3-6.少女のエゴ
早歩きもやめ、手を放してもらったときには見覚えのある草原の地についていた。緑燃える平原と小さな花畑が広がるも、振り返れば集落が広がっている。河からも離れたため、不快な空気は感じなかった。
振り返ったランネさんも憤りを治めたようで、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんねアリー、あいつ気遣いとかそういうの苦手な奴でさ」
「ううん、だいじょうぶ。あの人の言っていることは……本当のことだから」
うつむきながらそう答える。嫌いと言われたし、言い方はきつかったけど、その根幹としてこの村のためを思って言ってくれているのも否定はできない。こちらが反論する立場でないことは確かだ。
すると彼女は籠を置き、ぼくの正面に立つ。ぎゅっと、手を両手で握ったときはびっくりした。驚きの声が出そうになるも、ランネさんの真剣な目がそれを引っ込ませる。
「本当でも、その責任ぜんぶを抱え込む必要はないからね。確かに河の汚れのせいで問題はたくさん起きてる。病気の危険もあるし貧しくなってきているし、できることも限られて不便になってきているし……でも!」
ふっと緩んだように笑みを向ける。
「それでも、みんなが笑って元気でいるから、幸せに生きてるの」
彼女の言葉が、すっと頭に入ったわけではない。きっと強がりだ。そんな状況で苦しくないはずがない。先行きが不安だろうし、今頃だって例の村長をはじめいろんな大人たちが対策を考えているはずだ。
笑えない。元気でいられるはずがない。それで幸せって言えるのはおかしいよ。それであんなに笑顔でいられるのはおかしいよ。それを押し殺してまで、幸せだっていえるのが良いことなの? 表面を取り繕ってまで、演じる必要があるの?
みんな苦しいはずなのに。
みんな知っている上で、あんなにやさしい顔をしているの?
それを答えてくれるように、ランネさんは言葉を続けた。
「幸せに思う気持ちがあれば、いいことがたくさん起きるの。アリーにも、そう思っていてほしい」
「なんで……?」
「なんでもなにも、アリーに楽しく生きていてほしいから!」
ああ、そうか。
視線を落とす。握られたままの手を見つめる。
みんな強いから、前向きなんだ。ぼくの知らない何かを信じているから、無理をしても、苦しくても、戦えているんだ。
ひとりぼっちでも、前を向けるんだ。
きっと彼女は、その力強さをもって勇気づけようとしているんだろう。
だけど――。
陽が雲に隠れる。涼しい風が白い髪を揺らした。
――だけど、ごめんなさい。
ぼくはみんなのように強くはないんだ。
「……でも、ぼくにそんな資格――」
「生きることに資格も価値もいらないよ。与えてもらったその命は自分のためにあるんでしょ?」
ハッと、瞳孔が開いた感覚。
与えてもらった。自分のための、命。
違う。
価値がなければ、生きる資格なんて。資格がなければ、生きる価値なんて。
資産が。技術が。それをもっての力がすべてだと、そんな世界で生まれ育ったぼくが、そう簡単に生きる意味を変えられるわけがない。
「やめて……やめてよ、そんな、偽善」
思わず口に出してしまった言葉。でも、湧き出てくる。止まらない。声も、涙も。
震えが止まらない。
怖い。怒りも恨みも優しさもすべてが。
「アリー?」
手を払い、数歩後ずさる。草を踏む音がやけに耳にこびりついた。
「ぼ、ぼくはのぞ、望まれてう、生まれて、ない。自分のための人生、なんて……そんなの、ない。ぼくは、みんなのために、生きたいの。じぶ、自分だけ、の……人生を過ごす、だっ、だけの、勇気なんて、ないんだ」
「だから自分から命を捨てるの?」
心配したような。諫めるような。咎めるような。責めるような。
彼女の優しい声にチクチクとした棘が入っている。そんな真直ぐな目で見ないで。
ぼくは間違っているの? そう、間違っているんだ。違う。この気持ちを否定してしまったら、ぼくがぼくでいられなくなる。
「っ、楽になりたいことのっ、な、なにがわるいの……!? 遠いところにいきたいだけなのに、それのっ、どこがわるいの……っ」
なんでこの人は土足で踏み込むの? 思えばこれまでだってそうだ。おかしいよ。何かの企みがあるに違いない。こんな不幸な人間に良くするメリットなんて何一つない。あるとすれば、利用。きたない心でなければこんな優しさは生まれない。
