第27話 幸せ



 ごくり、と生唾を飲む音が部屋に響く。

 大五郎は、くらくらと昏倒してしまいそうな目眩感に襲われた。

 だってそうだろう。


「ね……、どうするの大五郎くん?」


「…………ぁ」


 目の前には絶世の美少女、本来は可愛さを演出する為のフリル、それが淫蕩に演出している黒の透けているベビードール。

 湯上がりの髪は肌の白さを強調し、色気。

 全身、どこを見ても艶やかさしかない。

 それが。


(――――据え膳っ!!)


 手を出して、何が悪いのか。

 誘ってるのは咲夜だし、彼女は実家で同棲している恋人とい立場であり。

 将来を共にするパートナーと言ってくれているし、欲望のまま、情欲のまま、我を忘れて良いのである。


「………………っ、~~~~ぁ、は、ぁ――」


「遠慮しなくても良いの、全部私にぶつけて、汚して、縋って、――貴方には、その権利があるのだから」


 なんて、なんて卑怯な言い方だろうか。

 思わず右手が延びる、肩を掴んでそのベビードールを脱がせて。

 左手で彼女の手首を掴んでもいい、それとも顎を、はたまた胸をか。

 ――――だが。


「…………ダメ、だ、それはダメなんだよ咲夜」


 大五郎は理性を総動員して耐えた、分かる、理解している、これは罠だ、彼女が仕掛けた罠で、そして善意。

 愛ではなく哀で、大五郎を幸せにしようとする雁字搦めの罠。

 彼は彼女の華奢な両肩を掴み、目をぎゅっと瞑り俯いて。


「どうして?」


「今……、いや今後も、君に手を出させて確実に責任と取らせる確率を高める、そういう事でしょ?」


「一度も二度も変わらないでしょう?」


「いや変わる、変わるって思ったから誘惑しているんだろう? いや違う……僕を君に夢中にさせて、藍がいない事を寂しく思わない程に夢中にさせてさ、――――幸せにする、そういう計画なんでしょ?」


「ああ、やっぱり見抜いていたのね。でも……全部じゃないわ」


「ぇ、――ぁ………………」


 咲夜は俯いている彼の顔を優しく持ち上げると、その唇に己の唇を軽く触れ合わせる。

 そして、我が子を慈しむ母のように微笑むと。


「ねぇ大五郎くん、私は貴方と愛し愛されたい。……でもそれは肉体だけじゃない、心もよ。でも貴方は頑なで、いいえ……頑なでいようとするから、まずは体からだけでもって。…………私だってね、女の子なの。今は確かに大五郎くんを愛していない、でも、いつかは、……心から愛し合って、一緒に笑いあいたいの」


「~~~~っ!!」


 ガツンと頭を殴られた気分だった。

 本当に、本当に。


(バカか僕はっ!!)


 神明大五郎は、水仙咲夜を見誤っていた。

 彼女は救世主でも怪物でもない、その美貌をどうこう言う前に。

 優しい、――とても心優しい、一人の女の子なのだ。


(僕は)


 答えなければ、何か、言葉を出さなければ。

 彼女の気持ちに答えなければいけない、そう思うのに言葉は出てこないで。

 情けないことに、涙が浮かんできてしまう。


(僕はっ!!)


(――――嗚呼、やっぱり)


 必死に言葉を出そうとする大五郎の態度に、咲夜は少し悲しそうに微笑んだ。

 そうかもしれない、そうでなければいい、そう思っていた。

 でもやっぱり、彼はそうだったのだ。


(多分、これが)


 彼の、最後の砦。

 無意識か意識的にか、どちらにせよ自らに与えた罰。

 考えてみれば当たり前だ、愛する人に庇われて自分だけが生き残って。

 それでどうして、甘んじて享受できるのだろうか。

 ――――それでも。生き残ったのは彼で、咲夜の目の前で苦しんでいるのも、隣にいたいと思うのも彼だから。


「…………ん」


「っ!? ――――ん……」


 咲夜は大五郎にキスをした、彼は一瞬驚いたあと受け入れて。

 温もりを感じるだけのキス、長い、長いキス。

 最初に顔を離したのは、はたしてどちらだったか。


「どうして、――幸せを拒否するの?」


「……そっか、僕は幸せになるのが怖かったんだね」


「そうよ、大五郎くんは幸せになるのを拒否しているの。……貴方にだって、幸せになる権利だってあるのに」


「でも、でもさ」


「藍さんを犠牲に生き残ってしまったから? だから貴方には幸せになる権利などないと?」


「…………多分、無意識にそう思っていたんだと思う。そうだね、――僕は……幸せになりたくなかったんだ」


 あぁ、と大五郎から涙に濡れたため息が漏れる。

 そうだ、その通りなのだ。

 愛する恋人を喪い一人残され、どうして幸せになろうと考えられるのだろう。


「でも、分かってるんでしょう? 藍さんは生前から貴方の幸せを考えていた、決して不幸は望んでいなかった」


「――っ!! 君に、藍の何が分かるっていうんだッ!!」


「会ったことも無い人の気持ちを代弁するほど傲慢じゃないわ、私はただ――貴方の気持ちを代弁しただけよ」


「僕のだって!?」


「ええ、そうじゃない。だって貴方が彼女の後を追って死を選ばなかった。そして幼馴染みである絵里達を拒絶せずに今も一緒にいる。――それは、貴方がそう思ってたからじゃない?」


