5-2.錬金術師の卵たち

 目を覚ますと、ランネの姿はなかった。起き上がるとスープのいい香りがしてきた。目を向けた先、窓の外は晴れている。その芳ばしさに誘われたように風が入り込んできて、ぼくの髪と肌をやさしく撫でた。窓際に留まった二羽の青い小鳥を見て、頬が緩む。

 今日の朝食はなんだろう。朝を迎えることがこんなに楽しみだなんて、夢にも思わなかったな。……夢、覚めているんだよね?

 

 朝食を済まし、身支度を整えたぼくとランネは目の前の物々しい建物を前にしていた。

「ここが、錬金工房……」

 集落からちょっとだけ距離を置かれたようにぽつりとある、石造りの一軒家。ただヘルマン川に隣接しており、せせらぎと水の音に乗じて大きな水車が回っている。それに帆を張った羽の大きな風車も。おそらくバルコニー型だろう。


 ゴォォ……と風が吹き、草花が流れる音がサァ、と聞こえてくる。どこからか、野鳥のさえずりが奏でている。

 丈の長い麻地の衣服がはためき、外れそうになったフードを被りなおす。振り返っては緑の丘陵と集落を、そしてその地平線を支配する巨塔を見眺める。

 数秒間、それを見つめたぼくは改めて目の前の家へと体を向けた。


「……お、大きいね」

 牧場の家ほどではないが、幅も高さも、他より少し大きめの民家だからか、それともわずかに臭った硫黄を感じたからか、妙な圧を感じる。煙突から白い煙が立ち込めているから留守ではなさそう。


 話が本当なら、ここに錬金術師アルケミスト(を目指している)のダイマンさんとモノンさんがいる。村の間では、チンキ剤含むポーションや広範にわたる素材の受注生産・販売をして生計を立てているのだそう。治療師ヒーラーのランネさんも時折調合薬の相談で何度もお世話になっているから、馴染みはあるようだ。


「そんな緊張しなくても大丈夫だよ、すぐに仲良くなれるから」

 どこにそんな根拠があるのか。でもそれを信じなきゃぼくは不安のあまり身が凍てついていたことだろう。彼女の屈託のない笑顔で体のこわばりもほどけた感覚になる。


 小さなトランクを右手から左手へ持ち直す。ランネはのいくつかの小袋や小瓶が入った籠を提げている。曰く、調合剤だそう。前に向こうが依頼していたのだとか。

 ランネが無骨な木の扉をノックする。胸が高鳴ってきた。


 ギィ、と軋みを立てて扉を開けてくれたのは小さな女の子。頭一つ分は背丈が低いだろうか。黒い前髪が目元でぱっつんと切られた、ツインのホーステール・カントリースタイル。じとっとした群青色の半目でぼくらを見つめるも、何を考えているのかいまいちわからない。子どもに愛嬌と元気さを抜いたらこういう顔になるのだろうか。

 もしかしてこの子が……。


「あ! モノンちゃーん!」

「……」

 まるで妹のようになりふり構わずハグをするランネに対し、表情一つ変えない。

 いやそれどころか、なんだろう、嫌そう。


「用は?」

 女の子らしい声色、だけど物静かで肝が据わったような。ぼそりと放ったその一言でぼくの心は完全に身構えてしまった。だけどランネは相変わらずのコミュニケーションで接していた。


「ダイマン先生にお願いしたいことがあるの。おじゃまできるかな?」

「どうぞ」

 すんなりと中を案内される。入っていきなり石壁だったが、両側に奥へと続く廊下があることに気づく。右手へ歩く少女の後を続いた。

 中はガスランプや発光石が明かりの役割を担っており、木でできた窓は締め切っていた。朝日の光は解放された木蓋の天窓くらい。広がった先は居間だろうか、それとも書斎? どっちともいえないが、天窓が開いてなければ時間帯は壁に埋め込まれた機械仕掛けの時計でしかわからなかっただろう。

 鼻腔に入る精油に似た香りは天井に干された薬草か、あるいは炭しか残っていない静かな暖炉の鉄釜か。奥からゴトゴトと重く響く音が聞こえてくるが、水車か風車と連結した歯車が回る音だろう。今日は風が強めだから。


「座って」と言われ、赤い布のテーブルクロスがかかったウッドテーブルの傍の、長椅子に腰を下ろす。これいつものね、とランネは持っていた籠をテーブルの上に置いた。その女の子――モノンちゃんはこくりと頷いただけだ。

