6-1.追想

   *


 ――そう思っていた頃もあったっけ。


「走れェ!」

 若い男――ケイディさんの荒々しい叫びが耳につんざく。現実逃避しかけていたぼくの思考は霧散し、正面の樹海へと意識を戻した。また乗駄馬獣ノーマ・エクルスらのいななきが轟いた。


 四の蹄が苔土を掘り起こさんばかりに蹴り上げ、風を生み出す。馬獣にしがみつくように屈んでも、ぶつかってくる風を前にはがされてしまう。そのたび後ろで手綱を引くシーナさんに背中を預け、励みの一声をかけられる。苔ばんだ倒木を飛び越え、飛沫を立てては小川を横切り、手招くように伸びた枝葉に構わず太い木々を縫うように駆け抜ける。

 目まぐるしく通り過ぎ、変わりゆく樹海の景色。しかし背後から迫りくる巨大な存在は依然とその底知れない鬼気でぼくたちを喰らおうとしてくる。いや、徐々に迫ってきている。幹が軋み、風の乱れる音が鮮明になってくる。肌のひりつきが増してきた。


「"黄昏の縁、彼の灰を捧ぐヘスペレイ・ハイエ"!」

 先陣を切るケイディさんが詠唱し、掲げる広刃の十字剣に赤熱と焔をまとわせた。馬獣の手綱から手を離し、右側にそびえる巨木を両断せんと焼き斬る。

 悲鳴を上げる緑の巨人は焦煙を吹いて、ぼくらの背後へ地鳴りを立てて崩れ落ちた。途端、爆ぜたような衝撃が肌を麻痺させる。突貫の防壁でさえも功を奏すことはなかったようだ。ぼくらの頭上から先方にかけて樹皮や枝、木粉が降りかかる。


「い゛ッ」

 思わず片耳を塞ぐ。果たしてそれは咆哮なのか。まさに憤怒が森閑を裂いたかのよう。ごうと啼く悪罵あくばは鳥を墜とし、大気は波打つ。

 重くも軽やかな駿足の音はまさに餓えた狩人。這いよる恐怖はざらりと背筋を舐める。捕まれば一巻の終わりだ。


「っ、嘘でしょ」

 ケイディさんの後に続いたランネが絶句する。ようやく樹海から出られるその奥は晴れており――空が広がっていた。

「行き止まり……っ」

 いったいどうすれば。どうしよう、焦るあまりなにも思いつかない。

「飛び込むぞ!」

 迷いない一言だった。馬獣の脚は一層加速し、正面を突っ切る。

 きっとなにか考えがある。そう思ったとき、

「っ、みんな左へ!」

 背後を見ていたシーナさんがぼくの頭上でそう叫ぶ。馬獣らは一斉に左に逸れたとき、風が聴こえた――瞬間。


 浮いた。すべてが浮いた。

 ぼくらも、5頭の馬獣も、木々も、土も石もすべてが絨毯のようにめくれ上がった。根こそぎ抉れる樹海はかみ砕かれたように散り散りになる。

 信じられないほどのりょ力。これが、の繰り出した一撃なのか。道を逸れたのが幸いか、衝撃波に直撃し、木々のように粉々になることはなかった。だが、地面からも馬獣からも放り出されたぼくらに為す術はない。


「アリーっ、掴まって!」

「ランネ……っ」

 彼女が伸ばした手を、ぼくは掴もうと手を伸ばす。どこが地面かもわからないまま、数秒後の命の行方がわからないまま。

 時間が遅く感じる。この感覚は、この笑う皮膚と骨は、記憶に新しい。頭がクリアになるこの感覚を知っている。


 あぁ……どうしてこうなったんだっけ。

 確か、ダイマンさんたちと結託して、まずは計画を立てるミーティングをして、そのあとは――。


   *


「――以上、いま不足しているものはいろいろあるが、細かな備品の調達や作製はこちらで済ませる。君たちはまず、狩猟班に必要な素材の採集依頼をしにいきたまえ。モノン君がリスト化したものを渡しておこう」


