3-7.ある錬金術師の決意
*
気付いたら、ぼくは深夜にあの河へと駆けていた。ランネさんに気付かれないように、倉庫のレーキを盗んではこっそりと、しかし急いで村から離れ、草原をたどたどしい足取りで走り抜ける。夜の草原は月明かりしか頼りはない。案の定、すぐに足と横腹が痛くなり、息が切れるも止まるつもりはなかった。
誰かがぼくの頭に訴えてきた声。助けを求める声。しかしそれが自身が生み出した幻聴だろうと関係ない。あの惨状を放っておけなかった気持ちに嘘はない。それに体が勝手に応えただけ。
あの河は昼の時よりもおぞましい闇一色となっていた。肌寒くも生暖かい気持ちの悪さ。中に何がいるのか得体が知れない。だけど、それに臆せず、岸へと降りた。目が慣れたとはいえ、暗さ故に足首が濡れる。冷たい。染み込んできている。底の砂利もぬるぬるしている。ざらざらとした、そしてぬめった肌触りが本能的な危機を感じさせる。
それでもかまわず、手に持っていたレーキを振り下ろし、ヘドロとごみを掘るように河から岸へと引き上げた。吐き気を催す腐臭を浴びる。口の中までも変な味がしてきた。それでもぼくは河の汚物をかきあげる。汚水や汚泥が飛び散り、服や顔に着く。髪にも着いたかもしれない。拒絶反応か、突如込みあがった嘔吐物を、河に吐き散らす。袖で胃酸を拭い、果てしない闇の一面を眺める。
辞める気にはならなかった。振り切るようにレーキを振り下ろし、力一杯に岸まで引っ張り上げ、ごみを河から除く。重い。汚い。臭い。冷たい。腰まで浸り気持ち悪い。
まるで自分の心そのもののようで。国の腐ったものすべてが濃縮されたようで。だからこそ、許せなかった。
腐った国も。腐った自分も。
「……っ」
おまえはわがままだ。身勝手だ。性根が腐っているどうしようもない人間だ。
わかってる。
おまえは不幸だと嘆き、何もできない無価値な存在だと決めつけ、自分を誤魔化している卑しいやつだ。自分のせいにし、周囲を拒み、神を疑ってうずくまる人間をだれが愛そうか。
わかっている。でも。
終わるはずだったぼくの人生を、あの女の子は変えてくれた。ぼくを受け入れてくれた。この村のみんなも、ぼくに優しくしてくれた。おいしいものだってたくさん食べさせてくれた。自分がちっぽけだと思えるほどの世界の広さを教えてくれた。素敵な日々を、ぼくに与えてくれた。
ありがとう。嬉しかった。これでこころ安らかに死ねる。
ふざけるな。
もらいっぱなしでいいわけがない。たくさんの笑顔をぼくは裏切るのか。あふれかえった優しさをぼくはどぶに捨てるのか。
それでみんな嬉しいの?
きっと理由があってぼくにやさしくしてくれた。それは死ぬことで恩を返せるの?
『心配したけど、無事でよかったよ』
『元気になったらあそぼーね、おねーちゃん!』
『だから、アリーには生きていてほしいの』
「――っ、そんなわけない!」
国のみんながやさしくなってほしい。そのために錬金術師にぼくはなったんじゃないのか。自分よりも不幸な人間がみんな笑顔になってほしいから学問にすべてを費やしたんじゃなかったのか。
死んで楽になっても、ふさぎ込んで何もしないことを選んでも、誰も幸せになれない。
自ら進んで不幸にさせるなら、本当にぼくは悪魔の血を宿した魔女になってしまう。
もう、これ以上誰かを悲しませたくない!