 なんだか話しかけにくい人だな。ぼくの場合、誰にも話しかけられないけど。でも、こんな小さな女の子が錬金術に関心もって学んでいるんだ、ちょっと親近感湧いて嬉しいな。


「この人は?」と、モノンちゃんはじとりとした半目で、ぼくをみた。すかさずランネが身振り手振りで紹介してくれる。

「この村に住むことになったアリーだよ! 私と同じ16歳で、なんと錬金術師なのだ!」

「あ、アルメルト・サフランです。よ、よろしく、ね……」

 ふーん、とでも言いたげな顔。会釈したぼくは改めて彼女を見ると、ほんの少しだけ、そのじと目が開いたような気がした。


「ほんもの?」

「うん! 本物の錬金術師!」とランネ。

「おぉ……」

 小さなリアクションだが、何かに感動しているような。胸の前に小さな拳をふたつつくった。

 すると、ぼくの前に立っては、ちょっとだけ弾んだような声で尋ねてきた。


「アルメルト。ニンゲン作れる?」

「にっ、人間?」

「うん……!」

 その群青色の瞳が輝いてなくもない。無邪気な子供のそれを前に、いたたまれない気持ちになる。

 人間……"人造人間ホムンクルス"なら作れないことはない。ただ制約があって、直接的な表現は避けられているけど。


 国外の文献より、"錬丹術"の権威ことフィリップス・アウレオール氏が竜やヒトの胚子はいしから電気信号を発する脳の一部を培養させたことを報告しているし、ぼくが所属していた王立中央錬金術研究所でも変形菌スライムモールド知能化インテリジェントや、それを応用した人工脊髄の作製が実現している。果ては動植物の擬態を得意とするPMR型スライムという粘蟲類ヒドロゾスに属す魔物を使ってヒト臓器を作ることも手掛けていたけど、制御が難しくて中止になったんだっけ。

 噂ではどこかの王立研究所で兵士を細胞から造るプロジェクトがあるそうだが、真偽は不明だ。

 とはいえ、そんなことを目の前の10歳ちょっとの好奇心旺盛な女の子に言えるはずもなく。


「り、倫理的にダメなものはちょっと」

「そう」

 目の色が戻った。ちょっと申し訳ないな。でも興味は尽きなかったようで、矢継ぎ早に次の質問へと移った。


「じゃあ、どんな錬金術すき?」

「あ、えっと、か、触媒カタリストの研究、です。えっと、錬成反応のサポートをしてくれる、有用な触媒を、作って、その、任意の素材を効率よく、たくさん作る研究を主にしてき、ました」

 難しかっただろうか、それとも地味に思えただろうか。なるほどといわんばかりにいたいけな女の子はうなずき、小さな口を開いた。


「鉛から金にできる?」

「元素そのものを変えることはちょっと」

「師匠は粒子論的に可能って言ってた」

 師匠って、ダイマンさんのことだろうか。


 確かに卑金属から貴金属に変換できる術はまったく不可能ではないことを理論錬金学的に証明されている。その論文の著者ファーストオーサーは確か黄金卿ことウィスタング・サンジェルマンという著名人だったろうか、"黄金錬成アルス・マグナ"の研究の最先端を担っているんだけど、元素変換は理論上可能とはいえコスト的に非常に困難のために実現は未だできていない。


 だから最近は多元系コアシェル構造の複合遷移せんい金属によって、機能性の高い黄金色の新規元素を作っているとハギンス先生から聞いたことあったっけ。

 なんであれ、触媒で元素の変換は実質できない。


「く、詳しいんですね」

「というかアリー、なんで敬語なの?」

「ちょ、ちょっと圧を感じて」

 ひきつった笑いをしていたことだろう。するとモノンちゃんは何も言わず、壁の本棚から一冊の分厚い書物を取り出し、ぼくの前に両手で渡してきた。そのタイトルは「Process of Porcus」と書いてあった。錬金術の手法のひとつの名だ。


「モノン・ポラセル。12歳。すきな錬金術は"単系調合ポーカス法"でいろんな金属や陶磁器、樹脂をつくること。おかあさんのはちみつパンケーキとシーナのミルクセーキがすき」

 淡々と自己紹介され、何のことだかぼくはぽかんとしてしまった。

 大人のような物静かさと、大人でも子供でも発せない不思議なオーラがあるけど、意外と小さい子が好みそうな食べ物が好きなんだ。シーナさん、デザート作るの得意なんだ、知らなかった。

