第4話 被験体ヘンリー・ブラックマン

 ヘンリー・ブラックマン 75歳 男性


 家族構成:配偶者とは死別 子供:男2人 女1人(全員既婚者) 孫:長男夫婦は子供なし 次男夫婦は男2人 長女夫婦は男1人女1人


 経歴:実家の農家を手伝いながら、小学校を卒業。中学には進学せずに、そのまま農業に従事。22歳の時に妻のアイシャと結婚。34歳の時に父親が他界、後を追うように母親も同年に息を引き取る。両親の死後、遺産として受け取った農地を売り家族と共に発展しつつある工業都市に移住。工場勤務を26年続けて、退職。悠々自適に暮らすも、3年後最愛の伴侶であるアイシャを失い、そのことが切っ掛けで、老け込み認知症を患う。子供3人で協議という名の押し付け合いをした結果、長男夫婦のところに厄介になる。奇行が激しく特に長男の嫁から疎まれていた。氏が伝染病に感染していて、隔離が必要だと医師から告げられた時、家族全員が含み笑いをしていた。


 ハンナ・ベイカーは、これから被験体にする人物の調書を読んだ。実際、ヘンリー氏はここに収容された時も暴れまわり、拘束具を付けていないと周囲の医師や看護師や患者に危害を加えかねない。肉親が疎むのも無理はない。


 しかし、数十年間、家族を養うために働いていた彼であるが、いなくなっても誰も悲しまないというのは物悲しいものがある。普通の人間ならば、そう感じるところだが、ベイカー医師は違った。たった今、この瞬間に消えても誰も困らないし、探さない人間。それがいないとベイカー医師は困るから、常に探しているのだ。


 手術台の上に拘束されているヘンリー。彼は自分がなぜ繋がれているのかわかってない。身に覚えがない拘束にヘンリーは喚き散らして暴れていた。


「てめえ! 俺をどうするつもりだ! 早く拘束を解きやがれ! 女ァ! 早くしねえと! アイシャの出産に立ち会えねえだろうが!」


「やれやれ……認知機能が低下して、記憶の逆行が始まっているようね。よく見られる症状。奥さんがまだ生きていると思っているし、出産に立ち会うということは若いつもりでいるのかしら」


 ギチギチと拘束具が動く音が聞こえる。硬く締め付けて留めてあるから拘束具は絶対に外れない。動けば動くほど、ヘンリーの肉体が拘束具に食い込む。


「くそがぁ! どこの看護師か知らねえけど! 後で覚えてろよ!」


「私の格好が看護師に見えるのかしら。私は医者。医者が男で看護師が女という偏見はやめてくれるかしら?」


「るせえ! どっちでもいいだろうが!」


 ヘンリーの体に痣ができ始めている。このままでは、彼の身が危ない。ベイカー医師としては、ヘンリーが生きていようが死んでようがどっちでもいい。ただ、実験をする前に死なれるのは非常にまずい。実験データが取れるまでは生きて貰わなければならない。かと言って、鎮静剤や麻酔を打つわけにはいかない。その成分は不純な存在。実験データに影響を与える可能性があるのだ。


 ベイカー医師はヘンリーの腕を締め上げて血管を浮かび上がらせた。そして、その血管にウイルス入りの注射をさした。


「あが……てめえ!」


 わけのわからない女からわけのわからない注射を入れられて、青ざめるヘンリー。それに対して、ベイカー医師は懐中時計で時刻を確認。


「7月12日。17時32分。ウイルスの注入が完了」


「う、ウイルスだと! てめえ! 俺の体に何入れやがった!」


「あなたは知る必要がない」


 それだけ言い残すとベイカー医師は靴の音を鳴らしながら、手術室から出て行った。



 ヘンリーがウイルスを打たれて何時間経っただろうか。彼の体に異変が起き始めた。彼がそれまで、自分が20代の若者だと思っていたが、本当は老人であることに気づいた。そして、自身の父親、母親、妻のアイシャが亡くなっていることを正しく認知した。その瞬間、生きていると思った最愛の人を一気に失った悲しみから、ヘンリーの目から涙が零れた。1度は普通に家族の死を経験、そして2回目をそれを思い出す。実質、2回も同じ家族を失う悲しみを背負ってしまったのだ。