「アリー!? なにやってるの!?」
後ろから響いた声。疲弊していて振り返る余裕もない。それでも、岸からごみと汚泥を引きずり出してきたぼくは、もう一度河の中へ飛び込む勢いで足を踏み込んだ。
しかしそれも叶わなかった。ランネさんに羽交い締めにされ、レーキが手放される。足掻いたところで彼女の力に敵わない。それを嘆くように、ぼくはか細い声を精一杯だし、この憎らしい河一面に向けて叫んだ。
「ぼくたちのせいなんだ。この川を汚したのも、みんなが貧しいのも! ぼくたちがなにも――っ、なにも見てこなかったからなんだ! 責任を取るどころか、見ようとすらせず、気づきもしないほど! 豊かな生活を当たり前だとっ、ハァッ、思っていたから! ごめんなさいっ、ほんとうに、ごめんなさい……っ」
「しんじゃうって! この水はほんとうに危ないんだから!」
徐々に河へと足を踏み入れる。ぬめった砂利で多少滑って転びそうになるも、その隙を突くようにぼくはランネさんの力に抗い、前に進み続ける。手を伸ばしてごみ溜めの河をかき分ける。お互いのひざ丈まで河に浸ったところで、大きな力に後ろから引っ張られた。
あっという間に岸の草むらまで放り出され、なだらかな坂に背中からぶつかる。瞑ってしまった目を開けたとき、青年の憤激した形相が掴まれた胸ぐらとともにぼくの血迷った瞳と心に叩き付ける。
「ケイディ!?」
「無茶しやがってこの馬鹿野郎が! 死んだらどーすんだ!!!」
鼓膜を痛めんばかりの怒号。魂が抜けたように固まったぼくの頭はクリアになっていた。夢から覚めたように、自分のしていたことを自覚し、月明かりとカンテラで辛うじて見えるふたりの顔を見ては、涙が溢れてきた。
「ご、ごめんなさい……ごめん、なさい」
掴まれた感覚はなくなった。右でどさっと座る音が聞こえたと同時、呆れたようなため息が一つ。
「ったく、出てけとは言ったが死ねとは言ってねーだろうが。しかもこんなとこでよ」
「もしかして、ごみを拾ってたの?」
こくりとうなずく。自分でも無謀な行動だったとはわかっている。でもどうすればいいかわからなくて、そのまま委ねた結果がこれだ。ランネさんの心配そうな、そして困った顔に、今更ながら罪悪感が芽生える。
「……どうしてこんなことを」
ランネさんに治療してもらったあの
「ケイディさんの、言う通り、なんです。河が汚れてしまったのは、ぼ、ぼくたち塔の国の人たちの、せい……なんだって。みんなに、やさしくして、もらったのに、なにもできない、どころか、めい、めいわく……かけているんだと思うと、その、体が勝手に動いてて」
それが結果として、このようにまたも迷惑を重ねてしまった。あのとき言ってくれたランネさんの言葉も無視した形となった。
きっと呆れてものもいえないだろう。
「アリー……」
「だとしても無鉄砲なことすんじゃねーよ。やるにしてももっとこう、賢いやり方あっただろ」
ガシガシと彼は頭をかく。少なくともケイディさんは怒る気にもなれなさそうだった。
「そ、そう、ですよね。……ごめんなさい」
そのとき、頭から何かが被さる。古くも質のいい布地だ。これって……。
「やるよ。惨めで見てらんねぇ」
頭を布の外へ出す。こちらを見ることなく、外套を羽織っていないケイディさんはただ河を見つめながらつぶやくように言った。
「あ、ありがとう……ございます」
気付けば、自分の体が震えていた。手先もひどく冷たい。思い出したかのように寒さを感じたぼくは彼の外套で身をくるんだ。
「アリー」
悟るような声。左手に膝を曲げて座るランネさんを見ては、俯き、そっと目を逸らした。またも迷惑をかけたことに、顔を合わせられる勇気がなかった。
「迷惑なんて思わなくていいし、そんなに抱え込まなくていいの。それに、この河のことは誰も悪くないよ。少なくともアリーのせいじゃない」
悲しそうでもなく、呆れたそれでもなく、ただ穏やかな笑みにまたも申し訳ない気持ちになる。でも、その気持ちすらも、彼女にとっては不要だろう。言葉のままを、受け止める。これだけでいいはずなのに。
「だから、アリーが自分を責める必要はないんだよ」
わかった? そう言われ、ただ返事することしかできなかった。すると気が抜けたのか、ランネさんは大きなため息をついて左隣の芝生に倒れ込んだ。
「っはぁ~、でも無事でよかったよ。この子のおかげだね」
そう傍にいる羽兎の頭を撫でる。翼膜をパタパタと上下に動かす様は喜んでいるようにも見えた。夜行性だから元気なのもあるのだろう。
「ていうか!」とランネさんは飛び起きてぼくを挟んでケイディさんの方へ指をさした。
「もとはといえばケイディがあんなひどいこと言ったからだよ!」
「は!? 俺のせいかよ!」
「ケイディのせい! 少しでも遅れたら手遅れだったかもしんないんだよ!?」
「それは……っ、あぁ悪かったよ。あんときは言いすぎた」