 いやそういうことじゃない。もしかしなくても気を遣われている。自分が年上なのに。4つも年上なのに。なんてぼくは情けないんだ。


「あ、ありがとう……その、えっと、あの、ぼ、ぼくも……パンケーキとミルクセーキ、すき……だよ」

 渡してきた書物だって友好の証だったろうに。大した気遣いの言葉もできず、そう返すことしかできなかった自分のコミュニケーション能力の疎さを呪いたい。


「ポーカス法は?」

「そ、それも好き、かな」

 あれ体力もいるし難しいからそこまで得意じゃないけど。


「そっか」

 そんな単純な一言で返されるのも無理はない。そうとしかいえない返事をしたのだから。


「ねぇモノンちゃん、ダイマン先生はいる?」

 ぼくにとっては助け舟に等しいランネの一言に、モノンちゃんはおさげを揺らして廊下の方へと指さした。


「師匠は――」

「どわぁあああああ!!!」

 男の悲鳴が家中に響きわたる。爆発音に無数のガラスが割れる音に、石が崩れるような音。この部屋もわずかに揺れた。

「いつもどおり」とモノンちゃんは指さしたまま。みたいだね、とランネも元気よく返した。まさか日常茶飯事のことなの……!?


 ランネの後を追い、すぐさま駆けつける。

 反対側の廊下を進み、扉のひとつを開ける。立ち込める黒煙に混じる黄色っぽい粉末。砂埃までも顔を覆いそうになり咳き込む。

 だが換気は良いのか、すぐに晴れていく。それに乗じてぼくたちは部屋の中へと進んだ。ふと臭った芳香族臭に袖で口をふさぎ、眉をひそめた。


「ひっ……」

 おそらく錬金工房、なのだろう。砂礫に砂埃、ガラスの破片の漏れた薬品の数々。パラパラと剥がれた石の壁。

 広い一室の一部だけとはいえ、惨憺たるほどに爆発四散した部屋は、見ただけで青ざめてしまうものだ。ここが王立研究所だったらどれだけの賠償金がかかり、どれだけの報告書を書かなきゃならないか。


「だ、だいじょうぶ、なの、これ……?」

 どう考えても事故だよね……?

 明らか無事ではないと思った矢先、ガララ、と石や木片の山から人影が這い出てきては立ち上がった。


「ふっ、フフッ、フハハハハ! すばらしい、素晴らしい! なんて素晴らしい結果だ!」

 籠ったような男の哄笑こうしょうとどろく。20代あたりに相当する声色と長身痩躯があらわになり、ぼくはぎょっとした。煤まみれの黒い錬金術衣に、鳥の頭――いや、カラス型のガスマスクだ。金属製の錆色のくちばしにガラス製の大きな両目がぬらりと輝いては、細い体を大きく震わせている。


「また失敗? ダイマンせんせー」

 そうランネが半ば呆れたように声をかけたが、客人が来ていることに気づかなかったようで、ただその言葉の意味だけを受け止めたようだ。


「無論! 失敗も失敗、大失敗だ! だがしかァし! これは紛れもなき前進! 邁進! 大行進! 無限の失敗の砂粒が土壌となり、無念の涙と汗で研究の芽は樹へと育み、やがてひとつの成功の果実と為る!」

 マスクで表情が一切わからないが、きっと狂ったように笑っていることだろう。バッと長い両手足を大きく広げ、こちらへと振り返った。


「御覧ぜよ! かの多硝基グラウバール結晶を使わずしてこの圧倒的反応速度! 常圧にして湯温程度の温和な条件でここまでの熱量と破壊力! そして瞬く間に起きた自己消化! ただの爆薬としても申し分ないが、否! これならばあの金剛鋼アダマンタイトの微粒子化ないし新たな有機金属錯体メタルコンプレックスの開発に一歩近づけるぞォ!」


「師匠、いまの爆発で他のサンプルもぶっ飛んでる」

「何ィ!? それは一大事だモノン君! いや、辛うじて無事かもしれ――あ、ほんとだ。木端微塵だ。ぐわぁああああしまったァ!」

 一人で何かを確認して、一人で急に冷静になって、一人で頭を抱えたままブリッジして瓦礫の床に突っ込む。この2,3秒でとった言動とは思えない。とにかく感情と行動が忙しない人だなと、ぼくは思いました。


