第3話 Winston
「もう酒持ってこれないってどういうことだよ!」
酔っ払った客の怒声。
時刻は二十時を回った。
緊急事態宣言。
少なくともこの地域の自治体において、飲食店は酒類提供が午後八時以降は出来なくなっていた。
「すいません。緊急事態宣言に伴った県からの要請ですので」
「……チッ、大して
乱暴に会計を済ませ、店を出て行ってしまう。
「ありがとうございましたー……ハァ」
ため息が出るのも仕方ないというもの。
横暴な客の対応は心身へのダメージが凄い。
自分はこのバイトに入ってそろそろ一年経つ。
しかし、入ったと同時期に緊急事態宣言。
シフトの異常な少なさも、その影響。
「ごめんね、任せきりになっちゃって」
「まあ、暴れなかったんで」
厨房から、店長が出てくる。
居酒屋なため、酔って暴れる客も何人か見た。
「こっちだって、提供できるもんならしたいけどねぇ」
営業時間の短縮。
居酒屋だったこの店からすれば、主力商品の販売が事実上封じられたのだから、売り上げ低下は自明。
「まぁ、首都圏に比べればマシだよ。酒類提供自体封じられた訳じゃないんだから」
店の天井に設置されたテレビからは、厳しい経営状況に喘ぐ都内の飲食店オーナーが映っていた。
「そっすね」
この店がある通りは地元じゃ有名な飲み屋街。緊急事態宣言、県からの要請。
先行きの見えない不安の中、国の出す補助金も焼け石に水。いくつかの店舗はテナント募集の看板を掲げる事になった。
「あ、店長の料理美味いっすから。あんなの気にしなくていいですから!」
これだけは言いたかった。あんな心無い言葉で、店長の料理を批判しないで欲しい。あいつは舌が馬鹿なんだ。言いはしないけど。
「ありがとな」
大男が照れくさそうに、頬を掻く。テレビのニュースはこの近辺で起ってる連続放火事件について、警察の見解を報道してた。
店長はいつも笑顔の絶えない人だった。その特徴的な髭の剃り跡も長らく見ていない。マスク着用は飲食店以外でも常識となった今、人の表情を見るのは難しくなってしまった。マスクをして厨房にいる店長は、ホールの自分より比較にならないほどキツいだろう。
短縮された営業時間が終わり、閉店作業をこなす。材料確認、発注、食器類の確認、ゴミ出し、仕込み。全ての作業を終わらせ、店の裏口へと出る。
「お疲れ様、今日出てくれてありがとう。ほい」
手渡される缶コーヒー。週末のラスト要員に、店長は必ず何か飲み物をおごってくれる。
「あざっす。あ、明日のラストは大丈夫ですか?」
確か明日は空調点検の為の掃除をせねばならなかったはず。人手はあった方が良いだろう。
「あー、うん。大丈夫かな」
ポケットから煙草の箱を出す。でかいWの文字が目の悪い自分にも見て取れる。
「あ、ゴメン。苦手だった?」
「大丈夫っすよ。つか店長、吸う人だったんすね」
一度戻しかけた箱から一本取りだし、今ではチャッカマンで火を付ける。ガスの種火を付ける時に必要だから持っているのだろう。静かに、火を付ける。
「一度、禁煙したんだけどね」
不透明な息を、同じくらい曇った夜空に吐く。
「まぁ、こんなご時世っすからね。ストレス溜まっちまうのも分かります」
「あはは、そうじゃないさ」
ため息の合わせ、吐く。
「妻がさ、娘連れて出て行っちゃってね」
快活で優しい店長は面影は無く、自虐的に力なく嗤う疲れた男がそこに居た。
「娘が出来てからはめっきり吸わなくなったんだけど……あぁ、少し疲れた」
重い、息。漂う煙のタールの重さ所為だけではない、コロナが流行ってからずっとまとわりついてきてる重さ。
「あ、ゴメンね。何か愚痴っちゃって」
慌てて取り繕う。
「いいっすよ。これくらい」
「そういや、君ももう二十歳だったな。吸わないのかい?」
少し、いつもの調子が戻ってきた店長。
「そうっすね。一本貰って良いっすか?」
「ほい」
一本とチャッカマンも渡され、火を付ける。
「スーッ、ブェッホ!」
煙を美味く吸い込めず、咳き込んでしまう。
「ははは!」
「エホッ……ククク」
二人して笑う。
「ま、別居状態ってだけだからまた売り上げ戻って来れば、な」
「禁煙しなきゃっすね」
「あ、ホントだ」
二人の男、疲れたような笑い声。
まだ夜も更けていない寂しい飲み屋街。
「火を点してくれ」
何処かの暗い路地裏で、小さな声が聞こえた気がした。
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