3-5.ウェルテル河の汚染

   *


「ここはね、"天時計の丘"。ここから村とユングの丘を一望できるんだ」

 シーナさんとコテツ君と別れ、なだらかな丘の頂上へとぼくらは向かった。案内されるがままに、ぼくはランネさんについていった。

 でも、それよりも気になったことがあり、自分は上の空だっただろう。道中話していたことを思い出せない。


 天時計といわれる12階建てほどの高さを誇る機械仕掛けの白い尖塔。それを囲う円環が5本の柱によって支えられている。それらの壁や柱、床に刻まれている模様が何なのかもわからないが、塔の周囲、階層ごとに設置されているのは複数の大きな天球儀、だろうか。先頭の中心や先端付近は雫型に膨らんでおり、網目状の格子の中に複数の金属球が辛うじて見えた。


 円環の内側から塔を見上げることで"天上の世界"の現在の時刻が分かるらしい。とはいえ、その世界の時刻を基準にしているため、動いているオブジェクトはごく一部だ。詳細を聞くも、ランネさんはよくわからないの一言。


 この村の中に非常に優れた数術師と占星術師がいるのだろう。天理学は触り程度しか知らず、天体の存在や種類、現象はともかく、世界は複数あるということしか印象に残っていない。次元論や時空論、複素界子力学で証明できるそうだが、大学の書物に目を通して理解できないと結論付けたっけ、と思い返す。


「……で、あそこが教会ね。定期的にミサをしてるから、その日が来たら教会のこともいろいろ教えるね。あと前の広場でお祭りもしたりするの。とっても楽しいから、絶対アリーも気に入るよ!」

 円環の外――石畳の床から出た彼女は指をさしては説明する。流されるようにぼくもただそれを見つめながら、別のことを考えていた。


 指さした先の町並み。こうやってみると民家がぽつぽつあったり少し集まっていたりと疎らだ。畑や牧場が大半だろう。奥に木々と湖畔が見える。さっきいた牧場だろうか。

 この天時計を中心に、村は展開されているようだ。


「アリー大丈夫? さっきからぼーっとしてるけど」

 顔を覗かれたことに気付き、ハッとする。少し心配そうな顔だった。

「えっ、あ、うん、ごめんね。ちょっと考えごとしてて」

「考え事?」

 少し言いづらいが、彼女なら受け入れてくれるかもしれない。そう信じて、ぼくは息を吸った。


「その……ここの村の河って、汚れているの?」

 魔窟の中にあった、平和な町。しかしその裏を垣間見た以上、放っておけない気持ちがなかったと言えばうそになる。気になったら突き止めたくなるのは錬金術師の性だろうか。あるいは自分だけが知らないという状況を作りたくなかっただけか。


「村の皆さんの話でも少し、話題になっていたし、あそこの大きな河も、ちょっと……その、違和感、あったから」

 ちょっとした沈黙が怖かった。ぼくから離れたランネさんは数歩前に進んで、立ち止まった。標高が少し高めだからか、風が強い。彼女の髪が右に靡く。

「……行ってみる?」


   *


 その河の名前はウェルテルという。村のはずれにあるとはいえ、歩いてもいける距離だった。向こう岸へ渡るには小舟が必要だと思うくらいの広く大きな河川だ。


「なにこれ……」

 ただ、水は黒と灰色で濁っており、透明さの欠片もない。何かの固形物やごみが浮き沈みしながらゆっくりと流れている。水面の一部は色鮮やかな赤や白い膜で覆われており、菌の類か工業生産物の廃液だと察した。岸にはごみ混じりのヘドロが溜まり、虫が集っていた。

 ひどい臭い。ここにいるだけで吐きそうになる。空気も生暖かく、大気が滞っているように感じられた。


「ここが汚くて、土も水も汚染されちゃってるの。私たちの村はヘルマン川とドロテア川を中心に灌漑に使っているからそこまで影響はないけど、徐々に侵蝕はしてきてるんだ」

 隣に立つランネさんはその河を見下みおろしながら、袖で口元を抑えつつ淡々と説明する。あの明るかった彼女が眉をひそめているのも無理はない。この凄惨な景色は深刻な問題だ。


「作物の育ちも少しずつ悪くなってきているし、大きな魚も獲れなくなったのも痛手だけど、なによりも魔物への影響が問題でね。生態も崩れかけてるだけじゃなくて、魔物の体に毒が溜まってきている可能性があるんだ。命をいただいている私たちにしたら、こっちも毒に侵されて病にかかってしまうのも時間の問題なの」

「この川の上流って……」

 左手の景色へと首を向ける。地平線の前に居座る、空をも衝く山のような巨塔。疑うまでもなかった。


「うん。塔の国のごみや下水がこっちに流れているの」

「ひどい……」

 待って。いま、自分はひどいって言ったのか?