「なんてことだ。仮説を超えたこの現象はまさに意外! 憤慨! 大損害! この天才としたことが――いや、ひとつの偉業に犠牲はつきもの。また修理して再実験すればいいさ。この圧倒的切り替えの速さ、当に天才の所業! 天才じゃなきゃ見逃しちゃうね!」

「あの、手伝おっか?」

 その一言で存在を認知してもらえたのか、ブリッジしたまま腕を組んでいた姿勢からそのままピシッと起き上がる。何事もなかったかのように右手を顔の横に挙げては挨拶をする。


「ん? やぁやぁランネ君か! 調合薬の提供いつも助かっているよ。その気持ちは嬉しいがこれは天才のしたこと。無関係な君にやらせるわけにはいかないから客人は居間でくつろいでいるといい。ああ、紅茶の葉は食器棚の下の引き出しにしまっている。好きに飲みたまえ。この天才が許可しよう」

 あまりの早口と俊敏な動作についていけなくなっているが、ランネはちゃんと対応しているのがすごい。


「気を遣っているんだか遣っていないんだか。まぁいつものことだけど」

「それよりも彼女は誰なんだい。この天才の記憶では、3か月前にはいなかった人物だ」

 鴉マスクの人――ダイマンさんの視線はわからないが、ぼくの方を見ている気がした。トントン、と指で頭を叩く仕草はなぜだか頭がいい人がやりそうなことだとおもってしまう。


「天才ならその記憶の更新頻度を高めた方が良いんじゃないかな」

「む。それもそうだな。いや、外に出るくらいなら研究をした方が……」

「この子はアリー。塔の国から来た錬金術師なの」

 正確には「流れ着いた」だけど、それよりもダイマンさんがぴくりと反応し、早口をまくしたてながらズンズンとこちらに迫ってきた。

 思わず何歩もぼくは身を反りながら後ずさる。そして身振り手振りしながら立ち止まった様はまるで演説者のようだ。


「ほう。ほうほうほうほうほう。その白百合の如く麗しき可憐な儚き少女が錬金術師と。これは驚いた。それが真であれば、この天才は偏見を抱いていたということになるね。なるほど、これは天才だけでなくモノン君にも希望があるわけだ。錬金術師に年齢は関係ないという証明になる。実に喜ばしき展望! 朗報! 大吉報だ! ……それが真の話であるならの話だが」

 くるっと、改めてぼくをみた。ピシッとかかとを合わせ、手を後ろに組んだ彼の声は一段と冷たくなった気がした。


「初対面で悪いが、この天才の慧眼に誓って、君が錬金術師だとにわかには信じがたい。その言葉が真であるならば、錬金術師のライセンスがあるはずだ」

 心臓が嫌な音を立てる。

 そうだよね、錬金術師を目指しているなら"職業認定証ライセンス"の取得は不可欠だ。そのことをすっかり忘れていた。

 河をなんとかする以前に、自分が錬金術師である証拠がないことにどうして今まで気づかなかった。冷や汗が止まらない。


「そ、それが……塔の国で盗られちゃって」

「それは誠に不運。とんだ悪党もいたもんだ」と、考える素振り。よし、とレザーの手袋をはめた指をパチンと鳴らす。よく鳴らせたな、と思う。


「それならばそれ以外の方法でこの天才を納得させよ。でなければ二度と我々の前で錬金術師と名乗らないでくれたまえ。間違う者は好きだが嘘を吐くものは嫌いなんだ。それに我が助手のモノン君を悲しませたくない」

「ええっ、そんくらい信じてよダイマン先生」


「甘い! 手緩い! 大安易! 異国の甘味料より甘いぞランネ君。近年では専門職、それも錬金術師を騙る詐欺師が出てくるようになったのだ、簡単に信用すれば足元をすくわれるぞ。自らを専門職だと名乗る以上、証拠あるいはそれに相当する実力がなければ天才どころか凡才も納得しないのは自然の摂理に準ずる、そうだろう!」