「誰か! 誰かいねえのか!」


 ヘンリーは叫んだ。彼は現実を受け入れられないでいる。だが、無情にも認知機能はどんどん回復していく。そして、襲い掛かるのは辛い現実。アイシャの死後、無気力で生きてきた自分、虚無感から認知機能が低下して、ボケてしまった。


 子供たちに暴力を振るい、長男の嫁にも横柄な態度を取り、彼女の尊厳を傷つけるようなこともした。ボケていたとはいえ、自分がしてきたことの罪悪感に苛まれてヘンリーの心が辛くなった。


「ワシは……ワシはこれからどうすればいいんだ」


 ヘンリーは自分の声を聞いた時に違和感を覚えた。声質がどう聞いても若い。自分は70代の老人のはずなのに、声が随分とクリアでスッキリしている。20代とは言わないが、少なくとも30代か40代として通用する声である。


 最初は先程まで若いつもりでいたことによる弊害だと思っていた。しかし、段々と呼吸がしやすくなって、体の感覚も軽くなってきている。


 体が若返っているとヘンリーは感じた。先程は精神だけが、過去に逆行したけれど、今度は体が逆行しているという不可思議な現象が起きた。


「どういうことだ?」


 気づくと手術台に拘束されているヘンリーをベイカー医師が見下ろしていた。


「なるほど……最初に回復するのは認知機能のようね。これは新しい発見ね」


「お、おい! どうなっているんだ! 説明しろ!」


「説明しても、大学出ている私の話を小卒のあなたは理解できないでしょ?」


「バカにしてんのか! 俺は実家が裕福じゃねえから、進学できなかったんだよ。そりゃあ、元から勉強嫌いだし、金があっても進学するつもりはなかったけどよー」


 学歴をバカにされてヘンリーは憤慨した。


「う、あ……が……!」


 ヘンリーが急に悶え苦しみ始めた。彼の皮膚に黄疸ができていて、明らかに異様な光景だ。それに気づいたベイカー医師は、すぐに銃を手に取った。


「いぎゃああ!」


 ヘンリーが無理矢理拘束具を引き千切り、起き上がった。彼は既に正気ではない。認知機能が低下しているとかそういう次元の話ではない。人間として理性的な行動を取れないのだ。


 ヘンリーはベイカー医師に襲い掛かろうとする。常人ならば、女性とはいえ銃を持っている人物を襲おうだなんて思わない。だが、ヘンリーはそういう判断すらつかないのだ。


 銃声が鳴り響く。躊躇いなく引かれた引き金のせいで、ヘンリーの眉間に銃弾が撃ち込まれた。


 華麗にヘッドショットを決められたヘンリーはその場に倒れて、ピクリとも動かなかった。頭に銃弾を撃ち込まれたから即死だ。


「やれやれ。今回もダメだったわ。認知機能が低下している状態ならば、逆に奇行は抑えられるかもしれないと期待したけれど……理性的になれたのはほんの一瞬で、すぐにもっと酷い状態になるんだもの。これは、マイナス同士の掛け算じゃなくて、足し算だったようね」


 ベイカー医師は死体を片付けることなく、そのまま手術室を後にした。死体は時間と共に消えてなくなった。誰も死体を片付けてないのに、綺麗さっぱり骨1つ残さずこの世から消え去った。


 1人の人物をこの世から消してしまった罪悪感。そんなものはベイカー医師には存在しない。消えても誰も悲しまない人間が消えただけ。彼女にとっては、ただそれだけのこと。ウイルスの解明に比べたら、人命の1つや2つは軽い。それが彼女の|爛≪ただ》れた倫理観なのだ。一体、なにが彼女をそうさせてしまったのか。

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