 ダイニングテーブルをはさんで議論を4人で重ねた後。指を鳴らしたダイマン先生に応じ、ん、とモノンちゃんが渡してくれたリストを受け取る。

 植物に鉱物に生物に……これら必要素材は仮説検証のためのモデル実験に使うもの。幸い、ぼくの知る原材料だったので大体は見てわかるものだ。そこから錬成する浄化剤はもちろん、小スケールの浄化設備を製作して、あの汚水に対して効果があるのか確立しなければ。実証可能とわかれば、村の皆さんの説得もしやすくなるはず。


 だけど、素材がそろったとしても、計画したいくつかの錬成方法が成功するとも限らないし、成功したとしても汚染水の浄化ができるとも限らない。そして無毒化できたとしても、大量に流出し続ける汚染水をいつまで処理しきれるかわからない。設備の開発だって、スケールアップの際に他の人が協力してくれないと成し遂げられなければ、それが成功するかもわからない。ひとつひとつの壁が大きく、そして不透明。計画自体が間違っているかもしれない。


「案ずることはない、道が険しいだけのことだ。失敗を重ねた先にひとつの成功が待っている。5度にわたる失敗はこの天才が乗り越えてきた。今度の失敗は大きく前進するだろう。マリー君がいるからね」

 励ましの言葉だったのだろう。名前は間違うけど、ダイマンさんの堂々とした様子にただ頷いた。黒板に書き込まれた文字とチャート図へ改めて目を向ける。

 そうだ、今はこれが正しいと信じてやるしかない。間違ったらまた議論して方向性を修正すればいい。


「そうとなれば、さっそくお願いしにいかなきゃだね! ケイディならなんだかんだ引き受けてくれるでしょ」

 それを聞いて思わずびくりとする。ケイディさんはいい人なのだろうけど、少し怖いから。引き受けてくれるかな。


「では、頑張り賜え」

「ダイマン先生は来ないの?」

「得意なことを最大限発揮する場にいてこそ天才。できぬことは諸君に任せた方が賢明であろう」

 確かに、ぼくも魔物だらけの場所で探索なんてできる実力も勇気もない。それなら錬金工房で籠って研究をしている方が肌に合っている。人にお願いごとをするのも苦手な人見知りだけど、対してランネは誰とでも仲良く話すことが得意だ。

 堂々とそう宣言したダイマンさんが少しかっこよく見えた。

「師匠は魔物が怖いの」とモノンちゃんがぽつりと言った。するとダイマンさんはあたふたと弁明した。

「なっ、何を言っているモノン君! この天才が恐れおののくことなどなかろう!」

「いま"百足蜥蜴センチロティリア"が覗いてるけど」


 その単語で思わず窓の外を見てしまったことを後悔した。無数の肢を生やす竜鱗類レプティリアが大きな頭部を窓から入っており、ふたつの丸い目玉をそれぞれの動きでぎょろつかせながら細長い舌をちろちろ出していた。

「好奇心で見に来たんだろうね。体は大きいけど人懐っこいし危なくはないから……ってあれ、無言で気絶しちゃった」

 石像のように立ったまま硬直しており、微動だにしない。だけどそれよりも、ぼくもなんだか眩暈が――。

「きゅう……」

「ってアリー!? しっかりして!」


   *


 気が付くと見知らぬ部屋のベッドで横になっていた。ドラゴンや人喰い植物に遭遇してたから大丈夫だとは思ってたけど、やっぱり魔物は慣れないみたい。診てくれていたランネやモノンちゃんの存在がありがたいけど、迷惑かけちゃったな。それとあの魔物にも。心配してたのか否か、ランネたちの背後の窓からまた覗いていたので、再び気絶するかと思った。