あの温かさは嘘なんだ。……嫌だ。それは信じたくない。あれは本物だった。でも人はみんな利己的で、自分勝手で、汚くて。だから、だから……わからない。
わからないよ。
「あなたには……関係、ない。こんな他人に、やさしくする、意味が……わからない。なんでぼくに、やさしくするの……っ、こんな無能で醜いできそこないなんて、放っておけばよかったのに……なんで、なんで……っ」
目が熱い。勝手に声が震えてくる。別に泣きたくなんかないのに。構ってほしいとも思わないのに。慰められてほしいとも思わないのに。目を拭っても拭っても、手は濡れるばかり。
「死にたいだけなのに、引き留めないで……お願いだから」
なにもみたくない。こんなぼくの歪んだ顔を見られたくない。両手で顔を隠す。逃げたい。でも足までも震えて思うように走れないと悟ったぼくは、その場でしゃがもうとした。
ふわりと香る、カモミール。体が欲しがっていた人の温もり。だけど、今はそれがとても不快なものに感じられた。
それで慰めたつもりにならないで。
「やめてよっ!」
抱擁してきた彼女を突き放す。ハッとしたぼくは前を見る。
違う。そんなつもりじゃない。あなたを傷つけるつもりじゃない。
そんな悲しそうな顔をしないで。
「……そうだよね。怖がらせないようにするためにしてきたつもりだったけど、かえって不安にさせちゃったんだね。ごめんね、私、気付かなかった」
「あ……や、ご、ごめ……さ……」
「そっか……アリーはしにたいんだね」
違う。死にたいんだけど、違う。
死にたくない。生きたい。本当は生きたい。苦しいまま死にたくない。
苦しみたくないから、死にたいだけで。
生きる勇気がないから、死にたいだけで。
死ぬ勇気がないから、生きるしかなくて。
空っぽになりたくて。でも空虚な思いを感じたくなくて。
わかっているんだ。死んだところでどうにもならないって。でもどうにもならない今をどうにかしたいから、ぜんぶ捨てたいんだ。
だから逃げるの?
恵まれた環境なのに。
働けて、社会に貢献して、ご飯も食べられているのに。
あなたよりも苦しんで、まともな生活を送れない人間はたくさんいるのに。
ここにいさせてくれた家族と職員に感謝しないなんて人としてどうかしてる。
逃げることは関わってきた人たちに対して失礼だ。裏切りだ。恩知らずだ。
うるさい、うるさいうるさいうるさい!
そうだとしてもぼくはもう頑張れない。頑張りたくない。
みんな言ってたじゃないか。常識のことができない無能だって。社会を知らない子どもだって。怒られて治せるならとっくに治してるよ。
ぼくもオーリアみたいな普通の子になれたら。
リーヴァン先生みたいな学者になれたら。
ハギンス先生みたいな真直ぐな人間になれたら。
シェスカ主任みたいな優秀な女性になれたら。
目の前の少女みたいに……太陽もびっくりするくらい明るくて元気な女の子になれたら。
優しい人間になりたい。素直になりたい。
たったひとつの勇気だけがほしいのに。
なのに、なんで言葉にできないの。なんで声が出ないの。
なんで涙ばかり出てくるの。
崩れるように、ぼくはその場で両足を折り、その間に腰を落とす。長いスカートを両手でつかんで、堪えるも涙がとまらない。ただ情けなく体を震わすばかり。言葉にしたいのに何一つ声にできない。なにかを言いたいのに、何を言えばいいのかわからない。なんでこんな気持ちになっているのかわからない。こんな情緒不安定な自分がたまらなく嫌いだ。
きっと、いまこそ叫べばいいのだろう。目の前の果てが見えない草原と空は、このわけもわからない気持ちを受け止めてくれるのだから。
ふと彼女が隣に腰かけた。少しの間の沈黙が怖かったけど、出てきた言葉は、いつものように優しく、だけど切なそうなそれだった。
「……私もね、勇気がないんだ。こう見えてね」
それに応えられるほどの余裕はなかった。それをくみ取ってくれたのか否か、彼女は話を続けた。まるでこの世界とお話するかのように、彼女は前を見て語った。
「昔からね、誰かの為になって、喜ばせることだけが私の生きる理由だったの。こういう辺境の村だからさ、お互い助け合わないと生きていけない環境だとそれが生き甲斐になるんだよね。だからお父さんみたいに勇敢な調査班に憧れて、お母さんみたいな、立派な
いつの間にか、ぼくは彼女を見ていた。思い返し、儚げに一人語る彼女はとても寂しそうだった。あんなに明るい人がこんな顔もするんだと、驚いたくらい。