一度ぼくと目があったとき、気まずそうに、しかしそっぽを向きながら謝ってくれた。意外と素直な人なのかもしれない。
「もう、だから女の子に好かれないんだよ」
じとりとした目を彼女は彼に向ける。
「それは関係ねーだろ!」
「まぁ元気だしなって。見た目悪くないんだし、そのうち地面からひょっこりとケイディのことが好きだって言ってくれる
「からかうのも大概にしろ。つーか魔物に好かれる前提かよ」
ふたりの賑やかなやりとりを聞きながら、ぼくは思う。
ランネさんが言ってくれた、生きていてほしいという言葉。あれから夜までずっと考えを巡らせた。自分はどうしたいのか。どうなりたいのか。
ランネさんの言うように、自分の幸せが、彼女の幸せになるのなら。
ぼくの幸せは誰かの役に立つ人になること。それは、人を幸せにすること。
それを叶えるためには。
「……あの、ランネ。ケイディ、さん」
ふたりはぼくを見る。正座を整えなおし、両手をギュッと握った。
「そ、その、ぼくを……この村に、住まわせて、ください」
叶えるために、ぼくは覚悟を決めたんだ。いや、決心がついたから、いまここにいるのだろう。
ぽつりぽつりと言葉を置いていくようにしか話せない。それでも、ちゃんと最後までこの口で言わないと、この決意は泡になって消える。
「こんな……白磁病のぼくを、見ず知らずの他人を、みなさんは、やさしくしてくれた。ランネ、の……その、おかげ、で、ぼ、ぼくはっ、あのとき、し、しんでいなくて……よかったって。そう、思ってるの」
自分は生きる価値がないんだと。自分は不幸なんだと嘆くのは終わりにするんだ。
そう、彼女に教わったから。
この村のみんなに、教わったから。
「だからっ、その……お礼をさせて……ほ、ほしいの。どんくさくて、なにもできない、失敗だらけのぼくだけど……、錬金術なら、その……この川を、きれいにできるの。錬金術なら、みんなを幸せにできるの……っ、だ、だから」
ふたりの恩師に、みんなを幸せにする方法を教わったから。
ぼくは頭を下げる。おなかから声は出ないけど、今出せるすべてを以て、ぼくは自分勝手な願いを告げた。
「お願い、します。川をきれいにする、ために……こっ、ここに住まわせてください!」
みじかいようで長い沈黙。自分の気持ちは伝えた。あとはもう、彼らに委ねるだけ。でも、怖い。たまらなくなったぼくは、自分から身を退く言葉を発してしまう。
「や、やっぱり、めいわく、ですよね……」
「好きにしろよ」
そんな声が、ぼくの弱気な声を遮らせた。
「え……?」
ただ河を眺めるケイディさんは、立ち上がりつつ独り言のように続けた。
「おまえのやりたいようにやればいい。俺からも狩猟班の奴らや村長に説得しておく。ただ無理だけはすんなよ」
反対していた彼がどうしてそんなことを。冷たくあしらわれると想定していたが、意外な反応だった。
それはランネさんも感じていたようだ。
「なによ急に優しくなって。さすがの私でも企みがあるんじゃないかって思っちゃった」
「うるせーな。嫌いな奴だろーが寝心地悪いだろ、出てけって言った矢先に死んじまったらよ。それに」
見返り、ぼくを一瞥する。
「貴族でも馬鹿なとこ、あるんだなって」
そうつぶやいていた気がした。カンテラをもち、立ち去るように踵を返しては数歩進んだが、ぼくもランネさんも彼の背中を目で追うことしかしなかった。
そんな気配を察知したのか、彼は振り返り、
「なに見てんだよ。ぼーっとしてる暇あったらさっさと帰って体洗ってこい。風邪ひいてもしらねーぞ」
そう言ってはそそくさと村へと去っていった。見届けたランネさんはくすりと笑った。
「あいつなりにアリーのいいとこわかってくれたみたい」
「え、と。その、つまり」
「当然住んでいいに決まってるじゃない! とっても嬉しいわ、アリー!」
喜びを全面から出して、ランネさんは――ランネは思い切り抱き着いた。受け止めきれず、思わず仰向けに倒れてしまう。この体が汚れているにもかかわらず、その躊躇のなさに驚くばかりだ。両手も汚くて抱き返すことはできなかったけど、心は温かい。
視界に広がるは夜空いっぱいに咲き乱れる星々。草と土の匂いが、なぜだか心地よく感じた。
ここに来てからわずかだというのに、あまりにも多くのことを知った。
魔窟と言われる最下層の土地に、人が住んでいたこと。
人の本質が利己的だろうと、誰かの為になりたい気持ちに嘘偽りはないこと。
大嫌いな自分をほんの少しだけ受け入れられたこと。
そして、居場所は探すものじゃなく、自ら作るものだと。
足元に広がる闇は果てしない。しかし、もう怖いとは思わなかった。それを照らす月が、星々が、ぼくたちを見守っているから。
大切と思える人がそばにいるから。
ありがとう。そうぼくは一言だけその人に告げて、何度目かわからない涙を流した。
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