 なにを他人事のように。

 自分もあちら側だっただろう。


「あ、ケイディ!」

 右側で誰かを見かけたのか、ランネさんは手を振って声を張った。

 こちらに歩いてきたのは長身で体格のいい青年。アップバングにした煉瓦色ブリックレッドの短髪が似合う、精悍な顔つきだ。


 全身に纏う鉄色と赤茶褐色が基調の鎧は、冒険者のそれよりも重厚で、かつ騎士のそれよりも身軽、そして野生みを感じさせた。鉄のような金属だけじゃない、魔物の頑強な皮膚や殻も使っているのだろうか。左腕の甲冑に装着されている盾は傷だらけだろうと未だ金属ならではの鈍い光沢を放つ。


 そして、腰に携えたあれはまさしく剣。ギルドの前で見かけたときもそうだったが、武器と縁がなかったぼくにとってそれは、触れちゃいけないような物々しさを感じさせる。


「おう」

 ケイディと呼ばれた青年は無愛想に返事をした。機嫌悪そうな印象だし、怖そうな人だ。

「狩猟は終わったの?」

「ああ、今日の分で今週はもつはずだ」

 ガシャンと鎧が重なる音を奏で、腰に手を当てる。睨まれただけで気絶する自信がある。そんなぼくに反してランネさんは親しい様子でいつもの笑顔を向けていた。


「じゃあ今日はゆっくり休めるね!」

「そんなわけにもいかねーよ。今夜も村の見張りで巡回しなきゃならねぇし。最近はこのあたりに棲む魔物の様子も変だからな」

 ふと、彼と目が合う。身長差があるとはいえ、見下される感覚はまるで悪いことをしてしまったかのように胸が痛くなる。

「そいつが例の女か」


 全身が震える。おそらくぼくが手当てされて眠っている間に、この人にもぼくのことをランネさんが教えたのだろう。確かに昨日は夕方あたりで一度眠ったから、そのあたりだろうか。

 今までと違う、威圧。明らかに警戒している、いや敵視している圧力。しかしランネさんは気付いていないのか否か、自分のことのように快く紹介してくれる。


「うん! アルメルト・サフラン。アリーっていうの。アリー、こいつはね――」

「ケイディ・オーク。つっても、覚える必要はねーよ。近いうちにここから出て行ってもらうからな」

「……っ」


 なんとなく察してはいたが、やはり正面から言われると堪える。

 そうだ。わかっていたはずだろう。あまりにもみんながやさしいから、錯覚しかけていた。

 みんながみんな、ぼくのことを良く思っているわけではないと。


「いきなりそんなひどいこと言わなくてもいーじゃん」

 ランネさんはふてくされたように頬を膨らませた。しかし彼は動じない。その鶏冠石の眼光がたまらなく怖かった。


「当然の対応だと思うがな。こんな得体のしれない外部の人間を信用できるわけがねぇ。それにな、俺は塔の国の奴らが大嫌いなんだよ。特にあそこでふんぞり返っている貴族と、そいつらの私利私欲のために毒を作り続ける錬金術師がな」

 引き裂かれそうな胸の痛み。刺すような頭痛。この人を直視できなくなり、萎れ褪せた草原の地を見つめてしまう。胸あたりの服を掴んでいた手が力み、汗ばむ。

 私情が混ざっているも、彼の言う事は間違っていない。人として当然の反応だ。ぼくだって同じ立場ならそうする。むしろ、今までやさしくされたのがおかしいのだ。それに甘んじて、ぼくは目をつぶっていたんだ。


「おまえの話じゃ、そいつも貴族生まれの錬金術師なんだろ? この村が貧しくなっている元凶そのものじゃねーか」

「アリー本人がしたわけじゃないよ」

「同類だ。罪の意識がないだけの違いだ」


 ゴッ、と。

 ランネさんは手に提げていた瓶や果実入りの籠を大きく振り回し、彼の顔面に叩き付けた。突飛なあまり、開いた口が塞がらない。あれはかなり痛い。

 同様、不意を突かれた彼は鼻を抑えるも一歩しか仰け反らなかった。


「テメっ、いきなりなにすん――」

「ケイディのバーッカ! 石頭! そんなんだから恋人いないんだぞ!」

「はっ!? ちょ、バッ、何言ってやが――」

「いこっ、アリー。こんなデリカシーのないやつと仲良くする必要なんてないよ」

「えっ、あ、あのっ」

 彼女に手を掴まれ、顔を赤くした彼から逃げるように連れていかれた。

 だが彼は追いかけることなく、ただ怒鳴るような声が後ろから聞こえるだけ。


「おい! 俺は忠告したからな! この村の全員が賛成してるわけじゃねーっての頭に入れとけよ!」

「あーうるさいうるさい」

 呆れるような声をこぼし、その場を後にした。唖然としたままのぼくは、ただ引っ張られるがままだった。

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