『本』当の『音』

彩田(さいだ)

『本』当の『音』

 拝啓、カレンダーは八月を示していたが、今日だけ異様に涼しかった。


雲一つない晴天で外は明るかったものだから、電気を付けていなくても十分だった。日は差していたが、網戸にした部屋に風が吹き込んできて、今日は過ごしやすい日だった。


そんな部屋で私は一人手紙を綴っていた。蝉も鳴いていない今日は静かな日だった。


風の音、風鈴のチリンという優しい音色、鉛筆を走らせる音。三つの音が混じり合いながら静かな部屋に染み込んでいた。今日はとても気分の良い日だった。


私は一人黙々と手紙を書いていた。扇風機が独りでに首を振り始めた。部屋に染み込んでいたハーモニーが機械音と合わさって部屋のあちこちで飛び跳ねるようになった。それでも、それが良く感じて、今日は何でも許せるような気がした。


誰も私を邪魔しない、誰にも邪魔されない、何とも言えない高揚感だけが私の活力になっていた。今日は綺麗な日だった。


「おーい、はー。食べるか、チーズケーキ。焼いてきたぞ。」


ガチャっと言うタイミングをドアに与えない程のスピードぇやって来た兄は、左手にチーズケーキとフォークの乗った皿を持っていた。


私を「はー」と親しみを込めて呼ぶ兄は楽しそうに笑っていた。兄はズシズシと部屋に入って私に近づいてくるものだから、私は慌てて手紙を伏せた。トンっと音を立てながら鉛筆は手から落とされた。


黒にも白にもなれなかった色が心の中で爆音を立てて遊んでいた。兄とは、「美味しいよ。」も、「これ手作りなんて凄いね。」も無かった。会話なんて存在しなかった。その時食べたチーズケーキは鉄を飲み込んだ様だった。今日は苦しい日だったのかもしれない。


「はーは本当に頑張り屋さんだなあ。」兄はぼそっと一人呟いた。


「優しい兄」は私がチーズケーキを食べ終わった事を確認すると、皿とフォークを持って、「邪魔したな。お粗末座でした。」と言いながら部屋を出て行った。ドアの閉まる音がカチャっと聞こえた。


私は部屋の空気を壊した兄を目で追っていた。部屋から出て行って見えなくなっても追い続けた。部屋の隅に置かれた鏡に私が映った。鏡の中の私は笑っていた。今日も楽しそうだった。


百八十度体の向きを変えて机に向かった。目を閉じて、スーッと音を立てながら息を吸った。吸って、吸って、苦しくなるまで吸って、思いっ切り息を吐いた。


部屋はやっと私を受け入れてくれた。真珠の様なハーモニーが恥ずかしそうに棚から顔をひょこっと出した。また、跳ねて遊び始めた。私は落とした鉛筆を手に取った。


今日の私は今まで以上に集中力に秀でていた。書きたいことがまとまっていると、こんなにも速いスピードで駆けるのか、そうか、そうだよな、と思っていた。裏BGMが壮快になった。いつもは鉛の様に感じていた鳴き声が爽やかに聴こえた。サイダーを飲んだ後の様な感覚になった。今日は甘い日だった。


手紙があと少しで完成する、という所でパタパタと足音を立てて誰かが部屋に近づいてくる。部屋のドアがコンコンと鳴った。まだ返事もしていない私を無視して、カチャっという音とともに、「ねえねえ、あそぼお。」と妹は部屋に入って来た。


私は妹を無視し続けた。机を覗いている様な視線は感じなかっただけよかった。私は手紙を書き続けた。背中の方から、「今日も忙しい?」と申し訳無さそうに言う妹の声が聞こえた。今日も空しい日だったのかもしれない。


「えっとね、けい兄ちゃんとあそんでいるから、時間が出来たらいっしょにあそぼ!じゃあ、先に公園行ってるね。いつもの所だからね!」と妹は囁く声で私を誘ってきた。私が机に向かったまま、コクンと頭だけを縦に振ると、よっぽど嬉しかったのか、妹は鼻歌を唄いながら部屋を出て行った。