「それ、は…………っ」


 大五郎は何も言い返せなかった、だってそうだろう。

 咲夜の言った事、その全部が図星であり。

 そして。


(なんて矛盾、ああ、僕は幸せを拒絶しているのに、どこかに幸せを求めていたのか)


 ぼろぼろと大五郎の心の堅い部分が剥がれていく、柔らかい所が咲夜にとって包み込まれていく。

 それは、酷く恐ろしいことで。


(僕は、僕は…………)


 手を伸ばしても良いのだろうか、彼女の手をとり隣に立ってもいいのだろうか。

 好きな女の子ひとり守れない、男として失格しかない己なのに。

 そんな自分が、誰かを好きなって幸せになって。


(ダメだ、ダメなんだよ咲夜……、僕は、僕は……)


 怖い、怖い、怖い。

 幸せになって、藍が遠ざかるのを、もしかして忘れてしまうかもしれない事を。


(どうして……優しくしてくれるんだよ)


 せめて、責められたかった。

 生きる価値のない男だと罵倒し、死へ誘って欲しかった。

 そうすれば、大五郎は未練なく死ねたのに。


(父さんも母さんも、絵里も、僕の義父と義母になったかもしれない人も、トールも輝彦も、全員、全員がさ)


 誰も、大五郎を責めなかった。

 その逆に優しくしてくれた、暖かく見守ってくれた。


(それがさ、――何より痛かったんだよ僕は)


 あの日からずっと、大五郎は矛盾を抱えていきてきた。

 死にたいという願い、死ねないという想い。

 なぜ藍を守れなかったと責められたいのに、お前だけでも生きてくれて良かったと優しくされ。

 愛して欲しいのに、愛したいのに、その相手はもう居ない。


「僕は…………」


 心が立ち止まってしまった大五郎の手をとり、咲夜は一度だけ目を閉じた。

 ここが、これが最後、次の言葉で何にもならないなら。


(もう、――私には彼に寄り添う事しかできない)


 或いは、共に死ぬことしか。

 ――瞳を開く、泣き顔の大五郎が見えた。

 咲夜は決意を込めて心を届かせる、せめて、せめて。


「ねぇ大五郎くん、貴方が自分から幸せになろうとしなくていいの。でも……幸せを拒否する事だけはしないで、その為なら私をどう扱ってもいい、どんな言い訳をしても、嘘をついても、藍さんを愛したままだって勿論構わない、だから、だからね、――幸せを拒否、しないで…………」


「~~~~~~~~~~~~ぁ、ぃ~~~~~~~~~~~~っ!! ぁ――――――」


 咲夜、とか細く震える喉、次の瞬間には歯を食いしばり、泣き声を堪える声泣き呻きが部屋に響く。


(嗚呼、僕は、僕は、ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、ああ――――)


 ダメだ、もうダメだ、この言葉に、大五郎は抗えない。

 虚勢が、嘘が、矛盾が、何もかもが溶かされていく。

 救い。

 そう、これが救い。

 目の前の相手が咲夜だったからこそ、他の誰でもなく、咲夜だったからこそ。

 ――大五郎は彼女に包まれた両手を、まるで神に祈る敬虔な信者のように己の額につけた。


「僕は、……藍を死なせてしまった僕がっ!! …………――幸せに、なってもさぁ……本当にいいの?」


「ええ、いいのよ。貴方は幸せになってもいいの。他の誰が否定しても、たとえ貴方自身が否定しても、その度に私が大五郎くんが幸せになる事を肯定する、何度でもよ。そして……貴方と一緒に幸せになる、絶対によ」


「~~~~~~~~っ、ぁ――――………………、あり、がとう……ありがとう咲夜ぁ…………っ!!」


 大粒の涙がこぼれる、熱い、熱い涙がこぼれた。

 いつぶりだろうか、こんなに嬉しくて涙が出るのは。

 誰かに、咲夜に赦されるのがこんなに嬉しいなんて。

 知らなかった、大五郎は今まで全く知らなかったのだ。


(嗚呼、嗚呼、嗚呼、ダメだ、堪えなきゃ、堪えなきゃいけないのに、これ以上、咲夜にみっともない所を見せたくないのに)