 ダイマンさんは鴉型のガスマスクをつけたまままだ気を失っているみたい。いつものこと、とモノンちゃんは言っていた。


 錬金工房を後にしたぼくたちは、さっそくケイディさんを探す。ミンさんの料理店でお昼ご飯を済ますついでに話を伺ったところ、畑の手伝いをしているという。

 畑に向かうと、農夫さんと一緒に馬鈴薯ばれいしょの種を、耕した土に蒔いている彼の姿があった。あのときの狩人姿とは異なり、短いチュニックを着ていた。薄着だからこそわかる鍛えられた体と、まくった袖から見える浮かんだ血管に、性別どころか人種が違うのではないかと思わせた。


 木陰に座って休憩する際に、ランネから事情を説明してもらい、素材の採集をお願いした。ぼくはただ頭を下げてお願いすることしかできなかったけど。やっぱりちょっと怖い。


「断る」

 そして簡単にもいかない。

 ランネさんはムッとしたのか、文句を言うような口ぶりで訳を問い詰めた。


「もーなんでさ! いまは繁殖期でもないし、"ケリュネイアスの食卓"なら近くて危険も少ないでしょ」

「そんでも危ねぇことに変わりはねぇよ。最近魔物の様子がおかしいって前にも言っただろ」

「でも狩猟班がなんとかしているって」

「順調とまではいかねぇよ。行動パターンが読めなくなってるからな、今までのような対処法じゃうまくいってねぇのが現状だ」

「それってやっぱり河の汚染が原因ってこと?」

「知らねぇけどそんくらいしか考えられねぇよ」

「だったら協力してよ! アリーたちの錬金術が河を綺麗にしてくれるんだから。そのためにそれらの素材が必要なんだって」

「その素材が問題なんだよ。あんまり聞かねぇ素材だしよ、おまえら連れて行かねぇとわかんねぇだろ。となればリスクが大きくなる。そんくらいわかんだろ、おまえの親父が調査班なんだからよ」


 確かに馴染みがなければ、特徴や絵だけでは判別がつきにくいものも多い。そのために専門家自身が現場に赴くことは珍しくなく、事実調査班も護衛の狩猟班と同行するってランネから聞いたことがある。遠征で半年以上この村に帰ってきていないそうだけど、一年が当たり前だと元気に言ったときのランネの顔は寂しそうに見えたな。


「ケイディ以外にも狩猟班の人は連れていけないの?」

「いま手が空いている人はほぼいねぇよ。俺だっていつ出動命令が出るかわからねぇし、許可なく勝手に狩りに出るわけにもいかねぇからな。寒冷期で落ち着くまでは厳しいだろ」


 寒冷期がいつ頃来るのかわからないけど、あの河の惨状を考えたらそのような猶予も考えられない。ランネもそう感じたのか、引き下がらなかった。

「えー、許可もらえばいいじゃん」

「それが簡単じゃねぇから断ってんだろうが」

「――では私が許可しよう」


 重くも滑らかな低音が全身を強張らせた。草を踏む足音と声がした右手へと全員が顔を向けると、竜をまとった騎士が……いや、違う。よく見れば龍の殻鱗と剛毛皮で作られた灰鎧だ。それを装うは屈強な初老。後ろの農夫さんの家にいたのだろうか。

 かき上げた白髪交じりの短髪に緩みのない白い眉毛、短く整えた灰のカコミ髭がより一層男らしさを醸し出している。そして顔に深く刻まれた一本の袈裟斬りの痕。

 紛れもなく只者じゃない。本能的にそう感じさせる気配があった。


「すまないね、盗み聞きをして」

 ふっと微笑を向け、鎧のこすれる音が重々しく鳴る。ふたりも自然と立ち上がったのを見、ぼくもそれに倣う。

「カミンスキー班長……? なぜここに――いや、いま許可するって」

「君たちに頼みたいことがある」


 班長、ということはこの方が狩猟班の……?

 後ろに組んだ両手をそのままに、威厳あるしわは緩まない。半ば親しい関係でもあるのか、立ち上がったケイディの口調にかしこまった様子はない。


「なんですか、改まって頼み事なんて」

「"魔除けの木"と"鹿樹竜カルニバスの角"を調達してきてくれないか」

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