妹の唄っていた鼻歌だけが部屋に残って不穏当な笑みを浮かべて、ウロウロしていた。そいつは私を見るけると耳元にやって来て、「早く認めろ、早く認めろ。」と唄ってきた。もう楽しそうに跳ねていたハーモニーはいなくなった。


「可愛い妹」はもう一度部屋にやってきた。カチャとドアが開く音が聞こえて、後ろを振り返って見てみると、ドアの僅かな隙間から尖らせた口だけを出して、「がんばってね、じゃあ待ってるね。」と言って消えていった。ドアは音を立てずに静かに閉まった。


私の部屋から音が消えた。私は書き終えた手紙を真っ白な封筒に入れて小さなバッグへと詰め込んだ。音のしない机の上を片付けて、音のしない窓を閉めて、音のしない扇風機の電源を消した。


私は静かな部屋をぐるりと見渡した。「じゃあ、さよなら。」と部屋に挨拶をして、バッグを肩に掛けた。今日は別れの日になってしまった。


ガッ、チャン。


重い重い部屋を押し潰した様に感じた。


私のものじゃないような足を引きずって階段を降りる。今日は、いや、不思議な日になるだろうか。いつになったら階段に終わりは来るだろうか。来てほしくない。来るな、来るな、来ないで、来ないで下さい。終わりたくない。私は認めざるを得なかった。


終わりは来てしまった。鉱物の様な溜息が床へ落下していった。玄関が私の方へと迫ってきたものだから、諦めて靴を履いた。


玄関のドアが独りでに開いた。まるで、おいで、と呼ばれている様だった。


「どこ行くの。」


はっとして私は恐る恐る後ろに振り返った。そこには優しく微笑んだ母が、私を呼び止めていた。背中がゾクッと凍りついた。汗が滴り落ちる音が嫌なほどはっきりと聞こえた。玄関のドアが焦った様子でバンッと音を立てて閉まった。玄関が一瞬にして光を奪って、私が息をするのを忘れさせた。


「図書館に行ってくるよ、レポートの資料を集めたいんだ。」


私はとっさに嘘をついた。


「圭太郎と莉沙の所には行かないから、安心して。大丈夫。」


私は本当の事も言った。


「早く帰ってくるのよ。勉強頑張って、貴方には希望があるもの。」


私は母に手を振りながら家を出た。私は笑っていた。きっと、多分、きっと。


私は家を出てからは真っ直ぐポストに向かった。赤いポストを見るまで、私は何を考えていたかもう覚えてなどいなかった。でも、別に思い出すつもりもなかった。私はワタシを見つけ出した時には、とうとうポストにまで笑われていた。


私はポストへ気味の悪い優しい微笑みを返した。私は家と反対の方向へ進む。私は橙色に光る穏やかな小道を歩きながら手紙に書いた最後の文章を思い出していた。


「私は何ができただろう。私には何があっただろう。私が出来た事はワタシを失うことだけだった。ワタシは私から逃げ出す事に成功した!」


私は殻になったバッグの紐を握り締めて、ただ前を見ていた。フェンスの先には大きくて小さな街全体の鮮やかな景色が映し出される。私はフェンスを越えて、何にも邪魔されない指定席に立つ。紐を持つ手の力がどんどん強くなっていくのを感じた。


もう何も聞こえないと思い込んでいた私は馬鹿だった。烏の鳴き声、自転車のベルの音、町内放送、校庭で遊んでいる小学生の声、川の流れる音、夫婦喧嘩、野良猫の鳴き声……。


私は街を右から左までじっくり見ていた。ふと二人が遊ぶ公園が目に入ってきた。二人は幸せそうで、私は思わず声に出して「よかった。」と、くすっと笑った。


私の笑い声。心からの私の笑い声。この街は賑やかで、本当に様々な色の音が奏でられていた。


今日は幸せだった。


敬具  春也より。

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