 でも、堪えきれない。

 涙ではない、赦されたことで新たに生まれた感情、不安。

 大五郎は思わず、懇願した。


「お願いだ、お願いなんだよ、僕の前からいなくならないでっ、絶対に僕の前で、僕より先に死なないで」


 バカね勿論よ、その言葉を期待した。

 しかし、咲夜はため息を一つ妙に冷静な声色で。


「そうは言っても世の中には絶対なんてないから、でも出来るだけ努力はするわ。でも、もし私が先に死んだら大五郎くんは後を追っていいわ。――私、藍さんとは違うもの。貴方が他の誰かを愛したり、他の誰かに救われるなんて真っ平、だから安心して? ……貴方が私より先に死んだら必ず後を追うから」


「~~~~~~っ!? さ、咲夜! 本当かいそれっ!」


 きっぱりと出された言葉に、大五郎の心は歓喜にあふれた。

 どうして、こんなに望む言葉をくれるのだろうか。

 どうして、こんなに藍と違うのだろうか。

 きっと最初から、水仙咲夜という存在に神明大五郎は勝てなかったのだと確信する。


(僕はもう二度と、咲夜みたいな人とは出逢えない)


 初めて、咲夜の為に生きてみたいと思った。

 初めて、藍と違うからこそ一緒にいたいと思った。

 認めてしまった、神明大五郎の人生には水仙咲夜が必要不可欠だと。


「――――捨てないで、僕を離さないで咲夜……君がいなければ僕は生きていけないよ」


「ふふっ、そう言ってもらえて嬉しいって思うのはいけない事なのかしらね」


 嬉しい、それは彼の方だ。

 彼女の温もりが今はとても愛しい、側にいられる事に感謝しかない。

 心が溢れる、昔、藍に抱いていたそれとは別だけど。

 でも、これは確かに。


「お願いです水仙咲夜さん、僕と恋人になってくれませんか?」


「…………ッ?」


 ついに口から溢れ出た、以前の大五郎ならば絶対に口にしないと決めていた言葉が。

 踏み出したい、彼女と生きていきたい。

 ――幸せに、なりたい。


「…………」


 沈黙、咲夜は黙っている。

 遅いと言われるのだろうか、それとも前に言っていたように同情から恋人になったのだと繰り返させるのだろうか。

 それでも、と大五郎が決意を固めた時だった。


「不思議ね、誰かの告白されるのがこんなにも嬉しいだなんて。でもきっと大五郎くんだから」


「そ、それって!!」


「今、口に出すのは野暮だって気がしない?」


 咲夜はそういうと、目を閉じて待つ。

 大五郎はもう、何も考えずに心のままに顔を寄せて。


「…………あ、コンドーム買ってきてあるの。使う? 私はナマでも構わないけど」


「雰囲気っ!? いや使うけども!! それ今言うことっ!?」


「だって今じゃないと、大五郎くんって衝動のままに避妊しないで明日になったら頭を抱えるでしょう? なら今この時に言うべきじゃない」


「ううっ、理解が痛い!? 確かにその通りなんだけどっ!!」


 恋人っぽい良い雰囲気だったじゃん、とぶつくさ言う彼に咲夜はスパッと言い返した。


「雰囲気云々でいうなら、最初私が誘惑したのに心頑なに拒んだ貴方のほうが悪いんじゃない?」


「いやでもそれ必要なことだったからっ! 結果論なのは百も承知だけどもっ!!」


「なら文句はないわね? それとも雰囲気壊れちゃったし、今夜はこのまま寝る?」


「…………僕に君を愛させてくれないか? 具体的には初めてのやり直し的な感じで」


「あら、期待しても良いのかしら? 恋人がいたとは思えないほど自分勝手なセックスをぶつけてきた大五郎くんが?」


 あ、これずっと言われるヤツだと、大五郎は心から確信したが。

 心の壁がなくなった彼に、もう遠慮はない。


「是非とも名誉挽回させて欲しい、全て僕に任せてくれ」


「じゃあ、お手並み拝見といきましょうか」


 再び咲夜は瞳を閉じ、大五郎もまた目を瞑り顔を近づける。

 二人の距離は、すぐにゼロになって。

 同棲初日の恋人達に、とても相応しい夜を過ごしたのであった。


 そして、次の日である。

 大五郎が救われようが、咲夜の腰が立たなくて朝起きられなくても学校はあり。

 表面上いつも通りの二人であったが、幼馴染み達には変化を感じ取ったり。

 更に珍しい事に、今日の彼は彼女より早く屋上に来て。


「…………幸せなんだけどね、やっぱり君が恋しいよ藍。こんなこと言っちゃ、咲夜に失礼なんだけどさ」


 それでも、気持ちは止められない。

 大五郎は、晴れ晴れとした顔で深い深いため息を吐き出した。


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