「それはそうだけど」

 ランネも反論したくも、すぐに言葉が出てこない様子。


「え、えっと、そしたら、どうすれば……」

 その言葉を待っていたといわんばかりにクツクツと笑い、白衣の内側へと手を伸ばした。


「真の錬金術師であるならば、この物質の素晴らしさが分かるはずだ!」

 無傷の実験台の上にドンと置かれたのはマグカップサイズの褐色瓶。中に黒いものが入っているが、一塊の固体であること以外わからない。

 顔を上げたダイマンさんは重い声で言った。


「問おう。これがどんなもので、なんのために作られたのか。それも含め、君の意見を聞きたい」

 咄嗟にランネが驚愕の声とともに反論の口を開く。


「そんなの無茶だよ、せめてどういうものかくらい教えないと」

「物質の本質を見抜き、変化の力を以て我らの歴史の礎を築く"素材"となる。問いと真理を導く者こそ、錬金術師というものだよ」

「だからといって――」

「ランネ。……だいじょうぶ」

「アリー……?」

 彼女が何か言いたげだったのも仕方ない。声が震えていたのだから。

 正直、大丈夫じゃない。いきなりの難題だし、不安だし、怖い。こんな自分ができるのか。でも、ルドベック部門長ディレクターや他の研究員と報告会や企画会をするよりは遥かにマシだ。何より、ランネがそばにいる。


 恐る恐る、周囲を見渡す。

 石レンガの壁に出窓式の原始的な局所排気装置ヒュームフード、無数の金属パイプとガラスの管は何かしらのガスや液体等の流動体で充填されているのだろう。

 加え、大量に並ぶ試験管や分離精製クロマトカラム管、何かの試料が溶け込んだ溶液入りの三角フラスコ、デシケーターに入れられた固体サンプル入りナスフラスコの数々、そして蒸留器ランビキや冷却器をはじめとしたガラスの複雑な組み立ては"多段合成ウッドワード法"に基づいた装置だろう。


 中央にはポーカス法に使われる中型錬金釜3つと3基の錬成炉、そして換気用の天井筒。壁際のタンク数基は純水と脱水された有機溶媒らか、あるいは不活性ガスか。鍵のついた棚には大量のガラス器具と薬品。


 錬成物を同定するための"各分析器材アナライザー"や、"光波長分布図印刷装置マルチスペクトラー"も奥にあり、壁に設置された熱電機関を動力に強力な"分析用誘導放出光増幅放射線レーザー機器"を動作させているようだ。その傍に小型の炉らしき横向きの金属筒が置かれているが、設置場所的に焼結や錬成用でなく、熱挙動や熱分解を調べるための熱天秤が入っているものだろう。


 研究所の設備とは程遠く、どれも古いとはいえ、原理や操作方法は同じだから問題はない。それよりも、こんな辺境の村でよくこれだけのものがそろったと思う。どこから調達しているのか気になるが、今はそれについて考えている場合じゃない。


「……あの、ここの設備だけで作ったのですよね」

「無論」

「差し支えなければ、その、ここを……拝借してもよろしい、ですか? それと、あの……その物質も、少量いただいても」

「構わんよ。好きに使うといい」

 やれるものならな、と言わんばかりの様子。でも自由に使えるならまだなんとかなりそうだ。

 小声で感謝をつげ、ぼくは褐色瓶を手にし、空いている実験台の上に手提げのトランクを載せる。念のため持ってきてよかった。


 ゆっくり息を吸って。……吐いて。

 混ざった薬品の味がしたが、ぼくにとっては懐かしく、心地のいいものだ。段々と思考が落ち着いてくる。

 大丈夫。今までやってきたことを、今ここでやるだけだ。


―――――――――――――

【補足】

・カントリースタイルはおさげのことです。結び目が耳より下にある場合にそう呼びます。結び目が耳より上だと一般的なツインテール(ラビットスタイル)となります。

ホーステールは長い髪のことです。

・鴉型のガスマスクはペストマスクに酷似しています。

【用語】

・錬金術:この異世界の物質を対象とする学問および技術。元々は金属や鉱物を取り扱う術であったため、この名称が昨今でも定着しているが、錬成術や錬丹術という派生した言葉も出始めている(広義的には同義とされる)。魔法現象や生命現象等も含め唯物論を基本とし、元素論、粒子論、電磁論、構造論、反応論などをもとに物質を取り扱う。錬成手法としてポーカス法やウッドワード法などがある。

・錬丹術:この世界のこの時代では生命・医薬を対象にした錬金術のことを指す。近年では食品や化粧品の分野も該当するようになった。

・PMR型スライム:多能性擬態複製(Pluripotent Mimicry Replication)スライム。ステムスライムの一種。

・スライム:ゲル状ないしゾル状の魔法生物。99.9%は水分であることがほとんどだが、その種は発見数だけで千を超える。種類や環境によって粘弾性は異なり、また単体型と群体型が確認されている。種類や個体差によるも、無害か否かは素人では判別付きにくい。世界中のどこでも確認されており身近だが、魔物の中でも謎が深い故にスライム学という一種を対象にした学問が確立されている。

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