そっと、左手の甲に彼女が伸ばした手先が触れる。これまでのように慰めるそれではなく、必死の思いを外側に出した末に出た行動だとすぐにわかった。でも、その理由だけは、察せなかった。
「信じられないかもしれないけど、アリーは私にとっての勇気なの。アリーの幸せが、私の幸せなの。これまでの生活が貧しくても、私は幸せだと本気で思ってる。でも、どこか虚しくて、みんな頼れるはずなのに孤独を感じてさ。そんなときにアリーが助けに来てくれたの」
「……ぼくが?」
「うん、アリーが私に生き続けてもいいんだよって勇気をくれたの。川から流れてきたアリーを助けられたとき、本当に嬉しかった。それにね、思ってたの。話したとき、なんて優しくて、儚げな女の子なんだろうって。でも苦しそうで、今にも死んでしまいそうで。友達になれるかもしれないのに、こんなに優しい子なのに、命を落としてほしくないって思って。だからほんのちょっとだけでも幸せそうな顔を見れただけで、私生きていてよかったって思ったの」
これはきっと、彼女の本心なのだろう。優しさの理由なのだろう。そして、彼女自身の弱さなのだろう。いろいろあって、そのような思考にたどり着いたのだろうけど、やっぱり、ぼくにはわからない。
ただ、さっきの不快感はなくなっていた。涙も止まっている。
「……」
どう返せばいいのかわからなかった。どう受け止めたら正解なのかわからなかった。
なんとなく遠くを見つめている彼女に、ぼくはどうすればいい。
なにも反応できないままでいると、彼女は沈黙を破るように小さく笑った。無理をしたそれは強がり以外の何物でもない。
「……身勝手だよね私。私が生きたいから、アリーにも生きていてほしいって。エゴで、わがままだよね。アリーは死にたがっているのに。この気持ちがアリーの負担になっていたり、苦しませてしまっているなら、本当にごめんなさい」
そんなことない。そう言いたかったけど、彼女もまた利己的だと感じたのも事実。エゴは嫌いだ。他人や自分も当然もっていて、それを振り回して不幸になってきた経験はいくつもある。だから人が嫌いなんだ。だから自分が嫌いなんだ。
でも、彼女のおこがましいともいえるエゴはどうしてか嫌いになれない。彼女も勝手なのに、さっきのように突き放そうとは思わなかった。
サァ、と風が吹き、草花が流れる。やけに静かな世界は、ぼくたちふたりを見ているのだろうか。取り残されたような感覚だからこそ、左隣の彼女の存在が大きく、しかし萎みそうに思えた。
その黄金色の瞳を向けてくる。全身をこちらに向けてくる。そこから目を逸らすわけにはいかないと、なぜだかそう感じた。
「でも、アリーを必要としている人が、少なくともここに一人いることは知ってほしかった」
悟るような声。しかしその心の内は啖呵を切るような、切羽詰まった想いが込められているのだろう。それが自身にも伝わった。
「偽善だって思われてかまわない。でもアリーには生きていてほしいの。これから先も、生きていてくれてありがとうって言い続けたいから……だから、自分からたったひとつの命を捨てるなんて、自分から死にたいだなんて、そんな悲しいこと言わないでほしいな」
切なそうな表情に、ぼくはなんて答えたのだろう。何かを言ったのかもしれない。そもそもなにも返せなかったのかもしれない。
それくらい長く感じたひと時の間。そして、思考に没入した感覚。我に返ったときには、ランネさんは立ち上げってうんと背を伸ばしていた。
「……さーてと! すっきりしたし帰ろ、アリー! 医療所もずっと空けておくわけにはいかないしね」
そう満面の笑みで手を差し出される。手に取ったぼくも立ち上がり、踵を返して村へと歩いた。追い風を背中で感じ、ふと振り返る。なにもないと思うも、雲が流れ、陽が再び差し込んでくる。それでも、風は涼しいまま。
できの悪いぼくは、彼女のすべての想いを受け止められたのだろうか。すべてを理解できたのだろうか。その言葉一つ一つがゆっくりと心に浸透していき、時折ズキリと痛む。
ぼくはどうしたい。ランネさんはどうしてほしい。
死にたい。生きていてほしい。でも役立たずに居場所はない。けど必要としてくれている。だけどそれが本当に望まれていることなのか。本当にそれが、幸せなのか。
ぼくにできることは。
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