当直室にて眠っていた。明らかに異様な物音に嫌な予感がしたベイカー医師。当直室にあったバールを持って、2階へと進んでいく。
2階の廊下には、感染者がうようよといた。彼らを閉じ込めていた部屋が開いている。どうやら、内側から開錠して出てきたらしいと冷静に分析するベイカー医師。
「うが……あああ」
感染者はベイカー医師に気づくとノソノソとした動きで、彼女に近づく。ベイカー医師は感染者が近づいてきたところで、ためらいなくバールで感染者の頭蓋骨を粉砕した。頭蓋骨を砕かれてもなお、ベイカー医師に襲い掛かろうとする感染者。
しかし、ベイカー医師は冷酷にも2度、3度、4度とバールを感染者の頭にぶちこむ。グロテスクな表現に耐性がない人間が見たら卒倒するような光景。しかし、医師のハンナ・ベイカーには見慣れた光景で特に心が摩耗することはない。数発の攻撃に流石の感染者も耐えられなかったのか、その場に倒れて2度と動くことはなかった。
「全く……知性がないから鍵をかけて置けば安心かと思ったけれど……なにかのはずみで自力で開錠できたようだね」
ベイカー医師は、残りの感染者たちも慣れた手つきで撲殺していく。明らかに戦闘経験がない一般女性とは思えないような、その過激さと容赦のなさ。知性もなく、ただ、「うーあー」言っているだけの感染者では相手にならない。
「ふー……片付いたようね。これからは、鍵の管理もきっちりとするべきかしらね。できるだけ予算をかけたくなかったのだけれど仕方ない」
ベイカー医師はニヤリと笑った。これまでの感染者は鍵を開けるといった理知的な行動を取ることができなかった。しかし、今の感染者は多少なりとも鍵を開けることができて、知能面が上がっている。これは研究の成果が出ている傾向であると言える。
感染者は時間と共に溶けて消えていった。その場に残ったのは、彼らが身に付けていた衣服と手首に付けていたタグだけだ。ベイカー医師はそのタグを拾い上げると番号を確認して、メモを取った。
「……あの子は大丈夫かしら」
ベイカー医師は、現在マクシミリアンがいる病室へと向かった。彼女はこの病院の管理者であるため夜中に出歩いていても誰も咎めるものはいない。堂々と足音を立てて廊下を進んでいく。
◇
コツコツと足音が聞こえて焦るマクシミリアン。彼は本来ならば、病室から出てはいけない立場の人間だ。もし、病院の関係者に見つかったのならば、怒られるに決まっている。いや、怒られるだけで済めばまだいいかもしれない。マクシミリアンは、病室に閉じ込められていた奇妙な感染者を目撃している。あの感染者たちが病院側の隠しておきたい暗部だったとしたならば、秘密を知ってしまったマクシミリアンはどんな目に遭わされるかわかったものじゃない。
「くそ……足音がどんどんと近づいてきやがる」
マクシミリアンは隠れる場所を探した。この部屋は明らかに個室用として作られていてベッドは1つしかない。懐中電灯で周囲を見回してみるも大きな遮蔽物のようなものはない。
こうしている内に刻一刻と足音が近づいてくる。感染者が廊下に溢れ出ているのに平然とこちらに近づいてくる足音。明らかに異常だ。
「ヒルダ! 俺がここに隠れていることは内緒にしてくれ!」
「え、あ、ちょっと……わ、わかったけど……」
マクシミリアンは窓に登り、サッシの上に足をかけた。そして、不安定な足場に立っている状態で、カーテンを閉めて息を潜める。隠れ場所としては無理があるような気がするけど、仕方ない。いざとなったら、窓を開けて2階からでも飛び降りてやる覚悟でいた。
ガチャガチャと扉を開けようとする音が聞こえた。鍵がかかっているのを確認したら、訪問者は鍵を使い開錠して扉を開けた。部屋の中に入ってきたのは、ハンナ・ベイカー。
「ママ!」
「ヒルダ……起きてたの? もう、寝てなきゃダメじゃない」
ヒルダが起きていたことに気づいたハンナは、入り口付近にあった照明のスイッチを入れた。灯りが一気に点き、暗闇に慣れていたマクシミリアンの目が眩しさでやられそうになった。だが、それ以上に引っかかることがあった。
ママ……? ヒルダのその言葉にマクシミリアンの理解が追い付かなかった。ヒルダは明らかな老婆である。そのヒルダが、多少年配だが、決して年老いてはいないハンナをママと呼んだ。
もしかすると、医師のハンナの方が物凄く若作りをしているのではないかと阿呆なことを考えたが、それは流石に無理があった。
「ごめんなさい。ママ。物凄い音が聞こえて目が覚めちゃった」
「そうかい」
マクシミリアンは、カーテンの隙間から様子を伺った。ハンナの手には血が付着したバールが握られていた。バールは使い込まれていた形跡があり、それがマクシミリアンの恐怖心を煽る。今、この場でハンナに見つかったら、あのバールで殺される。そう予感したマクシミリアン。だが、ヒルダの方はハンナが凶器を持っていても特に気に留める様子はなかった。
「ヒルダ。いつもは鍵を閉めないのに、今日はどうして閉めたの?」
「えっと……物音が聞こえて怖かったから……」
「そう。ごめんなさいね。不安な思いをさせてしまって」
ハンナの質問を上手い具合に誤魔化すヒルダ。なんとか誤魔化せはしたが、ハンナがこの部屋から出るまでは、マクシミリアンは安心できない。
「もう少し……もう少しだからねヒルダ。もう少しであなたを普通の女の子にしてあげられる。そうすれば、あなたはこんな病院にずっと暮らさなくていいの。人並みの幸せを手に入れることができるの。そのために、お母さん頑張るから……」
普通の女の子という言葉に引っかかりを覚えるマクシミリアン。ヒルダの見た目は老婆で、とても女の子と呼べる歳ではない。なのに、ハンナはヒルダを女の子扱いしている。ここで、マクシミリアンは気づいた。ヒルダは。見た目こそ老婆であるが、年齢はまだ子供ではないのかと。何らかの事情で、ヒルダは年老いてしまったのだと。
「ヒルダ。そろそろお母さんは行くね。ヒルダも早く寝なきゃダメだよ。おやすみ」
「おやすみなさい。ママ」
ハンナは照明のスイッチを消した後に病室を後にした。ハンナが病室を後にして、足音が遠ざかっていくのを感じた。そうして、やっと足音が聞こえなくなってきた頃、やっとマクシミリアンは安心して生きた心地を手に入れることができたのだ。
カーテンから出るマクシミリアン。ヒルダは既に寝息を立てて眠っている。母親の言いつけを守り、本当にすぐに眠ってしまった。マクシミリアンはヒルダを起こさないように、そっと病室を後にした。
廊下に出ると、先程の気味の悪いゾンビのような人間が綺麗さっぱり消えていた。まるで最初からそこに存在などしていなかったかのように。マクシミリアンが見た幻のような、そんな感じだった。
だが、マクシミリアンはハッキリとあの恐怖心を覚えている。あれは絶対、幻なんかじゃなかった。この病院には何かがいる。普通の病院だったならば、医者であるハンナ・ベイカーがバールを持ってうろついているはずがない。
マクシミリアンは自分の病室へと戻り、ベッドの中に入った。寝付けなかった先程とは比べて、今度は嘘のように深い眠りにつくことができた。流石のマクシミリアンも肉体的にも精神的にも疲労がピークに達していたのだ。
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